7アイドルからフェティシュへ

 

やすい 千坂恭二さんは、二〇年程前に『現代の眼』に「イスカリオテのユダ」を書かれました。それに刺激されまして、私は最近「キリスト悲劇のフェティシズム」を書いたんです。そこで石塚さんのド・ブロス解釈を応用して、ユダは、イエス・キリストを単なるアイドル(偶像)ではなくフェティシュとして崇拝し、裏切った人物ではないかという論陣をはったのですが、それにヒントを得て、今度は千坂さんが芸能記者の経験を生かされて、松田聖子論を書かれたんです。ただしド・ブロス的な読みとは関係なく論じられています。松田聖子という存在が単なる交換可能なアイドルではなく、「松田聖子」という存在がありさえすればいいというところまで、行ってしまっている、だからどんなことをしても受け入れられて、人気が落ちないというわけです。もう神みたいになっているという意味で、フェティシュになっているんじゃないかというわけです。  

石塚 ド・ブロス的な読みと関係なければ、アイドルは可愛い子ちゃんで、何かブロマイドでも集めたい、サイン会があれば行きたい、ってくらいでしょう。それに対してフェティシュは殉死するような関係で、松田聖子対自分じゃなくて、松田聖子が完全に自分の中に入ってしまっているから、実際の松田聖子がどうするかに関係なく、松田聖子の息が切れたら自分も終わる、というような対象になってしまっているんでしょうね。でもアイドルというのは芸能産業の商品であり、その意味から、マルクスの商品フェティシズム論と結びつく面も考えられますね。 

やすい 精神分析の議論では、どうしても精神病の分析をセックスの問題と結び付けて論じますね。潜在的な性的な願望に還元していくところがあります。でも精神病といわれるものは根底においてはセックスとは無関係ではないんでしょうが、でも一般論として考えますと、精神的な疾患は生活に疲れたり、ストレスが嵩じて起こる場合が多いと思うんですね。そういう意味では商品・貨幣・資本などに対するフェティシズムから、売れない、お金がない、生産性が上がらない等の経済的な困難にぶつかって、躁鬱だとか精神分裂になることもあると思うんです。フロイトはあまりやらないでしょう。 

石塚 問題関心がなかったんでしょう。  

やすい でもフロイトはそういうことでは精神病は起こらないという考えですね。根拠があるんですかね?  

石塚 そうですね、あるんだとは思うんですが。フロイトも所詮、エディプス・コンプレックス理論という一つの型にはまりすぎたのでしょう。弟子のヴィルヘルム・ライヒはそこをズバリついております。

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