第4章 諸子百家の思想
儒家も,周室を尊び,中国の統一を回復し,攘夷を行う「尊王攘夷」の立場に立っていたのです。春秋の覇者たちのように武力を持てない儒家たちは,その為には周代の礼楽を復活させ,普及することが大切だと考えました。その事によって伝統的な身分秩序に則って安定した社会に戻ると考えたのです。そこで孔子(孔丘)は塾を開いて,六芸つまり禮(儀式・礼儀作法全般)・樂(儀式に伴う歌舞音曲)・射(弓)・御(乗馬)・書(読み書きから文献研究まで)・數(計算から会計まで)を教えていました。特に礼楽が重視されましたから,盛んに歌舞音曲のお稽古をしていたんです。
特に儀式に関しては民家の葬儀まで一手に取り仕切ろうとしたところに儒家の社会集団としての存在意義がありましたから,芸能的な側面は大切だったのです。でも礼楽を形だけ整え,人間に位だけ与えても,その礼楽に精神が籠もらず,君子に徳が備わらなければすぐに駄目になってしまいます。そこで礼楽の精神つまり仁とは何かが問題になります。
2仁とは何か?
釈尊は相手に応じて法を説く「対機説法」を行いました。孔子も礼楽を学ぶ弟子の個性に合うように仁を教えています。「巧言令色鮮矣仁」「剛毅朴訥近仁」等は,ぶきっちょで真面目な男に自信を付けさせる言葉です。樊遲は決して英才ではなかったのですが優しくて誠実だったことが,樊遲が孔子に仁とは何かを尋ねた際の,「人を愛す」という孔子の答えから良く分かります。
「忠恕(まごころとおもいやり)」に常に心掛けるように曾子に諭していたのは,曾 子が冷たい男だったからではなく,その反対に大変真心と思いやりに溢れた人柄だったからなのです。だから忠恕の道を貫くことが一番大切だと言われると,我が意を得たりと,師に対する尊敬は強くなります。人間は心の何処かに自分が一番分かっているつもりでいますから,自分と同じ考えを述べてくれる先生は最高だと思ってしまうものなのです。
また克己心が強く,求道的でしかも「一を聞いて十を知る」逸材だった顔淵(顔回)には,「克己復礼」が仁であると答えました。そして顔淵への期待を籠めて「一日克己復禮,天下歸仁焉」と唱えたのです。つまり普通の人間なら自分のわがままを克服して,きちっと行うべきことを行っても,天下がどうなるものでもありませんね。腰の座らない遊び人だった男が,いい嫁さんをもらったので,途端に真面目に働くようになっても,世間はほっとするだけです。ところが顔回のように,孔子でもとても真似が出来ない程「克己復礼」してきた男が,なお己のわがままを克服しなければと励んでいるのですから,もしそれが成就できたら,みんな感動してしまって仁に外れたことは恥ずかしくてできなくなります。つまり「天下は仁になつく」のです。
師の期待にもかかわらず,願淵は夭折(若死に)してしまいます。その時,孔子は「噫天喪予,天喪予(ああ天我を滅ぼせり,我を滅ぼせり)」と号泣したのです。ホッブズが自然法の中でも特に重視した「万人の法」にあたる「己所不欲,勿施於人(己の欲っせざるところを,人に施すことなかれ)」や,「バイブルの黄金律」にあたる「夫仁者己欲立而立人,己欲達而達人(それ仁者は己立たんと欲すれば人を立たす,己達せんと欲すれば人を達す)」も仁の説明に使われています。自分が相手の立場にいたら自分はどうしたいだろう,どう人にしてもらいたいだろうと,自分の身に置き換えて考えて,相手の為になるようにしたいと思う心が仁なのです。
有若の言葉「孝弟也者,其爲仁之本與(孝悌なるものは,それ仁の本たるか?)」は,中国で発達した家父長家族制の伝統に立脚して,「孝」を重視する儒教の根本を示しています。家で両親を大切にし,両親に仕える気持ちで,勤めで君主を大切にし,君主に仕える,また家で兄を尊重し,兄に従順であるように,勤めや社会で先輩や目上の人を尊重し,従順にすれば,世が乱れるような心配はないとしたのです。
