イエスの2つの決断

若山>先生の仮説では、聖霊はつきものだからくっついたり離れたりする。肉体を食べさせることで聖霊が移転する。移転先での聖霊の活動再開が復活ということにして、3日目の復活が予告されたというわけです。ということは復活を前提にして、イエスの肉や血が食べられることがあるわけです。復活があったことなど証明できませんから、イエスの肉や血が食べられたことも証明できないでしょう。
やすい>ええその通りです。ただ合理主義的解釈をしていきますと、復活まで後の教団による神格化の一環だということになりかねません。そしたらどうして、ありもしなかったイエスの復活体験を核心にした教団が、殉教を恐れぬ布教をし、世界宗教にまで発達できたのか説明がつきません。それにイエスとその使徒たちをあまりに対立的に捉え、いわれなき非難を浴びせるのは感心しません。初期キリスト教団は、内部に様々な権力闘争や教義論争を抱えていました。でも、すくなくともイエスの意志を継いで、激しいユダヤ教やローマ帝国の弾圧の中で教団を守り、内乱に訴えることなく、憎しみに対して愛を返すイエスの愛の解放戦略を実践したわけですから。
若山>もちろん初期キリスト教団を全否定しているわけではありません。現代に生きる我々が福音書の中から何を受け継ぐべきか、受け継ぐべきでないかは、我々自身が神との主体的な対話を通して選び取るしかないわけです。
やすい>その通りです。イエスの時代には、その時代や社会の苦悩を背負い、信仰の伝統を引き継ぎ、時代の閉塞を打破する為にぎりぎりの決断によって生み出された信仰があったのです。悪霊退散のパフォーマンスやイエスの聖餐も彼らの命懸けの選択だったわけです。現代人である我々は、彼らがどうしてそういう信仰に至ったのかを知ると共に、その信仰から学ぶべきものを評価すると共に、その歴史的な限界も厳しく見つめるべきです。その場合にキリスト教徒はイエスを信仰の対象にするあまり、イエスには全く無批判になってしまい、悪いところはすべて使徒たちや教団のせいにしてしまうところがあります。
若山>確かに信仰者の心理としては、イエスの悪く言われたり、イエスをけなされるのは快いものではありません。でも先生のように弟子たちに悪霊役を演じさせたり、カニバリズムを行わせたというのは、イエスに対する冒涜に思えてなりません。
やすい>それはあくまでも福音書とキリスト教会の聖餐儀礼から精神分析の結果としてでてきたものです。それらの行為はイエスが追い詰められた結果としての、ギリギリの選択でして、聖霊による救いと聖霊の引き継ぎを可能にするにはそうするしかなかったというのが、イエスの立場なんです。私はそのイエスの思いを伝えようとしているのでして、決してイエスを冒涜しているのではないのです。

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