やすいゆたかの現代社会講義

 

             現代社会の授業に入るにあたって

 

                             時代はグローバリゼーション

 

               産業の日進月歩は止められぬせめて目指せや良きグローバル

 

 これから一年間、現代社会について一緒に考えていくことになりました。よろしく。
 

私は保井 温(やすいゆたか)です。もう還暦が来てしまったので、諸君の四倍近くも生きていることになりますね。ついこないだのことだったのに、私が高校生になったのは。

 私の作った短歌に「十七の吾れは未来を指差して、吾がものなりと豪語したりや」という歌があります。
 

 年をとってきますとつい過去の話がしたくなるものですが、今日は未来の話からしましょう。私は、世界は一つにまとまりつつあると思います。そのことを何といいますか?そう「グローバリゼーション」といいます。無理に翻訳すれば「地球化」かな?


  国境というものがあまり意味をなさなくなって、人・物・情報が自由に移動するわけです。では国境が意味をなさなくなることを、どういう時代になったといいますか?そう「ボーダレスな時代」になったといいますね。この十五年ぐらいバブル経済がはじけて不況になってから、なかなか景気が回復しませんでしたね。

 

その最大の原因はなんでしょう。中国などからどんどん安い品物が入ってきていたからです。日本は貿易や資本の取引が最も自由な国なので、ほとんど関税をかけていません。賃金水準の十分の一、二十分の一の国が安いコスト(経費)で品物を作るものだから、日本国内の製品では太刀打ちできないのです。それで国内生産が頭打ちになって景気がよくならないということもあったのです。
 

日本が経済的に立ち直るためには、どうしたらよいか、もっと生産性を上げる努力が必要です。それには、え、中国並みに賃金下げちゃうの?そんなことしたら、物を買う力、購買力がなくなって、もっと不景気になりますね。中国から安い労働力をもっと導入する。そうですね、スムーズに行けばいいですが、安定した職場が用意できないと、いろんな摩擦の元になりますよ。
 

難しい話になってしまいましたね。でもこのグローバリゼーションというのは、止められないのです。生産力が発達する、交通手段や通信手段が発達するのは止められませんね、だから止めようとしても止められませんね。後戻りできない過程なのです。反グローバリズムを叫んで、グローバル化を止めようとする人もいますが、グローバル化自体は止められません。それが悪い方向に行くのを、良い方向のグローバル化に向けるという努力をするしかないのです。
 

良い方向のグローバリゼーションにもっていくためには、地球全体で各国家や企業や個人が地球環境をまもったり、恒久平和につながる安全保障の体制を作ったり、人・物・カネ・情報など交流がスムーズになるようにすることが必要です。そのためには皆の繁栄につながるようなルールを作る必要がありますね。
 

そのような原理を示した「グローバル憲法」を作ろうじゃないかと考えまして、皆の意見を掲示板に書き込んでもらう『みんなでグローバル憲法を作る会掲示板』というのを作ったのです。だれが?もちろん私がです。これが評判になって新聞に紹介されたことがありますが、まあ2年ぐらいでほとんど書き込む人もなくなり、いま休止状態です。もちろんまた再開するつもりですが。
 

何?グローバル憲法を作るってことは、世界連邦みたいなのを作ろうということかって?そんなの国際連合だって頼りないのにできっこないよと言われそうですね。

  でもこのまま経済や交通や通信がグローバル化していくのに、それを調整する地球規模の政府機能の必要性はますます大きくなりますね。そうでないと、アメリカ合衆国みたいな強大な国家が世界秩序を仕切って、自分の言いなりにならなければだめだと威張っていたら、不満な国や国際テロ組織や宗教カルトが、密かに大量破壊兵器を入手して、
911みたいな事件を繰り返すことになりかねません。
 

もう21世紀になったのですから、人間の生産活動だって自然環境に大きな負荷をかけています。これが地球温暖化をもたらしていて、既に大きな被害がでていますね。それにいつまでも世界各国が軍備をもってにらみ合っていますと、軍事力というのもどんどん技術革新されて、安くなり、小型化してしまいます。
 

すると必ずしもアメリカが勝つとは限らなくなります。第一、国家対国家の戦争は不可能になりつつあり、見えない敵にペンタンゴン(アメリカ国防総省)や世界貿易センタービルが攻撃されたような形が、むしろ主流になるわけです。そうなりますと、核兵器をいっぱいもっているから強いという理屈では通じなくなりますね。だから今のところ各国の政府にまかせていたら、いつまでも『グローバル憲法』もグローバル政府もできないので、グローバルな自覚をもった市民が自分たちで憲法を作成して、良い方向のグローバリゼーションを実現しようというのです。すごい大きな話でしょう。

