第4章 近代日本の思想

初期明治啓蒙思想

   1840年〜1842年アヘン戦争が起こり, イギリスに香港が武力で割譲されたというニュースは, 日本の有識者に大変深刻な危機感を与えました。これは朱子学の大義名分論や国学の皇道と結びつきますと, 尊王攘夷運動へと発展します。また西洋の軍事的優位に注目しますと, 軍事技術など西洋の科学技術を導入しようとする洋学運動となります。

  幕末啓蒙は, まず精神的には東洋の道徳を尊ぶが,科学技術は西洋から徹底的に学ぼうとする和魂洋才の立場を生みました。佐久間象山は「東洋道徳, 西洋芸術」を唱えました。道徳は朱子学, 芸術は美術ではなく, 科学技術を意味していたのです。また横井小楠も「堯舜孔子の道を明らかにし, 西洋器械の術を尽くす」ことを力説しています。

 しかし西洋の科学技術には一貫した合理的な普遍原理が基底にあります。それを理解しなければ, 西洋の科学的合理的思想を身に着けることはできないのです。そのことに気付いたのが, 蕃書調所の西周(あまね) や津田真道で,オランダ留学で実証主義・功利主義のフィロソフィーを学びとってきました。しかし幕府には西洋の哲学や社会科学を用いて大胆な改革を行う度量はなく,ラスト将軍慶喜のブレーンとして活躍できないまま,王政復古の大号令を迎えてしまったのです。

  森有礼「明六社」設立 

 明治新政府は幕臣だった洋学者を含め多くの洋学者を任官させて,近代国家確立に役立てようとしました。また文部卿の森有礼は明治6年に「明六社」を設立し,当時の洋学者の多くを同人にして,明治初期啓蒙思想の普及の為に『明六雑誌』を発刊しました。これには西周,福沢諭吉,中村正直,加藤弘之,西村茂樹らが参加したのです。彼らの言論は藩閥専制には批判的なものの,実証主義,功利主義の論調に添って,生得的な自然権として人民の参政権を認めることには否定的な人が多く,開化の度に応じて人民に与えて,徐々に自由の内容を充実させていけばよいという立場でした。

  近代知識人の父,西周

 西周(にしあまね18291897) は津和野藩の出身で, 儒学者としての修業中, ペリーの来航に刺激されて脱藩し,洋学修業に専念, 三年でオランダ語と英語をマスターして,蕃書調所に任官しました。そして津田と共にオランダ留学を果たし, コントの実証主義とミルの功利主義に強い影響を受けました。かくして西洋の最新知識を日本に紹介したのです。特に学術用語の翻訳語の形成には大活躍しました。「哲学, 先天, 後天, 主観, 客観, 理性, 悟性, 感性, 意識, 概念, 帰納, 演繹, 抽象, 総合, 知覚」等は彼が定着させたと言われています。

 フィロソフィはギリシア語のフィロ(愛する) ソフィア(知)からきています。そこで西は「愛する」を「希(のぞ)む」という意味に受け止め,「知」を「賢哲(根本的な道理に通じた人)の学」と解したのです。それで「希哲学」としました。その上で「希」は希臘(ギリシア)の儒学を連想させると考え,「哲学」だけにしたのです。「希」がなくても「哲学」だけで根本的な知を求める意味が籠められていると考えたからです。

 西は幕末の京で講義したものを元に『百一新論』を著しました。これは政治と教学を分離させる政教分離の近代政治学の立場を啓蒙し,物理(自然科学)と心理(社会科学)を峻別した上で,物理に基づいて心理を講明しようとする統一科学の試みでした。 また明治初期に私塾「育英舎」で『百学連環』という英・仏の百科全書を基にした学問大系の樹立の試みをしています。

 そして『明六雑誌』に「人生三寳説」を連載しました。ベンサムの功利主義理論の見事な焼き直しです。人生にとっての三つの宝は健康(マメ),智識(チエ),富有(トミ)であり,それらが最大の時に最も幸福だとしました。それで政府の目的は人民の三宝を最大限にすることであり,その為に最も効率的な政府を作るべきだとしたのです。ですからたとえ専制政府であっても,三宝の増進に最適ならば最善の政府だという理屈です。彼は陸軍省に勤めており山縣有朋の智恵嚢でしたから,御用学者的なところが強いのです。

 彼は,山縣の依頼で軍人勅諭の草稿を書きました。彼は元々市民社会としては自由放任の経済社会を支持していましたが,軍事的には天皇を頂点とする封建的な絶対服従の軍人社会を構想したのです。つまり自由な市民社会と封建的で専制的な軍人社会のダブル・バインド(二重拘束)で国民精神を分裂させていたのです。それでは余りに,彼本来の啓蒙思想との落差が大き過ぎます。 

 それで西は私儀憲法草案を書き,議会の権限を強くして,君民共治論的考えを強く印象づけようとしました。しかしこれは井上毅に強く反発され,結局政府は大日本帝国憲法の方向に向かいました。西も明治17年には,『論理新説』で富国強兵の為に最善ならばたとえ専制的な国家体制でも選択すべきだという,極めてプラグマティックな立場を表明せざるを得なかったのです。

  天は人の上に人を造らず

   「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らずと云へり」は福沢諭吉(18341901)『学問のすすめ』の書き出しです。この本は明治5年から9年にわたって発表され22万冊がその間に売られ,160人に1人が読んだことになります。当時としては驚異的な売れ行きです。この本は結局学問をするなら役に立つ実学にしなさい,実学は西洋の最新知識を学びなさい,だから慶応義塾で英語を習いなさいという慶応義塾のPR効果を狙ったものですから,その意味でも現代的なセンスが窺えます。

 ところで「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らずと云へり」はいわゆる天賦人権論の典型のごとく読まれていますが,これはそれに続く「されば天より人を生ずるには,万人は万人みな同じ位にして,生まれながらの貴賤上下の差別なく」を読みますと,生まれたては皆平等で貴賤の差はなかったとしているだけです。つまり生得的に様々な自由権が与えられていたという自然権思想とは違うのです。

 それに生まれながらが平等でも,現実には雲泥の差以上の差別があるわけです。ではその差はどうして生じたのでしょうか。諭吉によれば,江戸時代までは門閥があり,縁故と相続で身分や地位が決まっていました。諭吉は「門閥は親の仇でござる。」と学問のできた父が身分が低いため出世できなかったことに強く反発しているのです。

 明治新政府になってから門閥ではなく,自分の知力と才覚次第でいくらでも出世できるようになったのです。ではどういう学問をすれば実用の知力を養えるのでしょう。それが実学です。東洋の儒学や仏教学のような形而上学や国学や歌学は,虚学であり,日用の生業に何の役にも立ちません。では人間普通日用に近き実学とは何でしょう。「いろは四十七文字を習い,手紙の文言,帳合いの仕方,算盤の稽古,天秤の取扱い等を心得」さらに地理学,究理(物理)学,歴史,経済学,修身学などが挙げられています。

 諭吉の説くところによれば,実学によって生きた知識を身につければ,それによって賢き人になって難しい仕事ができます。難しい仕事ができる人を身分の重き人と名づけ,やすい仕事をする人を身分の軽い人というのです。だから医者,学者,政府の役人,または大商人,大百姓(大地主)は身分重くして貴き者と言うべしということになります。例えが悪いうえ,諭吉自身がまだまだ封建的な差別意識から抜けきっていないことが分かりますね。要するに学問をして立身出世し,偉く貴い身分に這い上がれと勧めているのです。彼は決して差別を無くそうというのではなく,出発点における差別を無くそうというだけなのです。

