合理主義的聖書解釈について

若山>ですから先生の議論は、福音書の迷信的な部分を膨らまして出来上がっているわけです。私たちの聖書理解はそういう不合理な部分は取り除いて、信仰の核心を掴もうとする方法をとっているのです。
やすい>近代の合理主義的聖書理解は、福音書の内容から奇跡や旧約時代からの預言の実現の部分を取り除いていきますから、ほとんど残らなくなってしまいます。しまいにイエスの復活すら、事実としては無かったことにしようという議論が堂々となされているわけです。しまいに歴史的なイエスの実在性すらどうでもよいことになりかねません。実際にそういう議論が流行したこともありました。
 しかし私はやはりイエスが歴史的に実在して、悪霊追放のパフォーマンスをし、山上の垂訓をかたり、「神の国」共同体をつくり、エルサレム神殿に乗り込み、弟子たちに復活体験を引き起こしたからこそ、キリスト教団が成立したと思うのです。福音書はそれらの体験を集団的に綴ったものあり、その表現に改ざんや不都合な事実の隠蔽やごまかしが相当あるものの、弟子たちの体験した宗教的真実を記録しようとしたものとして受け止めるべきなのです。

若山>イエスは、トーラーや神殿などの形式や外見的な権威に囚われて、人間として愛に生きることを忘れたユダヤ人に、自らの命まで捧げて、愛に生きる道を示されました。ところが初期キリスト教団はイエスの神格化を図ることで、教団の維持拡大と、教団内部教権の強化、異端排斥を行っていました。その為に改ざんや創作がふんだんに盛り込まれたのです。私たちは、自らの信仰のよりどころを確認するために、虚飾の部分をはっきりさせる必要があるのです。
やすい>そういう議論をする人は「マルコによる福音書」を評価します。現存の福音書では最も古いので、弟子による改ざんも少ないと思われるからです。
若山>ええ、それにイエスは「マルコによる福音書」では自分のことを神の子やメシアと呼ぶことを禁止していますからね。復活したイエスについても触れていません。
やすい>それが悪霊追放(エクソシズム)のオンパレードになっているのが、「マルコによる福音書」なのです。悪霊追放は、イエスに宿っている聖霊の力で行うわけですから、イエスが聖霊を宿したメシアであることは前提なのです。神の子やメシアと呼ぶことを禁止しているのは、そんなことを公言すると、宗敵に拉致されたり、暗殺される危険性が高いからなのです。それに「マルコによる福音書」には「山上の垂訓」のような心を揺さぶる説教がありません。
若山>「山上の垂訓」特に「幸せの説教」「貧しい者は幸せである。天国はあなたたちのものである」という説教等は感動しますね。「汝の敵を愛し、汝を迫害する者のために祈れ」という教えなどは胸にあつく迫ります。でも「マタイ伝」にはイエスの家系図も正統のソロモンの血統になっています。処女降誕説話もあり、いかにも神格化の姿勢がみえみえです。イエスの処刑の際も、死人が墓から出てきたりして、いかにもオーバーです。
やすい>確かに「マタイ伝」では「貧しい者」を「心の貧しい者」にするなど改ざんが目立っています。でもイエスの思想的核心が書かれているわけです。教団の事情から富者や異邦人への布教の必要、神格化のいっそうの強化などが行われたわけですが、聖霊を宿しているという信仰は、どの福音書も共通してします。そして結局は、トーラーの遵守によってでなく、メシアの聖霊への帰依によって救われるという信仰が、「山上の垂訓」の前提にもあるわけです。だからこそイエスの肉体は聖霊を宿した特別の身体であり、その聖餐によって聖霊が移転するという「聖餐による聖霊移転論」が成り立ちます。それだからこそ、イエスは3日目の復活予告ができたのです。

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