第3章 近世の思想
1朱子学の思想
憂国の思想
朱子学の祖,朱熹(1130〜1200) は南宋の道学の大成者でした。彼の学風がとても厳しいリゴリズム(厳粛主義) を特色としたのは,当時,南宋が金(満州族の国家)から圧迫され屈辱的な朝貢をさせられていた事情と関連しています。質素倹約に勤め,富国強兵に励んで,いつの日か金を万里の長城の北に追い払おうとしていたのです。そうしなければ逆に金に併合されてしまうことになります。つまり朱熹は憂国の思いにかられ,尊王攘夷の志に燃えていたのです。
南宋時代になって儒教ルネサンスが起こりました。何故なら仏教や道教では遁世的な気分が強く,とても亡国の危機に立ち向かえるものではありません。仏教や道教の流行で影が薄かった儒教が国を建て直す為に再評価されたのです。その際,仏教や道教から様々な論理を借りて,儒教の再構築がなされています。古学派からそこが攻撃されますが,五倫五常に基づき修身斉家治国平天下の道を明らかにするという点で,儒教の立場が貫徹しています。
理気二元論
同じ種類の物でも五行の内どの気が強いかで性格,性質が違います。人間に当てはめますと,木気が強い人は仁に厚く,火気が強いと礼儀正しい人柄になります。季節では,木は春,火は夏,金は秋,水は冬に優勢なのです。土用は各季節で一番それぞれの気が盛んな頃の事です。土気はそさぞれの気をもっとも引き立てる気なのですから。
宇宙をして宇宙たらしめ,個物を個物たらしめる原理として,朱熹は「理」を捉えます。つまり或る物がその物であるのは,「一物には一物の理あり」だからです。つまり天の命じた性(本性)である「理」を具現しているからなのです。ですから理は個物の「太極(根源)」だということになります。
理は気ではないので延長的には「無」ですが,万物の根拠としては,あくまで「有」なのです。「存在として無,意味として有」ということです。プラトンのイデア論に近いですね。
性即
体 | 理 | 形而上 | 道 | 未発 | 中 | 静 |
用 | 気 | 形而下 | 器 | 已発 | 和 | 動 |
この論理を心に適用したのが次の表です。
本然の性(天理) | 体 | 性 | 仁義礼智信 | |
気質の性 | 用 | 情 | 四端のこころ |
人間には誰でも「本然の性」が備わっているのです。本然の性とは天の命じた人間はかくあるべしという理念型です。ですから「性即理」なのです。それは純粋至善の心であり,聖人の徳である「仁義礼智信」です。ところが人によってはそれが五行の組合せに影響されて,そのまま発揮できません。本然の性を妨げる気質の性があるのです。そこで気質を変化させて,純粋至善の心にかえるのを「復初」と言います。
仁義礼智信が気質に邪魔されてそのまま現れずに,過ぎたり,足らなかったりして人欲になるというのです。そこで復初するには先ず人欲を絶って,情の面で気質の影響を排除するのです。これが身を慎む「居敬」です。
居敬すれば理を窮めることができるというのが「居敬窮理」ですが,これは『大学』の「正心誠意,格物致知(心を正し意を誠にすれば,物にいたりて知を致す)」からきています。「格物致知」によって対象の理を窮めますと,対象の理も心の本性である理も天理としては同じですから,心が復初して聖人の徳が現せるのです。
修身斉家治
居敬窮理=正心誠意格物致知はではどうしたらできるのでしょう。なかなか身を慎めと言われても,煩悩や欲望に流され,人間関係に惑わされて,心が定まらないものですね。『大学』では,夷狄が侵略したりして天下が乱れるのは,国がきちんと治まっていないからだと言います。天下を平和にしようと思えば,先ず自分の国をきちんと治めなければならないのです。しかし国が思うよう治まらないのは,家がしっかりととのっていないからなのです。そこで国を治めるためには,先ず自分の家をしっかりととのえることが先決です。でも家がととのわないのは,実は自分の身がちゃんと修まっていないからなのです。だから家をととのえようとする為には,先ず身を修めなければなりません。その為には心を正し,意を誠にしなければならないわけです。そうして始めて物事の道理が見えてきます。
ですから先ず我々は天下国家を憂えて,危機意識を抱き自らの使命に目覚めて,身を引き締め覚悟を決めて,学問に取り組んで始めて,雑念を捨てて純粋至善の心に帰って,物事の本質を見極められるのです。そうしてこそ修身斉家治国平天下も可能になるのです。そしてそれこそが気質を変えて聖人に成れる道なのです。
藤原惺窩の包括的精神
近世儒学の祖と呼ばれているのが藤原惺窩(1561〜1619) です。彼は出家して相国寺で仏教や儒教の勉強をしていました。彼は包括的精神でいろんな教えを学んだ上で, 朱子学を選択してのです。彼が仏教では駄目だと思った理由は, 仏教では社会秩序は成り立たないと考えたからです。戦国の混乱から脱却してやっと平和統一に向かい始めたことによって, 儒教こそ社会秩序に適っていると思われたのです。
彼は『行状記』に仏教をしりぞける理由を次のように述べています。「釈氏すでに種を絶ち, 又義理を滅す,是れその異端なる所以なり。」「種を絶つ」とは妻帯しないことで, これでは家が成り立ちませんから社会は崩壊します。また「義理を滅す」とは人倫関係から抜け出して, 出家するのですから, 社会秩序を打ち立てる思想にはなれないのです。
惺窩は, 天道も性(本然の性)もイデア的な理として捉えています。それらは結局同じであって,人は理に従えば,天人は一つだとします。でも欲に従えば,人欲が徳に勝って天は天,人は人となってしまいます。ですから自分の心を以て万物の心と理で通じ会えば,道が通じて,万物は自分の思うままに育てることができるというのです。
林羅山の弁別的精神
彼は「敬は一心の主宰にして万事の根本なり」と敬を強調します。敬とは羅山によれば, 自己の内に私の為にする動きがあるかないかを厳重に見分ける心のあり方なのです。そして天地万物の理に則って「文章」を整えることを重視します。「文章」とは道徳の外面化されたもので, 礼楽制度や威厳のある文章のことです。
「上下定分の理」というのは「天は尊く,
地は卑しい」というのが不変の真理であるように, 君臣, 父子,
夫婦, 兄弟など上下尊卑の秩序は自然のものであり,不変不滅だと主張し, それを守ることが大切だとしました。
敬内義外
彼は気性が荒く, 偉そうにして傲慢で, 人を粗末に扱うように思われていました。それで友人や知人も結局彼を恨んだり, 怒ったり, 憎んだり, 避けたりするようになりました。親友の野中兼山とは絶交し, 高弟の佐藤直方, 浅見絅斎も破門にしています。弟子たちは師を恐れおののいていました。
