第四篇  西欧近世思想 

  第七章  中世キリスト教思想

  1へ ブライズムとヘレニズムの折衷

   キリスト教がローマ帝国で公認された時期には,アウグスティヌス等の教父哲学が新プラトン派の二元論を神の国と地の国の関係に適用し,ローマ教会の権威を確立し,その宗教的権威の下に世俗の権力を聖別しました。ローマ教会の権威は中世の封建的な時代に入って,十字軍の派遣と共にますます隆盛になりました。そして十字軍は東方世界から古代ギリシア・ローマの貴重な文献をもたらしました。特にプラトン・アリストテレス等のギリシア哲学の文献がキリスト教神学にも大きな影響を与えるようになったのです。つまりヘブライズムとヘレニズムが神学において折衷されるようになるのです。

 修道院の学校で発達したスコラ哲学では,理性と信仰の関係が問われました。スコラ哲学の父と呼ばれたアンセルムスは,信仰の内容を全て理性で説明しつくそうとする弁証家に対しては,理性の前提が信仰であり,信仰が知性の出発点だと批判しました。たしかに神のことを人間が全て有限な理性で説明尽くせると考えるのは,理性のとんでもない思い上がりですね。

 しかし全く理屈抜きで神秘的にだけ神を信仰しろと言われても,それほど奇跡を体験できるわけではありませんから,お仕着せの信仰のように思われて信仰心が薄れるものです。そこで理性による弁証に反対する者に対しては,信仰の内容を理性によって合理的に理解すべきだとしたのです。そして彼は,神を「最大のもの」と定義し,それには「存在する」ことが含まれているから神は存在すると,神の存在証明をしました。

  2トマス・アクィナス

 神の概念から神の存在を証明するアンセルムスのア・プリオーリ(先天的)な論証に対して,アリストテレス哲学を研究して, スコラ哲学の大成させたトマス・アクィナス(12251274) は,神の結果である被造物からその究極原因である神にいたるア・ポステリオーリ(後天的)な神の存在証明を行ったのです。彼は神は「〜でないもの」という面からみれば,「不変・不動・単純・純粋現勢」という本性を持ち,「〜に類比すべきもの」という面からみれば,「全智・全能・全善」という本性を持つとしました。また神は万有の存在原因なので, 万有は神から発出したという「無からの創造」を主張しました。万有の本質はイデアとして神の内に先在するとしたのです。プラトンの「イデアのイデアは善のイデア」を連想して下さい。

 トマスは,また人間は魂と身体との合成実体だと捉えました。そのせいでに人間の認識能力は事物の本質を直接に認識できません。感覚を通して感じられる個別的なものから個体的な能動的理性によって抽象するしかないのです。そこに人間の理性の限界がありますから,現世において得られるテオーリア(観想的生活)の至福には限界があるというのです。そこで「恩寵が自然を完成する」としました。この「自然」は神の恩寵や啓示に対して人間が本来具有するものという意味です。それで具体的には,「自然」は身体や人間理性を指しています。その意味では人間の本性である理性には限界があって,未完成です。神の恩寵によって信仰が与えられ,聖なるものも感じることができて完成するということです。魂が肉体を離れ,神の許に行けば神を本質によって眺める至福直観を得れるという希望と信仰を表明しています。

   3普遍実在論争

   中世スコラ哲学の最大の論争点は普遍実在論争(概念実在論と唯名論の論争)です。普遍的な概念はプラトン哲学では,イデアとして実在します。またそれぞれの個物に分有されていますから,個物は素朴に概念の現れという意義も担っていました。そしてこの概念実在論はカトリックの教義にとっても必要だと考えられました。 何故なら人類という類的概念が実在しなければ,アダムが犯した原罪を現存する我々一人一人が背負っているのは理窟に合わないからです。原罪があって初めてイエス・キリストが全人類の罪を贖う「キリストの贖罪」が成り立つのです。また教会はイエス・キリストの体だとされています。贖罪したキリストの体である教会であるので,キリストの血である葡萄酒と肉であるパンを共食する聖餐の儀式が行われ,永遠の生命にさずかることができるのです。ですからキリストの体としての教会という類的概念の実在も必要になるのです。

 ところがスコラ哲学の伝統には,理性の限界を厳しく捉えることによって信仰の余地を確保しようとする傾向が強いのです。それで人間の理性は実在を認識しえないとし,人間が使用している概念は便宜的に人間生活の必要から付けられた名前に過ぎないというオッカムらの唯名論(ノミナリズム)が流行したのです。

