四、モリアの効用

 モリアは、「神の神たるゆえんは、人間の苦悩を和らぐるにあり」というプリニウス『博物誌』の言葉が正しいなら、「あらゆるものをあらゆる人々に惜しみなく与えるこの私」こそ一切の神々の中の第一位(アルパ)だと主張します。(66頁)この言葉は人間社会が痴愚に満ち満ちていて、あらゆる事が痴愚によって生まれ、あらゆる行いが愚かしい姿を見せていることに対する、エラスムスの批判を含んでいます。しかし、同時にこの全てを与えるという表現は、所詮人間は本質的に痴愚である事の認識を踏まえていると見なすべきです。

 モリアは先ず、子供を造ることに関して、モリアの効用を語ります。かのユピテル大神(ゼウスのこと)も子供を造ろうと思われる度に、普段の恐ろしい形相はお預けにして、喜劇役者のような情けない仮面を被ることになるのです。またいつもは尊大で額に皺を寄せて厳格な議論をしているストア派の哲学者先生でも「必ずその尊大な態度を捨てて、額の皺を延ばし、その鋼のような学説(禁欲説)を放り出すようになることは確かでしょうし、ひょっとすると、色々と愚にもつかぬことを喋りだしたり、様々な狂気沙汰までしでかすようにもなるものです。」(66頁)

 確かに、恐ろしい形相や、しかつめらしい道学者ぶった態度では子どもを造るための神聖な儀式を執り行うことは出来ません。むしろ衝動に身を任せ、興奮の余り我を忘れて貪るように行うべきです。祭における忘我は自然や神との合一を示していますが、性的合一における忘我もその一つの形態です。そのことによって全体としての生命と融け合い、新たな生命を産み出すことになるのです。神々や人間達が生まれてくる器官は、知性の宿るおつむとは反対のところにあります。それで痴愚から痴愚的な振舞いによって、痴愚が、即ち、総ての神々や人間達が生まれるというのです。

 その上モリアの説く所では、出産の危険や育児の苦労を勘定に入れますととても結婚などできないでしょうに、モリアの侍女のアノイア(軽躁無思慮)がご婦人に働き掛けるのです。またいかに出産が危険で苦しいものであっても、レテ(忘却)の力でまた産む気にさせるのです。こんな事を言うとご婦人の中には、そんな馬鹿(モリア)なと反論される方も多いでしょう。出産の危険も育児の苦労も覚悟の上で結婚し、立派な家庭を築くのが生きがいなのだと。

 むしろ危険や苦労があるからこそ、それだけ家族を大切に思う気持ちも強くなり、愛情を惜しみなく与えて子どもを育て上げる幸福もひとしおになるのです。苦しい出産の後にみる赤子のかわいさはまた格別なんだそうです。モリアはそんなお母さん方の反論を聴いて、きっと優しく微笑むことでしょう。だって、自分の美貌や若さを犠牲にし、ひたすら家族のために身を粉にして働き、子どもが成長し、美しく、立派になればなる程、自分はそれに反比例していくのに、そんな仕事に生きがいを感じ、そうなればなるほど幸せだというのですから、これこそ見上げた立派なモリアです。

 モリアは快楽のない人生は、人生の名に値するだろうかと問い掛けます。「例のストア派哲学者自身だって、快楽を軽蔑はいたしておりません。いくら必死になってこれを匿したって、いくら人前でさんざんにこきおろしたってだめ、他の人間を快楽から遠ざけて、自分達だけが思う存分これを味わおうという魂胆なんですからね !」(67頁)

 人間は五官を持つ以上、快を求め、不快を避けるようにできています。快を求める欲求を満足させてやらなければ、欲求不満が昂じて気が変になります。ですから、快楽を軽蔑しているかに見せているストア派の学者だって陰では快楽を追求し、満足させているに違いないのです。快楽がなければ、もの悲しく、退屈で、味気無く、不愉快な人生を送る他ありません。その際「賢さが少なければ少ないほど、それにつれていよいよ幸せとなる。」とモリアは快楽における痴愚の役割を強調します。快楽の種類によって、知性が快楽を増幅することだってあるでしょうが、モリアに言わせればわざわざ知性を使わなくたって、とことん馬鹿になったほうが楽しいのに、そんなまだるっこしいやり方をするのはお馬鹿さんよと言い返すでしょう。