堀川を挟んで近くにあった伊藤仁斎の古義堂では, 先生と友達みたいに親しげに口をきけるのに, まるで天国と地獄の差だったそうです。きっと親は躾の厳しい闇斎の塾に行かせたがり,当人は古義堂に通いたかったかもしれませんね。
闇斎は「敬内義外(慎みが内にあれば, 義が外に現れる) 」を強調しました。逆に言えば,心に少しでも私情が萌せば,悪として抑えなければならないというリゴリズム(厳粛主義)で,弟子たちを徹底的にしごいたのです。闇斎の学派を崎門学派と呼びますが,この学派では自分に対してだけではなく,他人に対しても厳しく働きかけて心を正そうとします。そして闇斎は君に対する,具体的には天皇に対する臣の心をありかたを説くことになり,尊王論の先駆となったのです。
それは恐らく,神道研究に凝って朱子学から神道を解釈して,居敬窮理によって心を主一にし,知・仁・勇の三徳を身に備え,神人合一の境地に到達すべしだと,垂加神道を打ち立てたことと関連するでしょう。天道は即ち神道だとし,神道に従うことが人道だと説きました。
庭前の竹
事物が心の外にあって,外の事物に理があり,心にも理があるとしますと,心はどのようにして外の物の理に格ることができ,その理と心の理を一つにするにはどうすればよいのでしょうか。陽明にはそれができません。 それで自分は聖賢の器ではないと諦めようともしました。でも朱子によりますと,心とは「主となりて客とならざるもの」なのですから,天地万物の理を窮めつくしそれに倣って心の理を見出さなくても,心の理は心自身の中に見出される筈なのです。
心即理
陽明が37歳の時ですから, 1509年中国は明の時代でした。陽明は宦官劉瑾(りゅうきん) の弾劾運動に加わって,南方の僻地竜場駅に流されました。猛獣毒蛇の住む土地で塗炭の苦しみを体験したのです。彼はその中にあって,自己一身の利害得失や生死のことなど全く捨て去って,ただひたすら道を求めて瞑想したのです。そしてついに理は自分の心にある,元来聖人の道は自分の性の中に具わっているのだと自覚したのです。
実はこの「心即理」は朱子のライバルであった陸象山(1139〜1192) のとなえた説です。象山は性と情を分けられないとし,「心」を渾然たる一者と捉えました。そして心と宇宙を一つだと捉えたのです。「宇宙は即ちこれ吾が心,
吾が心は即ちこれ宇宙。東海に聖人出づるあるも, この心同じきなり, この理同じきなり。」つまり天地の道理も孔孟の教えも,みんな心の理であって,その理に従えば,天と合一し自分自身が理であるから「己の欲するところに従いて矩(のり)をこえず」の境地に達すると考えたのです。
致知格物と知行合一
「格物」の「格」は朱子の「いたる」という意味から「正す」という意味に変えられています。「致知」も知識を磨くという意味ではなく,知(良知)を実現するという意味で使われています。良知を実現するのを「致良知」と呼んで強調しました。それに「格物致知」が「致知格物」になっていて,「良知を実現するのが物を正すということだ」という実践的な意味になっています。つまり知ることと行うことは合一しているのです。これを「知行合一」と呼びます。そして実践によって知を磨いていく事を「事上磨錬」と言います。
万物一体の仁
でもそれぞれの個人が自分の心こそ天理だと主張すれば,天理が一つだという前提が成り立ちません。それでは各人の心がばらばらだというのはどうして生じるのでしょう。それは万物が一体だということを悟らず,自己一身の身体的欲望に囚われて,自分の本来の天理を宿している心を失っているからなのです。心即理ならば天下に心外の事,心外の理などある筈がないのです。ですから全ての事物や全ての人々の姿に心動かされ,それらの心と一つになって情が起こるのが「万物一体の仁」なのです。これは本居宣長の「物の哀れを知る心」と通じていますね。
子供が井戸に落ちそうになった時に起こる惻隠の心,鳥獣の哀しそうな鳴き声を聞いて起こる忍びざる心,草木の枯れ折れるのを見て起こる憐憫の心,瓦石の壊れるのを見て起こる惜む心,これらの心はみな万物一体の仁なのです。
「人は天地の心であり,天地万物はもと吾と一体なるものである。生民の困苦荼毒(とどく),一つとして吾が身に切実な疾痛でないものがあろうか。吾が身の疾痛を知らざる者は『是非の心なき者』というべきである。是非の心は『慮らずして知り,学ばずして能くする』もの,すなわち良知であり,良知は聖と愚、古と今を問わず同一なるものである。」ここでは生民の痛みを自分の痛みと感じないものは,「是非の心」がなく良知に欠けるということになります。
陽明学における主客の統一
このように朱子学の理気二元論や性情分離論を克服した陽明学は,心即理の立場に立って,主観・客観の対立図式を超克します。そのことによって世界を自らの良知を表現するキャンパスにしたのです。このように朱子学における主観・客観認識図式と,陽明学におけるその超克の実例は,前近代においても認識図式をめぐる対立の問題が哲学の根本問題を成していたことを窺わせます。古代では儒墨対老荘ではやはりこの対立は鮮明でした。
1994年に亡くなった廣松渉は, 主・客認識図式がすぐれて近代的な認識図式であり,その超克が近代的な認識図式の超克だという議論を展開していました。そして主・客認識図式は世界が物によって構成されていると考える物的世界観に対応し,その超克の立場は第一義的な存在は事態あるいは事から成り,
物はその物象化的倒錯に陥った解釈にすぎないという事的世界観に対応すると強調していました。しかし古代からそういう対立軸が見られるとしたら, 主・客認識図式の超克や事的世界観の立場は必ずしも近代を超克する立場とは言えないことになるかもしれませんね。
日本の陽明学派
33歳の著書『翁問答』では, 「孝」の徳を道徳の根源として説きました。そして生みの親に対する孝に止まらず, 人間の生みの親である天(皇上帝) に対する孝にまで拡げられました。そして社会制度としての身分秩序は認めながらも,「万民は皆ことごとく天地の子なれば、われも人も人間の形ある程のものは、みな兄弟なり。」と万人平等を主張したのです。
そして「孝」の実践の要領を次のように説明します。「孝徳の感通をてぢかくなづけいへば,愛敬の二字にきはまれり。愛はねんごろに親しむ意なり,敬は上をうやまひ,下をかろしめあなどらざる義なり。」この孝の実践こそ陽明の説く「致良知」に他ならないと考え,陽明学に傾倒して,「日本陽明学の祖」と呼ばれたのです。
徳の主体的なはたらきについて藤樹の「権」の思想が注目されます。「権」は「時と所と位」に応じて,その都度適切な道徳判断を行う主体的な心のはたらきです。道徳的判断の主体として責任有る決定が問われたところに,彼の君主をとるか親をとるかの決断の体験が投影していると思われます。
