五、痴愚と平和の論理

 さてモリアは「どんな華々しい行為も、私の吹き込まぬものはないし、どんな美しい技芸も私が創造者でないものはない」と言います。その例の第一番目に戦争を採り上げています。

「ところで、結局は敵味方双方とも得よりも損をすることになるのに、何が何だか分からない動機から、こんな争い事をやり始めること以上に阿呆な事があるでしょうか?」当時の戦争は、王位の継承や宗教的なもめ事が 絡み、大変複雑な縫れ合いから起こったようですから、確かにエラスムスの眼からはモリアな(馬鹿げた)殺し合いに思えたことでしょう。それに戦争での武勲は大変華々しいものですが、その際必要なのは、「あまりものを考えず、前へ前へと突進するような、太って脂ぎった人間だということです。」(85頁)

「戦争のときに必要な智恵は追い詰められた世の中の霞みたいな連中の知恵に過ぎない」
とするのです。
 
  人間の知というものは自然を対象的に捉え返し、それを自分の支配下に置くことに出発しているのだとします。他人に対しても自然対象のごとく扱うのが知的な対し方だとしますと、知は本来的に戦争の場合の知恵と同類だと言えるでしょう。戦争の勝敗は国家や文明の隆盛衰退を決定づけます。ですから、優秀な武器を造ったり、巧みな戦術戦略で勝利を占めるのは、最上の知恵とも言えるでしょう。戦争の知恵は決してモリアの言うように土壇場に追い詰められたときに、咄嵯に機転を効かせるような知恵からだけで成り立っているのではありません。

  でも戦争などして大量の殺戮と文明の破壊をすることは大変恐ろしいことです。そんな事をするよりは互いによく話し合い、譲り合って、共存共栄を計る方が良いと思われます。特にキリスト教の立場に立てば、神によって授けられた生命を国家的な利害のために奪い合うなどという事は、大変罪深い事に思われたことでしょう。とりわけ宗教家が血に飢えた野獣のように戦争をしたがるのには鳥肌が立つ思いがします。

  「キリスト教会は、血潮によって建てられ、血潮によって固められ、血潮によって盛大になったというわけで、まるでキリストには、自分のものをキリストらしいやり方で護る術はないとでも言うように、ご連中は未だに血を流させ続けています。戦争は実に凶悪なものですから、野獣共にこそ相応しい、人間には相応しくないものです。それは実に気違いめいた事ですから、詩人たちは地獄の醜女たち (フリアニ)から届けられたと想像している程です。

 それはまた実に危険な疫病ですから、あらゆるところで良風美俗を腐敗させてしまいますし、極悪な強盗が普通は最上の戦士となる、不正極まるものですし、キリストとは何の関係もない不敬冒涜なのです。然るに教皇たちは、一切をほうり出して、戦争をその主な仕事にしています。」(116頁)

 当時は十字軍は終わっていましたから、教皇が戦争したというのは、ローマ教会領があって、これを護り、拡大するために行ったことを意味しています。この後、新教徒との間に血みどろの戦いが繰り広げられることになるのです。教会の為に行う戦争は聖戦であり、その為の人殺しは反って信仰の現われであり、だから隣人愛に背くことにはならないと司教たちは強弁していたようです。

 エラスムスは「汝の敵を愛せよ。」「右の頬を打たれれば左の頬を出せ。」というイエスの博愛精神を受け継ぎ、キリスト者らしい行いを強調し、好戦的な司教たちの態度を非難しました。バイブルの解釈でも好戦的と思われる解釈に強く 反撥したのです。例えば『ルカ福音書』第二二章の次の文章の解釈です。

「そして弟子たちにおっしゃった。『財布も袋も靴も持たせずに、お前たちを遣わしたとき、不足のものがあったか』と。彼らは答えた。『全くありませんでした』と。イエスはおっしやった。『しかし今は、財布を持っている者はこれを持って行け。袋を持っている者も同じようにせよ。また剣を持っていない者は衣を売って剣を買え』と。」

この文中の〔財布を「持って行け」〕について、ヴルガタ版ラテン語聖書では「持って行け」は(tollat)になっています。この動詞tollereには「持って行く、運び去る」と「捨て去る、消す」の両義がありますので、エラスムスはこれを「取れ、捨て去れ」の意味に解しているのです。この解釈によって、エラスムスは「剣を買え」を比喩として受け止めようとしたのです。

  「キリストは、ご自分の使者たちを、なおもいっそう無一物にし、履物や頭陀袋を捨て去るのみか、さらに衣をも脱ぎ去って裸身となり、一切を離脱して、福音伝道に携われるようにしようというのでした。弟子たちは、ただ剣を手に入れなければならないのですが、それは、盗賊や親殺しの役に立つ剣ではなく、心の最も奥深い所まで突き刺さり、一撃のもとに一切の邪まな情念を切り捨て、心に信仰だけを残してくれる精神の剣なのです。」(175頁)

 エラスムスの解釈は、無理があるようです。イエスが捕らえられた夜、弟子達は難を避けるために逃亡していたのてす。イエスはそうなることを察知し、特別に危険な夜だからこそ、剣を買うように言われたのでしょう。ですからイエスを捕まえにくる人々に抵抗する必要から剣を買えと言ったのではありません。イエスは、メシアは義のために一度は死ぬという預言が成就されなければならないと考えていましたから、ただ弟子達の安全だけを考えていたのです。その意味ではこの箇所を宗敵に対しては剣で立ち向かえと勧めているという好戦的解釈も、イエスの気持ちを理解しているとはとても言えません。