 モリアは人生の各時期に重要な役割を果たすそうです。幼児が可愛がられ愛情をもって大切に育てられるのは、幼児がそれだけ保護してやりたくなる程痴愚だからなのです。少年少女の時期は、分別や煩いを持たず、それだけ溌剌としていますが、大人の知恵を身につけて、モリアから遠ざかるにつけ、生き生きとしたところがなくなっていきます。そしてやり切れない老年期になって、モリアが墓場すれすれの老人を幼年期に連れ戻してあげるのです。老人達は「花の咲いたような楽しい言葉」で話をするようになり、ついには、童子のように、人生を愛惜することも死を感じることもなしに、この世をおさらばすることになると言います。

  確かにモリアの眼から見れば、あくせく思い悩む大人達の人生など馬鹿げているのかも知れません。「哲学だとか難しくて厄介な事業だとかの餌食になっている陰気臭い人達がいるでしょう?大部分は青春を味わう前に老い込んでしまいますね。それというのも、憂いごとに苦しめられ、絶えず緊張してものを考え詰めているために、そういう人達のなかにある生命の息吹や、樹液がだんだんと枯れ果ててしまったからなのです。」(71頁)

 エラスムスはモリアの口から自分自身の人生について深い溜息を洩らしているのでしょうか?「アカルナニアの豚」だとか、ブラバン人、ホラント人等を引き合いに出して余り難しいことは考えずに陽気暮しをしている人々が、年を取っても膚の艶もよく生き生きしていると言います。そういうこともあるでしょうが、いったん哲学とか事業などに首を突っ込んでしまいますと、そういうことから離れてのんびり瘋癲のような暮らしをすることは出来なくなってしまうのです。そんな事をすると反って老い込んでしまうに違いありません。

 エラスムスはきっと、哲学や難しい事業を放り出したほうがいいと考えているのではなく、いかにも凄いことをしているかに思い上がって、顰面で余裕のないやり方では駄目だと言いたいのでしょう。どうせ痴愚な人間のすることですから、その営みは痴愚に満ちています。自らの痴愚を自覚し、謙虚な気持ちで、素直に取り組めば、自分の仕事を陽気に楽しくすることができると言いたいのでしょう。哲学などは物事を単純な原理や方法に還元して説明するのですから、痴愚な人間にこそ相応しい学問なのかも知れません。「無知の知」の自覚に徹することを説いているのでしょう。

 モリアは人間だけでなく天上の神々も痴愚狂乱状態だとしていますので、それに運命を左右されている人間達が痴愚狂乱を免れないのは致し方ありません。ところでモリアは人間の体の内、理知が宿るのは頭の片隅に限られるとし、その他の体の殆どには情念が宿るとしました。「理知」の強敵は胸部に宿る「怒り」と下腹部まで広がる「淫欲」です。「この二つの強敵を相手にしたら、理知にどれほどの力がありましょう?人間の普通一般にやっていることが充分にそれを示してくれます。」(77頁)

 ユピテルは人間に授けた五十匁足らずの理知では、いろいろな物事を統べ治めていくには不足を感じ、もっと何かを授けてやろうと考えそれを事もあろうにモリアに相談したそうです。それでモリアは男の配偶者に女という阿呆で頓馬なものを授けるように薦めたというのです。モリアによれば女は痴愚に恵まれていればこそ男よりも幸せだと言います。女は男より美しくすべすべした頬、柔らかい膚をしていますが、それも実は痴愚の御蔭だそうです。男があんなにざらざらしていて爺むさいのはすべて賢さが犯した過ちだと言うのです。

 男は女のためになんでも約束しますが、それと引き換えに求めているのは快楽以外にはないそうです。ところで女は男の気を引くことだけを人生に求めており、そして痴愚の力によってこそ男を喜ばせることができるのです。だって男は女と一緒に快楽を味わおうとするとき全くの痴愚にかえってしまうのですから。これは筆者の考えですが、男に対して女が相対的に痴愚の役割をさせられてきたのは歴史時代に限られます。別段 女だから痴愚だということはないでしょう。男優位の社会では女の痴愚は保護してやりたいという感情を掻き立てるので可愛さとして意識されるのです。男女平等社会になれば痴愚の魅力は性的な戯れの中でお互いに馬鹿になり切ることによって興奮を昂め合う形で発揮し合う事になるでしょう。

 でも、馬鹿になり切るということは互いに労りや思い遣りが必要ですし、心の機微を分かり合うことがなければうまく行かないものです。馬鹿なことほどセンスや知恵がいるものです。しかし、モリアに言わせれば小賢しい事はすべて捨て去って、自然体にかえればいいんだということでしょう。