藤樹の弟子熊沢蕃山(1619〜1691) は, 岡山藩の番頭となり, 王道政治を実現しようと努力しました。彼は同士を集めて相互に錬磨しあう花畠教場を主宰します。「花園盟約」で武士の職分は人民の守護育成にありと人民本位の政治を掲げ,致良知に基づく慈愛と勇強の文武の徳性の涵養が学問の目的だとしました。この動きをキリシタンに関係ありと幕府に疑われて, 岡山藩を離れざるを得なくなったのです。
蕃山も時・処・位に応じて変通する態度を強調しました。キリスト教では, 「神への愛と隣人への愛」のように何時でも, 何処でも, 誰に対しても妥当する普遍妥当的原理を重視しますが, 儒教では, たとえ惻隠の心に基づく同じ行為でも時・処・位を弁えていなければ道徳的に評価されないのです。
大塩中斎(平八郎)(1792〜1837) は大坂町奉行所の与力でしたが, 38歳で辞職して家塾洗心洞を開いて子弟の教育にあたりました。当時打ち続く飢饉で農民・都市貧民が飢えているのに, 奉行所や豪商たちは腐敗堕落していました。彼は陽明学で知行合一を教えているのに, これを傍観することができません。ついに「大塩平八郎の乱」を起こしたのです。
彼は「心を太虚に帰す」ことを力説しました。これは人欲を去って精神の純粋性を実現するという意味です。原点に帰ってゼロから出直すという意味に取れば,そのラジカルな意義が分かります。現実の社会体制はたとえ正しい大義名分から出発したとしても,様々な私利私欲や権益によって歪められており,簡単に改革することはできません。かといって現実に民が飢え苦しんでいるのですから,これを救えないなら,いったんゼロに戻して民を救える体制に作り直すしかないのです。
これにヒントを得たわけではありませんが,最近「リエンジニアリング」という方法が抜本的業務改革法として打ち出されています。創業の原点に帰り,業務の目的に最も有効な組織にゼロから組織し直そうという方法です。これを本格的にやられますと,企業の収益は飛躍的に改善される場合もありますが,長年忠勤に励んできた中堅社員まで無用の長物としてばっさり切り捨てられる事がありますから御用心。
3古学派の台頭
古学を最初に提唱したのが山鹿素行(1622〜1685) です。彼は朱子学の主観的な修養法に飽きたらなくなり,周公・孔子の原典にかえるべきだと『聖教要録』で主張しました。彼は山鹿流陣太鼓で有名ですが,元々軍学者だったのです。しかし天下泰平の時代に「恥を知り,名を惜しむ」式の戦国武士道だけでは通用しません。泰平の世における武士の生き方を求めたのです。そこから武士が高い倫理的自覚を持ち,農工商の三民の模範になって,教化する「三民の師表」としての武士の有り方を求めたのです。道徳的自覚のない武士は遊民に過ぎないと世襲に安住するのを許さなかったのです。
伊藤仁斎,愛と誠
伊藤仁斎(1627〜1705) は儒学者ですが,材木商の家に生まれました。彼は理と気を分けて,物質である物を理と切離し,それ自体を死んだ物として捉えていると朱子学を非難しました。物はそれぞれが活きた物であり,その活動において捉えるべきだとしました。この議論は朱子学の側からは揚げ足取りでしょう。物事をロゴス的な面とマテリー的な面の両面から捉える事を朱子学は唱えているのであって,決して両面を切り離せると言っているのではないですから。
また彼は性と情を分けて,人欲を否定し,リゴリズムに徹する朱子学に嫌気がさしたのです。余りに人情に酷薄過ぎるからです。元々本来の孔子や孟子の教えは人情に厚い筈です。人間関係で当然日々踏み行うべき人の路である「人倫日用当行の路」としての教えを孔孟から直に学ぶべきだと主張したのです。
四書の内,『論語』『孟子』は「古義」から見て,孔孟の時代の言語で書かれていますが,『大学』や『中庸』には,どうも宋の時代の言語が混じっているらしいのです。そこで『大学』や『中庸』は孔孟の精神を充分反映しているとは言えないとし,『論語』『孟子』から孔孟の精神を学ぶべきだと文献批判をしたのです。このように「古義」を研究するので仁斎の塾を古義堂と呼び,学派を古義学派と呼びます。
それで仁斎が『論語』『孟子』から抽出した孔孟の精神は,つまるところ仁愛でした。人間の道は「われよく人を愛し,人またわれを愛し,相親しみ,相愛す」ことだと言います。愛がなければ五倫五常も死んでしまいます。愛すればこそ父と子は「親」で結ばれています。君に対する臣の忠義も愛によってこそ,打算のない真心と言えます。夫婦の「別」も愛情によって互いを大切にし合う気持ちがあるので,通じ合うのです。長幼の「序」も思いやりの気持ちの表現でなければ,冷たい関係になってしまいます。また朋友の「信」もそこに愛があればこそ,美しい真心になりますが,なければ厭味としか受け取れません。
仁義礼智信の五常も愛から出たものでなければ全くの偽りになってしまうのです。例えば「こんにちわ」という挨拶でも,愛がなければただ失礼な奴だと思われて評判を落としたくないので,親愛の情を取り繕っているに過ぎないのです。それこそ「礼」とは言えません。仁斎の愛の強調はまるで「神への愛と隣人への愛」にすべてのトーラーと預言者がかかっているとした,イエスの福音のようですね。
世の中から離れて,一人で悟りを求めるような生き方は,人間らしくないと考えました。「人と己とを合して之を一とす」る愛に基づく人倫的合一こそが「仁」であり,彼が求めていた道なのです。
仁の根本には人間同士の間で互いの心が真実無偽で,全く自己も相手も欺かない「誠」の心が有るのです。彼は相手の事を自分自身の事のように尽くすのを「忠」と呼び,ありのままに嘘偽り無く告げるのを「信」と呼んで,「忠信」が大切だとしています。これらの関係はリゴリスティックに聞こえるかもしれませんが,仁斎は自分を殺す愛ではなく,腹蔵の無く正直に互いに尽くし合い,助け合うような人間関係を求めているのです。 仁斎において儒教の日本化が完成したと言われています。何故なら「愛と誠」という単純な心情の純粋性に還元して儒教を捉えたからです。
荻生徂徠の古文辞学
仁斎は,儒教を禅まがいの精神修養法である居敬法や形而上学的な窮理法にしてしまった朱子学を批判し,「愛と誠」という素直な心情の原理に帰しました。それに対して儒教を治政の論理として捉えた荻生徂徠(1666〜1728) は, 聖人の「礼楽刑政」から「経世済民の道」を学ぼうと, 孔子以前の『六経(りくけい)』の実証的研究を行いました。徂徠によれば,儒教の道は,聖人が定めた礼楽刑政の総称であり,それ以外に無いのです。ですから『六経』から聖人が行った治政の方法を参考にして,現在の政治を行えばよいのです。彼は保守的な意味で古典を学ぼうというのではなく,変法(改革政治)の為に古典を役立てる,いわば温故知新の立場なのです。
