第四篇 西欧近世思想
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修道院の学校で発達したスコラ哲学では,理性と信仰の関係が問われました。スコラ哲学の父と呼ばれたアンセルムスは,信仰の内容を全て理性で説明しつくそうとする弁証家に対しては,理性の前提が信仰であり,信仰が知性の出発点だと批判しました。たしかに神のことを人間が全て有限な理性で説明尽くせると考えるのは,理性のとんでもない思い上がりですね。
しかし全く理屈抜きで神秘的にだけ神を信仰しろと言われても,それほど奇跡を体験できるわけではありませんから,お仕着せの信仰のように思われて信仰心が薄れるものです。そこで理性による弁証に反対する者に対しては,信仰の内容を理性によって合理的に理解すべきだとしたのです。そして彼は,神を「最大のもの」と定義し,それには「存在する」ことが含まれているから神は存在すると,神の存在証明をしました。
神の概念から神の存在を証明するアンセルムスのア・プリオーリ(先天的)な論証に対して,アリストテレス哲学を研究して, スコラ哲学の大成させたトマス・アクィナス(1225〜1274) は,神の結果である被造物からその究極原因である神にいたるア・ポステリオーリ(後天的)な神の存在証明を行ったのです。彼は神は「〜でないもの」という面からみれば,「不変・不動・単純・純粋現勢」という本性を持ち,「〜に類比すべきもの」という面からみれば,「全智・全能・全善」という本性を持つとしました。また神は万有の存在原因なので, 万有は神から発出したという「無からの創造」を主張しました。万有の本質はイデアとして神の内に先在するとしたのです。プラトンの「イデアのイデアは善のイデア」を連想して下さい。
トマスは,また人間は魂と身体との合成実体だと捉えました。そのせいでに人間の認識能力は事物の本質を直接に認識できません。感覚を通して感じられる個別的なものから個体的な能動的理性によって抽象するしかないのです。そこに人間の理性の限界がありますから,現世において得られるテオーリア(観想的生活)の至福には限界があるというのです。そこで「恩寵が自然を完成する」としました。この「自然」は神の恩寵や啓示に対して人間が本来具有するものという意味です。それで具体的には,「自然」は身体や人間理性を指しています。その意味では人間の本性である理性には限界があって,未完成です。神の恩寵によって信仰が与えられ,聖なるものも感じることができて完成するということです。魂が肉体を離れ,神の許に行けば神を本質によって眺める至福直観を得れるという希望と信仰を表明しています。
3普遍実在論争
ところがスコラ哲学の伝統には,理性の限界を厳しく捉えることによって信仰の余地を確保しようとする傾向が強いのです。それで人間の理性は実在を認識しえないとし,人間が使用している概念は便宜的に人間生活の必要から付けられた名前に過ぎないというオッカムらの唯名論(ノミナリズム)が流行したのです。
トマスはアリストテレス的に普遍は個物の中に存在するという立場に立っていました。実はこの実在論(リアリズム)と唯名論(ノミナリズム)の対立は近代には観念論(イデアリスムス)と唯物論(マテリアリスムス)の対立へと発展するのです。
第八章 ルネサンスの思想
イタリア・ルネサンスは,メディチ家のような商人貴族のヒューマニズムであり,自由でしかありませんでした。その実利的、商人的、市民的性格は万能人アルベルティの市民道徳によく現れています。彼は「時間を空費しないものは、ほとんど全てのことを成し得るものである」と『家族論』で語り、「利益を追求することは神聖なことだ。人間は仕事のために造られている。仕事は人間の目的である。」と『自叙伝』で語っています。なかなか近代的で、宗教改革の職業召命観のさきがけになっていますね。