 モリアの語っていることがそのままエラスムスの思想だと受け取ることはありません。モリアに語らせるという戯文体がモリアと工ラスムスの距離を暗示しています。モリアはルネサンスの対象灼な知の立場を覆し、即自的な自然の痴愚の立場を打ち出しているのです。工ラスムスはモリアの側に一度身を移すことによって知の立場を独断的なものから相対的で柔軟なものに変えようとしているのでしょう。もちろんエラスムスにしても痴愚に徹すべきだと思っている訳でもなく、痴愚に満ちた世間を批判する立場に立っているわけです。

  しかし、痴愚に対して知の立場を単純に啓蒙的に対置しただけでは駄目です。知の立場からは痴愚は知的に劣っていることに過ぎません。知が欠けていることを暴露することは批判としては大切ですが、それでは批判する側がいかにも自已の知的優位を過信する虞れがあります。批判する側も生身の人間であり、大して偉いわけではないのです。その知も相対的で一面的であり、様々な誤謬を含んでいるのです。ですからお互いの痴愚を確認するためにモリアに登場してもらって、人間界の本質的な痴愚を徹底的に洗い出してもらおうというわけです。しかも痴愚を単純に否定するのではなく、人間のありのままの姿として素直に受け容れるべきものとしても確認しようというわけです。こうして人間の本性としての痴愚を包容した知の立場、あるいは人間の痴愚の現われとしての知の立場をエラスムスは目指しているのです。

 最も人間の本質に相応しい痴愚は幻想を抱くことです。友情が幻想に基づくものであるとモリアは主張します。
「自分の友人達の欠点に眼をつぶったり、思い違いをしたり、盲目になったり、夢を見たり、その一番目につく欠点を長所として愛したり称賛したりすることは、痴愚に近いのではありますまいか?…こうした痴愚こそ、友人達を結合させ、その結合を保ってやるものなのです。」(83頁〜84頁)
 自分が愛情を感じている対象は、出来るだけ素晴らしいものであって欲しいと願うものです。あばたもえくぼに見える恋人はもとより、家族や親族、それに大切な友達に対しても事実以上に良いものと思っていたいのです。良い家族、良い友達を持っていると、自分自身までも良く見えてくるものです。と言いますのは、自分自身の良さは自分自身の属性として示されますが、自分の能力や性格を自分自身で高く評価するのは難しいもので、独善かさもなくば自信喪失に陥りがちです。そこで自分の愛情の対象を良い者だとすることで、そんな素晴らしい人の家族であるとか、友達である自分もそれだけ良いと受け止めることができるのです。

 でも、自分の家族や自分の友達は自分自身とは別の人格ですから、愛情の対象が素晴らしいということは、決して自分自身が素晴らしいということの保証にはならない筈です。そこには自分自身が愛情を注いでいる対象との区別の喪失があるのです。これを精神分析学では同一視と言います。あくまで自分と自分以外の人間は別者であることに固執しますと、自分以外の人間は自分にとっての環境や手段になってしまいがちです。ところがこのような狭いエゴの立場に立ちますと、世間が限定された視野でしか見えてきませんし、自分の身体的な生命は極めて限られていますから、刹那的な生き方に落ち込みがちです。愛情を注ぐ対象も含めてそこに存在する繋がりやより大なる生命を自己と捉え、自分の身体をその部分的な現われとして了解することによって、人々は自分の身体的な限界を超えて自己を意義づけようとするのです。

 精神分析学では、このような同一視を倒錯視と見なしますが、自分の身体的な主体にのみエゴの領域を限定するのも実は倒錯的なのです。何故なら意識を生産する主体は、身体に限定できないからです。意識は身体の活動であるとともに、身体を包摂する 社会や環境世界の活動としても機能しているのです。ところが社会的に私的利害が個人的な自我意識を鞏固にしています。この個人的な自我は反省的に意識内容をすべて自分自身が産出したものと見なすのです。確かに身体に結び付いて人格的な主体が成立するので すが、そのことから直ちに身体が人格的な主体と同一であるとは言えないのです。自我の構造は身体の自己保存のレベルで成立する身体的生理的な自我を基底に持ちながら、自然的社会的な役割の各レベルで重層的な自我が形成されているのです。そして各レベルの自我は相互に働き掛け合い対立します。こうしてそれぞれの均衡が保たれ発展したり変遷したりするのです。この均衡を反省的に人格として捉え返していると言えるでしょう。

