8言語のフェティシズム


 

やすい 丸山圭三郎さんのは、「言葉の差異が事物の差異を生む」という議論ですよね。言語体系がなければ物事の区別がつかないと、それはプラトンでもイデアがあるから物事を認識できると、全く同じようなパターンだと思います。でも既成の言語論からは、ではそういう言葉というのはどこから生まれるのかと反論されます。普通はいろんな事物があるから、あるいは人間の行為にさまざまな行為があるから、それに対応していろんな言葉もできたと考えますよね。それをひっくり返すというのが丸山さんの特徴ですね。 

石塚 物事の前後を時間的というか、因果関係のほうからみるとひっくり返ったようなことが考えられるんですよ。たとえば道端に菫の花が咲いていますね。菫の花を知っている人は、見ても「ああ、菫だ」と思いますよ。しかし菫の花を知らない人は、「綺麗な花が咲いているな」と思うと同時に「おや、何ていうのかな?」と思うんです。つまり物には名前がある。名前があることとそこに物があることは別のことですが、同時平行の関係をつくっていますし、その関係を決めているのは言葉なんです。そういうことを丸山さんは言いたいんだと思うんです。だから、まず事物があってそれに名付けをしたんだという議論とは、かみあわないと思います。そのあたりはやすいさんのほうが詳しいでしょう。 

やすい 丸山さんの根底には、事的世界観があるんです。もともと事物があって、それに対して名付けがあるという場合は、まずはじめに事物がなければいけないでしょう。ところが彼は事的世界観で、第一次的に存在するのは事であり、物として捉えること自身が一つの倒錯という考え方があるから、人間がいろいろ区別するのは、言語で「言(こと)分け」て、客観的な事物として捉えて区別するわけです。動物の場合は、自分の身体的な行動で、いろいろ区別する「身分け」ですね。動物の場合は、条件反射的にやってることですから、客観的な事物だと捉えているわけじゃありません。経験則的に適応していくわけです。丸山さんの立場からだと「言分け」は、現実を物として捉えるというフェティシズム的倒錯に陥った上での議論の立て方になります。人間は人間になった時から、現実を言分けているから、人間は狂ったサルだという見方をしておられたわけです。でもそういうフェティシズム的倒錯に基づいて、認識したり、行動したりすることは、いけないことではなくて、当然のことであるとも言われています。つまり所詮、人間はだれしも倒錯的にしか認識できないことを踏まえた上で議論すれば、独善主義や排他主義に陥らなくて済むという立場ですね。そこが丸山さんの説得力のあるところですが、それはさておき、「言葉の差異が事物の差異を生む」という議論では「最初に言葉ありき」になってしまうじゃないかということですね。 

石塚 旧約聖書の出だしですね。 

やすい 物と事の区別というのは廣松渉さんがすごくこだわられて、おもしろい議論だとは思うけれども、それは物に対する見方が非弁証法的でした。形而上学的な物観念に則って、「物」という捉え方は駄目で、「事」として捉えなくては駄目だというけれども、やっぱりヘーゲルの弁証法以来の物を弁証法的に他の物と別個に自立して存在するんじゃなしに、必ず対立物の統一、相互依存的な関係で物を捉えるべきだという立場は正しいと思います。そうすれば別に「物」と「事」というのは、そんなに分けられないでしょう。 

石塚 そりゃそうです。物があってそれを認識する自分があってはじめて関係性が成り立ちますね。ですから、全てが関係なんだ、実在物なんてないんだというのは、ぼくも考えられないことです。でもはじめに物があると言ったところで、どういう物なのかというスタンスは、時代状況や環境によって決まるわけです。密室に一人の男性と一人の女性だけがいたときに、その女性は男性にとって情欲をかき立てる非人格的存在であるかもしれない。その男性にとってその女性はひとえにそういう対象なんです。ところが白い病室で今にも死にいこうとしている女性がいたら、偶然であれ、そばにいる男性はそのときに心からの言葉を交わして、互いに人間としての尊厳を保とうとつとめます。《関係》の中に男性と女性がいるわけですよ。そういうものが言葉が介在して、はじめて対象が対象として出てくるものだと思うんですよ。だから言葉も無機質な言葉があるんじゃなくて、そういう関係性の中で言葉の重みとか、色合いとか決まってきます。そこではじめて物がリアルに見えてくるんじゃないかなと思うんです。 

やすい それはありますね。言葉が発生する場面にも関係してくるのですが、言語というものは、現実の関係だとか、事物との関係から生じるものです。そうしますと言語的認識と言語以前の知覚とかとは全然違いますね。言語的認識の構造というのを考えた場合に、物事を客観的な事物として了解することによって、世界を認識していくわけですよね。そうしますと言語的な認識と事物は切り離せません。事物観念が倒錯であるかどうかはフッサールみたいにエポケー(判断停止)しますよ。そしたら言語的な認識というのは、事物的な世界として世界を解釈するという姿勢と表裏一体です。丸山さんみたいに、現実の世界を事物的世界と捉えるのは倒錯なんだというのは、エポケーを外しているので、すごい論証が必要なんです。

