イエスは本当に食べられたのか?

若山>たしかにフェティシズム的な匂いがするのは問題ですが、フェティシズムでなければ,カニバリズム(人肉嗜食)だというのでは余計にキリスト教から離れてしまうじゃないですか。
やすい>カニバリズムというのも飢餓的な状況で行う生き残りのためのものは別にして、一般的に共食い的なカニバリズムはどの文化圏でも厳禁されています。しかし神との合一としての宗教的カニバリズムは、例外なんです。特別の祭儀として行われます。これには神が人を食べる人身御供(ひとみごくう)と、人が神を食べる聖餐があるのです。そして人身御供に捧げられる人は神との合一によって神になるので、神からのお下がりを神としていただく聖餐という形もあります。
若山>イエスの贖罪の十字架は、人類の罪を犠牲を払ってチャラにしたのですから、神に捧げられた人身御供の意味がありますね。そのことによってイエスは義と認められたとしますと、その時に神の子になったわけで、そのイエスを聖餐するのはお下がりという意味になります。でもその方法は「最後の晩餐」で「パンと赤ワインの聖餐」でよいと示されたと思います。
やすい>「宗教的カニバリズム」や「聖餐」という用語にこだわっていますと、堂々巡りになります。イエスが,肉と血を食べさせたのは肉や血それ自体が聖なるものだからではないのです。あくまでもイエスの体内に宿っていた「聖霊」を弟子たちに引き継がせる為に、イエス自身の肉や血を食べさせようとしたわけです。ですからイエスの死に当たってのイエスの肉と血の飲食は,そこに宿っている聖霊の引き継ぎの為に必要なわけです。肉と血は消化され,排泄されますが、そこに宿っていた聖霊は食べた人の肉や血の中に宿ることになります。つまり聖餐により聖霊が移転すると捉えていたのです。イエスの肉と血がまことの食材だと「ヨハネによる福音書」にあるのはその意味です。
若山>それはやすい先生の福音書解釈に過ぎません。カニバリズムタブーが強いのですから、「パンと赤ワインの聖餐」でイエスとの合一を図ろうとしたわけでして、これがフェティシズム的でいけないというなら、象徴的な合一の儀礼と見なせばよいわけです。
やすい>ともかくキリスト教徒たちは、カニバリズムだけは絶対に許容できないのです。それで弟子たちがイエスの肉を食べ、血を飲んだなどととても考えられないわけです。それはとてもおぞましい、身の毛もよだつような恐ろしいことだと考えているのです。
若山>ええ、確かにイエスの肉体を弟子たちが切り刻んで食べているのを想像しますと、とてもおぞましい光景のような気がします。イエスを尊敬していた弟子たちがイエスの死体に群がって、食べるなどそんな恐ろしいことはとても出来なかったと思います。
やすい>カニバリズム・タブーが強烈でしたから、とても恐ろしくて喉を通らないところですが、ただの人肉を食べるカニバリズムではなくて、あくまで聖霊を引き継ぐための聖なる食事なのです。それにカニバリズム・タブーは、明文化されていません。いわずもがなの不文律だったのです。律法(トーラー)では「蹄のない動物を食べてはならない」というのと、「血を飲んではならない」というのはあります。ですから人間の肉や血の飲食は当然できません。その理由は、血が混じると、審判の前に蘇る際に元の体に戻れなくなってしまうからです。
 他人や他の動物の血は混じってはならないのですが、イエスの血は特別に聖霊を宿す聖なる血なのです。イエスの血が混じることで、かえって血が守られ、復活が保証されるのです。ですから聖霊を宿していたイエスの肉と血は聖霊の引き継ぎと、将来の復活を可能にする「本物の食材」なのです。ですからイエスを神の子として認めている弟子たちにとっては,おぞましいことでも、恐ろしいことでも,本来なかった筈なのです。

若山>理屈ではそうでも,カニバリズム・タブーに影響された弟子たちにすれば、とてもできなかった筈です。
やすい>聖霊を引き継ぐという最も神聖な目的なら、イエスを神の子と信仰している以上弟子たちは実行せざるをえなかったのです。それを可能にしたのが、儀礼として聖句や賛美歌などに包まれ、きちんとした式次第のもとに、厳粛にしかも晴れやかに行うことでした。
若山>キリスト教会の礼拝は音楽性や様式性に優れていて,魂のカタルシスを誘います。それでイエスの肉を食べ、血を飲みやすくしたというのは説得力があるかもしれません。
やすい>聖霊の引き継ぎによって弟子たちの心の中にイエスの霊が復活するというのが、イエスと弟子たちの狙いだったのです。
若山>それではイエスの身体が生き返るキリスト教の復活の教義とは合いませんね。
やすい>そうなんです。ところがカニバリズムタブーを破ったことによって、予想を上回ることが起こったのです。カニバリズムタブーが強烈だったので、それを克服しての聖餐によって、神の子との合一の意識が強くなり、全能感が異常にたかまったわけです。それとイエスの聖霊が体内に入ったという意識から、イエスの人格に食べた弟子たちの人格が圧倒されます。つまり人格ジャックが起こって、二重人格症状になったのです。その症状を見ていた,他の弟子たちは全能幻想によって、イエスと同一性を示す人がイエスに見える倒錯視が起こりました。このように,精神分析の方法で福音書を読みますと、イエスの聖餐とイエスの復活体験の関連のメカニズムがよく分かるのです。

次へ/前へ/目次へ/ホームへ