第十四章 ドイツ観念論哲学

                          1『純粋理性批判』

 カント(17241804) 1781年に『純粋理性批判』を世に問いました。それは独断的な既成の哲学をトータルに批判して、理論的な理性の届く限界を現象界に限定しようとしたものでした。ロックは,時間,空間,質量等,物それ自体が持つ属性を事物の第一性質とし,そして色彩,軟硬,音,臭い等,感覚を通して知覚される性質を事物の第二性質としました。

 ロックのいう事物の第二性質だけでなく,時間・空間等の第一性質も感性的直観の形式だとカントは主張したのです。カントは事物の属性はそれと同種類の事物には属しているが,それと異なる種類の事物には属していない筈だと考えました。もしどの種類の事物にも共通する性質なら,それは事物の属性ではなく,かえって事物を認識する主観の形式だと考えたのです。

 確かに時間・空間は全ての事物が存在する形式ですから,主観にかけられている共通の眼鏡なのです。例えば眼鏡に赤色を塗りますと,その眼鏡を通して見える事物は全て赤みがかっています。この赤みは事物の属性ではなく,主観の側の眼鏡の色に過ぎません。それと同様に空間や時間は事物を捉える統覚の形式なのです。

 これまで客観的な事物の属性だと考えられていた時間・空間を 180度逆転して, 主観の統覚の形式だとしたのですから,これは天動説から地動説に転換したコペルニクスの転換に匹敵すると自認し,カントは自らの認識論上の革命をコペルニクス的転換だと自賛したのです。

  とはいえ客観的な事物の認識であるかぎり、単に主観的な経験でしかないのではありません。その点はヒュームの懐疑論を克服しています。仮象ではなく,あくまで事物の現象に関する認識なのです。しかし先天的な統覚の形式によって制限されていますから,物自体に関しては不可知論の立場を取ります。

  この理性批判によって,これまでの神学や哲学が無理な独断的な誤謬推理によって展開してきた領域を,不可知だが実在するものの根拠や実践理性の要請として考えたり,信仰したりできる対象として措定したのです。

                  2『実践理性批判』 

  人間は自分が幸福になる為に,欲求充足や利益追求の傾向性に基づいて行動します。しかしルソーの一般意志の立場のように特殊利害を抑制して公共の福祉の為に行動することも必要です。カントは,1788年の『実践理性判』では,後者の場合のみ道徳性が認められると唱えました。ルソーの立場では、行動基準である法は全員参加の集会で決めなければなりませんでしたが,カントはこれを道徳の領域に移して,良心に従って,自己立法を遵守することつまり自律を求めたのです。

 そして自己立法の内容は次の命題に則るべきだとしました。「汝の意志の格率が常にそして同時に,普遍的立法の原理に合致し得るように行為せよ。」何かなそうと意志するとき,いつでもどこでも誰に対しても妥当するような,普遍的な妥当性がある,人間として当然そうすべきだと思われる自然法に則った行動をせよということです。もちろん人民集会で決めるのではなく,自分自身で自分に対して決めるのですから,自然法の内容は自分自身の判断に全面的に任されています。その上で自分が正しいと確信する行為をする責任があるわけです。

 カントは,傾向性を抑制して道徳的義務に従おうとする意志を善意志と呼び,「無条件に善なのは善意志だけである。」としたのです。たとえどんなに自己犠牲的で博愛的な行為であっても,その行為が善なのは善意志に基づいている場合だけです。別の動機で行えば,どんなに英雄的な行為に見えても偽善に過ぎないのです。それでカントの倫理学は厳格な動機主義とされます。

 ですから行為の内容や外見で,その行為の道徳性を云々すべきではないということになります。ところで動機は厳密には他人には窺い知れないものですから,他人の道徳性を批判したり,自己の道徳性を他人に主張するのはナンセンスということになりますね。そういう意味で自己立法の主体も自己審判の主体も己自身でしか有り得ないわけです。