 身分や地位の社会的な貴賤や上下を,学問による仕事の軽重に起因するとして,そうした社会的差別を合理化していますが,近代的な個人の価値の平等,人格的平等の思想を,諭吉は重視しました。「ゆえに今,人と人の釣り合いを問えばこれを同等と言わざるを得ず。ただしその同等とは有様の等しきを言うにあらず,権理通義の等しきを言うなり。その有様を論ずるときは,貧富,強弱,智愚の差あることはなはなだしく,・・雲と泥の相違なれども,また一方より見てその人々の持ち前の権理通義をもって論ずるときには,いかにも同等にして一輪一毛の軽重あることなし。すなわちその権理通義とは,人々その命を重んじ,その身代所持のものを守り,その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや,これに体と心との働きを与えて,人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛けを設けたるものなれば,なんらのことあるも人力もってこれを害すべからず。大名の命も人足の命も,命の重きは同様なり。」(『学問のすすめ』)

  東洋に無きもの 

 諭吉は,慶応四年明治改元の前に,洋学塾を芝の新銭座に移して,慶応義塾と名づけました。そして毎月金二分の授業料を取るというのも,『福翁自伝』によりますと,慶応義塾が始めた新案だったそうです。それまでは入学時の束修(入学金)と盆暮に金子なり品物なりを熨斗を付けて先生に進呈する習わしだったのです。

 慶応義塾は一日も休業したことがないのが諭吉の自慢です。上野で彰義隊が戦争している時でも,すべてお店が閉まっていても,慶応義塾だけは休業無しです。「世の中にいかなる騒動があっても変乱があってもいまだかつて洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ,慶応義塾は一日も休業したことはない,この塾のあらん限り大日本は文明国である,世間に頓着するな。」と諭吉は少年たちを励ましたのです。官軍が勝とうが,彰義隊が勝とうが,文明開化はしなければならず,洋学は絶対必要なのです。

 東洋と西洋を比較し,富国強兵や最大多数の最大幸福の観点から見れば,明らかに東洋は西洋に後れを取っている,そこで教育法にその原因を求めてみますと,「ソコデ東洋の儒教主義と西洋の文明主義と比較してみるに,東洋になきものは,有形において数理学と,無形において独立心と,この二点である。」ということになります。ここでいう数理学とは物事を数字や合理的な論理を使って説明する学問のことで狭義には自然科学ですが,経済学などの社会科学もやはり数理学として展開されなければならないのです。

 諭吉は,それぞれの人民が門閥や縁故に頼る封建的な依頼心,権力や権威に対する諛(へつらい)の心,を捨てて,自分の頭で考えて独立して行動し,自分の力で豊かになっていけば,西洋のような文明国になれると信じていました。「わが日本国人も今より学問に志し気力を慥(たし)かにして,まず一身の独立を謀り,したがって一国の富強を致すことあらば,なんぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり,道理なきものはこれを打ち払わんのみ,一身独立して一国独立するとはこのことなり。」(『学問のすすめ』)

 明治啓蒙の特色は,西洋のアジア進出に対抗して,欧米の文明を取り入れることで富国強兵をはかって,日本の民族的独立を守ろうとするところにありました。その為には国民の一人一人が独立自尊の精神で独立し,私学や民業を興していくべきだとしました。しかし自由民権運動が衰退し,朝鮮半島に対する覇権を目指した日清戦争を体験していきますと,アジア対して欧米帝国主義諸国がとってきた見習うべきだとする脱亜論や官民調和論に基づく発言が福沢諭吉の場合も活発になります。

  自由民権の思想

   明治初期啓蒙は,コントの実証主義やミルの功利主義の影響が強く,無条件に人民主権や自然権の尊重を求める自由民権運動の急進派の主張とはかなり距離がありました。ところで自由民権運動は薩摩・長州の藩閥有司専制政府に対して,「民撰議院設立を求める建白書」が提出された士族民権から出発し,次第に商工業者や富農層にも拡大して平民民権に発達していきました。それと共にフランス急進主義の思想も広がっていったのです。

  植木枝盛の『民権自由論』

   「政府」を投書して, 「猿人君主」と改題されて掲載されたことがありました。これが讒謗律(ざんぼうりつ)にひっかかり,禁錮2か月の刑を受けたのです。言論・思想の自由は人間には絶対不可欠だから,これを認めない政府は人間を猿にするものだという内容でした。

 植木は人間ならだれでも(女性でも,被差別民でも)同様に自由権を持っているという,徹底した平等論者です。彼自身は中級士族の出身だったのですが,明治改元の時まだ十才余りだったこともあるかもしれません。「ちょっと御免を蒙りまして,日本の御百姓様,日本の御商売人様,日本の御細工人様,そのほか士族様,お医者様,船頭様,猟師様,飴売様,お乳母様,新平民様,御一統様に申し上げまする。あなた方は皆々様御同様に一つの大きな宝をお持ちでござる。・それがすなわち自由の権と申すものじゃ。」(『民権自由論』)

 彼が立志社の『私擬憲法草案』で主張した政治体制は立憲君主制でした。君主の地位は人民の承認に基づく「社会の製作」であるとし,民権の主張が君権を否定するわけではないとしています。そして民権は元々人民の自然権であって,政府や君主がそれを否定したりできないというのです。そこで憲法草案の中に抵抗権や革命権を明示したのです。「政府国憲ニ違背スルトキハ,日本人民ハコレニ従ワザルコトヲ得。政府恣ニ国憲ニ背キ,檀ニ人民ノ自由権利ヲ侵害シ建国ノ旨趣ヲ妨グルトキハ,日本人民ハコレヲ覆滅シ,新政府ヲ建設スルコトヲ得。」(『私擬憲法草案』)

 彼は民権を徹底的に主張すればする程,天皇コンプレックス症状に陥りました。つまり徹底した平等の主張はシンボリックには天皇と自分の区別の止揚という病的なコンプレックス症状になって現れ,天皇と自分を同一視する言動を行い,しまいには皇后と同衾する夢を見ています。

  東洋のルソー・中江兆民 

 中江兆民(18471901) は苦学の末1871年(明治4年)にフランスに留学し,フランスの急進的な民主主義思想を学んで帰国しました。自由民権運動が高揚してから西園寺公望の「東洋自由新聞」の主筆になり,廃刊後,ルソーの『社会契約論』を翻訳した『民約訳解』を著して, 東洋のルソーと呼ばれました。彼は人民は国の主人公であって,人民の契約で政府が造られたのだから,政府はその雇い人であるとし,現実の藩閥専制政治の変革による,「民権の恢復」を説いたのです。彼は全国の人民の代表による憲法会議で民約憲法を確立して,立憲政治を行おうとしました。その際,彼が目指していた政治体制は君民共治体制で,実質的に人民主権が貫かれることを狙っていたのです。その点は植木枝盛と共通しています。しかし天皇の権威を認めてしまいますと,欽定憲法に対して,最初の議会で修正を迫るぐらいのことしか考えつかず,これも孤立して腰砕けに終わります。結局帝国憲法に対しては妥協的な態度をとるしかなかったのです。

 「且つたとえ恩賜的民権の量如何に寡少なるも,其本質は恢復的民権と少も異ならざるがゆえに,吾儕(ごせい・われわれ)人民たる者善く護持し善く珍重し,道徳の元気と学術の滋液とを以て之を養うときは,時勢益々進み世運益々移るに及び,漸次に肥 と成り,長大と成りて彼の恢復的の民権と肩を並ぶるに至るは,正に進化の理なり。」(『三酔人経綸問答』)後の憲政擁護運動などが,帝国憲法を人民本位に解釈して大正デモクラシーが発展していきますが,中江の帝国憲法に対する態度を引き継いでいたと言えます。しかし結局帝国憲法および大日本帝国の権力構造の主要な面は,専制的で,近代的自我の自覚を押しつぶし,自由を抑圧するものであったことは,軍国主義へとのめり込んでいったことから分かります。

