エラスムス『痴愚神礼讃』について

                    ー痴愚人間論ー


                       一、「痴愚神礼讃」のテーマについて

 人間の本質を語る人々は、他の動物と人間を対置して、人間の本質を理性に求めるのが普通です。ルネサンス期の思想家達も人間理性の主体性を確立しようと苦闘していたのです。その中でエラスムスの『痴愚神礼讃』は、人間社会がいかに痴愚に満ちているかを徹底的に暴き出し、風刺したのですから、逆に言えば理性の支配を求め、理性を礼讃するものであったと言えましょう。この意味ではやはりエラスムス自身が人間の本質を理性に求める立場に立っているのです。

 エラスムスはこの書を彼の親友トマス・モアのところに滞在していたときに書いたのです。そしてこの書をモアに献じています。献辞で彼はこう述べています。「実は、私はあなた御自身のお名前のMorusという字をまず考え、それと似ているMoriaという字を思い出したのですが、もっとも、あなた御自身は痴愚女神(Moria)とはおよそ縁のないかたですし、その最大の敵でもあられることは、皆もひとしく認めているところです。」(『世界の名著十七』中央公論社、51頁〜52頁)渡辺一夫は『世界の名著』の解説で「おそらく、見たところは痴愚神Moriaを礼讃するかのごとく思われるが、結論としてわれわれに伝えられるものは、痴愚神の敵とも言える聡明冷静なモアの、あるいはその精神の礼讃になっているのである。…この痴愚神の自慢話こそ、人 間の痴愚と狂気とにたいする痛烈な風刺、賢明なモアの精神を讃えるに相応しい風刺であることが分かってくる。」(29頁)

 渡辺の解釈ではエラスムスが礼讃しているのはモリアではなくてモアだということになります。つまり「痴愚」ではなく「賢明」こそが礼讃されていると解釈しているのです。確かに痴愚に満ちた人間社会を風刺しているのですから、渡辺の解釈は一応正しいと言えるでしょう。とはいえ痴愚の効用が様々に説かれており、あながち痴愚神への礼讃は皮肉とばかりは言えないように思われます。このことについて渡辺は「痴愚の女神に導かれるがままにあらゆる大小の痴行愚行を犯す人 間全体への批判の後ろには、卓絶した人間観察者としてのエラスムスの目が光っているように思われる。」(29頁〜30頁)「『痴愚神礼讃』は、かくのごとく、生殖を推進する「痴愚神」というような人間に対する 諧謔的な軽い風刺と、戦争に人間を駆り立てる「痴愚神」というような人間の狂乱無思慮に対する痛烈な風刺とによって成り立つのである。そして前者のおどけた調子は、後者の「危険思想」的な激しさを目立たなくするために用いられたらしく思われる。」(31頁)と説明しています。

 渡辺の解釈はあくまで『痴愚神礼讃』を理性的な啓蒙の立場から、人間の痴愚に対する批判としてのみ読み取っているのです。しかし、キリスト教ヒューマニズムは人間の痴愚を決して無価値なものとして扱いませんし、元々高く評価しているのです。ではラ ッセルと野田又夫の『痴愚神礼讃』の解釈を解釈を紹介しておきましょう。

 ラッセル『西洋哲学史中巻』(市井三郎訳、みすず書房)より
「『愚神礼讃』は、真の宗教は痴愚の一形態である、という真面目な示唆でもつて終つている。この書の全篇を通じて、二種類の痴愚が述べられているのであり、一つは皮肉から礼讃されている痴愚であり、いま一つは真面目に礼讃されているものである。真面目に礼讃されている愚かさとは、キリスト教的な単純さに示されているものであって、その礼讃はエラスムスの、スコラ哲学に対する嫌悪や、非古典的なラテン語を用いる学者博士たちへの嫌悪と、一体をなすものなのである。しかしこの著作は、より深い一面を持っている。すなわちそれは、わたしの知る限りでは、ルソーの『サヴォアの牧師Savoyard vicarに述べられた見解ー真の宗教は頭ではなく、心情からくるものであり、混み入った神学はすべて余計なものだという見解ーが、始めて現れている文学なのである。このような考え方は、現代までますます通有的なも のとなつてしまい、プロテスタントの間ではかなり一般的に受け容れられいる。それは本質的には、北方の感傷性によるギリシャ的主知主義の排斥なのである。(211頁〜212頁)

 野田又夫著『ルネサンスの思想家たち』(岩波新書)より
 「それは「愚かさの女神」が、世にいかに愚かごとが多いかを数え上げ、みずからの力を誇るという形をとっている。第一に人間の感覚的生が非合理的であって愚神の支配下にあることが語られる。たとえば人間の誕生の原因すなわち結婚は、理性でなく愚かな情念をもとにしてのみ成り立ちうる。人間の生命力の発露と幸福とはむしろ愚かさの支配の中にある。しかし第二に人間の理性的反省的生においても、支配しているのは、むしろ欺瞞であり非合理であるという。エラスムスの陽気な生の賛美が次第に迷妄の批判を含んでくる。例えば哲学者、神学者の奇妙な論議、修道僧、説教僧、僧正、法王の非福音的なあり方。法王は宗教の方はひと任せにして、戦争を主な仕事にしている。法王庁には書記、写字生、公証人、弁護士、馬丁、銀行屋、娼婦がむらがっているという。しかしすべては愚神の手前味噌として軽妙にのべられているのである。第三に、聖書の引用が多くなる。愚神はみずからキリスト教の教えるところにしたがっているのであるという。パウロは、キリストを信じることがギリシャびとの知恵に対してはまさに「愚か」を意味するといっているのである。『愚神礼讃』は戯文であるが、単にそれだけではない。右に示したように、そこには三つの段階すなわち感覚的生と理性的生と宗教的生が分たれ、「愚かさ」の意味も各段階で意味を異にする。そして第三段階ではパウロのキリスト教そのものを意味している。エラスムスは後に、『愚神礼讃』は『キリスト教戦士必携』と同じことをのべたものだといったことがある。」(111頁〜112頁)

 確かに人間の痴愚に対する風刺が『痴愚神礼讃』のテーマなのですが、その場合人間を痴愚として捉えることが批判されているのではなくて、自己自身の痴愚を自覚できない痴愚が批判されているのです。現代的な問題意識で言えば倒錯批判です。そしてこの自己の痴愚を知るという発想はバイブルだけではなく、「汝 自身を知れ」という神託に導かれたソクラテスの「無知の知」の自覚が下敷きになっています。そのうえ痴愚の女神に操られる心理構造の分析は、フロイト学派の心理分析も顔色を失うほど、見事な人間観察を示しています。人間の本質は理性でありますが、理性であるがゆえに痴愚でもあるのです。なぜなら人間の理性は相対的なものでしかなく、絶対的な意味で理性的な存在は神として外化されざるをえないからです。神との対置において人間は自己の痴愚を自覚し、神の救いを求める宗教的な存在となります。キリスト教ヒューマニズムが痴愚に宗教的価値を認めるのはその為です。ではモリア(痴愚女神)の自己賛美の内容を検討しましょう。

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