 カントは命法を,「もし〜ならば・・せよ。」という条件付きの仮言命法と無条件に実践理性の命令に応える定言命法に分けます。後者に従って義務を果たそうとすることによって人間は自律的人間である人格となるのです。つまりソクラテスのように内心のダイモニウムの叫びには逆らえないのです。このダイモニウムをカントは「実践理性」と呼んだのです。

                  3「目的の王国」の住人 

 人間の尊厳は,「実践理性」によって主体的に行動する人格たるところにありますから,カントは「人格は決して単なる手段とされてはならず,それ自身が同時に目的とされるべきである。」と説き,互いに人格として尊重し合う社会を「目的の王国」と呼んで,常に「目的の王国」の住人のように生きるべきだと説いたのです。

 国際社会の関係も互いに国家同士が尊重し合うべきだと説き,集団安全保障体制としての国際機構の設立とその下での完全軍縮を目標とした『永遠平和のために』を著し,恒久平和の実現を目指したのです。

 カント自身はたとえ神が存在せず,魂も肉体と共に滅びるとしても,あくまで道徳法則に対する尊敬の気持を失わなかったでしょうが,現世の現象界の遍歴を終えた魂が,不滅であって,魂だけの世界で傾向性に邪魔されずに清らかな永遠の交わりを出来ることを,実践理性の要請として求めたのです。つまり宗教は道徳からの要請として成立するのです。

 物自体が不可知なように,神や魂も可想界に属すので純粋理性では,神や魂の不死は論証できません。むしろ神の実在や魂の不死は理論的には全く背理なのです。でも時間・空間を超越した,人間の統覚では掴みきれない形而上学的な可想界に不可知なものが存在するのを否定することもできません。それで信仰対象としては実践理性からは,両者ともとても有意義な思想なのです。実践理性すなわち人間の霊魂は,身体と共にあることで現象界の傾向性にとらわれがちですが,同時に心の中の神の国のような,それ自身不滅の世界にも属しているとカントは信じたいのでしょう。

                 4フィヒテ・絶対我の哲学

 カント哲学では,経験的世界と超経験的世界,自然と道徳,つまり理論理性と実践理性が二元論的に対立しています。これを実践理性の優位の立場に立って克服しようとしたのがフィヒテ(17621814)です。彼は『全知識学の基礎』で一切の認識は実践的な自我の働きによるとしました。そして個人的な自我の根底に超個人的精神としての絶対我を置いたのです。個人的な自我も非我である自然対象も,この絶対我が自己実現を目指してつくり出したものなのです。個人的自我は真の自我を実現する為に,対象的な非我の阻害を克服しなければなりません。この理想実現の営みこそが道徳的善なのです。彼は『ドイツ国民に告ぐ』で,ナポレオン軍に占領されたドイツ国民の士気をたかめ,民族的自覚の高揚を計ったのです。            

           シェリング・美的観念論とロマン主義

 フィヒテでも対象的自然は非我として自我にとって,やはり対立的な面を持っていました。シェリング(17751854)は,『先験的観念論の体系』で,対象的自然の中に絶対者を直観的に把握する美的な働きが最高の徳だとしたのです。この「美的観念論」に立てば,存在と思惟が同一であることになり,「同一哲学」が打ち出されます。シェリングのいう絶対者とは自我と非我,精神と自然,主観と客観の根源にあって,自我と非我,精神と自然,主観と客観も同じ絶対者の現れに過ぎません。だからこそ我々は知的直観や美的直観によって絶対者を感得できるのです。

 シェリングによれば,自然は知覚の対象になりうる精神であり,精神は知覚の対象とならない自然です。自然と精神はポテンツの量的な差異に過ぎないのです。そこで絶対者の自己展開として自然の発展を捉えました。絶対者は先ず最も低いポテンツとしての力学的物質の段階から,磁気・電気・化学過程の段階を経て,有機的生命の段階へと姿をあらわし,自己意識をもつ人間の精神である最高段階に達するのです。つまり人間の意識は自然の自己意識なのです。               