          古来日本に哲学なし    

  「我日本古より今に至る迄哲学なし」(『一年有半』)1901年(明治34年)4月に,兆民は喉頭癌で余命が「一年有半」だと告げられて『一年有半ー生前の遺稿ー』を書き8月に脱稿し,9月3日に公刊された。そして更に9月13日から『続一年有半ー無神無霊魂ー』を書き始めて10日間で書き上げ, 1015日に発行された。そしてその年の1213日に亡くなったのである。

 兆民に言わせれば, 本居や平田等の国学者は一種の考古家に過ぎず, 哲学的なことには疎いのです。伊藤や荻生等の儒学者も経学者どまりです。最澄・空海や鎌倉新仏教の開祖たちも, 宗教家の範囲内でのことでして, 純然たる哲学ではありません。また最近の明治の加藤や井上などは自ら哲学家を標榜していますが, 西洋の評論をそのまま輸入して, 介しているだけです。とても哲学者と称するには足りません。(輸入哲学紹介を哲学することと勘違いしている傾向は現在の自称哲学者でも変わりません。ー筆者)

 兆民は「哲学無き人民は,何事を為すも深遠の意無くして,浅薄を免れず」と嘆きます。そして哲学が無いことが病根となって,「浮躁軽薄」「薄志弱行」の国民性が生じています。またこれが原因で,「独造の哲学無く」「政治において主義無く」「党争に於て継続無き」,小利口だが偉業を建立するには不適当,常識には富んでいるが,常識以上にいくことは到底望めないと嘆いているのです。 

          民権から国権へ      

   民権運動は1881年(明治14) の「国会開設の詔」をかち取りましたが,その後,板垣,大隈ら自由党や立憲改進党の党首を外遊させるという懐柔政策や,松方財政による農民層の貧窮化に伴う激化事件などで評判を落としましたが,1887年(明治20) 頃には憲法制定が近づいたこともあり,大同団結運動等で勢いを盛り返してきました。

 政府は欧米帝国主義のアジア侵略の動きがますます強まるのを見て,軍備の増強を急ぎ, 国力の充実による条約改正を狙っていました。それに対して民権派は民力の休養を求め, 下からの資本主義の発達によって富国強兵の基礎が造れると主張していたのです。

  弱冠19歳から熊本で大江義塾という自由民権の塾を主催していた徳富蘇峰(18631957) , 1886年(明治19)にスペンサーの社会進化論を用いて,〔腕力世界から平和世界へ, 武備主義から生産主義へ,貴族社会から平民社会へ〕へという世界の趨勢に沿った革命として捉え,無理に不生産的な武備を増強して民力を弱めるよりも,生産に投資し,自由貿易主義によって平和的国際関係を発展させた方が人民も豊かになり,国力も充実し,平和も守れると主張しました。薩長藩閥の有司専制は,腕力で支配する武備主義の封建支配の論理を引きずっていると非難したのです。

 蘇峰は,上京して民友社を設立し,月刊の啓蒙雑誌『国民之友』を発刊し,平民主義の立場に立った論陣を張り,国民的な好評を博したのです。こうして自由民権運動は国民的世論をマス・メディアを通して形成し,まとめあげる段階に達したのです。壮士的な義侠心や急進的自由主義の観念論では通用しなくなり,国民全体の世論の動向に合わせていかなければならなくなったのです。

 朝鮮半島では清国との関係を強めて日本の開国要求を撥ねつけようとする事大党と,日本の支援の下に清国からの独立を計ろうとする独立党に分かれて政争が激しく繰り広げられていました。この問題では政府も民権派も独立党を支援する立場でまとまっていたのです。これに東学党の乱が混じって,日本と清国が出兵して日清戦争になったのです。

 日本国民は,朝鮮に清からの独立と文明開化をもたらし,自由をもたらしてやろうとする正義の立場と思い込んでいましたから,内村鑑三も含めて国民が一丸となって戦争に賛成し,協力したのです。内村はその後の経過から見て,朝鮮での日本の権益を伸ばすための侵略の一里塚でしかなかったことを反省しますが,諭吉を初めとする大部分の有識者は,蘇峰のような民権派をも含め,武力で国権の伸長を計ることを歓迎するようになるのです。

 その理由として蘇峰は,戦争で国民が心を一つにしてまとまること,欧米帝国主義の武力に対抗するには,強大な軍備が必要だが,民力を損なわないで強兵を計るには,帝国の勢力拡大が必要であると考えたのです。そして日本の帝国主義的強大化の為には天皇を精神的なまとまりのシンボルとして崇拝することが必要だと,尊王思想を強調します。彼はそれを評伝『吉田松陰』に自分をダブラせて表明したのです。 

  キリスト教と明治知識人

   西洋の思想を本当に理解しようとすれば,神も仏も習合する一貫性のない信仰,儒教や仏教などの封建的道徳やペシミスティックな無常観や迷信を引きずっていてはだめだ,一貫した合理的精神の源泉を成し,博愛精神に満ちたキリスト教を受容しなければ,停滞的なアジアから抜けられない,明治知識人の中にはこうした動機でキリスト教に入信する人が多かったのです。蘇峰,蘆花兄弟もその代表的な人物です。その背景には宗門人別改帳によって仏教が檀家に支えられるようになり,葬式仏教になって,教義の信仰が形骸化したことがあります。

 因みにBoys,be ambitious!で有名な札幌農学校のクラーク博士は, キリスト教精神を学生たちに注入しました。同志社の創立者新島襄, 無教会主義の内村鑑三, 国際連盟事務次長の新渡戸稲造などの人材がクラークの影響で入信したのです。

  内村鑑三ー無教会主義ー

   内村鑑三(18611930) , 『余は如何にして基督(キリスト)信徒になりし乎』によりますと,札幌農学校時代に,クラーク博士の影響でキリスト教に入信しました。でも本格的にキリスト教信仰に打ち込むのは,アメリカ留学時代です。クラークの母校アマスト大学総長シーリー博士から,イエス・キリストが人類の罪を贖う為に十字架についたこと,それが神の愛であることを信仰するのが根本で,宗教儀式などの形式は神の救いには必ずしも必要でないことを教わり回心したのです。

 つまり本当の信仰は直接聖書に向かい,内面における神との対話で深められるものだと悟ったのです。ところが現実の教会は枝葉末節の教義解釈で対立し,儀式にこだわって宗派主義に陥っています。そしてキリスト教徒は所属する教会の教義を非主体的に受け取っているだけです。彼は近代的な自我の自覚から,主体的な信仰は,個々の教会から与えられるものではないと考え,「無教会主義」を主張したのです。「神の造られた世界,天然自然の世界,これが私ども無教会信者のこの世における教会であります。その教会の天井は青空であります。その教会の楽器は松の梢であります。その楽人は森の小鳥であります。教会の説教のための高い壇は高い峰でありまして,その説教師は神様御自身であります。」(『無教会』)

  内村鑑三ー二つのJー

   内村鑑三がキリスト教に惹かれたのは,人類を苦しみから救うために我が身を捧げる,清廉無私な自己犠牲的精神です。これは本来の武士道に通じていると思ったのです。そこで内村や新渡戸らのキリスト教は「武士道に接木されたキリスト教」と言われます。

 彼らがキリスト教を信仰するのも,実は民族的危機を抱えて,文明開化を計り,精神的にも欧米に負けないようにするためです。ですから強烈な愛国心があったのです。「私どもにとりましては,愛すべき名とては天上天下ただ二つあるのみであります。その一つはイエスでありまして,その第二は日本であります。」(『日本国の前途』)彼はJesus Japanで「二つのJ」と名づけ,この二つのために生命を捧げようと思うと語っている。

 彼の英文墓碑銘には, こうあります。I for Japan; Japan for the World; The World for Christ; And All for God.キリストを「愛」, 神を「正義, 普遍性」と読み変えてみますと, この言葉には大変深い普遍性と高い倫理性があることが分かります。