 トマスはアリストテレス的に普遍は個物の中に存在するという立場に立っていました。実はこの実在論(リアリズム)と唯名論(ノミナリズム)の対立は近代には観念論(イデアリスムス)と唯物論(マテリアリスムス)の対立へと発展するのです。 

第八章  ルネサンスの思想

  1人間性の解放

   ルネサンスは「復活」・「再生」という意味です。ギリシア・ローマの古典古代の文化を学び,その人間中心の精神を受け継ごうとしたのです。中世のローマ教会を中心とするキリスト教の支配の下では,人間の肉体的・感性的な欲望が罪悪視されていました。しかし本来的な人間性を抑えつけようとするのは無理があります。教会の聖職者自身が自ら定めた罪に陥りがちだったのです。ボッカチオ(13131375) の『デカメロン』は,そんな「聖職者」の実態を描きました。また人間的な感情の発露として恋愛は文学の重要な題材となりました。今も恋人の代名詞になっているベアトリーチェへの熱い想いを語った,ダンテ(1265 1321) の『新生』や『神曲』は有名です。またルネサンスのヒューマニズムに,有限者としての人間の限界に挑戦し,神に迫ろうとする傾向が見られます。人間の理想化された姿としての神像彫刻の伝統が,ミケランジェロのダビデ像やモーセ像に見事に復活しています。ルネサンス文化の芸術家達は「万能人」としての個人の能力を余す所なく発揮し,人間の限界に挑戦したのです。レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452 1519) は「モナリザ」の微笑みとなり永遠の現在を生き続けているのです。

  2ピコとサルトル

   ピコ・デラ・ミランドラ(1463 1494) は『人間の尊厳について』で「アダムよ,お前には一定の住所も顔かたちも特性も与えなかったが,それはお前がお前の意志と判断によって,思うままにそれらを決めることができるようにしたためである。自然は定められた法則に束縛されているが,おまえは自由意志によって何者にも成ることができる。」と述べ,主体的な決断次第で人間は無限の可能性を切り開く事ができるとしたのです。この発想はサルトルの実存主義的人間観に近いのです。でもピコは人間が無限の可能性を持てる前提にキリストによる救済を置いています。サルトルは逆に「ペーパーナイフの比喩」で人間が自由である為には,人間の本質を規定する神が存在してはならないとしているのです。

  3自由意志論争

   この自由意志論はアウグスチヌスの原罪論と対立するものです。アウグスチヌスによれば,人間はアダムの原罪によって「善をなす」意志の自由を失ったのです。ですから人間は罪人のままイエスの贖罪によって救済されるしかないとされていたのです。16世紀始めに活躍したエラスムスはピコの自由意志論を継承します。エラスムスは自由意志の役割を肯定し,人間の努力によって救済が神から与えられる事を認めなければ,一切の道徳が成立しないと主張しました。アウグスチヌスの系譜を引きエラスムスと厳しく対決することになったのが,ルターの『奴隷意志論』です。ルターは,救済はあくまでも神の恩寵によるとし,その際,自由意志は全く無力だとしたのです。人間の運命は神に予定されているのだから自由意志によって努力次第で何かになれると考えるのは,神に対する冒涜に他ならないと言うのです。この論争はカトリック教会がエラスムスにルターに対する批判を命じたことから起こりました。両者の批判は互いに誤解し合っていることもあり,水掛け論に終わりました。

  4マキャベリとアルベルティ

   人間中心の発想から政治の現実を冷厳に捉え返しますと,宗教や道徳を離れて政治それ自体を動かしている「力の原理」を解明しなければなりません。「君主は野獣の性格を適当に学ぶ必要があるが,その場合野獣の中では狐とライオンに習うようにすべきである。というのはライオンは策略の罠から身を守れず,狐は狼から身を守れないからである。罠を見抜くという点では狐でなくてはならず,狼の度胆を抜くという点ではライオンでなくてはならない。」と語るマキャベリ(1469 1527) の『君主論』の登場は,近代政治学の出発点だと言われています。

 イタリア・ルネサンスは,メディチ家のような商人貴族のヒューマニズムであり,自由でしかありませんでした。その実利的、商人的、市民的性格は万能人アルベルティの市民道徳によく現れています。彼は「時間を空費しないものは、ほとんど全てのことを成し得るものである」と『家族論』で語り、「利益を追求することは神聖なことだ。人間は仕事のために造られている。仕事は人間の目的である。」と『自叙伝』で語っています。なかなか近代的で、宗教改革の職業召命観のさきがけになっていますね。

