6フェティシズムと精神分析 

やすい 町口哲生さんの「モードにおけるフェティシズム」(『季報・唯物論研究』第六二号、一九九七年)は、ボキャブラリーが非常に豊富で、楽しい論文なんです。彼は山本燿司のアンチ・モードに強い共感を示されていて、流行に流されないで、廃墟の中に未来への可能性をみる「哀悼的想起」をキー・ワードにされています。それは過去になったものに普遍性を見いだして、そこに愛着もっていくというものです。そこはよかったんですが、ただ町口さんのモード論とセックス論は表裏になっているのです。深い究極の愛というのが、彼が引用しているエレーヌ・シクスーの文章にあります。「究極の愛とはお互いの皮膚を切り裂き、内部から血を激しく叩きつけ、甘美な深淵(夜)に身を投じること」「触覚に臭覚にこの死の領域の案内役を委ねること」というような叙述があるんです。これにぼくはショックを受けました。セックスをいたわりあって、互いに肌を接触させあって感じあうとか、結合における陶酔とか、そういう融合感覚で捉えていたんです。ところが町口さんの場合は、「内部から血を激しく叩きつける」とか「切り裂き合う」、服飾用語でいうとカッティング(裁断)ですね、それでイメージされているんです。こんな愛し方はどうですか、激しすぎてね、ちょっと危険な感じがしたんですけれど。 

石塚 これを読んで最初に受けた印象を話しますと、町口さんはちゃんとド・ブロス的なフェティシズムの定義をおさえている、ということです。フェティシズムのことをよく、石や骨など地上の物体や物質に霊力や生命力が宿ると見なす原始信仰と定義する場合がありますね。これはさきほど話題にした「つきもの信仰」ですよ。偶像崇拝やアニミズムで出てくるわけです。ド・ブロスだったら、石や骨など地上の物体や物質そのものが霊や生命なんです。「宿る」となるとガレルテとも通じて、付着したり離れたりするんです。それから、フロイトのフェティシズム定義についての町口さんの理解は間違っていないですね。ド・ブロスでは、フェティシュは代理物ではありませんが、フロイトの定義に従っているものとしてはこの論文はいいですよ。ついでに言っておきますと、フロイトはおそらくド・ブロスを読んでいません。読んでもいなくて、逆に自信をもって喋っているのです。自信をもっている点でフロイトはマルクスと同類ですが、マルクスはド・ブロスを読んでいる。

 カッティングの箇所は印象深く読みました。近親婚タブーの解かれたとき、原ホルドに戻って、親子・兄弟姉妹を問わず、あらゆる者がオルギー(忘我・夢中)の状態で性交します。そこはもう一切の束縛がないわけで、殺人も殺人にならないですよ。その結果死ぬのも神に召されたようなもので、さほど問題になりません。肌触れあうどころか血を飲みあってまでするそういう交わりは、むしろ原始フェティシズムにはとても濃くて、トーテミズムの時代にはそれが演出されてもっと濃くなって、生贄に捧げた動物の血をみんなで一瞬のうちに飲むんです。骨以外みんな食ってしまいます。そういう儀礼があるので、最も根源的なトーテム、フェティシズム的な場面を、彼は感じた上で、文章にしているのかなと思うんです。そこまでいくとね、フロイト、ド・ブロスを含めたフェティシズムの重要な部分を、町口さんは展開されていることになるのです。だからぼくも久々に血湧き肉踊るという感じをこの部分で受けました。 

やすい そういうものが性の中に秘められた願望というか、本来の姿なんでしょうか? 深くなっていくと、傷つけあうとか殺しあう、あるいは食べあうみたいになりますね。そういう部分が性から切り離せない性の中の根源的な要素だと感じられますか? 