 生ける有機的自然との美的・直接的な一体感は,当時のロマン思潮と深く結びついていました。18世紀は理性万能で,主観と客観の対立に固執し,自然は意志や感情をもたない無機的な力学的自然として捉えられて、数学的合理主義によって普遍的・法則的な傾向に還元されてしまっていたのです。これに対する反動として18世紀後半から19世紀初頭にかけて直接的・個性的感情を取り戻し, 芸術的・宗教的感情を大切にして, 自由な創造精神を解放しようとするロマン主義文芸が盛んになったのです。この影響で哲学でも主観・客観の合一を目指し, 自然を人間をも包摂する生ける全体として捉える有機的自然観を再評価する傾向が強くなったのです。シェリングは晩年にはへーゲルの否定(消極)の哲学を克服して,肯定的な積極哲学を展開しました。 

       6へーゲル哲学の成立と『精神現象学』

   カントが物自体の認識が不可能だとしたのは,人間の認識が有限者の認識だからです。しかし人間の認識には浅い表面的な認識もあれば,深い本質的な認識もあります。このように人間の認識を発達するものと捉えれば,やがて絶対者の認識に到達するのではないだろうかとヘーゲル(17701831) は考えたのです。もっと正確に言えば人間の認識は絶対者の認識の一段階ではないかと考えたのです。

 われわれは自分たちの認識を個人的な認識とだけ捉えがちですが, 自然や社会の中でさまざまな働きかけを受けて認識が行われています。ですから単に個人的な認識作用に止まらないで, 人間社会や自然の営みにも含まれているのです。このような全体的な認識の運動があると考えますと, 個人的な認識と考えていたものが絶対者の自己認識の一段階を構成することが分かるのです。  

 ヘーゲルは意識が様々な経験を積み,感覚的な確信から絶対知まで遍歴し,成長していく過程を,学への導入として『精神現象学』(1806) に著しました。それぞれの段階で それ自身に即した意識=即自」と「自己に対した意識=対自」と両者の区別を克服した意識「即且対自」という弁証法的な展開を観せています。 

        『精神現象学』目次

 (A)意識 
   感覚的確信,  おもいこみ・このもの
   知覚,     知覚・・・・物
   力と悟性    悟性・・・・力,法則

 (B)自己意識
   自己意識だという確信の真理 自己意識・・他者
   A自己意識の自立性と非自立性 主・・・・・僕
   B自己意識の自由 

 (C)理性 ・理性の確信と真理
   A観察する理性     観察する理性・・自然
   B理性的な自己意識の自分自身を介する現実化  行為する理性・・現実
   C絶対的に実在的であるのを自覚している個体性 普遍的な理性

 (BB)精神 ・精神
   A真実な精神,人倫 (ギリシア的ポリス)
   B自己疎外的な精神,教養
    ・教養   ・啓蒙  ・絶対的自由と恐怖 (ジャコバンの独裁)

 (CC)宗教 ・宗教 (DD)絶対知 ・絶対知

   目次からも分かるように,個人的感覚的な意識から出発して,主観性を克服し,自然や社会を貫く精神へと発達し,最後には世界史や全ての教養・宗教を総括して絶対知に到達するのです。

              7ヘーゲルの哲学体系

  『精神現象学』で絶対知に到達した上で,ヘーゲルは絶対精神の立場に立って,哲学体系を展開しようとします。これを学の百科全書『エンチュクロペディ』と銘うちました。 

          『エンチュクロペディ』目次

       ☆「論理学」
        ・有論・・・・A質   B量   C度量
        ・本質論・・・A本質  B現象  C現実
        ・概念論・・・A主観的概念 B客観 C理念

       ☆「自然哲学」
        ・力学・A空間と時間B物質と運動 C絶対的力学
        ・物理学・A普遍的個体B特殊的個体C総体的個体
        ・有機体学・・A地質 B植物 C動物

