三、モリアの出自

 モリアは登場するなり滔々と自画自賛を展開します。自画自賛をするのは馬鹿の極みだとか言って罵っても、ちっともモリアをけなしたことにはなりません。それにモリアのことを一番良く知っていて、モリアを賛美できるのはモリア以外にはいないのです。「私以上に私のありのままの姿を描けるものが他にいるでしょうか?私以上に私を識っている人はだれもおりますまい。」(59頁)

 この台詞はソクラテスを連想させます。ソクラテスは、自然哲学では何も確実な知を得ることができないことに気付きました。「汝自身を知れ。」というアポロン神殿の標語に導かれて内面的な徳や魂の探究に向かいます。そして、「ソクラテスに優る知者はいない。」という神託を授かり、自分は何も確実な知を持っていないのに、自分が一番賢いことなどあり得ないと考え、そのことを確かめるために、名だたるアテナイの賢人達と問答を行います。ところがいわゆる賢人達は、自分の狭い経験から得た知を無.反省に体得しているだけなので、相対的な知を断定的に語るだけで、それを普遍的に論証することはできません。ソクラテスは経験的な知の相対性と限界をよく知っていて、それで自分の知が確実でないと考えていたのですから、賢人達の知が極めて一面的で不確実な知であることを暴露してしまったのです。

 そうして自分の無知を知っているだけ、自分の無知に気付かない賢人達よりソクラテスの方がより知者である事を実証してしまったのです。ソクラテスがよく知っていることは自分自身の無知です。ですから「汝自身を知れ」という標語に最も叶って自己自身を知っていると言えます。モリア(痴愚)=無知ですから、最大の賢者であるソクラテスとモリアは等しいのです。エラスムスの時代のソクラテスはモアです。そこでモア=モリアが成り立つことになります。やはり、モアが全く縁がなくむしろ最大の敵対者であるモリアとは、自分自身のモリアに気付かず慢心しているモリアなのです。

  さて、ではモリアの出自を聴いてみましよう。モリア自身が語るところによれば、モリアの父は、「人間や神々の唯一の生みの父」たるプルトス、つまり豊穣富裕の神です。豊かになればなるほど何でも財力で思いどおりになるので、かえって痴愚に陥るということでしょうか。そう言えば、名だたる実業家も、初代はハングリー精神で頑張りますが、二代目は親の七光で大した努力もしないで家業を継ぐので、優れた参謀に恵まれない限り、身上 を潰すことがよくあります。

 エラスムスはそれだけでなく、人間の豊かさや余裕から生じる全ての文化を、痴愚として捉えているようにも思われます。「今日でも昔でも同じように、このプルトスの一挙手一投足のために神界も人間界も転覆することがありますし、この神様の御心しだいで、戦争も平和も政府も議会も裁判も会議も結婚も条約も同盟も法律も芸術も遊学も勤労も…人間のありとあらゆる事が、どうにでもなるのです。この神様のお力添えが無かったら、詩歌に唱われる神々の一切が、敢えて申せば、大神たちまでが、存在されないことになりましょう」(六二頁)

 文化を余剰として捉え、人間を余剰を積み上げることを衝動的な楽しみにして生きている動物として捉え、その上、人間は積み上げ過ぎて却って重荷になってくると今度は激しくそれを蕩尽する衝動を持っているとする人間論があります。これはポランニ ーやバタイユの議論で、日本では『パンツをはいた猿』の栗本慎一郎が強調しています。文化を余剰として捉え、その積み上げ自体を衝動的に行っているとしますと、その文化の持つ意味や価値はこの衝動を掻き立てるために与えられるに過ぎないことになります。

 つまり、それぞれの文化の価値体系やイデオロギーはその文化を積み上げるために恣意的に造り上げられたいわば幻想だということになります。この立場からは、叡知の結晶のごとく見える文化の蓄積も、それを積み上げては壊している幼児の積木遊びに等しいのですから、まさしく痴愚に 他ならないことになるでしょう。実際、宗教的に捉えるとしますと、人間の文化の営みなど絶対者の天地創造と比べれば児戯に等しいことになりましょう。とはいえ、痴愚だと悟ってしまえば、文化的な営みを放棄して山に籠った方がよいということにはなりません 。

   もし神様がおられるとして自然を司どっておられるとしますと、直ぐに散らせるために花を咲かせたり、美しい鹿を野獣の餌食にされたり、随分と愚かで無慈悲な事をなさっておられます。被造物の分際で神を馬鹿にするのは、浅はかで罰が当たるかも知れませんが、人間はどうせ神からすれば馬鹿ですし、馬鹿に愚かと言わせるようなことをなさっているのは神様御自身です。それに馬鹿に馬鹿と言われて怒るようでは神様とは言えますまい。神様だって、飽きずに様々な自然の営みを司っておられるのですから、人間が自分達の自然としての文化的な営みを止めるわけにはいきません。それに神は神で御自分の基準に合わせて自然界や人間界を統治されているとしますと、人間が自分達の基準を造り上げてそれに従って文化を創造し、積み上げることは、神を見倣う事にもなります。それに打ち込んで一所懸命に頑張れば頑張るほど神の御心にも適う筈です。ただし、その営みの痴愚を忘れ、文明のきらめきに眼が眩んで独善に陥ってはならないのです。