『六経』とは,日本の『万葉集』にあたる『詩経』,政治史と政教を記した最古の経典である『書経』,陰陽五行説に基づいて天文・地理・人事・物象を説明した『易経』,礼儀に関する古書を集めた『礼記』,その内の音楽に関する部分である『楽記』,春秋時代の歴史を記した『春秋』の総称です。
『六経』研究の際の心構えとしては,「今文を以て古文を視,今言を以て古言を視」ないことが肝心です。徂徠に言わせれば,朱子学は宋代の言語宇宙で四書五経を解釈していますから,本物の四書五経を学んだことにはなっていないことになります。この指摘に接した幕末の青年西周(にしあまね)は,天動説から地動説に移ったようなショックを受けて,17年の大夢から醒めたと述懐しています。
政治学としての徂徠学
国学者本居宣長は医者になる修行をしていた青年時代,儒学は立派だけれど,所詮世を修める支配の論理であり,自分のような医者を志す人間には自分のものにして楽しむことはできないと語っていました。これは実は徂徠の影響なんです。徂徠は,儒教を人間の生き方や心情の論理として捉える,朱子学や仁斎学とは距離をおいて,あくまで治者の政治学として儒学を展開しています。
特に居敬法によって気質を変化させて聖人になることを目指すなど,とんでもない禅宗的な子供騙しだと冷笑していました。人にはそれぞれの気質があり,従って個性的な能力は様々なバライティがあるのです。そしてそれぞれに自分の特長を生かして世に貢献すればよいのです。政治の本領は,それぞれの個性を充分発揮できるように適材適所に人材を登用するところにあります。
徂徠は,人民を教化して道徳的に生活させることよりも,人民が道徳的に生活できる環境を保障するところに政治の要諦を見たのです。例えば,生活の困窮の余り,妻と離縁して,僧となり,母を伴って流浪中に病気になった母をやむを得ず遺棄した男に親不孝の罪を問うべきかどうかを,柳沢吉保に諮問されたことがありました。その時,他の朱子学者は,不可抗力からしたことで,本人の気持ちに親不孝の念はなかったことを理由に罪を問わないように答えましたが,徂徠はもし飢饉になったらこういう例はたくさん出るのでそれを処刑したら,悪い先例を示すことになる。それにこのような人間を出したのは,代官や郡奉行の責任であり,家老の科だ。それに比べれば本人の咎は軽いとして,罪に問わないように進言したのです。
また徂徠は,赤穂義士の処分についても,義挙だとして許せば政治秩序が崩壊するので,断固として責任を取らせるべきだとした上で,忠義に殉じた気持ちを尊重してうち首,獄門にはせず,切腹させることを進言したのです。このように徂徠は,儒学を心情や道徳の次元で捉えるのではなく,いかに礼楽刑政を行うかの立場で展開したのです。そこには政教分離の合理的な捉え方が窺えますね。
4国学の思想
儒学で古義学や古文辞学など実証的に古典籍の解読研究が進みましたが,中国の書物の研究ばかりして,自分の国の古書を研究しないのは日本人として,道に外れているのではないか,日本にも素晴らしい古典があるのではないかという反省がおこったのです。
江戸時代には「国学の五大人」と呼ばれた僧契仲,荷田春満(かだのあずままろ),賀茂真淵,本居宣長,平田篤胤が活躍しました。
僧契仲は真言宗の僧侶で,自然美に打たれ自然と合一しようとして自殺を図り失敗しました。それから彼は人間の世界の中に美を発見しようと決意しました。色を好むという自然な人間性に「情け」という価値を見出したのです。そしてこれを日本人の心の特性だと捉えたのです。彼の代表作は『万葉代匠記』です。
荷田春満(1669〜1736) は国粋主義者で「ふみわけよ大和にあらぬ唐鳥の跡をみるのみ人の道かは」という歌をのこし,
情熱的に日本の古典を研究しました。
ますらをぶり
賀茂真淵(1697〜1769) は浜松の岡部神社の神官の子として生まれ, 父から万葉調の古歌を学び, 荷田春満に師事し,田安宗武からも影響を受けました。彼は散文よりも和歌にこそその時代の精神がよく反映されると指摘しています。しかも古語は歌の中にこそ生きた形で表現されていると考え, まず『万葉集』を研究してから『古事記』『日本書紀』の研究に入る予定でした。でも『万葉考』を著しましたが, 『古事記』『日本書紀』の研究は間に合わず, 結局松坂の宿での一期一会の出会いで本居宣長に託したのです。
真淵は, 万葉人の心を「高き直き心」と表現しています。「高き中にみやびあり,
直き中に雄々しき心あり」 (
「邇飛麻那微(にひまなび) 」)なのです。つまり万葉の調べは自然のままで偽りや技巧がありません。そして素直に力強く感動を現す「ますらをぶり」が漲っているのです。彼は『古今和歌集』『新古今和歌集』は技巧的で女性的な「たおやめぶり」だと斥けたのです。
たおやめぶり
本居宣長(1730〜1801) は,真淵が斥けた「たおやめぶり」こそが人間の真情だと主張します。雄々しくきっとしたのは無理に真情を殺しているとみなし,女々しく未練がましいのが人間の真情だというのです。そして歌や物語は人間の真情,思いの丈を歌い揚げて鬱情を晴らすものでだとしたのです。「雄々しくきつと」することがよしとされ,「女々しく未練がましい」ことを悪しとした武家社会において,文学的な領域に限定されてはいても,この価値観を逆転させた意義は大きいのです。
好信楽と私有自楽
宣長は松坂の木綿問屋の息子でしたが,母は医者にしようと京に遊学させました。そこで漢方医になる為に朱子学者の堀景山の塾に入ります。景山は朱子学者でも単なる道学先生ではなく国学に造詣も深く,風流を解していましたから,元々歌・物語が大好きだった宣長は大変幸運でした。
ある日法輪寺で虚空藏大士像を公開するというので,宣長は拝観に塾の友達柳敬基を誘ったのですが,彼は風流を解さないので,迷信だと宣長を諭したのです。宣長はつぎのように反論しました。「自分は仏教の言葉については,好み,信じ,楽しみますが,それは仏教の言葉だからではありません。儒墨老荘諸子百家の言葉でも,好み,信じ,楽しみますよ。儒墨老荘諸子百家の言葉だからじゃないんのです。およそもろもろの雑技,歌舞燕游,及び山川草木禽獣蟲魚風雲日月星辰,宇宙にあるものには,ゆきて好み,信じ
この言葉から彼がなんでも楽しんで吸収してやろうという包括的精神にあふれた好奇心一杯の青年だったことが分かりますね。特に思想までも感覚的消費の対象にしてしまっているところが凄いですね。儒教的な身を修める為の克己復礼,居敬窮理の為の学問から自分の享楽としての快楽の為の学問へと転倒させています。