 彼の清廉で誠実な人柄は社会的な活動でも一貫しました。彼は『教育勅語』奉戴式で最敬礼をしなかったとして,一高の教職を追われました。また彼は「最も善い戦争も,もっとも悪い平和よりも悪い」と絶対平和論を唱えて,日露戦争に反対する「非戦論」を唱えました。そして足尾銅山鉱毒事件では田中正造を支援しました。

                       明治社会主義思想

   明治社会主義思想は自由民権運動から社会主義に近づいた堺利彦,幸徳秋水らのグループと,キリスト教から近づいた安部磯雄,木下尚江,片山潜らのグループがありました。安部は後に日本フェビアン協会会長になり,社会民衆党を組織し,穏健な右派社会民主主義の道を歩みました。それに対して,片山潜は堺らと議会主義路線を唱えていましたが,後にロシア革命に共鳴してコミンテルン(国際共産党)執行委員になり,日本共産党の結成を指導しました。

 彼らは社会問題研究会や社会主義研究会を作って, 資本主義の矛盾を解決するには社会主義しかないと, 社会民主党を1901年に結成しました。しかし即日解散させられてしまいました。

 彼らは『平民新聞』で論陣を振るい, 黎明期の労働運動に影響を与えました。しかし彼らの思想傾向は様々でした。堺利彦らは普通選挙権を求めて,議会を通して革命を行おうとしましたが,アメリカで無政府主義(アナーキズム)の影響を受けた幸徳秋水らは,それは認識が甘過ぎると,直接行動論を唱えました。また官憲の弾圧が厳しく, 特に直接行動派は官憲から恰好の標的になりました。1910年の「大逆事件」で, 幸徳秋水らが暗黒裁判で天皇暗殺未遂の大逆罪で処刑されてしまい, 「冬の時代」なったのです。

  幸徳秋水の社会主義啓蒙 

 幸徳秋水は,日清戦争後の産業革命による資本主義の発達に伴い労働者が増加して,労働運動の黎明期に資本主義の矛盾と社会主義による解決について,『共産党宣言』等社会主義の基礎理論を翻訳紹介し,自ら『廿世紀之怪物帝国主義』や『社会主義神髄』等の評論,啓蒙書を著しました。特に『廿世紀之怪物帝国主義』はレーニンの『帝国主義論』よりも15年も早く, 帝国主義の野蛮で残虐で, 好戦的な本質を明らかにしました。これは当時の日清戦争後, 三国干渉によって帝国主義諸国に対抗心を燃やし, 欧米に負けない帝国主義に成ろうと熱望していた多くの国民感情に対して, 反省を促す極めて重要な啓蒙的役割を果たしたのです。

 また『社会主義神髄』では, 剰余価値の略奪が資本を増加させるが, それは労働者の購買力を少なくするので生産力が増大しても過剰生産になってしまう,そこで「彼ら資本家は百方生産力疏通の途を求むるや急なり,いわく, 新市場を開拓せよ, いわく, 領土を拡張せよ, 外国の貨物を掃蕩せよ,大帝国を建設せよと。」と論じています。

   近代的自我の自覚

   自由民権運動が挫折し,半封建的な地主・小作関係が形成され,半封建的な大家族制度が維持されたのです。それを背景に,専制的な色彩の強い1889年大日本帝国憲法が制定され,翌年封建的な儒教道徳を基本にした「教育勅語」が儒学者の元田永孚によって起草されました。こうして日本の近代化は, はなはだ中途半端な性格を持ってしまったのです。

 近代知識人は西洋の近代的な人格的自立に憧れながらも,現実には大家族制度や門閥や藩閥等の半封建的なしがらみや利害関係に振り回され,自己の理想や信念に誠実に生きることができずに苦しんでいたのです。天皇を頂点とする大家族的な日本の疑擬共同体的システムに近代的自我の自覚が抑圧され,眠り込まされたのです。三好達治の「太郎を眠らせ太郎の屋根に雪降り積む,次郎を眠らせ次郎の屋根に雪降り積む」のイメージです。

  『現代日本の開化』

   夏目漱石(18671916) , 『現代日本の開化』という講演で,「西洋の開化は内発的であって,日本の現代の開化は外発的である。ここに内発的というのは,中から自然に出て発展するという意味で, 丁度花が開くようにおのずから蕾が破れて花弁が外に向うのを云い,又外発的とは外からおっかぶさった他の力で已むを得ず一種の形式を取るのを指したつもりなのです。」と述べています。つまり鹿鳴館周辺の「皮相上滑りの開化」で,空虚なものに過ぎなかったのです。近代的な自我の自覚に基づく人格相互の自由な交わりとして, 近代化が発展することなく,便利な機械や乗り物や豪華な西洋風の建物ができても, 互いの人格を尊重し合い, 高め合う社会が形成されなければ, かえって人間が押しつぶされるだけだと言いたかったのでしょう。

  『私の個人主義』

   漱石は近代社会における人間の生き方で,個人主義と利己主義の違いを重視しました。近代社会では多かれ少なかれ,諸個人は別々に生活しており,先ず自分の生活を成り立たせなければなりません。自分自身の生き方を考え,確立していかなければならないのです。そういう意味で「個人主義」的な生き方が大切です。

 でもそれは自我の内面的要求に基づいて生きる,自己本位という意味での個人主義です。決してそれは他人も自己本位に生きることを妨げるものであってはならない筈です。互いの人格を尊重しあい,互いを人格的な高め合うような生き方が必要です。

 ところが現実の実社会は複雑に利害が絡み合っていますから,自分のための行動は,それで損害を被る他人には利己主義としか映りません。そこで他人の犠牲を省みない独善的で,非倫理的な性格をエゴイズムとして厳しく追求しました。

 だから真の個人主義は,自我の執着を離れて,天地自然と一つになって生きることによって,自由に生きる内面の要求を満たす生き方なのです。これが晩年に求めた「則天去私」の境地です。

  内部生命論

   北村透谷(18681894) , 16歳の時, 東京専門学校(早稲田大の前身)政治学科に入学,自由民権運動に参画しましたが,挫折し,20歳で恋愛・結婚を経験する中でキリスト教(クウェーカー派)に入信,その平和運動に中心的役割を果たしました。

 彼は現実の社会の中で打ち立てようとした近代的自我が,権力によって囚われの身になり,政治的に敗北するのを体験しました。でも人間には「内部生命(インナーライフ)」があるのです。これは『聖書』で記された「永遠の生命」のことです。これは神によって創造されたもので,決して滅びることがありません。この内部生命を信じ,そこに無限の内容を与え,自我を確立することが透谷の近代的自我の確立だったのです。

 「心に宮あり,宮の奥に更に他の宮あらざるか。心はあり,而して心は世を包めり。心は人の中に存て心は人を包めり。・・唯だ夫れこの心の世界斯の如く大いに森羅万象を包みて余すことなく,而してこの広大なる心が来たり臨みて人間の中(うち)にある時に,渺々たる人間眼を以て説明し得べからざるものを世に存在せしむるなり。」(『各人の心宮内の秘宮』)

 透谷の「内部生命」は「心」であり,不滅の魂(プシュケー)のことです。このプシュケー(生命=魂)の捉え方はヘレニズム的であり,ヘブライズムとは対立しますが,元々キリスト教は両者の融合として完成しましたから,不滅の魂=心を説くのはデカルトやカントとも共通するのです。そしてそれが近代的な自我の確立と結びついていることでも共通します。

