悪霊追放劇について

若山>「トリックではあっても決して詐欺ではない」という言い方で悪霊追放を、弟子を悪霊役者にして見せたことを宗教的技術革新として評価されていますね。福音書のいかがわしい部分を,イエス自身がそういう布教活動をしていたように説明されるのは反発を感じます。
やすい>おそらく若山さんたちはイエスの二つの愛(神への愛と隣人への愛)に生き、自らを人類の贖罪の為に捧げられた生き方に感銘されて、キリスト教会に属されているのだと思います。ですからイエスが聖霊を持っていて、聖霊の力で悪霊を追放できたのかどうかは,それほど問題ではないわけです。
若山>イエスの愛の力によって、生きる力が強められ、結果精神的なストレスからくる様々な心身症が治癒されたことはおおいにあったと思います。それを当時の悪霊信仰の水準に合わせて、悪霊追放に仮託されて語られたと思いますが、先生の言われるような、大規模な悪霊追放劇のパフォーマンスなど行っていません。あれはイエスについての民間信仰を後から蒐集したものだと思いますよ。
やすい>若山さんのような見解でいきますと、福音書の多くの部分がイエスの神格化のためにありもしないことを書いていることになります。しかしイエスはなんらかのパフォーマンスを行ってイエスブームを起こしたのですから、果して悪霊を追放して病気を治癒するところを見せなくても、ブームを起こせたかどうか疑問です。
若山>イエスブームというのも福音書の記述は大袈裟じゃないでしょうか。イエスの魂を揺さぶるような説教に魅せられた人々が、イエスの魂の医者としての活動をオーバーに言って、そのブームに火をつけたわけですが、そんなことはできもしないことですから、やがてイエスの評判を落とす原因になってしまいました。
やすい>イエスに聖霊が宿っていて、その力で悪霊が追放できるということは、これまでの「トーラー(律法)による救い」中心から「メシア(救い主)の聖霊による救い」中心へと宗教改革を行う上で鍵になることなんです。それに悪霊追放劇が無かったとしますと十二使徒たちの活動が見えてきません。
若山>それより先生のお考えでは、弟子たちがイエスの遺体をすり替えたり、イエスを食べる儀式をタブーを犯しても実行するためには、演劇性や奇術性が相当訓練されていなければならないから、悪霊追放劇が事実としてあったことにする必要があったのでしょう。その辺りのカニバリズムへのお膳立てが見え見えですね。
やすい>お膳立てをしているのは、私の想像ではなくて、福音書の記事ですから、その点誤解しないでください。それに聖餐によって聖霊が引き継がれるという考え方、聖霊が移転するという考え方も、悪霊を聖霊の力で追い出せるという考え方と通じて居るのです。つまり悪霊追放のパフォーマンスをやっていますと、悪霊も聖霊もつきものであり、体から体に移転することを確信できるわけです。それがイエスの肉と血の飲食でイエスの聖霊を引き継げるという発想に説得力を与えたのです。

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