また清水吉太郎という塾の友人に儒学よりも歌・物語にばかり凝っていると非難されて,「儒教は聖人の道であって国や天下を治め,民を安んじる道です。私のような医者になるだけの人間では,たとえ道をきわめても,それを私有自楽(自分のものにして楽しむこと)はできません。」と諭しました。この被治者の立場から「政治を捨てて歌を取る」という構えを,『論語』からとって「浴沂詠帰」つまり「ひと風呂浴びて歌いながら帰ろうか」と表現しました。これは『論語』解釈としてはいい加減ですが,大変面白い発想です。
もののあはれを知る心
歌・物語の意義を思い丈を表現して,鬱情を晴らす昇華に見出した宣長は,歌・物語によって世界が「言い知らず,哀れに艶なる事,何事かこれに及ばん」としています。つまり世界は歌・物語で百倍素晴らしく色づくということです。
そしてそれは儒教や仏教では抑圧されていた思いをぶつけることですから,自ずから儒教や仏教の価値で歌・物語を批評してはいけないことになります。たとえ儒教・仏教では極悪非道な行いであっても,それが人間の真情からでたものであり,人の心を打つものならば,歌・物語としては素晴らしい行いだということになります。例えば光源氏は父桐壺帝の中宮と不義密通して,不義の子を設けていますが,これなどは儒教的には強盗殺人よりももっと悪いのです。不孝の罪や逆賊罪に問われても抗弁できません。ところが宣長は「不義淫乱をうち棄ててかかはらず,源氏の君をよき人にしたるは,人情にかなひて物の哀れを知る人のゆゑなり」と評しています。
「物の哀れ」とは,対象から受ける感動一般のことです。「哀れ」だけでなく「喜怒哀楽」の全てが「哀れ」です。「哀れ」の場合がひとしお胸に迫るので情感全般を代表させているんだと説明しています。
「あはれ」という感動は何らかの対象があって始めて生じるので,「物の」が付くわけです。しかし対象的客観的な認識ではないのです。主体の側の喜怒哀楽が対象自身の「心」として捉えられて,主観・客観が合一しているのです。小林秀雄をこれを「情感による認識」と評しています。つまり人間の心が物の述語となって,物に帰属しているのです。ですから宣長は「物の心を知る」とも言い換えています。
宣長は「もののあはれ」論で文学的価値を儒教・仏教的価値から自立させ,そこに豪商階級の享楽的でニュー・ノウブル(新貴族)的な精神をアピールしたのです。でも最初は文学的価値から儒教・仏教的価値を否定するつもりはありませんでした。あくまで儒教・仏教的価値を認めた上での,文学論に限定しての議論でした。
直毘靈神と禍津日神
医業の傍ら賀茂真淵に励まされた宣長は『古事記』『日本書紀』などの古道の研究に打ち込みます。そして40年程かけてライフワークの『古事記傳』を完成させたのです。その過程で日本の古神道に心酔し,儒教や仏教を異国の教えとして斥けようとする傾向が強くなっていったのです。
宣長によりますと大和心即ち皇国心(すめらみくにごころ)は,直毘霊神(なおびのみたまのかみ)の働きで素直で二心がありません。真情のままに行動します。しかもそれで仲良く平和に暮らせていたのです。だって神は素直に真情のままに生きることで調和するように人間を作られた筈だからです。
とはいえ神には善神ばかりではなく,悪神もいますから,様々な祟りや災いが引き起こされたのです。でも日本は天照大神(あまてらすおおみかみ)の生れましし国です。それで結局は善神が悪神を抑えてこの国を守り,栄えさせてくれるのです。
禍津日神(まがつびのかみ)の神はいろんな災いをもたらすひねくれた神なのです。この神は,古事記によりますと,実は,いざなぎの命が妻のいざなみの命を追って,黄泉の国へ行き,妻を連れ戻そうとしますが,その時妻が自分の顔を見てはならないと夫に頼んだのに,夫が見てしまったので,妻は夫を黄泉の国置いておこうと夫を追い掛けますが,夫は櫛を投げたりして逃げ延びます。そして夫はほうほうの体で逃げ戻り,日向の橘の小門(おど)という河口で黄泉の汚れを洗い流そうと禊をしました。この汚れで出来たのが禍津日神で,それを洗い流そうとする神が直毘霊神です。
豊葦原水穂国は天照大神の生れましし国なので,禍津日神は住みにくく,大陸へ逃れてそこで人心を歪めさせたのです。天下を覆し,権力を纂奪しておいてそれをあたかも英雄的な行為であるかにずる賢く美化し,合理化したのです。聖人の教えというのは堯舜,周公を始めそういうのが多いのです。特に『孟子』では堂々と謀叛が奨励されているということです。これが日本に入ってきますと,余りに巧みに合理化されているので,単純素朴な日本人はころっと騙されてしまい,天皇を中心にした国づくりという根本が崩れてしまったのです。その御陰で世が乱れ,武家が権力を握ってしまい,朝廷が蔑ろにしてきたのです。これらは皆,禍津日神の仕業だと言うわけです。
ところが天照大神の生れましし国では直毘霊神は強力ですから,やがて禍津日神のもたらした歪みを正し,素直な真情を取り戻そうとする力が大きくなります。それが皇室を尊重し,天皇(すめらみこと)の祭事を大切にする徳川幕府によって泰平が戻ったことを指しているのです。そして国学を復興し,日本の神道を復興しようとする宣長の働きも,全てひとえに直毘霊神の仕業なのです。
惟神の道と宣長の臣道
宣長によりますと天皇の仕事は顕事(あらわごと)とであり、大國主命は幽事(かみごと)なのです。これはちょうど傀儡(くぐつ)と傀儡師の関係に当たります。天皇は自分の裁量や英知で政治を行わず、何事も「神代の古事のまま」行います。神代の古事では間に合わない場合は, 「御卜事とて、天つ神の御心を問はして」政を行うのです。このように何事も「さかしら(賢さ)」を加えず神の御心のまま政治を行うことが「惟神(かむながら)の道」だと宣長は解釈したのです。
この宣長の解釈は『古事記』『日本書紀』を逆転して解釈しています。『古事記』では国譲り神話で天皇の支配を認める条件として、大國主命の為に出雲大社を造ってお祭りすれば、天皇の支配に陰ながら仕えるということでした。あくまで天皇が神々をも従えるということなのです。また『日本書紀』で「第三十六代孝徳天皇」では天照大御神が神の意志で、「豊葦原水穂國は我が御子の知らす國ぞ」と命じたことに従うのが「惟神の道」なのです。ですから天皇が自分の裁量と権威で支配すればよいのです。実際孝徳天皇の時代は「大化の改新」の大変革期でした。大いにさかしらだった政治が行われたのです。