 あまりお話が大きすぎるので、ついていけないかもしれませんね。でもこれぐらい言っといた方がいいのです。だって、君たちはまだ十五・六歳ですね。寿命が延びるとして後百年近く生きる可能性があります。としますとその間に科学技術が発達し、生産力も軍事技術も発達するわけで、各国が軍事力で牙を向き合うような近代世界のありかたを続けていけばどうなりますか。地球環境はカタストロフィ(大崩壊)に陥り、ハルマゲドン(最終戦争)になりかねません。
 

この21世紀にそういう問題をどうしても解決しなければならないのです。その主役を担うのが君たちです。未来は君たちのものですよ。地球人類を滅ぼすか、それとも民族・宗教・文化の違い超えて人類が手を結び、地球環境を再生させ恒久平和を築けるかどうかは、まさしく君たちの仕事なのです。もちろん私も寿命の続く限りがんばりますが、君たちの自覚がなければ、成功の見込みはありません。

 

                   第5章     現代の民主政治と私たちの生活

            1民主政治における個人と国家


           
    アリストテレス「人間はポリス的動物である」

        部分より全体が先それ故にポリスのために生きるが人間

  グローバル憲法なんて取り上げたのは、いまや地球規模の巨大な政治・経済・文化・環境の調整機構が必要だということを言いたかったわけです。これから民主政治の話にはいるわけですが、近代国家の時代が今まで続いてきていますが、もし国家がなかったら大変ですね。古代ギリシアの哲学者アリストテレスは「人間はポリス的動物である」といいましたが、国家がなければ、我々の生活は一日も成り立ちません。近代国家は、それぞれの地域においてそういう調整機構として役目を果たしています。
 

          おそるべしリヴァイアサンが牙剥かばホロコーストの地獄絵巻か
 

でもその大きな役割であるだけに、それに伴う強制力も強大です。この強制力を何といいますか、そう「国家権力」ですね。一歩方向を誤りますと、戦争で何千万人や何百万人を殺したり、恐怖政治で何百万人が犠牲になるという例が20世紀にはあちこちであったわけです。その例をあげてもらいましょうか?

第一次世界大戦、第二次世界大戦、ナチスのユダヤ人のホロコースト、ソ連スターリンの大粛清、中国の文化大革命、カンボジアのポルポト政権下での大虐殺、日本の朝鮮支配下での三一万歳事件、南京大虐殺などあげればきりがありませんね。

じゃあ国家権力なんて要らないよ、というわけにもいきませんね。ともかく戦争や人権抑圧にならないようにしながら、国家を役立てていくしかありません。

 

                イェリネック 国家の三要素
       
土地ありて其処に暮らせし人有れど主権なければ国家生まれず                      

 

では国家とは何か?イェリネックによりますと国家は三つの要素から成り立ちます。

領土・領民・主権」です。「土地・人民・主権」と覚えてもいいですよ。


  つまり一定の地域に人々が暮らしていて、そこにその人々が恒常的な権力の統制を受け入れているということです。そしたら国家が成立しているわけです。 領海は12海里、排他的経済水域は原則として200海里以内です。領空は領海内の大気圏内と覚えましょう。

  ふつうは最高権力を一人がもっていると君主制国家、少数だと貴族制国家、多数だと民主制国家といいますが、イェリネックは国家有機体説なのです。つまり国家は全体として生き物だということです。だから人民が一定の土地に暮らしていて、その地域に国家が生まれますと、国家が人民を支配するということですね。つまり国家主権は国家自身が持っているのです。国家には権力機構があって、そこで国家意志が法律という形で生み出され、その意志に支配されているわけです。国家は意志を持っているのですから、ただの生物ではなく、人間ですね。

 

国家が巨大な人工機械人間だという議論は、既に17世紀にイギリスのホッブズが『リヴァイアサン』でしているのです。

 

                   ラスキ 多元的国家論

       とりどりの社会集団とりまとめ利害を調整、国家集団

 

人々は一人では暮らしていけないので、いろいろな社会集団を作ります。するとそれぞれの社会集団は集団的な利害を持ち、意志をもつのです。これも広い意味の政治です。といいますのは、集団の構成員を統制し、支配するからです。そして集団間の利害を調節しなければならなくなります。そこでそれらの社会的集団の上にたつ国民国家地方公共団体などが生まれます。これらも一つの社会集団ですが、この上位の社会集団による統制、支配を狭い意味の政治というのです。このような多元的な社会集団の関係から国家を論じるのが多元的国家論で、イギリスの20世紀初頭のラスキなどが有名です。