 透谷はかくして到達した「内部生命」に批評の基準を定めます。そこから全ての哲学,宗教,文芸の価値を論じるのです。人生50年これでお終いで, その間に道を見極めよと言われても, 道を見極めたと思ったら,死んでしまい魂まで消滅してまえば, 何もならないのではないか。人生が有意義なのは, 永遠の生命即ち内部生命を前提とするからでないのかと透谷は捉えたのです。同様に内部生命を説かない哲学, 宗教, 文芸は, 内部生命を説くそれらに劣るのではないかと主張しました。

 彼は島崎藤村や上田敏らと『文学界』を創刊し, 鋭い文芸批評を発表しましたが,25の若さで疲れと貧しさの為に自殺してしまいました。

  森鴎外ーかのように哲学ー

   森鴎外(18621922) , 津和野藩の典医の家に生まれ, 上京して13歳で東京医学校入学しました。西周の父が森家からの入り婿だったこともあり,東京の西の家に暫く世話になっていました。そして25歳よりドイツに留学しました。そこで近代合理精神と自我に目覚め, 帰国してからは,軍医と文学者の「蛙のような両棲生活」を送りました。文豪として超一流になっただけでなく,軍医としても46歳で陸軍軍医総監, 医務局長まで登り詰めました。

 彼は近代的自我に目覚めた人間の苦悩を誠実に描きました。『舞姫』では天皇制国家の官僚主義からはみ出した自我の苦悩,自ら抑圧しなければならなかった自我を描いています。鴎外にとってショックだったのは暗黒裁判で処分された「大逆事件」と, 彼のドイツでの留学時代の青春を小説家した『ヰタ= セクスアリス』が発禁処分になったことでした。彼は『沈黙の塔』で暗に政府を批判しましたが, 自分の社会的立場を考えて, レジグネーション(諦念, あきらめ, 忍従) を表明しました。

 また彼は合理的に考え,行動する前提として,ファイヒンガーの哲学を援用し,次のことが成り立っている「かのように」考える「かのように哲学」という立場を表明しました。それは「自然科学における元子,精神における自由,宗教における神」です。

  大正デモクラシーー民本主義ー

   『軍人勅諭』『大日本帝国憲法』『教育勅語』などによって,第2次世界大戦以前の日本は枠を嵌められていましたので,その範囲内で自由や権利を求めていく他なかったのです。むしろ専制的な内容の帝国憲法であっても,中江兆民のように帝国憲法で与えられている「恩賜の民権」を守り育てて,「恢復の民権」と肩を並べさせるという方向で取り組んだのです。

 帝国憲法では公選制の衆議院を作り,人民の意志を国政に反映させるようになっているのだから,当然,衆議院の多数党の党首を総理大臣にすべきだというように,議院内閣制を「憲政の常道」として説いたのです。また公選制は人民の意志を反映させるのが主旨だから,納税額で差別するのはいけない,普通選挙制にすべきだという議論になったのです。

 吉野作造(18781933) , このような憲政擁護運動を「デモクラシー」という用語と結び付けました。その際,「デモクラシー」を本来の「民衆支配」や「民主主義」という意味で用いては,天皇主権の帝国憲法と矛盾しますから,「民本主義」と命名したのです。

 民本主義は,政治の目的は一般民衆の福利にあるとします。そしてそれを達成するための,政治の形式的組織面は,一般民衆の意志を反映させて政権運用の方針や政策を決定すべきだという考えになり,ここから普通選挙権が主張されることになるのです。

 「所謂民本主義とは,法律の理論上主権の何人に在りやと云ふことは措いて之は問はず,只其主権を行用するに当たって,主権は須(すべか)らく一般民衆の利福並びに意嚮(いこう)を重んずる方を方針とすべしといふ主義である。即ち国権の運用に関して其指導的標準となるべき政治主義であって,主権の君主に在りや人民に在りや之を問ふ所でない。勿論此主義が,ヨリ能く且ヨリ適切に民主国に行われ得るのは言ふを俟たない。然しながら君主国に在っても此主義で,君主制と毫末も矛盾せずに行われ得ること亦疑ひない。』(『憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず』)

  京都学派の哲学 

 中江兆民に哲学なしと喝破されたわけですが,近代日本を代表する世界的な水準の哲学者としては,西田幾多郎(18701945) があげられます。それは彼が単なる西洋近代の哲学の紹介者で終わらず, 西洋哲学の最高水準を保ちながら, しかも西洋哲学を相対化し,批判しうるだけの東洋哲学に対する深い造詣があったからです。西田を筆頭にして,和辻哲郎,田辺元,三木清ら京都学派(京大哲学科の人脈)が東大の学閥よりも創造的な仕事ができたのも,日本の文明開化の中心や中央権力から離れたところで,東洋や日本の感性が息づいている京都で哲学することができたことと関係あるかもしれません。

 また彼らは哲学の蛸坪的な専門家であることに満足せず,常に最先端の自然科学や社会科学の方法論や問題意識に学ぼうとしていました。それに自らの権威に奢ることなく,常に学生たちの若々しい生きた問題意識と対話していたのです。昭和初期から弁証法的な論理を京都学派はよく使うようになりますが,それはロシア革命によって再評価されたヘーゲル・ブームに影響されてのことなのです。

 また西田の後期のキーワードである「行為的直観」等には初期マルクスの影響があると指摘する人もいます。もっともその人は私の恩師の経済哲学者の梯明秀で,彼は西田に『経済学・哲学手稿』を読ましたら,西田に「エンゲル(エンゲルスのこと)は駄目だが,マルクスはおもしろい」と言われたと言うことを,いつも授業で自慢していました。

  『善の研究』 

「純粋経験」ジェイムスとの違い

   西田幾多郎は『善の研究』を「純粋経験」から始めています。それは真の実在を理解する為には「疑うにも疑いようのない直接の知識」から出発すべきだと考えたからです。それは「直接的経験の事実すなわち意識現象についての知識あるのみ」だとしたのです。これこそが実在と呼ぶに相応しいというのです。今,ベートーベンの「運命」を聞いていますと,意識にはただあの魂を根底から揺さぶる音の世界が展開しているだけです。「私が」という主観も,「京都市交響楽団」の演奏で,「シンフォニー・ホール」で「ベートーベンの『運命』」という客観を聞いているということも,この直接的な純粋経験を反省して言えることに過ぎないのです。それらがすべて未分化で,一つの独立した全体としての経験として現れているのです。

 「純粋経験においては,未だ知情意の分離なく,唯一の活動であるように,また未だ主観客観の対立もない。主観客観の対立はわれわれの思惟の要求より出でくるので,直接経験の事実ではない。直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである。見る主観もなければ見らるる客観もない。あたかもわれわれが美妙なる音楽に心を奪われ,物我相忘れ,天地ただ嚠喨(りゅうりょう)たる一楽声のみなるがごとく,この刹那いわゆる真実在が現前している。」(『善の研究』)

 この純粋経験はジェイムズの「純粋経験」とどこが違うのですかという質問を受けることがありますが,この質問は大変な難問です。上山春平による日本の名著『西田幾多郎』の解説によりますと,ジェイムズの場合は「経験の発展する道行は断片的なものがだんだん結合されていく」と,経験自身を受動的なものとして捉えているのです。ですから経験は個人的な意識として解釈されることになってしまうのです。

 それに対して西田では,超個人的なユニバーサル(一般的なもの)があって,これが純粋経験なのですが,それが能動的に展開していくわけです。それを個人的な自我が自分だけの経験として反省することになります。ですから西田の場合は,純粋経験を真実在と捉えてはいても,一般的なものの自己限定として捉えていますから,自分の個人的な意識現象のみを実在の全てと見なすような独我論には陥らないで済むことになります。

 この西田の捉え方は,同じ純粋経験を共有しても,このユニバーサルなものつまり一般者は,それぞれの個人において個人的体験として個性的に捉えられますから,それらは同じ一つのものでありながら,多くの実在の異なった面としても現れています。このことを西田は「実在の根本的な方式は一なるとともに多,多なるとともに一」と表現しています。 

無限の統一力としての人格

   ところで真実在は「純粋経験」であり,主観も客観もその反省に過ぎないということは,純粋経験自体に経験を統一する働きがあるということになります。主観である自己は,この統一する働きを無限の統一者として実体的に捉えたものなのです。この無限の統一力が人格なのです。

 そして経験が対象化され,統一されて捉えられた面がが客観的な事象なのです。ところが人格も客観的な事象も,真実在としては純粋経験の両面に過ぎないのです。そこで人格の要求は,自己にとって外的な自己の他者として現れている客観的事象が,実は自己の統一力の成果であって,実在における統一力と合一することです。つまり人格が自他の区別,主・客の区別を超越し,対象や統一力との一体感を会得することが「善」なのです。

  場所とは何か?