  5北欧ルネサンス

 15世紀末から16世紀の初頭にかけてアルプスを越えフランス・ネーデルランド・イギリスに広まった文芸復興の動きを北欧ルネサンスと呼びます。イタリア・ルネサンスは明るいギリシア・ローマの古典の忠実な模倣を通して,中世キリスト教の暗い文化を克服し,ギリシア的ヒューマニズムの立場から人間性を取り戻そうとしました。北欧ルネサンスはイタリア・ルネサンスの貴族主義的傾向に対して,倫理的で市民的な傾向が強いんです。またキリスト教に対する信仰は厚いのですが,ローマ教会に対しては批判的で,聖書などの文献に直接学ぼうとしました。そして常にキリストといかに係わっているかを問い,バイブルに根拠を持たない儀礼的で形式的な教会儀礼を批判する改革的傾向が有力になりました。

 ネーデルランド出身であるエラスムス(14661536) の『痴愚神礼讃』は,痴愚と狂気に満ちた人間世界を痛烈に風刺しました。エラスムスが痴愚女神モリアに語らせるところによれば,人間の知の営みは相対的で限界に満ちたものなのです。人間の智恵など神の真理に対しては全く痴愚に他なりません。ところが,自らの痴愚に気付かない君主や諸侯,法王や僧侶,神学者や文法学者等の特権階級の連中は,独善と狂気に陥り,醜い争いや愚にもつかぬ論争に明け暮れ,救いがたい程に堕落し腐敗しています。そこでモリアは,素直に人間の本質としての痴愚を肯定的に受け止め,人間らしい生き方を取り戻すことを呼び掛けています。これはソクラテスの「無知の知」の顰に倣ったのでしょう。

 エラスムスの親友で後にイギリスの大法官になったトマス・モアは『ユートピア』で「羊たちが農民たちを食べる」とされたエンクロイジャーで苦しむ農民に同情して,イギリスの現実を痛烈に風刺しつつ,私有財産のない理想社会の構想を提示しました。

 エラスムスを師と仰いでいたフランスのラブレーは,古典の教養をもとに自然の豊かさや人間性の魅力を描きました。『パンタグリュエル物語』『ガルガンチュア物語』が代表作です。

  6モラリストの活躍 

 また16世紀後半から17世紀中頃にかけて,フランスでは, 深い人間観察を踏まえて人間の普遍的な生き方を追求するモラリスト達が輩出しました。独断を排して,謙虚に生きた人生の智恵を得ようとしたモンテーニュ(15331592) は「Que sais je ? ( 何をか知?)という問い掛けを大切にしました。キリスト教の真理性も非キリスト教文化圏では全く通用しないとして,信仰における独断的な態度も戒めたのです。それで独断的に自己の宗派的な真理を過信し,血なまぐさい争いをしていた当時の新・旧両派に対する牽制を籠めて『エセー』は書かれたと言われています。

 モンテーニュの懐疑的態度に強く反撥したのがパスカル(1623 1662) です。神やキリストに対する懐疑を語るなら,もっと深刻に絶望的に語るべきで,機知と風刺の効いた口調で教養をひけらかすように語るべきではないというのです。彼は「人間は考える葦である。」と言いました。宇宙の無限に比べれば,人間は塵のように微小な存在です。無生物や動植物ならば宇宙の無限を知りません。従ってそれに比べ人間が時間的・空間的にいかに微小で,はかないかという自覚もないのです。人間は考えることによって宇宙の無限,人間のはかなさを知るのです。これはまことに悲惨で絶望的だと言わざるを得ません。しかし人間は,宇宙の無限を知り,自己のはかなさを知っているという点で,それを知ることができない宇宙全体より偉大性を持っているとも言えます。こんな偉大な人間を悲惨なままに捨ておくとすれば,神も神としての偉大性を喪うことになるでしょう。だから神の救いは確実だとパスカルは説いたのです。

 パスカルは,科学者・数学者としても著名でした。かれは「幾何学的精神」で宇宙の無限と物質の科学的秩序を見出しましたが,それでは人間存在の具体的な生は理解できませんでした。それを理解するには平生の生活の中に混在している原理を,生の価値を離れないで,全体的に感じとる「繊細の精神」が必要だと説いています。また彼は,価値ある生き方の三段階である「三つの秩序」を説きました。

第1の秩序・「身体」,この秩序において支配的なのは情念です。王侯・貴族の生活の原理です。                                                                                                   
 第2の秩序・「精神(理性)」,学者や研究者の生活の原理はこの「精神(理性)」です。                                                                                                                                              第3の秩序・「慈愛(愛)」,神における存在の仕方です。イエスの生がお手本です。

 この三つの秩序は宗教が感性や理性を越えて,これらを包含し,統一するとしました。

 

 

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