 

      マルクス 階級国家論
       
  公共のためを装い資本家が働く者を抑える道具か

 19世紀の科学的社会主義の創始者カール・マルクスらは、『共産党宣言』で、国家は階級支配の道具だという階級国家論を唱え、労働者階級資本家階級の支配を倒して、共産主義が実現したら国家は死滅すると言いました

 

           夜警国家論と福祉国家論
        市場での自由な競争保障せば国家は夜警に徹すればよし

 資本主義経済との関連で国家を考えますと、夜警国家論福祉国家論が対照的です。産業革命によって資本主義が確立した時期に、経済学の父アダム・スミスは『諸国民の富』を著し、国家権力は市場に介入してはかえって逆効果なので、自由放任主義(レッセフェール)でいくべきだと唱えました。国家は国防と警察だけでいいじゃないかというわけです。

 でも実際は、貧富の格差は激しくなり、労働者階級は窮乏化し、常に失業の危機に晒されていました。そこで19世紀後半のドイツの社会主義者のラッサールは、アダム・スミスは国家の仕事を夜警に限定する夜警国家論だと批判し、国家は経済を管理運営して、国民生活を安定させる偉大な仕事をすべきだと唱えたのです。

         出来立ての道路を明日は掘り返し作り直してケインズ効果

 20世紀に入ると、景気循環の波は大規模になり1929年からは世界大恐慌が現実のものになりました。そこで政府は財政投資で公共事業を起こし、失業者の救済と景気回復を図るべきだという考え方が有力になりました。イギリスのケインズ『雇用・利子・貨幣の一般理論』が代表的です。そして政府は失業や医療について労働者のための社会保険制度を作るなど、国民の生活安定に力を入れる福祉国家づくりを大きな目標にするようになったのです。これが小さな政府から大きな政府へ夜警国家から福祉国家へという流れです。
 

ところが1970年代から流れが逆流します。政府が巨大化しますと、お役所仕事で効率や経済性を無視して仕事をしますので、随分税金の無駄遣いがなされるようになります。そして高齢化社会になっていきますと、社会保障費が増大して、財政が逼迫してしまったのです。そこで大胆に行政改革、財政改革を断行し、社会保障費を削減して小さな政府を造ろうとするようになります。民間の方が能率的だから、民間でできるのなら郵便局も民営化するということになりましたね。
 

                              王権神授説

   国民の家父長が王だとは聖書のどこにあるのやら
 

 16世紀頃から植民地貿易などで巨大な富が本国にもたらされ、それを税金によって吸い上げて常備軍を造り、侵略や植民地争奪に使うことによって、国家権力は強大化し、中央集権化しました。それで国家のまとめ役であった国王権力が専制化して絶対主義国家ができていきます。議会や教会の意向を無視し、神以外には制約されないと主張するようになります。
 

 王権は神から授かったものだという考えは、『新約聖書』にも伺えます。宗教改革で有名なルターは、ドイツ農民戦争に敵対しました。彼は「カエサル(皇帝)のものはカエサルに、神のものは神に」という聖書の言葉を盾に、地上の権力は神がお立てになったのだから、逆らってはならないといったのです。
 

はっきり王権は神に授かったと絶対主義の理論として唱えたのは17世紀になってからで、むしろ社会契約説に対する反発から生まれたといえます。フィルマー『パトリアーカー(家父長制論)』で、アダムが妻子や一族に対する支配権を神から授かったように、王は国家の家父長であって臣民に対する支配権は神から授かっているので、王に反抗するのは、神への反抗に等しい。という趣旨のことを書いています。これに対してはロックが聖書のどこにもないと反論しています。
 

                    社会契約説とは何か

          生きていく権利を守るそのために君に託せり統治の杖を
 

社会契約説は、アリストテレスの「人間はポリス的動物である」というのと対極的な考え方です。「全体が先で、部分が後だから」というのがポリス的動物の理由でしたね。つまりポリスが先にあり、ポリスで生まれ、ポリスのために生きるという考え方でした。元々ポリスというのは外敵や獣たちから部族や地域共同体を守るために囲いを作って集まって住んだことからできたわけです。ですからギリシアでも個人が先で全体が後という発想もあったのです。それでポリスの法は人為的にできたものだから、無理に従うことはない、自然に生きたらいいじゃないかという人々もいて、まとめるのが大変だったわけです。そんなことでは強いポリスはできないので、ポリスがあってこそ生きていけるし、正義も成り立つとしたのです。
 