3徳治主義
でも徳治政治実現への道は開けてきません。何故なら儒家が広めようとした礼楽の復興は,周の時代の秩序に則ったものですから,下剋上が進んでしまった時代には合いません。もし孔子が権力の中枢に近づけば,新勢力によって排除されざるを得ないのです。魯の国で失脚した孔子は諸国を渡り歩くことになってしまいました。
それに儒家を宰相にしますと礼楽に乱費され,君主の徳を磨くように干渉されて,煩わしいことになると警戒されました。ですから最も高潔で優秀な人材であった顔回は,どこからもお呼びが掛からず,「人不知而不慍,不亦君子乎(人知らずしてうらみず,また君子ならずや)」と孔子から慰められていたのです。孔子にすれば道が行われる可能性の無い国で,認められて徳治政治をしようとすれば必ずあやめられてしまいます。「君子危うきに近寄らず」です。無道の国で権力を振るっているのは悪い奴なのです。孔子は徳が通じなくなった時代に敢えて徳を高く掲げました。
ややもすれば権謀術数で権力を握ってから,自分の理想を実現すればよいという考えに傾きがちです。でも力で取った権力は力で奪われます。いったん徳を投げ捨てて信頼を裏切った為政者に対して,信頼して協力する臣下や人民はいません。徳治政治は君主の徳に人民がなつくことによってはじめて成り立つのですから,まごころとおもいやりを「一以貫之(いつもってこれをつらぬく)」他なかったのです。
4
『墨子』では隣家の柿を盗んだだけで,手を切られたりする重罰に課せられるのに,隣国に侵略し,大量に人を虐殺し,財宝を略奪しても英雄視される戦争の理不尽さを告発しています。敵国の河の上流に毒を流し,混乱に陥れて国を奪うなど当時の戦争の残酷さもリアルに表現されています。墨家の兼愛は,小国を大国の侵略から守り,平和を実現しようとした「非攻」の実践と一体だったのです。墨家集団は防御のスペシャリスト集団として大活躍しましたから,しっかり守ることを「墨守」というようになったのです。また節用(節約のこと)や献身的労働を説き,王が先頭に立ってもっこを担ぎ,ひとりの餓死者も出さないように連帯することを呼び掛けたのです。「みんなは一人の為に,一人はみんなの為に」というのが兼愛精神なのです。これに対し儒家は自分の親と他人の親の区別も出来ないのは禽獣にも劣ると攻撃しました。
墨家が小国を大国の侵略から献身的に防衛することによって,天下は平和になったでしょうか。かえって大国による天下統一の妨げになり,戦国時代が終わらないという自家撞着に陥ってしまったのです。そこで墨家の中には秦の平定した土地に要塞を築いて,秦の天下統一を手助けする秦墨まで現れ,分裂しました。もちろん秦にすれば天下統一が成功すれば,墨家は不要で邪魔なだけですから,結局滅亡させられてしまいます。
5五倫の教え
家臣は君主から封禄をいただいているものですから,君主の命令ならどんな事でも従うのが当然のように思われがちですが,本来は君主が義を行うことに共鳴して,それを助ける為に仕えている筈です。君主がもし不義を行おうとすれば,身を挺してでも諌めるべきなのです。また人民に害を及ぼすようなら,そんな君主は追放すべきなのです。それで君臣は本当は義で結ばれているという思想は,謀叛を容認する思想として日本の江戸時代には本居宣長などの国学者から評判が悪かったのです。
夫婦はつい馴れ馴れしくしがちですが,夫は社会的仕事があり,妻は家庭を守るというようにはっきり区別すべきだということです。妻が夫の仕事に口を出しますと縁故・情実で仕事が左右され,公正な仕事が出来なくなり,国を滅ぼす原因になりかねません。「雌鶏が鳴いたら国が滅びる。」という諺があります。