   モリアつまりエラスムスの言うところでは、プルトスがまだ壮健で青春の血に燃え立っていた頃、神々の宴席でたっぷりといただいた神酒 「ネクタル」の熱気に燃え立っていた折り、麗しい妖精達が給仕をしていました。その中でも一番艶麗で一番陽気な、ユウエンタス(青春)と「愛の契り」を交して、その結果、モリアが生まれたのです。武田鉄矢作詞「母に捧げるバラード」にこんな台詞があります。「あの日、父ちゃんが酒さえ飲んで帰って来んかったらお前のごたあ馬鹿息子はできとらんとにねえ。」精子がアルコール漬になって、それでおつむがどうにかなったのかも知れませんね。これは世間でもよくいわれていることです。

 でもエラスムスが言いたいのはそれだけのことではないでしょう。神酒は神懸りするために巫女や祭司が飲むものです。その中には毒茸などの秘薬が混っていたりします。その効きめで忘我状態に陥り、神と一体化するのです。この状態になって始めて、彼らの言葉は神の言葉として認知されます。人格がこの状態ではなくなっていると見なされるからです。実際、酔っ払っていてしたことはすっかり忘れていることがあります。その泥酔がひどくて心神喪失と認められますと、その間に犯した殺人などの犯罪行為も罪を問われないことがある程です。

  この人格の喪失は一種の痴呆状態でもありますが、また同時に、それは神聖な神懸りの状態でもあります。人格の殻が破られ、人と自然、人と神の断絶が解かれるのです。このように自然の中に溶け込み、神と合一する事が未開的な宗教では人間の本来の姿と考えられていたのです。神酒に酔い痴れ踊り狂う「バッコス祭」、幕末の「ええじゃないか」、今日でも熱狂的な「リオのカーニバル」等、痴愚の狂乱にこそ人間性の解放、生命の充実が見出せるとも言えましょう。

 ネクタルに酔ったように我を忘れて何かに熱中する、それが青春(ユウエンタス)です。冷静な判断力を失って、自分を過信し、やみくもに突っ走る姿は、冷静な第三者からは、馬鹿としか言いようが無いかも知れませんね。そこから生まれるものも求めていたものと はまるで違っていて、幻滅せざるを得ないことが多いようです。青春が痴愚ならその挫折の結果としてのその後の人生もそれに劣らず馬鹿馬鹿しいものになってしまうのかも知れません。

  さて、モリアの生まれは何処でしょう。それは種蒔や勤労をしなくても収穫が為される福楽の島々だということです。お釈迦様は人生には生・老・病・死という四つの苦しみがあると言われました。なんとモリアの生まれたこの福楽の島では勤労とか老衰とか病気とかいうものは知られていないのだそうです。人間は人生の様々な苦しみからそれ等に対処するための様々な知恵を得ることができる道理ですが、福楽の島ではそれがないのですから、それだけぼけてしまうのも当然ですね。

 その上、モリアは、バッコスの娘の「陶酔」と、パンの娘の「無知」との乳房からお乳を飲んだということです。何かに憧れ、何かに陶酔することで、その対象と自分との区別がつかなくなります。アイドル歌手に夢中の少女は友達に逢えば、いつも口に出るのはそのアイドルのことです。かって、タイガースやスパイダースに興奮した少女達は多数集団的に失禁したそうです。ファミコン・ゲームは少年達を興奮のるつぼに誘い込み、何時間でも釘付けにすることができます。自分の親が死んだ時 も、妻子に逃げられた時にも一粒の涙も落とさなかったのに、阪神タイガースが優勝したときは一晩中泣き明かした中年男性も多かったようです。物事に熱中できるということはとても素晴らしいことです。感動や興奮、我を忘れた熱中の中にこそ、生きていることの実感が掴めるものです。白けてばかりの人生では詰まりません。

 地面に小さな穴を開けてそこに玉を棒で打って入れる競技がありますが、それだけのことで大きな地面を使って愚の骨頂だと言ってしまえばそれまでです。人々が陶酔しているものは、それだけ採ってみますと、よくまあこんな下らないことに熱中できるものだと呆れ果てる事が多いものです。でもいいじゃないですか、本人はそれで陶酔できて十分幸せなのでしょうから。むしろそんな馬鹿げたことに熱中できる痴愚を褒めてやるべきでしょう。なかなかおりこうだと。

  一見下らないように見えるそれぞれの人々の熱中が、様々な創意工夫を産みますし、大衆に熱中する材料を提供する産業を盛んにして、そこにも大いに技術的、知的進歩を もたらすのです。「無知」はモリアの言い換えに過ぎません。でも「無知」ゆえに様々な愚行にはしる事が多いようですから、「無知」がモリアの乳母だというのももっともですね。反面、物事に対する知識が深いと、いろんな事情を考慮する余り、慎重になりすぎて決断がなかなか下せないことがよくあります。「無知」故の勇気、英断もあり、事情を知らなかったので物怖じせずに、力を充分発揮できることもあるものです。 どうせ我々人間の知は大した事はありませんからすべて無知故の愚行と考えてよいのかも知れません。とはいえすべて無知故の愚行だからといって、何もしないほうがいいというわけではありません。大切なことは「無知」「愚行」についての自覚です。この自覚に基づいてこそ、冷静な客観的な判断ができるのです。

 では、モリアの仲…や御供の群れには、どんな神々がいるのでしょう。モリアの紹介によるとフィラウテイア(自惚れ)、コラキア(追従)レテ(忘却)ミソポニア(怠惰)ヘドネ(逸楽)アノイア(軽躁無思慮)トリュペ(放蕩)コモス(美食)ネグレトス・ヒュプノス(深き眠り)です。「これらはすべて、私に仕えてくれる連中です。私がいつまでも世界を支配し、帝王たちの上に君臨できるようにと、忠実に手助けをしてくれます。」(65頁)これらの名前からモリア(痴愚)が育まれる環境が想像されます。一々納得させられることばかりですね。

 

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