宣長の解釈は徳川幕府にとって極めて都合が良いのです。天皇は象徴的形式的な儀式と神事だけをしていればよいことになり, 政治・軍事の実権は幕府が掌握して, 天皇のまつりごとを支えていることにすればよいのですから。そこで天皇をしっかり支えているということで, 幕府の支配は正統性を認知されます。その上で天皇を立てている幕府に逆らうことは絶対に許されないことになり, 反動的な臣道論が展開されました。
『孟子』では君主とは義で結ばれているのだから,
義に反する君主には諫言し,
容れられなかったら去るか,
君主が人民に迷惑をかけるような場合は,
暴君は放伐してもよいということです。でも宣長に言わせれば,
何が本当に正しいのかは, 神のみぞ知るです。自分の方が正義だとして君主の義を否定するのは,
傲慢な独善だと非難したのです。諫言しても容れられなければ,
君主に従うのが当然だと, 不可知論を使って絶対服従を主張したのです。
復古神道
荻生徂徠以降の18世紀には, 真理の体系としての儒教の教理を極めようとするのではなく,儒教の教理や西洋の科学的知識を使って,
自分の極めた真理を展開しようとする開明的な思想家が輩出しました。富永仲基(1715〜46) の『出定後語』,
三浦梅園(1723
〜89) の『玄語』『贅語』『敢語』,
山形蟠桃(1748〜1821) の『夢の代』が有名です。また18世紀末には杉田玄白・前野良沢が人体解剖書である『ターヘルアナトミア』の翻訳を行い『解体新書』を出版し蘭学が本格的に開始されたのです。平賀源内や司馬江漢らも活躍したのです。
富永仲基『出定後語』
大坂懐徳堂で三宅石庵に学んだ富永仲基(1715〜46) は『出定後語』で,神・儒・仏の思想史を発展の相において捉え,それらを相対化しました。つまり冷静に各思想家の思想形成の営みを分析して,思想の発展法則を示したのです。
彼は15・6 歳の少年の頃に『説蔽』という諸子百家論を書いています。そこで「加上の法則」を使って諸思想の発展を説明しているのです。「加上の法則」とは, どの思想家も用いてしまう方法で, 前説に対してその特異点を指摘し、自説を付け加えてその不十分な点を補正するやり方です。その際, 自説はあたかもその思想体系の始祖の所説であるかに装って, 正統性を主張するものだというのです。孔子や孟子でさえそうっだったというのですから, 師匠の三宅石庵は少年仲基に危険なものを感じて破門してしまったのです。
言語・思想を規制している諸要素として仲基は「三物五類」を指摘しています。「三物」とは
・言に人あり−用語は学派や経典あるいは人,更にその人の著作によって意味が違います。
・言に世あり−同じ言葉でも時代によって違うのです。
・言に数あり−言葉には類別があるのです。
「五類」とは言葉の類別を5つに分けたものです。
・張−本来の意味を拡張したもの
・偏−拡大する以前の本来の狭い一部のもの。
・泛−包括的に使われたもの。
・磯−激発的に使われたもの。
・反−反対的な使い方をしたもの。
それに・転−意味が転じたもの,にも触れています。
思想の特徴を形成する要素として「国の俗」をあげています。インド人は「幻」(幻術性・神秘性)があり,中国人は「文」(文飾性・誇張性)があるとされています。そして日本人は「絞」(直情性・切迫性)という国民的特性を持っているというのです。
仲基はこのような鋭い批判的な視点をもって,思想史を展開していますから,当然「吾は儒の子に非ず,道の子に非ず,亦仏の子に非ず」ということになります。完全に各思想を相対化できているのです。彼はそれらの道の道である「誠の道」を極めようとしたのです。各思想が歴史的に陥らざるを得なかって様々な粉飾性を剥ぎ取ってしまえば,そこに人間本来の「誠の道」が見えてくる筈だ,神・儒・仏の三教はみな誠の道に帰するのだと確信していたのです。
三浦梅園−反観合一−
彼は,陰陽五行説を無反省に真理だと前提した上で自分の議論を展開するような既成の儒学を批判し,書物に書いてあるから,仏陀や聖人の唱えたことだから真理だとするのではなく,彼らも「我講求討論の友にして,師とするものは天地なり。」と宣言しました。
彼は天地の条理(ロゴス)に到達するためには,中途半端な説明で満足しては駄目で「何故」という問いを徹底しなければならない,とします。これはデカルト的ですね。「雷は鳴る筈だから鳴る」というような「筈」で片づけてはならないのです。つまり習慣的な知や臆見を打破して,天地に照らして正誤を確かめるべきだとします。これはベーコン的です。その為には人がなずんでしまっている固定観念である「人の執気」を去る必要があるのです。こうした懐疑精神で全ての既成の権威を相対化して,天地を基準とする実証的な立場を打ち出しました。
梅園が天地の条理に達するための三つの手続きとして示したのが
@反観合一
A捨心之所執(心の執気を離れること)
B依徴於正(判断の基準を正しいものに取る)です。・
反観合一は弁証法的な論理です。
「天地の道は陰陽にして,陰陽の体は相反す。反するに因て一に合す。天地のなる処なり。反して一なるものあるによつて我これを反して観,合せて観て,其本然を求むるにて候。此故に条理は則一有二二開一。二なるが故に粲立(さんりつ・対偶相称をなして)条理を示し,一 なるが故に混成して罅縫(かほう・裂けた縫い目)を越没す。反観合一は則これを繹ぬるの術にして,反観合一する事能はざれば陰陽の面目をみる事能はず」(『多賀墨卿君に答ふる書』)
要するにそれが一だと観る為には対立する要素が,対立によって一つの全体を形成している様を観なければ,一だとは観えないわけで,対立物の統一として世界や事象を捉える必要があるわけです。弁証法的論理が見事に捉えられている三浦梅園の著作は残念ながら公刊されていません。
山片蟠桃『夢之代』
両替商升屋の番頭として主家の再興に力を尽くし,その商才を賞賛された山片蟠桃(1748〜1821) の『夢之代』も残念ながら公刊されていません。この書は死後の霊魂は存在しないという「無鬼論」(古代インドの唯物論でいう魂の断滅論)を展開しています。彼ははっきりと「死シテ何(イヅ)クニ霊アリヤ,寤(サメ)テコソ霊ナリ」と述べています。「生ずれば智あり,血気あり,四支心志臓腑皆働き,死すれば智なし,神(精神)なし,血気なく,四支心志臓腑みな働くことなし,然ればいかんぞ鬼あらん,また神あらん,生て働く所これを神とすべきなり」つまり霊魂を身体の活動と捉えています。身体の中で霊魂が活動しているのではなく,霊魂は身体自身の自覚的な自己統御機能なのです。
彼は無鬼論から発して自然現象と人間の運命を結び付けようとする考え方をを厳しく批判したのです。つまり鬼門,吉日や方角等を迷信として退けたのです。
6江戸庶民の思想