年下の上司が年上の部下に横柄な態度をとって,顎で使っているのを見掛けるのは厭なものですね。たとえ部下でも年長者には丁寧な言葉で話し掛け,何かにつけて経験豊富な年長者に相談し,大切に扱えば,年長者は惨めな思いをせずに済み,ますます若輩の上司を慕い,献身的に貢献しようとします。そういう上司の元には安心して働けるので人材が集まるのです。これが「長幼有序」です。
友達を無くすのは淋しいので,つい相手の嫌がることは言わないで,遊興の相手ばかりしてしまいがちです。でも本当の友達なら包み隠さず,言うべきことを言わなければなりません。そして共に義を行う誠の心で結ばれているべきです。「朋友有信」と言います。
孟子の性善説は「四端説」と言います。人間であれば皆四端があり,それを拡張すれば聖人の徳である四徳に到達できるとしました。人間にはだれでも他人が不幸になるのをみて,放っておくに忍びなく思う「惻隠の心」が起こります。この心を大切に育てれば,聖人の徳である「仁」に到達できるのです。人間にはだれでも義に悖るさもしい行いをすれば,悪い事をして恥ずかしいという「羞悪の心」が起こります。この心を大切に育てれば,聖人の徳である「義」に到達できるのです。人間にはだれにもお年寄りに席を譲ろうという「辞譲の心」を持っています。この心を拡張していけば,聖人の徳である「礼」に到達できます。人間なら誰でも自分の行いを振り返って,仁・義・礼に悖るいけない事をしたのではないかと自問する「是非の心」を持っています。この心を拡張していけば,聖人の徳である「智」に到達できるのです。
四端 |
拡張⇒ |
四徳 |
惻隠の心 |
拡張⇒ |
仁 |
羞悪の心 |
拡張⇒ |
義 |
辞譲の心 |
拡張⇒ |
礼 |
是非の心 |
拡張⇒ |
智 |
孟子が性善説を唱えたのは,人間の心はみんな共通であって,みんなが共通の価値観を抱き得るという確信からです。仁は,真心や思いやりであり,他人の不幸を忍びがたい心ですが,そうした心やそれに基づく行動は,だれしも共感を抱くものです。仁義礼智忠信孝悌はどれもそのような普遍妥当性を持つ価値です。それらは人間としての誰でも持っている良心を育てていけば,誰だって身に着けることができる徳なのです。聖人だってだから誰でも努力次第で成れるのです。つまり庶民も聖人も同じ人間だという自覚があります。この聖人と庶民の共通性,相互理解の可能性に基づいて,仁義に基づく王道政治の現実性を主張できたのです。
でもわざわざ性善説を唱えるのは,そのような普遍妥当的価値が次第に通用しなくなったからです。それぞれが自分勝手な価値観をもち,行動様式を取るようになったいたのです。そうなりますと後は力で為政者の制定した法に服従を強制して,無理やり従わせるしかないのです。それでは心から為政者を尊敬して,為政者に従うことにはなりませんから,平和は長続きしません。仁義に基づく王道政治実現という道義こそ普遍性があり,その為にこそ人間は生きるべきだという道義主義的な人間観を抱いていたのです。
荀子によれば人間は生来,欲望に衝き動かされて,
☆「利を好む」だから「争奪生じて辞譲滅ぶ」
☆「憎しみ合う」だから「残賊生じて忠信亡ぶ」
☆「耳目の欲,声色を好む」だから「淫乱生じて礼義文理亡ぶ」
としました。そこで聖人が出て,礼を定めて人民を矯正しなければならないのです。「師法の化・礼義の道(みちびき)」⇒「辞譲に出で,文理に合し,治に帰す」という論理です。性善に信頼せずに,礼を定めて人民を教化して,支配するという発想は,戦国時代の厳しい治安状態を反映しているのです。この荀子の現実主義は,古典的法治主義を唱えた法家に引き継がれることになります。
荀子の特長として人間を突き放して冷静に客観的に捉え,その上でどうすればそれを良い方向に変えられるかを科学的合理的に捉えきろうとした事が上げられます。人間を社会的動物として規定し,環境や教育の影響を重視し,呪術等の迷信を退け,啓蒙の意義を強調したのです。それで古代における中国最大の唯物論者として新中国では高い評価を受けてきました。
