ホーリィ・ウィーク

若山>イエスの十字架と3日目の復活を予告して、日曜日にエルサレムに入城しますが、その次の日曜日には死から復活したとされています。その間イエスは神殿で民衆に説教したわけですが、本書では、どうしてイエスの説教を聞いていた民衆がイエスを捕まえ、ローマ帝国のピラト総督に十字架にかけるように圧力をかけたのが、分かりやすく分析されています。しかしこの福音書の記事に関しても、ローマ帝国内での布教をしやすくするために,イエスの処刑を求めたのがユダヤの民衆で、ローマ帝国のピラト総督はむしろイエスを助けようと努力したように書かれています。しかしイエスの死に関してローマ帝国を免責するのは、露骨なユダヤ差別だと言われています。
やすい>それはイエス教団の活動が、ローマ帝国にとってまだ脅威ではなかったこと、むしろユダヤ教のトーラー社会を崩すものとして期待されていたことからすれば、ローマ帝国がユダヤ教社会を分断支配する上で好都合だったことから、説明がつきます。それにユダヤ教社会にとってはイエス教団は、トーラー秩序に対する脅威でしたから、ユダヤ人達はトーラーや神殿の権威を汚すものとしてイエスを告発し、処刑せざるをえなかったわけです。
若山>ユダヤ教徒たちは,ユダヤ教の歴史で見向きもされなかったことになっているイエスの死の責任をとらされて、迫害され続けたたことを不当だと思っているのです。それで福音書の記事もユダヤ人がイエスの処刑を求めたように書かれているのは、イエスを処刑したローマ総督を免責して、ローマ帝国内での布教を容易にしようとした潤色だとみているのです。
やすい>その気持ちはもっともですね。でもローマ総督がイエスをローマ帝国にとって危険人物とみなすほどには、イエス教団は影響力はなかったのです。それに対してユダヤ教社会の中では、イエスはトーラー秩序への挑戦であり、それはユダヤ社会を根底から覆すことになる脅威でした。脅威という面からみますと、イエスは悪霊を退散させるほどのパフォーマンスを行い、うわさでは死人だって蘇らせたということです。そして布教に失敗すれば、使徒たちは靴の埃りを落として町を出ていきます。そしたらその町は審判の時にソドムやゴモラのように皆殺しにされてしまうというのです。このような脅迫をして、入信を迫るイエスやイエス教団に対して、ユダヤ教社会が自己防衛のために処刑しようとしたのは、十分あり得る話なのです。
若山>福音書はユダヤ解放戦争でユダヤが敗北した後で仕上がったものです。キリスト教がユダヤ教から完全に切れて、イエスを認めなかったユダヤに対しては神の裁きが下ったと初期キリスト教団は捉えていました。それで預言者であるイエスに神の裁きの預言をさせているのです。イエスのファリサイ派に対する激しい非難や対決姿勢も、ユダヤ解放戦争後にユダヤ教がファリサイ派中心になり、初期キリスト教団を排斥したので、それとの対抗関係から生じたものです。イエスの生きていた時代にイエスがファリサイ派と対決していたというのは福音書の記述を素直に真に受けているから生じた誤解なんです。
やすい>最近の史的イエス論は、「死海文書」からイエス時代ではファリサイ派は、ユダヤ教の一派に過ぎないということで、イエス教団との対決についてもユダヤ解放戦争後の状況を投影したものという解釈が出ているようですね。クムラン洞窟のエッセネ派の遺跡から出てきた文書ですから、かなり異端的、カルト的な文書や終末論的な文書が多いわけです。それに対して都市富裕層に基盤があったファリサイ派はイエス在世時代からかなり有力であったと思います。そして特に「トーラーによる救済」を説く点で、「メシアによる救済」を説くイエス教団とは犬猿の仲であった筈です。
 福音書の記述は、ユダヤ解放戦争後の初期キリスト教団の立場が影を落として、いくらかは、書き直しがあることは事実ですが、アラム語で書かれたイエス語録はイエスの死後10年間から20年間に出来ており、それらを基に各福音書も次々と書かれて言ったと思われます。「ヨハネ伝」や「マタイ伝」などの福音書の原本の断片は、ユダヤ解放戦争前に書かれていたと,イアン・ウィルソンの『真実のイエス』には解説されています。としますと、やはり使徒たちのイエス体験を伝えようとしたものとして福音書は先ず読まれるべきなのです。

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