   物理学で光を粒子と捉えるか波動と捉えるかで大論争が行われる中で,両者の欠陥を踏まえて,「場の論理」が生まれました。これに影響されて西田は純粋経験が生じる場所の論理を考え付いたのです。

 純粋経験は常に今,此処で生じているのです。純粋経験の具体的内容の面はつねに具体的な諸事物として存在していますが,この純粋経験を生み出している場所自体はいかなる事物としての存在とも,つまり一般的に言えば,どんな「有」とも全く別の存在です。また「場所」は「非存在としての無」とも全く違います。例えば今,此処にあったリンゴを食べてしまいますと,リンゴが無くなりますが,このリンゴの消滅や不在は現象としての無でしかありません。つまり場所は諸事象としての有無からは根本的に区別されて,「絶対無」として捉えられるのです。この絶対無である場所が能動的に一般者として自己限定するのですから,仏教的に言えば,絶対無は「空」に当たるのです。もう一度ナーガールジュナの「空」の論理を読み返しておいて下さい。

  絶対無

して捉えられるのでした。この「自己」は一般者である場所すなわち絶対無からは限定されません。いかなる今においてもいかなる此処においてもこの「自己」は無限の統一力として人格的主体であるという意味では,全く限定されていないからです。

 しかし一般者が場所であるのですから,この「自己」が身体的存在として常に,いつか,何処かという限定された状態にある事になりますね。つまり我々は西暦一千年代のどん詰まりの,日本で,世界新秩序の模索の時代に生きているわけで,そこから逃れるわけにはいきません。ですから「自己」は,主観としては限定されないけれども,個体としては限定されるわけです。

 ところで元々,限定されずに限定されている「自己」も,限定せずに限定している一般者の統一力を反省によって,あたかも実体であるかのように捉えたものに過ぎませんでしたね。ですから真の自己に目覚めるということは,自己を絶対無の限定しないで限定する弁証法的な自己限定の働きとして了解することなのです。 

  絶対矛盾的自己同一 

 ユニバーサルなものつまり一般者としては同じ一つの純粋経験が,諸個人というそれぞれの場でそれぞれな個性的な多として現れるのですから,「一即多」「多即一」というエレア学派や華厳哲学を思わせる論理になっています。

 「個物」と「環境」でも,私は世界を否定して自己のものにしようとすることによって,かえって世界に否定されて,世界に取り込まれてしまっています。逆に世界は個物を否定し,自己の下に取り込むことによって,個物の契機となり,環境になってしまいます。

  「過去」と「未来」は絶対に矛盾したものですが,過去は現在における「記憶」としてしか経験できません。未来は現在における可能性としてしか存立できないのです。つまり過去も未来も,絶対現在において自己同一なのです。

 西田はこのように絶対に矛盾したものが自己同一であるということを強調します。これを「絶対矛盾的自己同一」という言葉で表現しています。これは大変難解ですが,絶対無である一般者が,能動的に自己を限定して,一方で主観として限定されない自己でありながら,他方で客観として限定された個物として現れる,しかもそれらは本来同一であるという矛盾を説明するには,どうしても必要な論理なのでしょう。

 行為的直観 

 弁証法的な一般者と歴史的な個体は,絶対矛盾的自己同一なのですから,一般者が自己限定する働きは,個物自身の能動的な働きとして表現されます。それは我々自身が今,此処の場所に限定されて,自己を否定的に対象化し,現実の社会的な諸事物や諸事象を製作的に生み出していく行為的な活動でもあるわけです。

 この活動は認識を伴いますが,それは一般者から言えば,統一力としての主観に自己を限定する働きであり,その面を捉えれば直観なのです。直観は普通受動的なものと解釈されがちですが,それは主観と客観を別物に固定しているからに他なりません。西田の場合は,主観の活動も一般者の統一する働きなのですから,直観も歴史的,空間的に実践的な生み出す働きの契機として捉えられ,「行為的直観」と呼ばれるわけです。

 こうしてわれわれは今,此処で行為的直観に触発されて,自己に課せられた歴史的な具体的な製作活動を行ないますが,生み出された物は具体的な個物であると同時に,一般者の自己限定でもあるという意味で,絶対矛盾的自己同一な存在であるわけです。そして出来上がった物は自己にあらざるものとして,自己を否定しますから自己は再び,主観として統一力に戻り,行為的直観を行うということになります。

  西田哲学と戦争責任

   西田の知的権威は相当なもので,大学生や旧制高校生は『善の研究』でも読んでいないと,インテリの仲間入りをさせてもらえないと考えていました。それで,特に第2次世界大戦で学徒出陣をした学生たちが,西田の哲学には,国の為に生命を投げ出すことの意義が説かれていて,納得させてもらえるのではないかと考えて,読んだのではないか,だから西田哲学にも戦争責任があるのではないかと,第2次世界大戦後の左翼知識人から,西田哲学を批判しようとする動きがありました。

 もちろんハイデッガーの例を出すまでもなく,時代の哲学が時代の精神の一環を担う以上,国民精神を総動員した戦争に,日本を代表する哲学が全然加担しないで済んだと考える方が不自然です。たとえ京都学派が海軍を通して戦争の早期終結に努力したことが事実であったとしてもです。

 西田哲学の最大の問題点は, 主観の主体性と, ユニバーサルなもの(一般者) の主体性が,「多即一」として絶対に矛盾しながらも自己同一だと捉えられていたことでしょう。これが行為的直観という実践的な認識成立の根拠になっているのですから,様々な思想的立場の違いはあれ,どれも一般者の能動的な働きの諸様相に過ぎないということになります。当時の時局的な言い方では,大東亞共栄圏を目指して,諸思想を総動員することになります。これを三木清らは近衛文麿のシンクタンクだった昭和研究会を拠点に,協同主義哲学として様々な思想傾向を協同させようとする形で具体的に展開しました。

 たとえ多即一の「絶対矛盾的自己同一」が真理であっても,各時代に一般者だとされているものが,特別な階級の支配を隠蔽したり,合理化するために,手前勝手に祭り上げているだけではないのかという疑問はもっともです。天皇制が絶対不可侵のものとして神聖化され,全ての前提とされることで,天皇の為や天皇に従うということに特別な価値が与えられたいた時代には,西田の論理が戦争に追随する際のオブラート的役割を果たしたことは否めないでしょう。

 ハイデガーの「死の先駆的決意性」も,第三帝国の栄光の為に死を賭けて戦おうとする決心の助けになったということは,事実であっても,「死の先駆的決意性」の意義を強調すること自体が誤っているわけでは断じてありません。同様に「絶対矛盾的自己同一」や「行為的直観」の論理自体に問題があるのではないのです。これらの論理自体は戦争にも平和にも使えるのであって,我々が反省すべきなのはそれを平和の為に使うことができなかったということです。

  間柄的存在 

 さて日本思想史も和辻哲郎(18891960) で閉じることにしましょう。京都学派に含まれるので京大出身かと思われるでしょうが,実は出身は東大哲学科です。東洋大および法政大教授を歴任して,1925年〜34年京大で教えました。そして34年から15年間, 定年まで東大教授だったのです。

