六、知と痴愚

  いかに世間では痴愚狂乱が幅を効かしているかを得意気に語ってから、モリアは学者賢人たちの批判に乗り出します。まず最初に槍玉にあげられるのは文法学者です。小学校のことをグラマースクールと言いますが、欧米では文法教育が昔から重視されていたのです。もちろん、幼い子ども達にむつかしい文法の決まりなど教えても、どれだけ役に立つか疑問です。特に幼いときは論理的な思考が未発達ですから、文法など構わずに易しくて楽しいしかも情操を育むようないい文章を繰返し読ませる事の方が大切です。無理やり、文法をたたみ込もうとするものですから、生徒達は文法を毛嫌いするようになるのです。ところが何処の国でも、正しい名を遣い、正しく文法に従って話すことに.より、世の中の正しい人間関係部成り立つという正名論が有力です。そこで文法を教える教師達は人一倍使命感に燃えて、生徒たちを怒鳴り散らし、鞭を奮って教え込もうとします。

 「私は、今学寮と申しましたが、悲哀の家あるいは更に.徒刑船ないし拷問部屋と言うぺきでしょう。」(220頁)

 教師達はモリアの所為で自分達こそ第一流の人間だと思い込み、生徒達を震えあがらしたり、鞭で打ち据えたりしては得意になっています。ところが彼らが誇っている知識とは変わった名前や言葉を腐った羊革紙の上にみつけては大発見だと興奮するようなものなのです。そしてちょっとした言い間違いが指摘されたりすると猛烈に敵意を示し、たちまち、罵詈雑言が飛び交うのです。実際、一つの品詞さえ完全に定義するのは難しいのに八つの品詞を徹底的に定義するには人生は短すぎるのです。そこで

「御存じの通り、文法学者の数だけ文法があり、それどころか学者の数よりも文法の方が多いくらいですがーと申しますのも、私の友人のアルドゥスは、この人一人だけでも五種類以上の文法書を印行しましたからね 」

 
日本語についての文法も、文部省認定の国文法はヨーロツパのグラマーを翻訳して当て嵌めたものに過ぎません。日本語の特徴に即して品詞区分を行ったとはとても言い難いのだそうです。

  次にモリアは詩人達についてこう語ります。

「詩人達は格言にもあるとおり、独立独歩唯我独尊派でして、根も葉もないことや笑止な絵空事で、気違い共の耳を絶えず魅惑しようと躍起になっています。驚くことには、詩人という連中はこんなつまらぬものだけで、神々の生命にも等しい生命、つまり不死を得られると思っているのですし、他人にもそれを与えてやれるものと信じているのです。」(132頁)

 詩は想像力のままに、詩人の憧れの世界を謳いあげます。詩の中で、英雄達は不滅のドラマに生きます。詩の不滅の感動が永遠の生命に対する確信に導くのです。もちろん、如何に素晴らしい詩を暗唱しても、それに よって人間が不死を得るわけはないのです。そんな事は分かり切っていても、詩のもたらす精神の昂揚によって、詩のリアリティが現実のリアリティに優るように感じられるのです。や はりモリアの管轄です。

  「雄弁家はときおり私に不実に働き、哲学者と気脈を通ずる事がありますけれども、これまた私の配下です。・…なにしろご連中は揃って、痴愚をじつに重要なものと見なしていますのでどんな議論でも解決できないことを、痴愚なら笑い飛ばしてしまえると考えています。こっけいな言葉で皆を抱腹絶倒させるのが女神の役割でないなどと、誰が考えられましょう?」(132〜133頁)

 雄弁家は自分の論旨に白信があるときには、宇宙の真理を神のごとき知恵で知っていると称する哲学者のように、自信満々でま くしたてますが、形勢不利でうまく反論できないときは、滑稽な笑い話にしてしまって、その場を誤魔化すのが十八番です。知で敵わないと見るや痴愚で対抗しているのです。

 モリアは三種類の文筆家を紹介します。

 一つは、大家に認めてもらおうと思って、推敲に推敲を重ね九年間も手元に置いても決して満足しません。睡眠を減らし、貧困に陥り、盲目になったり、早老したり、様々な悲惨事に見舞われても、或るよぼよぼ爺さんに認めてもらえば、犠牲はそれ程高すぎるとは思わないそうです。第三者から見ればなんてモリアなことでしょう。