15世紀末から16世紀の初頭にかけてアルプスを越えフランス・ネーデルランド・イギリスに広まった文芸復興の動きを北欧ルネサンスと呼びます。イタリア・ルネサンスは明るいギリシア・ローマの古典の忠実な模倣を通して,中世キリスト教の暗い文化を克服し,ギリシア的ヒューマニズムの立場から人間性を取り戻そうとしました。北欧ルネサンスはイタリア・ルネサンスの貴族主義的傾向に対して,倫理的で市民的な傾向が強いんです。またキリスト教に対する信仰は厚いのですが,ローマ教会に対しては批判的で,聖書などの文献に直接学ぼうとしました。そして常にキリストといかに係わっているかを問い,バイブルに根拠を持たない儀礼的で形式的な教会儀礼を批判する改革的傾向が有力になりました。
ネーデルランド出身であるエラスムス(1466〜1536) の『痴愚神礼讃』は,痴愚と狂気に満ちた人間世界を痛烈に風刺しました。エラスムスが痴愚女神モリアに語らせるところによれば,人間の知の営みは相対的で限界に満ちたものなのです。人間の智恵など神の真理に対しては全く痴愚に他なりません。ところが,自らの痴愚に気付かない君主や諸侯,法王や僧侶,神学者や文法学者等の特権階級の連中は,独善と狂気に陥り,醜い争いや愚にもつかぬ論争に明け暮れ,救いがたい程に堕落し腐敗しています。そこでモリアは,素直に人間の本質としての痴愚を肯定的に受け止め,人間らしい生き方を取り戻すことを呼び掛けています。これはソクラテスの「無知の知」の顰に倣ったのでしょう。
エラスムスの親友で後にイギリスの大法官になったトマス・モアは『ユートピア』で「羊たちが農民たちを食べる」とされたエンクロイジャーで苦しむ農民に同情して,イギリスの現実を痛烈に風刺しつつ,私有財産のない理想社会の構想を提示しました。
エラスムスを師と仰いでいたフランスのラブレーは,古典の教養をもとに自然の豊かさや人間性の魅力を描きました。『パンタグリュエル物語』『ガルガンチュア物語』が代表作です。
また16世紀後半から17世紀中頃にかけて,フランスでは, 深い人間観察を踏まえて人間の普遍的な生き方を追求するモラリスト達が輩出しました。独断を排して,謙虚に生きた人生の智恵を得ようとしたモンテーニュ(1533〜1592) は「Que sais je ? 」( 何をか知る?)という問い掛けを大切にしました。キリスト教の真理性も非キリスト教文化圏では全く通用しないとして,信仰における独断的な態度も戒めたのです。それで独断的に自己の宗派的な真理を過信し,血なまぐさい争いをしていた当時の新・旧両派に対する牽制を籠めて『エセー』は書かれたと言われています。
モンテーニュの懐疑的態度に強く反撥したのがパスカル(1623 〜1662) です。神やキリストに対する懐疑を語るなら,もっと深刻に絶望的に語るべきで,機知と風刺の効いた口調で教養をひけらかすように語るべきではないというのです。彼は「人間は考える葦である。」と言いました。宇宙の無限に比べれば,人間は塵のように微小な存在です。無生物や動植物ならば宇宙の無限を知りません。従ってそれに比べ人間が時間的・空間的にいかに微小で,はかないかという自覚もないのです。人間は考えることによって宇宙の無限,人間のはかなさを知るのです。これはまことに悲惨で絶望的だと言わざるを得ません。しかし人間は,宇宙の無限を知り,自己のはかなさを知っているという点で,それを知ることができない宇宙全体より偉大性を持っているとも言えます。こんな偉大な人間を悲惨なままに捨ておくとすれば,神も神としての偉大性を喪うことになるでしょう。だから神の救いは確実だとパスカルは説いたのです。
パスカルは,科学者・数学者としても著名でした。かれは「幾何学的精神」で宇宙の無限と物質の科学的秩序を見出しましたが,それでは人間存在の具体的な生は理解できませんでした。それを理解するには平生の生活の中に混在している原理を,生の価値を離れないで,全体的に感じとる「繊細の精神」が必要だと説いています。また彼は,価値ある生き方の三段階である「三つの秩序」を説きました。
第1の秩序・「身体」,この秩序において支配的なのは情念です。王侯・貴族の生活の原理です。
第2の秩序・「精神(理性)」,学者や研究者の生活の原理はこの「精神(理性)」です。
第3の秩序・「慈愛(愛)」,神における存在の仕方です。イエスの生がお手本です。
この三つの秩序は宗教が感性や理性を越えて,これらを包含し,統一するとしました。
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