 和辻についてはセンター倫政の問題で恰好の教材がありますので, それを紹介し,解説する形にしましょう。

       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 次の文章を読み, 下の問いに答えよ。

 和辻哲郎は, 西洋の学問と思想を深く学んだ上で, 東洋の伝統的な思想と文化を反省し, 独自な人間観を提示した。和辻は, 西洋の近代思想の人間観を, (1)孤立した自我や個人を確実な出発点とする個人主義的なものとして批判し, これからの脱却をはかった。このような和辻の試みが,儒教や仏教の豊かな理解と捉え直しに支えられていたことは, 注目すべきである。

 和辻によると, 人間とは, 文字通り「人の間」であり「人間関係」である。人間は( 1 )的存在なのである。従って,人間は常に何らかの共同体を形作りながら存在する「社会存在」である。( 2 )とは,こうした人間の共同体をそれとして成立させる秩序や道理,つまり人間の社会存在の理法だと,和辻はいう。このように人間を社会存在だと捉え,その人間の共同体の存立根拠を明らかにしようとする思想態度は,儒教における( 3 )の考え方をうけているということができる。

 しかし和辻は,人間を単なる社会存在だとみるのではない。和辻は,人間とは,社会であると同時に個人であるという。和辻によると,社会と個人は,相互に矛盾対立しながら,人間であることの根本をなす二つの面なのである。つまり個人は社会に埋没せず,社会から背き出ようとする限りで,社会の否定としてのみ存立し,また社会は,背き出ようとする個人の動きを禁止し,社会に服従させようとする限りで,個人の否定としてのみ存立する。個人も社会もいずれもそれ自体として独立して存在するのではなく,それぞれ他方を否定する限りでのみ存立するものとして,相互依存の関係にある。和辻にとって,人間とは,否定的に対立し合う個人と社会の統一なのである。和辻はこうして人間の存在構造を( 4 )的構造だとしている。

 このような和辻の人間の捉え方には,原始仏教における,一切はそれ自体として存在する独立した実体ではなく,他のものとの相互依存の関係においてのみ存立しているのだとする( 5 )を想起させるものがある。和辻には,原始仏教における( 5 )や,その後の大乗仏教における重要な考え方の一つである「空」のような仏教思想の展開についての十分な素養があり,彼の人間観は,そうした素養を踏まえて形成されているのである。

 このように和辻の人間観の提示は,儒教と仏教の理解を踏まえている。しかし,それは単に東洋の伝統思想の延長上にあるというわけではない。和辻はまた,西洋思想における問題意識とその学問方法を受容し,自らのものとしてもいる。和辻の人間観の提示は,東洋と西洋の思想・文化の総合としてなされているのである。このことはそれが,(2)種々の外来の思想や文化を積極的に,そして批判的に受容して,それらを巧みに総合することで独自な思想を形成するという日本思想の伝統の延長上にあることをよく示している。

  問1.文中の( 1 )〜( 5 )に入れるのに最も適当なものを,次のそれぞれの語群・〜・のうちから一つずつ選べ。

( 1 )@理性,A文化,B自然,C政治,D間柄
( 2 )@心理,A論理,B倫理,C公理,D合理
( 3 )@徳治主義,A性善説,B性悪説,C理気二元論,D五倫
( 4 )@弁証法,A自然法,B実定法,C同一律 D矛盾律
( 5 )@輪廻観,A縁起説,B五蘊説,C菩薩道 D四諦説

問2.文中に下線部(1)でいうような個人主義的人間観の立場とは異なる考えを表している言葉はどれか。次の@〜Dのうちから一つ選べ。

  @「利己心こそが社会を活性化する。」 A「人間は神の前での単独者である。」
  B「われ思う。故にわれあり。」    C「人間は本性上ポリス的動物である。」
  D「人間は人間に対して狼である。」

問3.文中の下線部(2)でいうような日本思想の伝統の中で,儒教と仏教を巧みに総合した独自な思想の形成を示す文献として最も適当なものを,次の@〜Dのうちから一つ選べ。

              @十七条憲法,A弁道,B正法眼蔵,C歎異抄,D童子問

問4.前の文章で示された和辻哲郎の人間像についての説明として最も適当なものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。

@和辻は,西洋近代の個人主義的人間観を批判したが,彼の人間観は,もっぱら儒教と仏教を統一することによって成り立っ ている。
A和辻は西洋近代の個人主義的人間観を批判したおり,彼の人間観は,人間の存在における社会性の優位を説いて個人性を無 視するものである。
B和辻は,人間の存在における個人性の意義を無視したわけではなく,彼の人間観は,社会性の優位を強調する考え方への批 判の性格をももっている。
C和辻は,人間の存在構造の根本に否定を位置づけており,それは彼の人間観が,ニヒリズムの人間観に属するものであるこ とを示している。

 

                 解説           

  問1.まず穴埋めです。〔人間とは, 文字通り「人の間」であり「人間関係」である。〕を受けていますから,〔人間は〔間柄〕的存在なのである。〕となり( 1 )には・間柄が入ります。これは国語の要領で考えてください。この人間の間柄を大切にする理法が,人間関係としての人間学である「倫理学」なのです。ですから当然( 2 )には・倫理が入りますね。ヘーゲルの人倫の立場を思い出して下さい。

 人間関係の論理では,儒教では五倫がありました。『孟子』に出てきた「父子有親・君臣有義・夫婦有別・長幼有序・朋友有信」です。儒教では「親」があって始めて人間関係として真の「父」であり,「子」であり得るということです。( 3 )には・五倫が入ります。

 〔人間とは,否定的に対立し合う個人と社会の統一なのである。和辻は,こうした人間の存在構造を( 4 )的構造だとしている。〕とあります。「否定的に対立し合うものどうしの統一」を「対立物の統一」と呼びます。弁証法の論理の代表でしたね。そこで@弁証法が正解です。弁証法の法則には「@対立物の闘争,A対立物の統一,B対立物の相互浸透,C否定の否定,D量的変化の質的変化への転化」などがあげられます。和辻が弁証法に興味を持ったのは昭和初期のヘーゲル研究ブームが影響しているでしょう。

 弁証法的な捉え方を仏教の中に求めますと,〔一切はそれ自体として存在する独立した実体ではなく,他のものとの相互依存の関係においてのみ存立しているのだとする( 5 )を想起させるものがある。〕つまりA縁起説になるのです。仏教のように実体否定の思想に立ちますと,間柄は「空」として捉えられます。

問2.個人主義的人間観と違う立場のものを選びます。

@「利己心こそが社会を活性化する。」というのはアダム・スミスのような国家の経済への介入を排除し,個人が最大限に利己的に行動することによって,見えざる手の働きで,国富が最も効率的に発展するという考えに合っています。
A「人間は神の前での単独者である。」はキルケゴールの「神の前に一人立つ単独者の実存」の立場です。当然問題は自己一身のことでしかなく,個人主義です。
B「われ思う,故にわれあり。」は自己意識の存在確実性を哲学の第一原理にしたデカルトの言葉です。
C「人間は本性上ポリス的動物である。」というのはアリストテレスの言葉です。これはポリスあっての個人という立場で,部分より全体が先だという論理で説明されています。アリストテレスは正義論で,ポリスの法を遵守するのを全般的正義と呼び,ポリスに対する貢献に比例してポリスから富や名誉を配分されるのを配分的正義と呼び,ポリスの裁判で配分の不公正を正してもらうのを調整的正義と呼んでいます。あくまでもポリス中心の価値観だったのです。これが正解です。
D「人間は人間に対して狼である。」はホッブズの『リブァイアサン』で自然状態を形容したものです。怪獣的な強大な権力で抑えられないかぎり,人間は自己の欲望の原理で奪い合いや殺し合いにならざるを得ないというわけです。なぜなら人間は自己保存の為に欲望を充足させることによって生存している欲望機械だからです。理性によっておとなしくなるためには,共通の強大な権力が法によって,行動を規制してくれないかぎり,安心できないのです。