そこで本当の「道」というものは人間が対象的にこうだと規定できるものではないと主張して,「道」自体を体得すべきものとして捉えたのが道家の立場だったのです。対象的に捉えないで,体得するとは例えば「水練」みたいに強いて訓練的に体得しようというのではありません。「無為自然」を強調しますから,怖がらずに自然に身を任せれば泳げるということです。自然と自分を対峙するんじゃなくて,自然と融合すれば良いのです。「人為」的に何かをしようと身構えないことが大切なのです。孔子の場合,周礼の復活を目指して,どうしたら各人を礼に到達させられるかという目標がありました。その意味では人為的だったのです。道家は文明それ自体を人為として退けて,自然にかえり,自然のままに生きることにテーマを見出したのです。
自然のままに生きている獣たちは儒家のように家族愛を教えなくても,家族で仲良くしたいものは仲良く助け合っているし,家族を大切にする余り共食いするなんてこともありません。自然の摂理によって種の保存をはかっています。それを別愛か兼愛かの二者択一の問題にするから,無用の争いが起きるんです。
ただしここで学問的には「偽」の意味でひっかかります。何故なら老子は荀子より古いとされているのですから,「偽り」ではなくて,「人為」の筈だからです。でも文脈からみて「偽り」としかとれません。春秋戦国時代に流布した資料は現存していないのです。みんな漢代以降の資料なんです。盛んに加筆訂正が行われたと見られていますから,後代に「大道廃有仁義」の後に「慧智出有大偽」を充実させたのだろうと推測されます。
「仁義」や「忠孝」という儒家の型に嵌まった人為的な人の道が間違っていると言うのです。そういう言葉によって「仁義」の為,「忠孝」の為と人は「善行」に励み,さかしらに基づく人為を重ねて文明や国家を築き,揚げ句の果ては果てし無い醜い争いを繰り返すようになりました。だから,「絶聖棄智,民利百倍,絶仁棄義,民復孝慈,絶巧棄利,盗賊無有」(聖人君子など根絶して,彼らが説いたさかしらな智恵など棄ててしまいなさい。そうすれば人民の利益は百倍する。仁者と呼ばれる善人ぶった連中を根絶し,正義を振りかざすのをやめなさい。そうすれば人民は自然に両親を大切にし,人を慈しむようになるんだ。文明を生み出す技術者を根絶し,富を生む基になる儲けを棄てなさい。そうすれば盗賊なんかでてこない。)と続けています。
文明を否定し,その元となる欲望を少なくすることを説いて,「小国寡民」を良しとしています。現実の戦国時代は戦争を終わらせ,天下を統一させる方法を求めていたので,『老子道徳経』のような隠世的な思想はやる気を失わせるので,排斥されるでと思われるかも知れませんが,実際は『論語』などでも隠世家にはかなり好意的です。隠世的な思想は,義や智を争うのではなく,義や智そのものを相対化する働きを持っています。必死になって守ろうとしている義をいったん無意味なものとする事によって,発想の転換や局面の打開が可能になるんです。
それに建前によって見失われていた,自然のままの本音の解放も可能になります。融通無碍に物事へ対応しなければならない時には,隠世的な思想が大いに参考になります。だから同一人物が口では儒家の言を唱えながらも,実際の心の内や行動では道家の言に従う場合もあり得るのです。特に浪士は,一方で学問や武芸に励みながら,他方で精神安定の為に道家に親しまないとやり切れなかったでしょう。