 人々は家族を初めとして様々な社会集団に帰属していますが、諸個人の意識は諸集団の集団的な意識を分有することによって成り立っているのです。もちろん各社会集団の中で集団的な利害と個人的な利害の対立が生じるものですが、それはあくまで集団的な意識を分有する中でこそ生じる葛藤です。この葛藤を通して集団を自己自身の実現として捉え返すようになります。こうして家族や学校、職場、地域コミュニティ、郷土、民族、さらには地球的な規模の人間的自然全体にまで、自我を発達させることができるのです。それが可能なのは具体的な対人関係の中で共同的な交わりを育み、対象愛を育て上げることによってなのです。自我を拡大させるためには、当然対象と自己の区別に抽象的に固執するのではなく、むしろ対象の中に自己を実現し、見出すことが大切なのです。

 ですから対象愛は、対象と自己の区別の止揚に基づいています。対象に対する様々な幻想は拡大された自己に対する幻想なのです。これは自己自身に対する幻想である「自惚れ(フィラウティア)」に広い意味では入るのです。「この女神(フィラウティア)は何処ででも私に力を合わせてくれますから、私の妹分と呼ぶに相応しいものです。自分で自分を愛し、自分で自分に感心するほど、阿呆な事があるでしょうか?」(84頁)モリアによりますと、この 自惚れがなければそれぞれの専門的な仕事をまともにすることができなくなるのだそうです。それに自惚れがなければ自分の顔、精神、生まれ、身分、教育、祖国についても不満になると言います。幸福とは自分の境遇に満足することだとすれば、フィラウティアは幸福を もたらす女神だということになるでしょう。

 実は自惚れは絶望の裏返しなのです。個体的な生命は有限で大変はかないものです。光陰は矢のごとく過ぎ去り、青春は悶々としているうちに過ぎ去り、直ぐに老年がやってきます。これで終わりというのは余りに納得し難いものです。そこで人々は魂の不死、死後の生命を信じようとします。フロイトによれば何らかの形で人間は不死信仰を持つのだそうです。しかし、死すべき運命からは人間である以上逃れる事は出来ません。ですから不死信仰は自分以外の全ての人が死んでも自分だけは死なないというとんでもない自惚れ、自己神化と表裏一体になっているのです。

 死は確実にやって来るので、人間はいつ執行されるかもしれない死刑囚なのです。それだけに死の恐怖は深刻で、絶望から逃れる事は出来ません。死へのモラトリアム(小此木啓吾)を生きているに過ぎないのです。この悲惨を直視してパスカルは愕然としました。彼はテーブルに座るとき、左側に人がいないと奈落に落ち込む気がして、椅子を積み上げて食事をしたと言われています。こんな痴愚を犯すほど、パスカルは死の恐怖に駆られていたと言えるのです。あの有名な「人間は考える葦である。」という言葉も神は人間にこんな悲惨を与えたのだから、決して見捨てたりはしない筈だという願望が込められているのです。

 それにしてもパスカルは大した自惚れを抱いたものです。全宇宙よりも人間の方が偉大だというのですから。「人間は自然の内で最も弱いひと茎の葦に過ぎない。しかしそれは考える葦である。これを押し潰すのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひと雫も、これを殺すに十分である。しかし、宇宙がこれを押し潰すときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるだろう。何故なら、人間は自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。それゆえ、我々のあらゆる尊厳は思考のうちに存する。」(パスカル『パンセ』347頁)

 「私が私の尊厳を求めるべきは空間に関してでなく、私の思考の規定に関してである。いかに多くの土地を領有したとしても、私は私以上に大きくはなれないであろう。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を飲む。思考によって、私は宇宙を包む。」(同348頁)宇宙は無限に大きく、永遠に存在し続けます。これに対して人間はとても小さくとてもはかない存在です。考えることのない事物なら、自分の小ささ、はかなさについての自覚がありませんが、人間はそれを自覚しているだけに悲惨です。反対に宇宙それ自体はいかに巨大で永遠な存在であっても、自分の偉大さを自覚することができないと言います。そのことに関しては人間の方が宇宙全体よりも偉大であると言うのです。この逆転によって、神の救済は保証されているのです。宇宙全体よりも偉大なこの人間存在を神が救済しないとすれば、神は偉大な存在ではなくなってしまいます。救済とはこの悲惨からの救済である筈ですから、人間は永遠の生命を神に与えられるのは確実だということになるのです。