 和辻は個人が社会と矛盾対立するものであることを認めています。その意味で個人を生きた主体として認知しているのです。しかし個人は他方で間柄としての人間存在である以上,孤立した自我や利己の原理だけで生きるわけにはいきません。社会存在として認められ,社会の課題を背負って生きなければならないのです。そして個人であることと社会であることの矛盾対立の弁証法的統一として生きることを求めているのです。

問3.儒教と仏教を巧みに総合したのは@十七条憲法です。聖徳太子は,儒教・仏教・法家の思想を織り混ぜて「十七条憲法」を作ったのです。当時の東アジア文化では,様々な伝統思想を豊かな古典教養を踏まえて,ふんだんに混合することが文章の作法として尊ばれていたのです。
A弁道は荻生徂徠の「先王の道」を『六経』を踏まえて弁じたものです。
B正法眼蔵は道元の著作。もちろん曹洞禅の神髄を語ったものです。
C歎異抄は,親鸞の弟子唯円の著作で「悪人正機説」が説かれています。
D童子問は,伊藤仁斎が著した古義学の入門書。仁愛の精神が説かれています。

問4.@について,和辻の思想は「もっぱら儒教と仏教の統一」ではありません。

〔このように和辻の人間観の提示は,儒教と仏教の理解を踏まえている。しかし,それは単に東洋の伝統思想の延長上にあるというわけではない。和辻はまた,西洋思想における問題意識(個人と社会の矛盾対立)とその学問方法(弁証法)を受容し,自らのもとしてもいる。和辻の人間観の提示は,東洋と西洋の思想・文化の総合としてなされているのである。〕という本文を参照してください。

Aついて,〔人間存在における社会性の優位を説いて個人性を無視するものである。〕は和辻の立場ではありません。〔和辻は,人間を単なる社会存在だとみるのではない。和辻は,人間とは,社会であると同時に個人であるという。和辻によると,社会と個人は,相互に矛盾対立しながら,人間であることの根本をなす二つの面なのである。つまり個人は社会に埋没せず,社会から背き出ようとする限りで,社会の否定としてのみ存立し〕とある通りです。

Bについて,続けて本文はこうのべています。〔社会は背き出ようとする個人の動きを禁止し,社会に服従させようとする限りで,個人の否定としてのみ存立する。個人も社会もいずれもそれ自体として独立して存在するのではなく,それぞれ他方を否定する限りでのみ存立するものとして,相互依存の関係にある。和辻にとって,人間とは,否定的に対立し合う個人と社会の統一なのである。和辻はこうして人間の存在構造を弁証法的構造だとしている。〕とあり,一方的に社会に個人を還元してしまうことには反対していることが分かります。だからBが正解です。

Cについて,キリスト教的な罪人観は神との契約に背くことから由来します。和辻はあくまで人間関係に即して問題を立てていますから,関係ありません。

Dについて,和辻の人間論はあくまで人間関係を良好にしようという和の論理から出発していますから,そこに ニヒリズムが入り込む余地はありません。

 

 保井 温の関連著作 

☆「聖徳太子の実像」(研究講座『隠された古代』東 洋文化学院に所収) 厩戸皇子をめぐる様々な謎に挑戦し、その実像にせまった。特に当時の東アジア文化の中で太子が菩薩太子として活躍したことの意義を考察した。

☆「『もののあはれ』と『私有自楽』・本居宣長の主情主義的人間観・」(『月刊状況と主体』199211月号・12月号)

 素直な感じる心を大切にする「もののあはれ」論や自分のものにして楽しもうとする包括的な精神を持った本居宣長は、主情主義的な人間論とそれに基づく文化創造の立場を鮮明に打ち出した。本居宣長の人間論は、物質文明の知識や技術に偏重した現代において、魂の触れ合いや共感を大切にする点で、大いに再評価されるべきスタンダードな意義を持っている。この点を強調すると共に、極反動な臣道論の「惟神( かむながら) の道」の恣意的な古典解釈の欠陥を指摘した。

☆「明治絶対主義と西周(にし あまね)の思想的位置」(日本史学専攻卒業論文改定版)

 功利主義・実証主義の立場から近代化を目指す西は、その為には半封建的・絶対主義的政策をとることも合理化した。このような啓蒙御用学者としての西の特色を示した。

☆「西洋哲学受容の開始ー西周の思想的課題ー」(立命館大学 人文科学研究所紀要・59.

 西の幕末から明治初期にかけての学問修行の成長の足跡を見直しながら、西の中では哲学が、西洋諸科学を科学として体系的に受容する為の方法論として位置づけられていたことを追求した。

☆「鴻飛の人〔新西周伝〕・青雲篇・」(駿台フォーラム12)

 西は幼少から祖父の英才教育の御陰で、朱子学に志していたが、家業が外科医だったので儒学者の道を断念して外科医になる決心をしていた。その決心のきっかけになったのが、風邪の際に読んだ徂徠の著作だった。いかに朱子学が独善的で誤っているかを説得されてしまった西は、外科医の方面でトップになろうと決心していた。ところが藩主は西の儒学者としての素質を買い、外科医の修行を止めて、儒学修行を命じたのである。彼は今更誤りに気付いた朱子学の修行はできないと断ろうとするが、自分の才を認めてくれた主君のこと、家族や藩の期待もあり苦悶する。その折りの心労もあり、母は急死してしまう。そして西は朱子学を捨てるかどうかは、儒学修行の結果であるべきだったと反省して、君命を受けることに決心する。それはペリー来日の数年前のことであった。

 西の青年時代の学問への苦悶を通して、時代の中で学問することの意味を改めて問い直す伝記小説。                          

☆「西周の天皇観」(共著『知識人の天皇観』三一書房 所収)

 西は幕末では、「名分虚器論」を展開し、実際に飯が食べられるのであったら、器はちゃんとした茶碗でなくとも、すり鉢でもよいとした。つまり朝廷はいかに名分が立派でも、人民に飯を食べさせられないから虚器だとしたのだ。しかし幕府も財政的に破綻して虚器化しつつあったのだ。

 西は明治新政府の陸軍に招請されて、山縣有朋のブレーンとして活躍した。そして統治者である天皇の「万世一系」の血統を利用しようとした。しかしそれを天皇の神格化に悪用しようとする傾向を厳しく批判したのである。

☆「梅原猛と天皇教」(共著『知識人の天皇観』三一書房 所収)

 梅原猛は悲惨な戦争体験と戦争後遺症に深く疵ついた。そしてこの無謀な侵略戦争を聖戦と思い込ませた天皇教に対して強い恨みと批判を抱いており、それが梅原日本学の重要な問題意識になっている。梅原は天皇教が日本の伝統思想である仏教を破壊し、怨霊信仰を隠蔽してきたことを解明した。そして絶対主義天皇制よりも象徴天皇制の方が、日本の歴史的伝統としての天皇制であることを、律令国家形成史をドラマティックに再構成することによって示したのである。ここに梅原古代学の問題意識の核心があるのだ。

  「儒教と民主主義」(立命館文学所収)

 フランシス・フクヤマの儒教に対する理解がいかに基礎的な誤解に基づいているかを明らかにし、日本的儒教と天皇教的神道との混同などを指摘した。また中国人には道義心がないかのような不用意な侮辱的発言にも注意を促した。

 ☆西田哲学入門講座(『月刊状況と主体』に連載)やすいゆたかのHMEPAGEに収録

☆「三木清と西田幾多郎における人間観の転換」(『季報唯物論研究』第76号)

 

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