  二つ目は、モリアの手下の文筆家です。彼は幸福な狂乱により頭に浮かぶままに書きなぐります。

「書くでたらめがでたらめであるだけ、それだけ拍手喝采に、つまり、気違い共や無知蒙昧な連中の異口同音の拍手喝采にありつけるということを心得ているのですよ。二、三人の学者がたまたまそれを読んで、軽蔑するかもしれないとしても、それがなんでしょうか?」

 
でたらめであるということは制約がないということですから、事実からも論理からも白由に文章が書き手のセンスにだけ忠実に舞跳びますので、読者に独特の解放感を与える効果があります。最近のニュー・アカデミズムも無責任で自由奔放なタッチからはでたらめの美学の実践を思わせます。

 三つ目は「もっと頭がよい」とモリアに評された剽窃家です。

 さて続いて法律学者、論理学者、詭弁学者をやっつけてから、いよいよ哲学者の批判に入ります。ソクラテスの「無知の知」の顰に倣っていますから、自然哲学的な独断論が、まず批判の的になります。

「けれども自然は、哲学者連中の臆測を聞いて呵呵大笑い致しますね。何故かと申しますに、この連中には、確かな根拠などは一つもないからなのですが、これは、あらゆることに関してご連中が際限もない論議をやらかしていることによって、充分に証明されています。」(137頁)

 アルケーや真実在やアトム等について様々な見解が出され、それに基づく現象の解釈が犇(ひしめ)きあったわけですが、なにしろ目に見えない世界の実相を類推するのですから、どうとでも説明できる性格を持っています。元々哲学は、神話的な世界解釈の破綻を踏まえて、合理的な論理的に筋道の立った、説明の試みなので す。実証の術がないのですから、幾通りにでも説明ができることになってしまいます。ですから確かな根拠などありません。

「何一つ分かっていないくせに、あらゆる事を知っていると主張します。自分自身について無知です。」

この表現はソクラテスそのものですね。

 梵我一如的に存在を了解していますと、真実在の解釈は実は自分自身の真の姿を知ろうとする試みなのです。たとえ原理的に不可能であっても、それを追求する人にとっては、自分自身にとって納得できれば良いわけです。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。」(『論語』)これは、孔子の言葉ですが、永遠にして不減である自然の原理を知ることによって、そこから出て、そこに帰るのですから、それを知ることによって、個体的身体的個我への執着を離れようと努力したのです。このように悟りを求める場合には、見解の多様は不真理の根拠にはならないのです。

 とは言え、真実在は、事物を対象的に認識するように認識できる相手ではありません。世界が水から構成されていると分かっても、認識する主体は水に自分を還元させることによって、 自己に対する認識は極めて貧しい内容しか持てないのです。それでは対象に対する知という認識を離れ、「汝自身を知れ!」の呼び掛けに応えたとしましょう。これも、豊かな対象的な自然を欠いた自己自身は、自分の手で自分の眼を潰したオイディプスの暗闇として現われざるをえないのです。「無知の知」の自覚によっては、知ではなく無知が知られるだけです。

 「目が疲れている所為(せい)か、それとも放心のためか、通り道にある溝や小石にも気が付きませんね。それなのに自分等は諸々の観念、普遍概念、独立的形相、第一質料、本質性、個体性等という、リュンケウスでも目に止まるまいと思えるようなものを、明らかに見られると称しているのです。」(137頁)

 具体的な自然の事物は真実在や根源物質を求める哲学者にとっては目に止まりません。べーコンなら第一物質を知ったところで、その知識が我々の利用できる目に見える具体的な事物に働きかけるのに役に立たなければ何にもならないと言うところです。エラスムスにしても、溝や小石に気が付かない知の在り方は、生きた現実の知ではないのですから、人間を導くことの出来る知とは言えないと考えていたと思われます。

 モリアは抽象的な概念が目に見えないという立場を採っていますが、それは目に見えるものは観念ではなく、事物の方だという考え方に基づいています。確かに事物と切り離された観念自体は見えないでしょうが、しかし、観念と切り離された事物は、如何なる規定でもないのですから、やはり目に見えるだけの具体的な規定性は持っていないと困ります。ですから我々が見ているのは、事物として現われている観念であり、観念の現われとしての事物です。例えば溝や小石なども溝や小石の観念を通して見ているので観念や本質を見ていると言えます。またそうだからといって、事物は見えないわけではありません。事物と観念の抽象的な対置にこそ問題があるのです。例えば、観念は目に見えないという立場からは「丸く見える図形は円の観念ではない。円の観念は、定点から等距離の点の集合という定義だ。」と言われます。確かに数学的には厳密な円以外は円ではないことになるでしょうから、完全な円を見ることは不可能でしょう。