ところでそもそも「道(tao)」とは何でしょう?書き出しに「道可道,非常道,名可名,非常名,無名,天地之始,有名,万物之母,故常無欲,以観其妙,常有欲,以観其徼,此両者,同出而異名,同謂之玄,玄之又玄,衆妙之門」とあります。先ず最初から読めませんね。「道の道とすべきは,常の道にあらず。」でいいのでしょうか?「道の言うべきは常の道にあらず。」と読む解釈もあります。「道」は動詞だと「言う」という意味になります。どちらも主旨は同じ様なものです。「道はこれが道だと語れるようなものではない。語ってしまえばそれはもう不変の道とは言えない。」続く「名可名,非常名」も同様に「これが正しい名だと名付けられるような名は不変の名とは言えない。」という意味でしょう。
正しい名を付ける事が世の秩序を正しくする根本だと考えた荀子のような人々は,名実一致を追求しました。しかし道家では対象化され,名付けられた事物は,事物の本来の姿ではないんです。本来の姿は主・客未分化な事態としての「道」だというのです。だから対象化できず,従って名付けられもしないものです。ですから,名実一致を巡って言い争うのはナンセンスだと主張しています。
「無名,天地之始,有名,万物之母」は「名状しがたいカオスから天地が出現した。物事を対象的に区別し,名付ける事によって万物が生まれる。」と解釈します。 「故常無欲,以観其妙,常有欲,以観其徼」はこう解するのが正しいでしょう。「だから常に無欲によって主観・客観の区別を去って始めて,道を感得して,『妙』を観ることができる。常に欲があって支配すべき対象として物事を外から捉えようとすると,その外面(そとづら)である『徼(きょう)』しか観ることが出来ない。」
「此両者,同出而異名,同謂之玄,玄之又玄,衆妙之門」はこういう意味です。「主・客未分化な無名も,客観的に物事を区別する有名も,同じものの働きから出ている。その働きの違いによって名を異にするのだ。この同じものを,何が何だか名付けようがないから『玄』つまり『真っ黒け』としか呼びようがない。その玄が出てくる元の玄からありとあらゆる『妙』が出て来るんだ。」
「道」は,何もかも其処から生じ其処に帰る大本であると同時に,現実に様々に起こっている出来事の総体でもあります。人間はそれを己のちっぽけなさかしらや浅ましい欲望から,あれこれと解釈して,自分の都合のよいようにと考えるから,ああでもない,こうでもないと議論して争うことになります。「道」はそんな思惑や期待などは全くお構いなしで「不仁」です。王たる者は,この「道」に逆らわずに,欲望やさかしらを去って,「無為自然」に振る舞えばよいのです。そうすれば,人間の本来の自然である「道」のままに,その雄大な営みを楽しむ事が出来るということです。
ところで「無為自然」に振る舞うというのはどういう事でしょう。欲望を否定的に扱っているので,何もしないでぼうっとしているのが良いような印象も受けるかも知れませんね。欲は「道に逆らって,勝手な欲望を実現させようとする事」を意味すると解釈すべきです。「上善は水のごとし」なのです。何もしないのではなくて私心なく,皆のために尽くしてしかも,人と争わないで,人の下に回る。これを「不争謙下」と言います。そういう人こそ政治を善く行い,物事を立派になし遂げることが出来るといいたいんです。だから決して消極的な人間を理想化していたわけじゃないんです。
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これは「無為」についての捉え方にも言えます。老子の無為・外に対する態度としての無為を説きます。処世の智恵として無為が保身に最上なのです。荘子の無為・内なる心の無為,つまり無心を説いています。生きているということを忘れ,身の束縛を捨てて自然のままに生きる解脱の智恵としての無為を説いているのです。いわば「絶対的な生」の立場なのです。
荘子の特徴は万物斉同論だと言われますが,万物は皆等しく同じだというのはどのように解釈すればよいのでしょうか。物事や行いの是非についてかまびすしい議論が儒墨間でなされていました。これに対して現実の矛盾や対立,是非,善悪はより大きな立場から見れば,どちらでも良いことで,その違いなど好悪愛憎の妄執による狭い了見から生じた分別知の産物に過ぎないのです。