 近代市民社会は独立した諸個人の社会契約によって,社会(=国家)が形成されたと考える社会契約論を有力にしました。この思想の代表者としてホッブズ(15881679)・ロック(16321704) ・ルソー(17121778) が挙げられます。

 
 独立した諸個人が自分たちの自然権を守るために社会(=国家)を造ったという社会契約説に立てば,社会(=国家)がこの目的に反するようになれば,当然社会契約を廃棄して新たな社会(=国家)を形成してよいと考えられます。絶対王政に反発して市民の自由や権利を守ろうとした人たちは、人間には生まれつき自己保存権信教の自由など譲れない権利があるという自然法思想に依拠して社会契約説を形成しました。

 
           
     ホッブズ 『リヴァイアサン』

                自然権社会契約説きながらリヴァイアサンで専制護持す
 

  ところがホッブズはいったん形成した国家の主権者の変更は自然状態への復帰になり,「万人の万人に対する戦争状態」が再現されるとして,いっさい認めなかったのです。
 

 自然状態は国家ができる前の状態社会状態は社会契約で国家ができた状態だと覚えてください。ホッブズは人間を欲望を充足して動く欲望機械だと捉えています。自然状態においては,互いに欲望を充足して自己保存する為に何をしてもよいので,どうしても「万人が万人に対して狼」にならざるを得ません。「万人の万人に対する戦争状態」に陥ったというのです。

 

  これでは人類が滅亡しますので,強力な主権を樹立してこれにみんなが絶対的な服従を約束したというのです。ホッブズのねらいは専制支配に反対する理論である社会契約説を,逆に専制支配を合理化する理論に改造しようとしたのです。ところがホッブズを誤読して、いかにもホッブズが民主主義的な思想家であったかにいう学者がいます。それは全くの間違いなので、私が批判しているのですが、全く無視されています。

 私の社会契約論についての大学での講義の内容を読みたい人は
「入門講義 社会契約の思想★ホッブズ・ロック・ルソー★ http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/nyumon/socialmokuji.htmに挑戦してください。
 

 『リヴァイアサン』の表紙の絵をよく見てください。巨人が村と教会を守っています。この巨人が『聖書』に出てくる地上最強の怪獣であるリヴァイアサンなのです。この怪獣は人間なのです。聖書の怪獣は神が創ったのですが、ホッブズのリヴァイアサンは人工の怪獣なのです。つまり社会契約をした市民たちが集まって国家を作っています。それが表紙の絵に人間が集まってリヴァイアサンになって描かれています。ところでホッブズの考えでは、人間は欲望機械ですから、それが集まってできた国家も機械なのです。ですから国家は人工機械人間つまり巨大なロボットだということになりますね。
 

 国家が人間だということは、主権者はその指令中枢ですから、首にあたります。人民は肢体ですから主権者の意志に従わないと、リヴァイアサンは生きていけません。そして主権者を取り替えるのは首の挿げ替えですから、これも国家の死にあたります。国家が死滅しますと、自然状態に逆戻りです。自然状態は、ホッブズでは戦争状態ですから、最悪だというのです。こうして国家を人工機械人間として捉えるホッブズは、社会契約説を用いながら巧みに専制権力を擁護しているのです。
 

                       ロック『市民政府二論』

                     耐えがたき圧政あらば吾起ちぬ契約したるは何ゆえなると
 

 ロックは、自然状態でも人間はお互いに自然法に従って、人格と財産を尊重し合い、平和的に暮らしていたと考えます。人間の本質を理性に求めていたからです。それなら国家をつくらなくても良さそうですね。ところが貨幣が発生しますと貧富の格差が生まれ、財産や人命が脅かされるようになり、自己保存権、財産権などの自然権が脅かされるので、主権者に権力を信託する社会契約を結んだと捉えています。

 

  ただしそれはあくまで、人民が自然権を守ってもらうためです。だから、権力者が人民の信託に反して、人民を重税や圧制で苦しめ、人民の自己保存権や財産権を脅かしますと、社会契約は破棄されたことになります。その場合は人民は権力者を実力で打倒して、新しい政府を作ってもいいのです。つまり社会契約を交わしても、抵抗権、革命権は留保されているというのです。こうしてロックは名誉革命を正当化したのです。

 

ロックは君主は同盟権と行政権を行使するのはよいけれど、立法権は議会が持つべきだとしました。権力分立の考え方の一つです。ただしロックの思想を議会制民主主義とみなすのは早計です。なぜなら議会選挙は制限選挙ですから、議会貴族制(パーラメンタリ・アリストクラシィ)に属します。