山片蟠桃は『夢之代』で自分は商人でありながら,政治を論じる場合は,商工業を軽んじた自虐的な論じ方をしています。「国ヲ治ルハ百姓ヲススメ工商ヲ退ケ,市井ヲ衰微サスニアリ」とありますから。おそらく幕藩体制に寄生していた大名貸が専門の両替商では,農産物を財政の基礎とする諸藩との取り引きが中心でしたから,藩財政へのアドバイスとしては的確だったかも知れません。
ところで日本には,マックス・ウェーバーが『プロテンタンティズムの倫理と資本主義の精神』で説いたような,禁欲主義的な宗教倫理と致富衝動が結合して資本蓄積を駆り立てるような動きはなかったのでしょうか。近畿大学の後藤文利は浄土真宗にはその傾向があったとしています。15世紀戦国時代に活躍した蓮如(1415 〜1499年) の『御文章』にこうあります。
「まづ, 当流の安心のをもむきは,あながちに,わが心のわろきをも, また妄念妄執のこころのをこるをも,とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし,奉公をもせよ,猟すなどりをもせよ。かかるあさましき罪業にのみ, 朝夕まどひぬる我等ごときのいたづらものを,たすけんとちかひまします阿弥陀如来の本願にてましますとふかく信じて。」
ここには商いなどを罪業と捉え,商人を悪人と捉える見方が前提されていますが,悪人正機説でだからこそ阿弥陀如来の救いを確信している開き直りがあります。そこでこの開き直りにのっかって,後藤は,「支配者の方では,あのようにアサマシイ仕事をしている,といって蔑視しているけれども,決して卑下する必要はないんだよ,アミダ仏からすれば立派な仕事だよと教えているのである。」と近大『経済原論』のテキストで解説しています。アミダ仏からみたら立派な仕事では,善の権化である阿弥陀仏の対極に立つことで救われるという構図が崩れますから,間違った解釈ですが,江戸時代の商人自身は後藤のように思っていたかもしれません。
鈴木正三『万民徳用』
商業を仏教で肯定し,商行為自体を只管打坐のような禅修行にまで聖化しようとしたのが,曹洞宗の禅僧であった鈴木正三(しょうさん) (1579〜1655) でした。彼は家康,秀忠に仕えた直参旗本でした。42歳で出家し,61歳で見性(主客合一においてみること) したのです。
彼は「仏法も世法(世俗倫理)も理を正し,義を行いて,正直の道を用ふるの外なし。」その意味で仏法と世法は同じであり,二つある訳ではないのです。でも「正直」には「世間の正直」と「仏法の正直」の区別があります。
「世間の正直」−理をまげず,義を守て,五倫の道,正して,物に違ず,私の心なき
「仏法の正直」−一切有為の法は,虚妄幻化の偽なりと悟て,本来法身,天然自性のままに用(もちふ る)を真の正直といふ
つまり世間の正直の実践をしながら,その無常の実相を踏まえて,そこに法と一つになって私欲を離れて商売をすれば,売買の行いが「無漏(むろ)の善根(世の無常を悟った上で,ひたすら菩提心から行う善行)」となりますから,同時に禅の修行になるということです。その場合商売ですからそれを続け,発展させようとすれば「先ず得利の益(ます)べき心づかひを修行すべし」と利益追求を肯定しなければなりません。
正三によれば,売買の仕事は国中の自由をつくり出す仕事なのです。武士が世を治め,農民が食物を提供するのと同様に,商人は自由をつくり出すのを職分にしているのですから,その職分を全うすべきです。その際「身命を天道に抛(なげうつ)て,一筋に正直の道を学」ぶことが大切です。
鈴木正三の仕事は大乗仏教の根本的な矛盾を解決しようとした試みとして高く評価できます。何故なら衆生済度が目的なのに,浄土教は衆生を悪人にして悪の極において始めてその対極から救われるという自己疎外に陥っていますし,それを批判した禅宗も只管打坐すれば見性成仏できるとしながら,一般庶民は只管打坐していられないので救われないのです。正三は商売に打ち込むことをそのまま只管打坐に代替させたのですから,この問題を見事に解決したと言えるでしょう。
石田梅岩−石門心学
石田梅岩(1685〜1744) は丹波国の百姓の次男として生まれ, 幼少より京の商家に丁稚奉公に出ましたが主家が傾き, 故郷で8年程農村青年をしまた。そして,その後23歳以降京の黒柳家に奉公しました。しかし彼は商売で成功しようという意欲よりも求道者になりたいと願っていました。43歳で主家をやめて師を求めているうちに, 小栗了雲に出会い, 自分の心さえ分からないのに師になろうというのはおかしいと指摘されたのです。それで自分をみつめてその悟りを了雲に伝えますと, 了雲に「お前は, 我が性は天地万物の親とみたが, その見た目が残っている。『性は目なし』である。その目を離れてこい。」と言われたのです。つまり物を対象化する自己, 自己を対象化する自己が問題だというのです。
これを梅岩は天地の心を心とすること,すなわち「天人合一」の問題として捉えたのです。そして聖人の心も常人の心も同じ心であり,経書を読む場合はその心を読むべきなのです。様々な思想や宗教は「我心ヲ琢磨種(みがくとぎぐさ)」に過ぎないと捉えました。
天人合一の立場に立って自然のままに生きるとしますと,それぞれの自然な「形ニ由ルノ心」が生じます。例えばぼうふらは人を螫しませんが,それが形が変わって蚊になれば螫すのです。この考えを拡張して,武士には武士の道があり,商人には商人の道があることになります。そして「商工ハ市井ノ臣ナリ」,「商人ノ売買スルハ天下ノ相(たすけ)ナリ」と商人の社会的位置づけや役割を強調しています。
その上で「売利ヲ得ルハ商人ノ道ナリ」「利ヲ取ハ商人ノ正直ナリ」とまで主張しています。商人の正直はその他に所有関係や契約関係をきちんと守ることだとしたのです。そうすれば信用によって世間一同に和合して「四海の中皆兄弟」のようだというのです。
梅岩は「正直と倹約」を商人道徳として掲げました。人や物が最大限に生かされる為には「倹約」が重視されます。「倹約と云ふことは世俗に説くと異なり,我が為に物ごとを吝(しわ)くするにはあらず,世界の為に三つ要る物を二つにてすむようにするを倹約と云ふ」(『石田先生語録』)行財政改革で行政経費を節減することができれば,今後の高齢化社会に向けて福祉財源の為に増税する必要がなくなります。国民の潤いになるわけです。これは倹約が,物を大切に生かして使うことによって人を生かせるということです。
安藤昌益『自然真営道』
