パンと赤ワインの聖餐

若山>まず先生も認めておられるのですが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの唯一絶対神信仰では、カニバリズムは厳禁です。その厳禁にしている筈の教祖のイエスが自分の肉を食べ、血を飲むように信徒たちに押しつけたというのですから、相当荒唐無稽な話だと思われませんか。
やすい>ええ、ですから自分でも仰天仮説だと言ってるんです。ユダヤ教の社会では、人肉を食べたり、血を飲んだりするカニバリズムは絶対的なタブーなんです。ですからたとえイエスが神の子の命令として自分の肉を食べさせ、血を飲ませようとしても、罪の意識に邪魔されてなかなか喉を通るものではありません。
若山>だからイエスはパンに自分の肉を置き換え、赤ワインに自分の血を置き換えることで、イエスと信徒との合一の儀式を行ったわけでしょう。つまりカニバリズムはできないから、パンと赤ワインの聖餐が成立したのです。ところが先生の仮説だとパンと赤ワインの聖餐が成立したのは、原行為としてイエスの肉と血の聖餐があったからだということになります。
やすい>凄いアイデアですよね。パンをイエスの肉とみなし、赤ワインをイエスの血とみなしていただくと、日常の食材で聖餐ができてしまうわけですから。でもイエスや神父がこれがイエスの肉だと言えば、パンがイエスの肉になるというのは物神崇拝(フェティシズム)そのものなんです。
若山>人が勝手に石や蛇などを神に指定するのがフェティシズムでしょう。神の子イエスが特別の奇跡でパンと赤ワインを聖別するのは、フェティシズムに含めなくてもよいのじゃないですか。
やすい>ユダヤ教やキリスト教からみれば、偶像崇拝やフェティシズムを行っているから異教徒の神は偽物だということになります。神や神の子が偶像や物神を作ったら、それを信仰してもよいということなら、異教徒の作った偶像や物神にもなんらかの聖的な力が関与しているでしょうから、ユダヤ教やキリスト教の教義自体が破綻してしまいます。
若山>そうですから,現在ではほとんどのキリスト教徒は、パンがイエスの肉だというのはシンボル的表現にすぎないと捉えているわけです。でもパンと赤ワインの聖餐を始めた頃は、イエスや神父が奇跡で聖別したからパンをイエスの肉と信じたのです。
やすい>若山さんの議論では、イエス自身がフェティシズムに陥っていたことになってしまいます。その可能性はあるとしても、フェティシズムに陥っていないとしたら「最後の晩餐」やその後のキリスト教会の「聖餐式」の意味はどうなのかも考えてみるべきでしょう。

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