イエスの生誕を巡って

若山>本書は福音書の記述に沿って論じていますので,私たちのような福音書に親しんでいる者にとっては,その是非はともかく,とても興味深く読めました。先ずイエスがダビデ王の血を引いているかどうかで,「マタイによる福音書」と「ルカによる福音書」の系図が祖父の名前まで違うのは,改めて指摘されると確かに問題ありという気がします。ダビデ王の子孫であるというのが,イエスのメシア(救世主)の資格にとっては重要だから「マタイ伝」は家系図から始めているわけですから。
やすい>それが最後のホーリー・ウィークに、イエスはエルサレムの神殿で、人の子はダビデの子(ダビデ王の子孫)でないという主張をしているのです。ということはイエスがダビデ王の子孫であることを証明できなかったことになります。これが民衆がイエスを結局はメシアと認められなかった原因の一つなのです。異なった系図の存在は,編集者が気づいていたかどうか別にして、イエスの悲劇的な結末を暗示するものなんです。
若山>マリアの処女懐胎とダビデ王の子孫だという両説話も矛盾します。両方ともイエスの神格化のための説話ですから、本来のあるべきキリスト教信仰とは無縁のものです。
やすい>処女懐胎説話はユダヤ解放戦争にユダヤが敗北して,イエスがダビデ王の子孫であるということが、たいしたメリットじゃなくなってから作られた説話でしょう。ただし初期キリスト教団が、処女懐胎説話の中に聖霊が宿り、移転するという思想を抱いていたことが分かります。このつきものとしての聖霊という発想が、聖餐によってイエスの聖霊を引き継ぐという発想と共通しているのです。

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