       ☆「精神哲学」
        ・主観的精神・A人間学 B精神現象学 C心理学
        ・客観的精神・A法 B道徳性 C人倫
         C人倫・・・a家族 b市民社会 c国家
        ・絶対的精神・・A芸術 B啓示宗教 C哲学

   先ず「論理学」は絶対精神の中にある論理的カテゴリーの体系です。世界を捉える論理の体系が先にあって,自然界・人間界が現れることができるのです。絶対者の立場から観れば,論理体系も自然界も人間界も皆同じ絶対者の現れですから,思惟の体系である論理体系が先に在るとすれば,自然界・人間界は論理の顕現に過ぎないことになります。

 ところが自然界・人間界は偶然性や雑多性,曖昧性,無規則性に支配されているように観え,なかなか論理立てて説明したり,認識することは難しいのです。つまりマテリー(物質)や自然は非論理的な存在で,論理の他者として現れます。でも論理は思惟の働きによって,一見非論理的に観える事柄の中に見出されてこそ論理と言えるのです。論理は自らを見出させるために論理の他在の姿をとるのです。これは論理が他在に在って自己の下に在るということですから,論理が自己を自己に疎遠なものとして外化する論理自身の「自己疎外」なのです。 絶対精神はこうして自己を自己とは疎遠な自然界・人間界として外化しつつ,その中で経験や教養を積み論理性豊かな精神として自己を高めて,自分自身である絶対精神に発展していき,自己を取り戻すのです。

 自然界・人間界をあくまで人間的認識の対象として客観的にだけ捉え,他方で認識する人間の主観にのみ精神性を認めるデカルト的な主観・客観的認識図式では思惟と存在の一致は神への信頼に依存することになってしまいます。自然界・人間界を思惟の自己疎外とすることによって始めて,存在と思惟が一致し,全てを包括する絶対者の認識が可能になるのです。

             8ヘーゲル哲学と弁証法

   『大論理学』や『エンチュクロペディ』で壮大な体系を構築したヘーゲルの論理展開の特色は〔肯定・否定・否定の否定〕〔正・反・合〕〔即自・対自・即且対自〕などで表現される「弁証法」です。

 形式論理学では〔A=A,A≠A〕とされます。これを自己同一律,矛盾律と言います。確かにこれは自明の理と言えますが,これでは変化や発展の論理は展開できません。現実の事象は常にそれに対する否定を孕んでいます。生きているということは,他の生きているものを殺し,その死によって生命を維持する事です。

 生命という肯定は死という否定に媒介されて,死という否定を否定する生きるという営みを続けるのです。種は種でしかないとすれば,種ではありません。種を否定するものを自らの内に持っているので,種は種でなくなります。でも,種でなくなって何でもなくなると,それは種ではなかった事になります。種に対する否定を否定して芽になることで種であったことになるのです。こうして芽には種であったこと,そして種でしかなくはなかったことの両エレメント(契機)が否定的に保存されています。このように対立する両契機は次の段階で単純になくなるのではなくて,克服されながらも意義づけられ保存されることをアウフ・ヘーベン(止揚・上に揚げること)と言います。この言葉にはヘーゲル哲学の否定的・発展的な面と,保守的な面が共存しているのです。

 このように全ての事象は自らを否定するものによって前提されています。そして否定するものとの対抗によって否定を否定して,自分を保っているのです。つまりすべての事象は対立物の統一なのです。そしてこの矛盾が発展して従来の形を保てなくなりますと,否定の否定によって,より発展した段階の現実が生じるのです。この弁証法は,論理そのものの展開にも,事物の発展にも,社会的現実の発展にも見出される論理です。

              9主と奴の弁証法

  『精神の現象学』で人間の自己意識が成長し,相互に独立した人格として自立し,尊重し合うに至る過程をヘーゲルは「主と奴の弁証法」で説明しています。人間は自らの欲望を充足することによって生きていますが,限られた富の中で自分の富を獲得することに成功しなければ生きていけません。そこで人間たちは,どうしても自分の自己意識の自立をかち取るために生死を賭けた戦いに駆り立てられるのです。