 しかし、その議論を犬という観念を見ることに当て嵌めることは出来ません。「見えるのは現実の犬であって、犬の観念ではない。」という反論は、イメージを思い浮かべることに当たる「観念」という言葉の意味に照らしても、説得力がありません。「表象・観念」に当たるドイツ語は、Vorstellungですが、やはり「前に立てること」という意味です。観念、概念が意識として事物と対置されて捉えられますと、見られるのが対象としての事物で、見る側は見られないので観念や本質は見られない事になってしまったのでしょう。しかし、両者を機械的に分けてしまっては観念や本質が、事物の観念や本質であり、また自然的社会的な諸事物の関係や運動についての諸規定である事が理解できません。諸個人は自然的杜会的な事物関連の中で、自分の働きに応じて、これらの諸観念や諸本質を意識することになるのです。

 宗教家は神や仏の知恵と比べて、人間の知がいかに幼稚で誤ちに満ちているか、またほんの少しでしかないかを説き、知の傲慢を諭します。また精神分析家も、人間の知識がいかに倒錯的であるかを分析します。でもこうした批判は人間の意識やそれが もたらす知識が、ちっぽけではかない個人の中からだけ生じたものであるから、どうせ詰まらない、いい加減なものだという独断に基づいているのです。でも人間の意識は、諸個人を包摂して運動している人間的な自然および社会の意識であり、その自己反省でもあるという面もあるのです。ただ私的所有に囚われていますと、意識は自分の意識なのだから、対象の側が主体となって産み出した意識ではないと思い込んでしまうのです。ところが意識が現実の意識としてのリアリティを主張できるのは、意識が現実によって産み出されたからに他ならないのです。

 さて、次に神学者たちが槍玉にあがります。もちろん神学者たちの独断的な論証がいかに馬鹿げているかが、紹介されます。元々原理的に分かりっこないものをモリアが与えた「豪壮な定義やら、結論やら、必然的帰結やら、明白なる命題やら、明白ならざる命題やらの軍勢」と当人達が用意した実にたくさんの抜け道によって、説いてしまいます。確かに次のような問題にまともに回答を神ならぬ身の人間が与えようとすること自体、馬鹿げていて、これほど瀆神的なことはありません。

 「この世界はどのようにして創造され配置されたのか?如何なる溝孔を通って、原罪の流れがアダムの子孫に広がったか?(これが類を実体と見なすべきか、それとも単なる共通名前と考えるべきかというスコラ哲学の最大の論争点です。)

…聖体の秘蹟では、どうして実体がなくとも隅有物は存在するのか?(聖餐式では、パンと葡萄酒をキリストの肉および血としていただ
くが、パンはどのようにしてその形色や味や重量などの「隅有物」を持ったままパンからキリストに実体が変化するのかフ?)

…神の創造行為には決まった瞬間があったかどうか?

…人間はその復活のあと、食べたり飲んだりできるものだろうか?」(138〜139頁)

 神学は、宗教上の様々な疑問に答える必要上、これらの疑問にも解答が迫られたのでしょう。しかし、宗教は元々人間にとっては不可思議な神の技に基づいているのです。それを人間が論理的に説明できるわけがありません。無理にそれらを説明しようとする神学は、自分の賢さを過信して、自分の痴愚を忘れているのです。自己の痴愚に対する痴愚に陥ってしまっては、神の技の不思議に素直に感動する信仰の立場を失っていると言えるでしょう。