 世界を事物の関係として捉える人間の認識と、それ以前の動物的な対応の仕方というのを考えたときに、やはり人間の認識の方が、善し悪しは別にして、進んでいてね、それで生活してきたわけです。それでやっていけてるかぎりにおいて、世界が事物の関係であるということは、人間の認識の仕方からは否定できないのです。いや、事とか関係を物化していると廣松さんはいわれるけれど、事とか関係も物と物との関係としてしか捉えられないというのも、これも現実ですね。とするなら、事的世界観か物的世界観のどちらかを選べというのは無理があると思うんです。世界を捉えるときには、やはり事的捉え方と物的捉え方を弁証法的に統一するというのが、そういうような折衷的なスタンスを取るのが哲学じゃないのかと考えているんです。それで物事を物として捉えたから倒錯だとは言えないと、ぼくは主張しているわけです。 

石塚 そこでやすいさんの議論の切り札は「弁証法」という言葉なんですよね。だから言葉としては、もう逃げの一手のように聞こえますね。そこがね、納得できません。 

やすい そうなんです、逃げの一手なんです。だからね、哲学というものは、「哲学」というと哲学者の田畑さんに評判が悪いんですが、そういうものじゃないか、つまり世界を原理的に説明しようとする行為ですわね、哲学って。そしたら説明できないものがありますわ、特に原理的なものになると。その場合に事といっても、事を説明するとき物で説明しなければならない。物といっても、直接的なものとして捉えたら、それは事態である、事であるとしか言えない。じゃあそれを統一的に捉えるとしたらどうしたらいいのか、弁証法としか言えないんですよ。それは未熟な証拠ですけれど、しかし中身は後で豊富化していくべきです。哲学止揚派からは、そういうように捉えることがいけないんで、哲学を止揚しようと言われるんだけど、やはりわれわれは原理的に考えたいんです。

石塚 何ですって、中身ですって? ほんとのこととか、ほんとの自分というのを探したって虚しいんです。何かを演出している自己、父親としての自分、教師としての自分が事実なんです。しかし自分からしてみると父親としての自分は部分でしかないから、それを超越したほんとの自分がいると思いたいわけです。これは倒錯なんですよ、けれどそこからしか始まらない。それは自然なことなんですよ。それでやっとアイデンティティを確立するわけです。自己なんて倒錯なんですよ。けれど物事をひっくり返って考える、あるいは関係性の意中で考えるのはごく自然なことなんです。それから、たとえばストーブは寒いときに部屋を暖めるものとして意味があるんで、夏には邪魔なだけでしょう。そういう関係性としてのストーブが存在をこちらにアピールしてくるんです。関係性を超越した単なる物としてのストーブは、何の意味もないんです。だからやすいさんのいう「事」は、何かの価値をもって面している事であればいいと思います。また「物」は、関係性としての物なんですね。そういう意味では裸の物なんかないよと言われても、やすいさんとしても自分もそう思うよと言えるわけです。関係性が重要だと言われても、その通りということで、軽くいなせます。 

やすい ぼくが何故物にこだわるかと言いますと、それは事とか関係という場合に、主体として、総体として捉えられないじゃないかと思うんです。だから「立正大学」とかいろんな組織とか事物でも非常に関係的な存在がありますね。それも他のものに対しては関係主体として、存在しています。そんな「主体」とか「実体」とかないんだと切って、物事の説明が付くのだろうか、難しいと思うのです。わりと簡単に現代哲学は、「実体・属性」や「物」というカテゴリーを切っていったんです。せっかく今まで、ヘーゲルやマルクスが温めてきて、発展させてきたカテゴリーをパッと切っちゃっていいのかなと疑問なんです。ちょっと酷いじゃないかなと思います。それよりも現実を説明する際に、そういうカテゴリーがあったほうが、物事を「主体」や「実体」を使って説明できるわけです。 

石塚 あると仮定するわけでしょう。それが先ほど言いましたフェティシズム的な物の見方で、それは素晴らしいことなんですよ。《俺の本質》なんて、いくら間探ったって、らっきょの皮を剥いているのと同じで出てきません。 

やすい でもちゃんと石塚さんが主体・総体としてあるわけです。 

石塚 ある、ある。でも、むいていっても主体なんて出てこないんです。 

やすい でも、あると考えることがいいことなんですよね。 

石塚 ないのにあると考える、それがぼくに言わせるとフェティシズムです。 

やすい ぼくには、それをフェティシズムと言わなくてもよいと思えるんです。そのまま素(す)で捉えたら独断になると言われそうですが、よく考えますと、哲学というのは、独断論では駄目ですが、でも推論なんです。だから世界観とか世界を説明する場合は推論的に、唯物論が正しいとか、観念論が正しいとか言うわけです。そんなものどちらが正しいなんか言えないわけで、本当はわからないことなんです。でもどう考えてもこうとしか言えないんじゃないかという推論はあるんです。そうすると現実に生活していますと、ご飯を食べたり、服を着たりしないといけないということで、物質的なものが基礎になっているので、唯物論的な考えが真理なのだと、哲学的な世界観として言えるわけです。

 では、ほんとうに世界が事物から構成されているというのが正しいのは証明できるのかというと、それはなかなかできません。でも推論としては充分言えるんです。フッサールでも推論としては本質とかそういうことは否定しないでしょう。ですから哲学というのは、推論的なものである以上、推論するということは大事であって、推論を展開したからといって、それは自分なりの考えなんです。その考えというのは、自分はそうだと思っているのだから、正直に言えばいいんで、幻想とか倒錯だとか思わないでいいんです。ところが石塚さんの場合は、フェティシズムなんだけど、それはそう思っていいんだよというような感じですね。

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