 ヘーゲルによれば,死の恐怖を克服して堂々と戦った者が勝者になり,死の恐怖に怖じ気づいた者が敗者になります。その結果勝者は主となり,敗者は奴となるのです。主は奴の生命を保障してやるかわりに,奴は主に絶対服従しなければなりません。主の為に奴は全ての財を生産し差し出さなければなりません。

 でも生産を通して,奴は経験を積み,物事の道理を知り,道具の扱い方や生産機構の動かし方を知り,実質的な支配者に成長します。これに対して主は奴に依存して享楽と消費に身を持ち崩してしまうのです。このような主と奴の逆転を通して,主と奴という自己意識の自立性と非自立性の段階を克服して,独立した自由な人格の相互関係が成立するのです。

 最近フランシス・フクヤマが「主と奴の弁証法」に関するコジェーブの独特なヘーゲル解釈を用いて『歴史の終わり』を論じて話題を集めました。しかしヘーゲルは主と奴の対立が無くなって,均質的な独立した諸個人の時代になれば「歴史が終わる」とは決して言っていません。自己意識が非自立性を克服して自由な人格になる過程を,象徴的に表現したのが「主と奴の弁証法」なのです。ヘーゲルによれば歴史は,国家が国家の概念に相応しいものに発展する過程です。国家の前提に,ヘーゲルは自由な独立した諸個人の「市民社会」を想定しています。市民社会での諸個人の利害を自由の理念である法の実現によって調整するのが国家なのです。へーゲルは歴史は自由として自己を実現する絶対精神の自己展開であると主張しました。 

            10家族−市民社会−国家 

 『精神の現象学』によれば,精神の内容は,個々人の精神としての主観的精神に止まっていては何も実現できません。それは人倫に具現している客観的精神として通用しなければならないのです。しかもそれは単なる一時的な,部分的な,固定的なものであってはなりません。歴史を貫いて発展する理念を体現したものであるというように自己を高めなければならないのです。

 カントは道徳的な意識に関しては動機主義で,主観的な善意志だけしか無条件には善と認めません。しかし主観の真理に固執して,それと両立しない既成の人倫的な慣習や伝統的文化を破壊するのは,ヘーゲルに言わせれば,特殊の立場に固執するので「悪」なのです。現実に通用している文化はそれなりの根拠を持ち,現実を貫く理性を担っているからこそ通用しているのです。『法の哲学』では「現実的なものは理性的であり,理性的なものは現実的である」とされたのです。

 人倫はまず,感性的な直接態としての家族の形を取ります。ヘーゲルの想定している家族は夫婦とその子を単位とする近代的な単婚小家族です。家族は「愛の共同体」なのです。夫婦は愛によって,精神的にも自然的(肉体的)にも結ばれます。そして愛の証としての子供達を共同で育て上げます。その為には家産が必要です。それは市民社会の中で職業を通して手に入れなければなりません。

 市民社会では経済的合理性が支配しますから,いかに最小限の努力で最大限の富が獲得できるかという悟性が重要です。市民社会の富は有限ですので,ホッブズのいう「万人の万人に対する闘争」が展開します。私人達の私利追求の場である市民社会は,分業による共同を基礎にしながらも,人倫の分裂態として現れます。アダム・スミスはレッセ・フェール(自由放任主義)で経済外強制が取り除かれれば,見えざる手が働いて調和が実現すると考えました。しかしヘーゲルは,産業革命の結果の市民社会の悲惨と混乱を観ていますから,国家的理性による調整を不可欠だと考えたのです。

 この分裂を止揚した最高の人倫態が理性的段階の国家です。国家は公共の福祉の立場に立って, 普遍的理性の立場から法を通して市民社会に調和をもたらすというのです。その為には市民社会に直接利害を持たないユンカー(土地貴族)階級が官僚となって国家を運営することが望ましいとしています。ヘーゲルは専制的な立憲君主国家だったプロイセン国家を最高に自由で理性的な国家として合理化したのです。

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