 エラスムスは、異端審問による処刑というローマ教会のやり方に強い批判を持っていました。「テトスヘの手紙」についての次のような解釈に強い反撥を示しています。この手紙にはこう書いてありました。

「しかし、愚かな議論と、系図と、争いと、律法についての論争とを避けなさい。それらは無益かつ空虚なことである。異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい(devita)。確かにこういう人達は、邪道に陥り、自ら悪と知りつつも、罪を犯しているからである。」

devitaを、異端者を議論によって改悟させるよりも焼き殺したほうがいいと考えるある老神学者は(de・vita)つまり「生命から切り離せ」の意味に解釈したのです。この老学者はこうして「異端者は殺せ!」とはっきりバイブルに書いてあると主張したのです。

 当時既に教会権力の腐敗が進み、これに反撥して様々な異端が誕生していました。異端を放置すれば、ローマ教会は求心力を失い、教会支配が揺らぐことになりかねませんでした。ローマ教会は、異端審問や魔女狩を活発に行って、教会の権威をリフレッシュしようとしていました。また教会領を守り、拡大することにも熱心だったのです。そのために、福音書に書かれていたイエスの精神は全く無視されていたのです。「『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、私はあなたがたに言う。悪人には手向かうな。もし誰かがあなたの右の頬を打つなら、他の頬も向けてやりなさい。…『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし私はあなたがたに言う。敵を愛し、迫害するもののために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛するものを愛したからとて何の報いがあろうか、そのようなことは取税人でもするではないか。」(「マタイによる福音書」第五章)

 これまでの律法は、同等報復を説き、過剰報復による報復合戦の悪循環を防止しようとしました。また隣人相互の互助を基礎に、民族的な団結と防衛を計ってきたのです。しかし、やられたらやり返すでは、互いに恨が残り、争いの種は尽きません。イエスは、一切の報復を止め、むしろその加害者に対して愛を向け、自分を傷つけ、迫害する者の為に祈ることによって、相手の敵意を挫けさせ、真の和解、永遠の平和を実現できると考えたのです。このような発想は、世界の大多数の人々がそうするならともかく、反って悪人をのさばらせる効果しかないでしょう。ですからイエスの説いたことは、世間の常識からは全く痴愚なのです。イエスの教えは、そうする他に根本的な平和の実現は不可能という意味では、最も深い知であると同時に、手の付けられない痴愚でもあるのです。恒久平和を願うなら、殴られれば殴り返すという論理では駄目です。あらゆる武器を捨て、こちらからは絶対に戦争を仕掛けられないようにしておくだけでなく、相手が攻め込んで来た場合でも、武器を取って応戦するのではなく、非暴力的な、不服従で粘り強く抵抗し、説得すること、憎しみでなく愛で対応することが、侵略行為そのものを恒久的に無くすただ一つの道なのです。日本国憲法およびその第九条は「日本の常識、世界の非常識」の見本と言われるくらい、国際関係の現実から見て、非現実的に映るかも知れません。世界中の国々が軍備を整え勢力を競い合っている中で、日本だけ丸腰で防衛しようというのですから。しかし、二度の世界大戦の体験を踏まえ、これ以上戦争を繰返すことは、人類の破壊だと悟ったのなら、それぞれの国が自発的に武装を解体していく他に戦争を防ぐ方法はないのです。そして、もしそうした非武装国に侵略する国があれば、あくまで非暴力的不服従で抵抗するのです。これは、あるいは 自衛のための戦争をするほうが何倍も楽で賢明かも知れません。しかし、一旦、痴愚の途を選択した以上この途をあくまで貫くべきです。非武装国の出現と、その歴史的な受難が世界史を恒久平和に導くのです。

 ですから憲法第九条を貫く痴愚の途を取るか、あるいは世界の常識に帰って再軍備をするかは、非常に重大な国民自身が決定すべき問題でした。決して解釈を変えることによって、実質的な戦力保持を既成事実化すべきでなかったのです。憲法九条の痴愚性とそれゆえ持っているラジカルな恒久平和への牽引力について国民に理解を求め、予期し得る受難に対する覚悟も含めて、国民に積極的な討論を呼び掛けるべきだったのです。憲法第九条は世界史にとってかけがえのない宣言です。自衛権は主権国家である限り決 して放棄できないというこれまでの国際法の大前提が、二度の世界大戦が流した大量の血によって否定されたのです。世界理性が新しい地平に到達した証だと言えるでしょう。

  ところが大変残念なことに、違憲判決ですら、そのことの意義に気付かなかったのです。伊達判決は、「憲法第九条は自衛権は否定しないが、侵略的戦争は勿論、自衛のための戦力を用いる戦争、自衛のための戦力の保持を否定」という、全く矛盾した説得力のない内容になってしまったのです。つまり、「自衛権は否定しない」としながら、自衛権の概念内容を否定するという破綻した理論になっているのです。これこそ痴愚の見本です。勿論、武器をもって戦うだけが自衛じゃない、侵略軍を排除するための様々な国家的、民族的低抗によって自衛するべきとしているのだ、という考えでしょう、でもそれではこれまでの自衛概念を否定したことになります。ですから通常の意味では自衛権を否定していることになり、ひとりよがりな世間一般には破綻した文章です。これに比べると自衛隊合憲論のほうが筋が通っています。しかし、合憲論は、憲法第九条の意義を無視し、消し去ったのですから、これは罪深い痴愚だというべきで しょう。

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