鯤(魚の卵)が三千里もの大きさの鵬になって遙か上空に舞い上がるとすべての事物の区別,是非の相対性が明らかになり,絶対的な一が実感されるでしょう。これが燕雀には理解しがたい「真人」の境地なのです。あれとこれ,大小,生死,可不可,是非は相関的で相対的だから根源的には同じものです。だから「天地一指也,万物一馬也」と説かれます。あらゆる妄執は自分および自分の身体に固執していることから生じます。それらから自由になることを荘周は,次の「胡蝶の夢」の詩に託しています。
「昔者荘周夢爲胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志與。不知周也。俄然覺則遽遽然周也。不知周之夢爲胡蝶與。胡蝶之夢爲周與。周與胡蝶則必有分矣。此之所謂物化。」「昔は荘周,夢で胡蝶だった。ひらひらとして胡蝶だ。自分で楽しんで志に適っていた。自分が荘周だということも知らなかったのだ。俄に目覚めればまぎれもなく周だ。周の夢で胡蝶になったのか,胡蝶の夢で周なのかは知らない。それが周と胡蝶とは必ずけじめがあるとされているのだ。こういうのを物化というんだ。」
「夢で胡蝶になって楽しんでいた」というのはありそうな夢ですが,「胡蝶の夢で荘周」という発想は凄いですね。夢と現実の区別も,胡蝶と荘周の区別同様相対的なものになっています。ところで「物化」というのはどういう意味でしょう。本来一つの事態,道であるのに胡蝶や荘周という物に分けて,その区別に固執する事を意味しているのでしょうか。その解釈は現代哲学の認識論で,主観・客観図式を超克しようとする人が,第一義的存在は事態で,物は事態を主観・客観的な図式に当てはめて説明するために,便宜的に用いているに過ぎない機能的な概念だという主張と一致します。道家の立場は確かに主観・客観図式を超克しようとする点では,現代哲学の物化論と共通します。でも「物化」概念は,福永光司によるとむしろ正反対です。荘周は,「物化」を「いっさいの存在が常識的な分別のしがらみを突き抜けて,自由自在に変化する」事と捉えているそうです。
「万物斉同論」と並んで,荘周は「無用の用」を説きました。これは無用なものでも使い途が有るという意味よりも,むしろ無用と思われているからこそ真の用がある,という意味です。大き過ぎて使えない瓠(ひさご=瓢箪)を恵施は棄ててしまいますが,荘周なら江湖に浮かべて船にして遊ぶ,節くれだって材木として使えなくて大木になってしまった樗(あうち)は何にもない郷に植えて,その下に憩う。有用なものは若くして伐られるが無用なものは永らえて真に有用なものになるんです。
足切りの刑をうけた者や無類の醜男,びっこでせむしでみつくちを登場させ,形骸や有用性にとらわれない生き方に共鳴しています。戦国の世の中に自分の徳や才覚を示し,物事の是非を論じて正義貫こうとすることほど殆い事はありません。隠世家の生き方こそが無用の用に適っているんです。
狂接輿という隠世家に孔丘(孔子)が次のように警告されています。すごい名文ですから,よく味わって下さい。「鳳兮鳳兮,何如徳之衰也。來世不可待,往世不可追也。天下有道,聖人成焉。天下無道,聖人生焉。方今之時,僅免刑焉。福輕乎羽,莫之知載。禍重乎地,莫之知避。已乎已乎,臨人以徳。殆乎殆乎,畫地而趨。迷陽迷陽,無傷吾行。吾行郤曲,無傷吾足。山木自冦也,膏火自煎。桂可食,故伐之。漆可用,故割之。人皆知有用之用,而莫知無用之用也。」