 しかし、この自己の偉大さについての自覚は、人間にとっての偉大さに過ぎません。もし人間が永遠の生命を神から保証されるとすれば、逆に人間は悲惨な存在ではなくなってしまいますから、悲惨さの自覚も人間の偉大さも存在できなくなってしまいます。神も神による救済も人間の不死願望が産み出した幻想に過ぎません。この幻想を信じるためには自分を宇宙全体にも換え難い価値ある存在と信じ込む必要があったのです。塵にも等しいと自分のことを蔑んでおきながら、それでいて全宇宙より偉大だとして、神にも等しいような存在に自分を持ち上げようとするのですから、ほんとに手のつけられないお馬鹿さんですね?

 もし我々がいつ死ぬかも分からないという恐怖に駆られていたら、自己の不死を心の何処かで信じることができないとしたら、精神分析学によれば我々は精神的な安定を欠いて何もまともに出来なくなると言います。ですから我々がこうして元気に活躍できるのもひとえに自惚れの御蔭なのです。

 自惚れつまり自己愛幻想は不死幻想と関連して自分の老化を否定する傾向を産みます。たいがいの老人は自分もかなり老け込んでいるにもかかわらず、自分と同年代の老人を見ると自分に比べて相当老けているように感じるそうです。七十才以上の老人の多くは、実際より二十才は若く自分の事を考えているという話です。

 モリアは年若い小娘や若者にうつつをぬかす「にやけ爺さん」や「ほかほか婆さん」をユーモラスに紹介しています。とびきりおもしろいのが「ほかほか婆さん」です。「けれども何がおもしろいと申しましても、地獄から戻ってきたのではないかと思われるような屍同然の梅干し婆さんたちが、口を開けば『人生は楽しいわ!』などと繰返すのを拝見することくらいおもしろいことはありません。…この婆様たちは、金にあかせて何処かの片いパオンをたらしこみ、休む暇もあらばこそ、こてこてとおしろいを塗りたくり、絶えず鏡と御相談。隠し所の毛を抜いたり、ぐにゃりと萎びた乳房を出してみたり、おろおろ声を立てて、萎びかけた情火を呼び覚そうとしてみたり、酒を飲んだり、若い娘に交じって舞踏してみたり、恋文を書いたりするのです。誰も彼もが馬鹿にして、当然のことながら、こういう婆様こそ大気違いだと申します。ところがご連中の方では、そのままでしごくご満足なのです。ありとあらゆる快楽を飽きるほど腹に詰め込み、喜びを味わいます。つまりこの私の御蔭で幸福になっているのです。」(100頁)

 こういう婆様は確かに滑稽に見えるかも知れません。恥だとか不面目だとか不名誉だとか、あるいは、痴愚女神に惑わされて大いなる不幸だとか色んな陰口や非難を浴びるでしょう。でも当人はいかに恥だとかなんだとか言われても全くそうは感じません。むしろ有頂天で、得意になっているのです。ですからいかに非難されたところで全く意に介さないのです。もしかこんな婆様がほかほかしていられ ないとしたら、それこそ落ち込んでしまって、首吊り用の梁木(うつばり)でも探すようになってしまうかも知れません。それこそ不幸というものです。

 モリアは痴愚に支配された人間こそ、これこそ人間らしい人間だと主張します。「皆と同じような条件に従って、育てられ、造りあげられているということを、先生方は何故不幸だなどとお呼びになるのか分かりませんね。あるがままの人間でいて不幸なことは何もありますまい。…文法のことを知らないからといって馬が不幸になる筈がないのと同じく、痴愚も人間の不幸とはなりません。何故なら痴愚は人間の本性にぴったり合っているからですよ。」(100頁)死を間近にした老人が、生を諦めてしまって、落ち込んだり、枯れてしまったりするよりも、生に執着する余り、浅はかなうぬぼれと幻想の中に命を燃やし尽そうとする方が、よっぼど明るくて健康的で好感が持てますね。

 ここでモリアは、はっきりと、痴愚は人間の本性にぴったりだと言っています。生は「死へのモラトリアム(猶予期間)」に過ぎないのなら、人間はこの絶望、悲惨を諦観するか、それができなければ宗教的な幻想や 自己愛幻想を抱いてそれに夢中になるしかないのです。幻想に酔い痴れて自分を慰めるのはまさしく痴愚ですが、この痴愚はまさしく人間の有限性という本質からくるのです。

 

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