それに民主主義だと政権は議会で多数の議席を占めればいいわけですから、抵抗権や革命権は必要ないのです。
 

                       ルソー『社会契約論』

                  持ち出すな自分の利害は棚に上げ、ただひたすらに皆の幸せ
 

ルソーは都会の雑踏や文明はあまり好みません。それで「自然に帰れ」と説き、『エミール』という書物で、自然から人間の本来の生き方を学ぶ自然主義教育を唱えました。しかしそのことと彼の『社会契約論』を結びつけ、社会状態から自然状態に復帰すべきだと唱えたと解釈したら大間違いです。あくまでも社会契約というのは自然状態の混乱状態から脱却して、社会契約によって社会状態に進むことですから。
 

ルソーの考えでは、はじめは人間は孤立して暮らしていました。でもお互いに困ったときには助け合っていました。それで家族や集落ができて一緒に助け合って暮らすようになり、家産や言語が発生しました。ここまでは幸福だったのですが、農耕と冶金が発明されると、土地や財産を奪い合うようになり、共倒れしそうになりました。ここまでが自然状態です。
 

そこで全員が参加する人民集会を開き、皆が共存共栄するためにはどうすればよいか話し合ったというのです。その際に私的な特殊利害を主張し合いますと、結局貧富の差や勢力の差が残って争いのもとになります。あくまでも皆が幸福になるにはどうすればよいかという立場にたって発言するわけです。その結果知恵や情報を寄せ合って、作られる意志が「一般意思」です。『日本国憲法』では「総意」という言葉がそれにあたります。

 「皆は一人のために、一人は皆のためにall for one, one for allの精神です。こり言葉はルソーの言葉と思っていたのですが、どうも『三銃士』の合言葉からきたらしいのです。
 

この一般意思の支配に委ねるのが、ルソーの考えでは真の「社会契約」なのです。真の法は一般意思の表現でなければなりません。ですから立法権は、全員参加の人民集会にあります。つまり立法権に関しては直接民主主義でなければならないのです。「立法権は代理できない」というのです。自分が議論に参加していない決定に拘束されるのは不当だと考えたのです。
 

しかし国民全員が集まるなんでできませんね。でも古代ローマでは町内ごとに人民集会を開いて、すべての町内で一致しますと、決定力があったようで、これがルソーの念頭にあったのです。


  皆で決めた法は皆で守らなければいけません。そうしてこそ社会的な自由が成り立ち、責任が果たせます。そうしてこそ道徳が成立するというわけです。ですから一般意思に基づいて成立した政府を打倒するような革命を主張したわけではありません。一般意思に基づかない政府は真の政府や国家ではありませんから、一般意思に基づく政府をつくるべきだと考えたのです。
 

 立法権は直接民主主義でないといけないのですが、人民集会でできた法に基づいて統治する行政権は民主主義では無理だと考えました。フランスのような大きな国では王政でもよいのです。その点、彼は王政自体がいけないという考えではないのです。一般意思に基づかない王政がだめだという立場です。たとえ人民集会が開かれていなくても、人民集会だときっとこう決まるというような普遍的な政策を行っていれば、ルソーはその王を賛美しました。
 

                              モンテスキュー『法の精神』

                          法作る人が、権力握るなら、権力縛る法は消え行く
 

アクトンは、「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」と言いましたが、権力が集中しますと、権力者は権力を私物化して腐敗しがちですし、自分の主観的な判断で政治を行うので、人民の利益が損なわれたり、人権が著しく侵害されるようになります。そこで権力分立の必要が唱えられたのです。
 

18世紀フランスのモンテスキューは『法の精神』で、法を作る者と、法を執行する者と、法で裁く者をはっきり分ける三権分立を説きました。立法権は議会が、執行権は国王が、司法権は裁判所が担当して、権力の抑制と均衡(check and blance)を図るべきだとしました。
 

ただしモンテスキュー自身は貴族ですから、民主主義を唱えたわけではありません。議会では貴族会の意義を強調しました。また裁判で貴族が平民の裁判官に裁かれるのも反対しました。
 

モンテスキューの考えでは、行政府の首長が立法府によって選ばれるのは、権力分立ではないということになります。ですからイギリスや日本の議院内閣制は三権分立としては不十分なのです。このモンテスキューの考えに則って、アメリカ合衆国は国民の選挙によって行政府の責任者を選ぶ大統領制を採用したのです。

 

 

 

 

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