安藤昌益(1703〜1762) は八戸の医者でしたが, 『自然真営道』『統道真伝』を著し,不耕貪食(ふこうどんしょく)する階級がいて, 直耕直食(じきこうじきしょく)する農民から収奪する階級社会を法世(ほっせ)として根底的(ラジカル)に批判しました。全ての人が土地を耕して作物を造る自然世(じぬんせ)に復帰すべきだとしたのです。
自然世では,人は自然に直耕して生き,互いに支配したり,されたりすることなく,平等で独立した人間として,互いに助け合って生きていました。そこには法も制度もない理想郷だったのです。このような自然状態の人間こそ最も自然に生き生きと活動的に生きることができていたのです。ところが聖人がでてきてさかしらだちして,みだりに私に法をつくり制度を立てて,支配・被支配の関係を産み出してしまったのです。
昌益は仁義に基づく王道政治を唱える良心的な民本主義的な儒教に対しても,容赦なくその偽善を暴いたのです。「己れ民に養われて民の子で有りながら,民は吾が子と云えり,只狂人なり」(『統道真伝』)「聖人は不耕にして,衆人の直耕,転(天)業の穀を貪食し,口説を以て直耕転(天)職の転(天)子なる衆人を誑(たぶら)かし,自然の転(天)下を盗み,上に立ちて王と号す。故に己れの手よりして一粒・一銭を出すこと無く,我物と云う。持たざる者は聖人なり。然るに何を施してか,民を仁(いつくし)むべけんや」
昌益が大自然から学んだ人間社会の真のありかたについての源了圓の要約を名著『徳川思想小史』(中公新書) 166頁〜167 頁から抜き出してみましょう。
@自然は初めも終わりもない。自然は自己原因である。
A天地は初めも終わりもなく,また上もなく下もなく,
尊卑の別もなく, 先後の順位もなく, たださながらの 自然である。
B天地も人も物も,
宇宙の一切のものは微塵にいたるまで,
相対的存在であり,相補的であり, そしてそれ故 に相互作用的である。万物の相対的,
相補的性格を「互性」と呼び,この「互性」故に生ずる万物間(天 と地,男と女,等々)におこる相互作用を「活真」と呼ぶ。この相互作用によって自然は進退を繰り返 す。
C宇宙間の一切のものは,天と地,日と月,男と女,雌と雄,善と悪,生と死,・等のように常に二つに 分かれて現象するが,これらは自然の一つの真なる営み(真営)の進退であり,これらの多種多様の仕 方で,二つの対なるものの間に起こる進退が自然の一真営なのである。
二宮尊徳の「報徳思想」
戦前の日本の小学校には全国津々浦々に全て,薪を背負って歩きながら本を読んでいる,二宮金次郎の銅像が建っていました。おそらく戦時中に戦争に徴用されたのでしょう。もうほとんど残っていません。戦後再建されなかったのは,戦前にはそれが修身教育で大いに活用されていたので,戦後の民主主義教育の立場から修身復活反対の声が強かったからだと思われます。
もちろん戦前の封建道徳を基礎にした忠君愛国主義をたたき込み,軍国主義や帝国主義を賛美するような教育の復活は困りますが,二宮尊徳(1787〜1856) の気高い報徳思想を伝え, 実践することは大切です。 戦後も50年になりますから, 単純に戦前の思想を排除するのではなくて,普遍妥当的価値を持つ思想は大いに顕賞し, 青少年の精神的糧として学校教育にも採用すべきだと思われます。またたとえ封建的色彩が濃く, 差別思想や権力思想が混ざっ反民主主義的な要素があっても, その中に深い思索がなされ, 学ぶべき普遍的要素を持つ古典的思想も, きちんとした解説を施しつつ教材に含めるべきです。そうして始めて学ぶ力, 批判する力が生まれるのですから。そういう意味で四書,『孝経』,諸子百家や仏典,バイブルなどがもっと重視されるべきです。
金次郎は5歳の時に嵐で田畑が流されて家運が傾き,14歳で父を16歳で母を亡くして一家が離散し, 親戚に預けられました。赤貧の中から努力と倹約で, 荒地を開墾し, 田畑を買い戻すなどして24歳で家を再興しました。
26歳で小田原藩家老服部家の中間になり,主家の財政を再建しました。それから荒廃した農村の建て直し等, 約 600カ所の再建事業に携わったのです。 彼は「天道」と「人道」を峻別します。「人の賤しむ畜生の道は天理自然の道である。人の尊ぶ人道は天の道理に従ってはいるといっても,これは人間がこしらえた作為の道であって自然ではない。なぜなら畜生は,春には青草を食べ,秋は木の実を食べ,食物がある時には飽きるまで食べ,反対に食物のない時には食べずにいる。これが自然の道でなくて何であろうか。人間は,住居を作って風雨をしのぎ,蔵をつくって米や粟を貯え,衣服を作って寒暑を防ぎ,四時ともに米を食う。これが作為の道でなくて何であろう。自然の道でないことは明らかである。自然の道は永久にすたれることがない。しかし作為の道は怠けるとすたってしまう。」(『二宮翁夜話』)
天道は儒教や他の経世家(梅岩,昌益等)でも,尊び準じるべき基準でしたが,尊徳では全くの自然法則のようなもので,善悪の彼岸なのです。そして自然に働き掛けて人間の為に利用する人道を重視し,そこにおいては勤労を大切だとしました。 「天理より見る時は善悪なし,其証には,天理に任ずる時は,皆荒地となりて,開闢のむかしに帰るなり,如何となれば,是則天理自然の道なればなり」「天理は万古変ぜず,人道は一日怠れば忽ちに廃す,されば人道は勤るを以て尊しとし,自然に任ずるを尊ばず」(同上)彼は人道においては,「分度」と「推譲」を強調します。「分度」とは自分の実力に応じて合理的に生活設計をすることです。そこでできるだけ勤労と倹約に心掛けて,少しも今年の物を来年に譲る「貯蓄の道」に精を出すのです。これが「第一の推譲」です。これができてこそ人道に叶うのです。これができなければ「人にして人にあらず」なのです。なかなか厳しいですね。
「第二の推譲」は,親戚朋友の為の譲り,郷里の為の譲り,国家の為の譲り,他の一切衆生の為の譲りです。人は普通苦労して事業に成功し,富を蓄えますと,それを自分一人の才覚と努力の結果と思い込み,世の為,人の為に使う事を惜しみがちです。そこで大邸宅を構えたり,贅沢三昧に耽ったりして浪費してしまいがちです。でもどんな事業も個人の才覚と努力だけでできるものではないのです。多くの参加者,協力者の献身的な努力や支えがなければ成功できるわけがありません。多くの人々の努力や天地自然の支えに感謝して,徳には徳で以て報いる報徳思想で,自分の蓄えた富,築き上げた力を皆のために役立てることが大切なのです。
この「第二の推譲」によって,人々の信頼が強くなりますと,より大きな事業に挑戦することもできるということです。そして第二の推譲には自分のそうした生き方を推譲し,広めることも含まれます。そこで二宮尊徳の報徳思想は報徳社という信用互助組織を生み,明治期に地方産業の発達や国民道徳の向上に貢献することになります。