 このような神学者の高慢は、とんでもない詭弁を、いかにも最も敬虔なる信仰のごとくに説く破廉恥を招きます。例えば

「千人の人間を殺すことは、日曜日に貧乏人の靴を縫ってやることよりも罪が軽い。」

「どんな軽いものであろうとも、ごく小さな嘘を一つ言うよりも、宇宙全体がいわゆるこれに住むもの、これに備わったもの諸共に亡んだ方が、まだしも結構だ。」等です。

 エラスムスの時代にこんな表現をした神学者がいたかどうか知りませんが、きっと律法を守ることは何より重要だと、修道院できつく言われていたのでしょう。それをイローニツシュに表現すればこうなります。修道院ではひたすら信仰に生きるために、厳しい戒律を課して私心を減ぼし、魂を清浄にしようとしたのです。ところがこの発想は、律法の順守によって神の国に入れると考えたパリサイ派の立場に近いのです。イエスは、御国に入ろうとして律法を守るのは、少しも律法の成就とは言えないと断定したのです。何故なら神の国で自分さえ幸せになれればいいという私心が見え透いているからです。

 律法において、真に重要なのは律法の精神です。「心を尽くして汝の神を愛せよ。」「汝自身を愛するごとく汝の隣人を愛せよ。」この二つに尽くされているのです。「安息日を聖とせよ」「偽りを言うなかれ」という戒律はこの二つを実践する為のものです。愛の気持ちで実践しているのでなければ、全く意義を持たないのです。反対にこれらの律法を表面的には犯していても、神への愛、隣人への愛から発しているのならやはり律法は成就されているのです。

 修道院の戒律主義に対するエラスムスの批判は、ルターと一致しています。ルターは、修道院での修行で、戒律を守ろうとすればするほど、無理にそうしている自分に気付きます。つまり自分の内面の悪への傾向に気付き、絶望せざるをえないのです。しかし、彼は人類の罪を一身に背負うキリストの十字架に神の愛を知ります。このキリストを通して救われることを確信するのです。でもそう確信できるのは、自らの罪業の深さを悟り、律法の不可能性を悟ることによってです。

 神学者達は、様々な定義を与え、独自の論理を編み出し、実に込み入った見事な証明をやり遂げます。実に煩瑣な神学者達の論議は果たして信仰にとって意義のあるものでしょうか?少なくとも、キリストの使徒達はキリスト教の信仰の定義とも言うべき三位一体論すら論じてはいなかったのです。それでも彼らの信仰は神学者達に劣ってはいないのです。むしろ神学者達が精緻な議論をすればする程、知にはしってしまうため、信仰からは遠ざかるのです。

 彼らは自分達の議論の正しさに固執し、自分達の存在意義を認めさせるために好んで異端を作り出し、排斥しようとします。

「『溲瓶 よ、おまえは臭いぞ』と『溲瓶は臭い』という二つの言い方が同じ意味だと言ったら、キリスト教徒ではなくなるのだということが誰に信じられましょうか?」(145頁)これは元は、「イギリスの一修道士は『ソクラテスよ、汝は走る。」と『ソクラテスは走る。』とは同じ意味だと主張したために、オックスフォードの神学者達に異端と断ぜられたといわれる。」

からきたと注から推察されます。「ソクラテス」を「溲瓶」に置き換えたことによって、強烈な風刺の効果をもっています。

 パウロの信仰は、真正面からパリサイ派の律法主義を批判したため、捕らえられて十字架に付けられた男イエスが全人類の罪を贖ったという、とんでもない馬鹿げた発想に基づいているのです。しかし人間が本当に救われることができるのは、こんな一見馬鹿げた発想をまともに信じ、それに生涯を捧げ尽すことによってではないでしょうか?まさしく「信ずるものは救われる。」ですし、「馬鹿は死ななきゃ治らない。」です。そして、「馬鹿のまま死ねたらそれに優る幸せはない。」ということでしょうか?

 エラスムスは、免罪符の販売に反対したルターを始めは陰ながら支えます。でも自分から宗教改革の運動に身を投じることはしません。あくまでこれまでの啓蒙的な批判の立場を貫こうとします。それはプロテスタントかカトリックかいずれかの立場に立ってしまいますと、自分達は正しくて、相手は間違っているという明らかに知の立場に立ってしまうからです。そして「右の頼を打たれれば、左の頬を出せ」という愛の寛容の立場をかなぐり捨てて、憎しみの狂乱に落ち込むことになることを警戒したのです。

 しかしいつまでも中立は許されません。ルターの味方でないことを示すために、ルターとの違いをはっきり著作の形で示すようにカトリックの教会から要請され、『自由意志論』を書き、ルターの猛反撥を招きます。この論争こそ宗教改革期の「痴愚」の競演を代表するものと言っても過言ではないでしょう。
(了)

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