現代文に直してみましょう。「鳳よ鳳よ,(治世には現れて乱世には隠れる瑞鳥の筈なのに,こんなに不用心に現れてくるとは)何とお前の徳の衰えたことか。将来に望みを託したり,過去の追想に耽っても仕方がない。天下に道があれば,聖人は王道政治を成し遂げるが,天下に道が無ければ,聖人は隠れて一人で生きたものだ。まさに今の争乱の時代は,刑罰から免れるだけでよしとしよう。そう悟れば,幸福は羽より軽いのに,これを拾い上げる術を知らない。禍いは地より重くのしかかるのに,これを避ける術を知らないのだ。止しなさい,止しなさい人に徳を示し,教えるのは。殆いよ,殆いよ,地面を区切って,その中を走るというような規範主義の考えでは。馬鹿に成れ,馬鹿に成れ,そしたら怪我をすることはないだろう。後退し迂回して進んで行けば,自分の足に傷はつかない。山の木は有用なので伐り倒されて自ら禍を招き,膏火は明るいので自ら身を焦がす。肉桂は食用になるから伐採され,漆は塗料となるから割かれるのだ。人はみな有用の用のみ知って,無用の用を知る者は誰も居ないのだ。」
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荘周は,また禅に通じるような「坐忘」という言葉を考え出しました。「坐忘問答」として知られています。それは顔回と仲尼(孔子)の問答になっているんです。儒家が道家の神髄のような事を語るのはイロニーとも取れるますが,建前の部分を儒家が,本音の部分は道家が代弁したとしますと,孔子の本当に言いたかったのはこれだというのが,荘子の孔子への思いかもしれません。
「顔回日。回益矣。仲尼日。何謂也。日。回忘仁義矣。日可矣。猶未也。它日復見日。回益矣。日。何謂也。日。回忘禮樂矣。可矣。猶未也。它日復見日。回益矣。日。何謂也。日。回忘坐忘矣。仲尼蹴然日。何謂坐忘。顔回日。堕枝體。黜聰明。離形去知。同於大道。此謂坐忘。仲尼日。同則無好也。化則無常也。而果其賢乎。丘也請従而後也。」
顔回「回は進歩しました。」 仲尼「どういう意味だ。」 顔回「回は仁義を忘れました。」仲尼「よろしい,でも未だ足りない。」他日又会って 顔回「回は進歩しました。」 仲尼「どういう意味だ。」 顔回「回は禮樂を忘れました。」仲尼「よろしい,でも未だ足りない。」他日又会って 顔回「回は進歩しました。」 仲尼「どういう意味だ。」 顔回「回は坐忘しました。」 仲尼改まって真剣に「坐忘とはどういう意味だ。」 顔回「身体への拘りを棄て,さかしらな人智を斥け,形を離れて対象的な知を去ります。そして大いなる道と合一するのです。これを坐忘というのです。」
仲尼「道に合一すれば物事を対象的に捉えて好んだり憎んだりすることはない。また自分の身体的な限界を越えて他のものと一つに化することができるなら,囚われ ことはなくなる。而(なんじ)は果たして賢者だ。私は而の教えを請うことにしたい。」
保井 温の関連著作紹介
「第九章 諸子百家の人間観・道義主義的人間観・第一節 礼樂の復興を目指して 人間教師,孔子」(『月刊 状況と主体』1993年4月号)
孔子は王政復古を目指し,周の礼楽の復興に尽くした。その際最も重んじたのが礼楽の精神としての「仁」であった。それは教える相手によって異なっている。そこに人間 教師としての孔子の本領があった。また孔子の反動的限界を示す逸話として「顔回の柩 」を巡る論争を紹介。
「第二節 王道政治を求めて・性善を信じた孟子」(『月刊 状況と主体』1993年5月 号と6月号)仁義に基づく王道政治の実現を求め,諸国を遊説した孟子は性善説を説き,人民を信頼する人民本位の政治を勧めた。そして道義に生きる事に意義を見出す道義主義的人間論を示した。その普遍妥当的価値を評価する。 「第三節 実践的人間論の試み・荀況の社会的人間論」(『月刊状況と主体』1993年8月号9月号)
荀子は欲望に基づいて人間の本性を捉え,性悪説を唱えたが,それは人間改造の実践的人間論の試みであった。荀子の科学的な社会的人間論を再評価した。