二、馬鹿喜劇

 以前、松竹新喜劇で藤山寛美の当たり役で阿呆の若旦那や若君役がありました。父親役の渋谷天外にとっては馬鹿息子が息子が大変愛しいのです。馬鹿息子は少しもけれん味がなく、裏表がありません。素直な心情で感じたままに口に出し、行動するので、大人の世界のごまかしや欺瞞が通じないのです。それで陋習や偏見によって押し潰されていた人情が、馬鹿息子の活躍で取り戻されるというのが筋立てになっていました。なんとなくユーモラスで温かい馬鹿(若)旦那の登場で、観客の気持ちは軽くなり、なんとなく楽しくなります。そして馬鹿(若)旦那の物真似が流行ったりしたものです。

 丁度同じ頃だったと思いますが吉本興業でも『番頭はんと丁稚どん』という頭の足りない丁稚を主人公にした、ドタバタのコメディが人気を博しました。大村昆扮する馬鹿の丁稚は馬鹿だから要領が悪く、いつも失敗ばかりして叱られたり苛められたりしています。観客はその馬鹿さ加減に抱腹絶倒して、笑い転げます。人間誰しも自分の馬鹿さ加減に自己嫌悪を抱いているものです。だから自分より馬鹿なことをする人間を目の前にすると気 持ちが楽になり、優越感からなんとなく嬉しくなるものです。それも自分と同程度の馬鹿では自己嫌悪が募りますので、徹底した馬鹿の方が受けるのです。そこでコメディでは破茶滅茶な馬鹿が登場しました。

 しかし、馬鹿だから正直で素直です。決して人を憎んだり恨んだり、人に対して悪意をもったりできません。だから馬鹿は馬鹿正直にしか生きられないことによって、馬鹿を馬鹿にしていた人々のいやらしさを浮き彫りにします。脇役たちは、一番大切なものを見失っていた自分達の馬鹿さ加減を思い知ることになるのです。

 馬鹿喜劇に登場する主人公の馬鹿は、ひとまずは、観客達が自分達の馬鹿さ加減を外化し、そのことによって自分達を馬鹿ではない人間としての優越感を獲得するための道化です。しかし、馬鹿を馬鹿して終わりでは、人から馬鹿にされることに普段から最も疵つけられている観客達にすれば、反って後ろめたい気持ちになってしまい、後味が悪いものです。そこで観客達はこう考えます。「あの馬鹿は程度の差こそあれ自分自身の馬鹿でもあり、それを笑っている自分は、自分自身を笑い者にしているのだ」と。

 それで今度は馬鹿に限りない共感を寄せます。そして、あの馬鹿さ加減は実は感じたままに正直に行動する余りに我を忘れ、ブレーキが故障してしまった状態なのだと受け止めます。そこに計算のない真実の気持ちの現われを感じます。馬鹿の行動は破綻しているけれど、破綻しないために 不純になった正常な常識的行動には見られない大切な魂の息遣いがあるのです。不純な行動とは、他に目的があり、心はそこに行ってしまっているのに、その手段として必要なために自分の気持ちを誤魔化している場合にも見られます。かくして馬鹿は人間の本来の姿を表現することになるのです。人間は馬鹿なことをすれば破綻するだけですが、馬鹿なことをしないために本来の気持ちに背いて、自分の一番大切なものを見失ってしまうというジレンマに陥っています。だから馬鹿喜劇の馬鹿は人間を本来の姿に立ち戻らせるヒーローであり、馬鹿天使なのです。それで馬鹿役が登場すると観客は和やかで暖かい気持ちになれるし、何か幸せな気分に浸ることができるのです。

 モリア(痴愚女神)は、登場に当たって、こう語っています。「このように大勢の皆さんの前へ私が姿を現わしただけで、たちまちどなたの表情にも、今までにない不思議な陽気さが浮かんだではありませんか。」(57頁)「人々の精神から憂苦を追い払うということも、この私なら、姿を現わしさえすれば、まんまとやってのけられるのです。」(58頁)そのわけは道化や馬鹿天使の役割を考えれば納得がいくでしょう。

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