石塚 そう、儀礼においては性行為は生物学的に子どもを生むことと結びつきません。儀礼の要素が強かったので、生きるとか死ぬとかはよくあるものなんです。ある二人の男女が血族が同じかどうかは、トーテムを見ないと分からないんですよ。実の兄妹であるかも知れないんだけれど、トーテムが違っていれば、別の氏族に属するわけです。それを決定するのは儀礼で迎え入れたかどうかです。女を略奪して、自分の部族の儀礼を施せば、その部族の人間になって血族と見なされるのです。 

やすい フロイトの場合のフェティシズムというのは、人間の体の一部分や衣類を対象にする、性器どうしの結合以外の性愛を主に意味しています。だからフェティシュはファルス(陰茎)の代替物になっています。同性愛を防ぐというのもそこからきたと思います。本来性器結合がセックスの正常な形としたら、それ以外の形をつい追ってしまうということがあるんです。正常な形のセックスが抑圧されているときに、ついそういう物の方に行くんじゃないかと思うんですがね。 

石塚 あるいは抑圧される前の原風景が出てきてしまうということでしょう。 

やすい フェティシズムという場合に、生きてる人間よりも死んでいる人間を愛するネクロフィリア、あるいは生身の人間よりも人形やマネキンを愛するということがあります。それはセックスには根源的に生への欲求だけではなくて(結果として新しい生を生み出すのですが)、死への欲求というのがあって、それでセックスも死を演じるという意味があるからだと言われます。よく「死ぬ!」とか叫びますよね。死と再生の儀式でリフレッシュするというのが、人間の欲望にあって、それがエロティシズムを構成しているので死体の代替に死んだ物を愛するフェティシズムが生じるんだといわれます。またモード論と関係するんですが、服もカッティング(裁断)で、体の線の出し方次第で魅力が出てくるわけです。

 ところでカッティングと死も結びつくと解釈できます。部分愛というのもカッティングと結びつきますね。ということはバラバラ事件と繋がりますね。だから死への欲求は、殺人衝動とも関係があると思いますが、そういうイメージが性欲の根源みたいなものにあって、それが性フェティシズムを説明しているような気がするんです。そういうように本当に言えるのか、言えるとしたら怖いような気もするんですが? 

石塚 深層心理としては言えるのでしょう。近親婚タブーを設けた根拠の一つは、そんなことばかりやっていたら、生産性が上がらないからです。ある時期を限って、「それやれ!」というわけです。けれど時期が外れたらまた、接近するな、妹を見ても目を覆え、母親を見ても言葉を交わす場合は百メートル離れていろ、だとかのタブーを設けておくんです。タブーを取り払った時は「ハレ」で、それは重要なことで、そのために生きているということもあるんです。現代ではそういう意味での儀礼としての近親婚タブーはなくなったけれど、深層心理の中に「ハレ」を求めて、オルギーを惹かれて、噴き出すようなものに心を揺すぶる原初的な衝動が、人類学の研究の成果に照らせば、あると思うんです。 

やすい 死や殺人欲求を演技して昇華して、代償するようなところが、セックスの本質に本当にあるんですかね。 

石塚 セックスは儀礼ですからね。儀礼というのは何も神主がきて、「かしこみ、かしこみ」ってやる必要はないんです。それは心のもちようなんですから。プツンと切れてしまったら、プツンと切れるのも儀礼ですが、そうすれば世界は全てそういう世界に見えます。想像の見立てに対する実現の見立てです。それからわれわれは死んだらおしまいと考えるけれど、そのバージョンでは死は意味が全然違います。北欧神話のオーディーンなどはそうですけれど、善神だろうが悪神だろうが、みな死に絶えます。だから、死というのは横滑りはしても、上下に昇降したり、いわんや消滅したりはしないという発想です。それで死は永遠獲得の一番いい手段だと、望んでいくわけです。 

やすい アメリカで宇宙での生まれ変わりを信仰したカルトの集団自殺がありましたね。やはり、現代人の根底にもあるということですね。やはりセックスは無意識の欲求を代償するという性格が強いんですか? 

石塚 尾崎豊が死ぬと、ファンが殉死したりしたでしょう。荻野目慶子のアパートでプロデューサーが、妻子があるのに、死んでたでしょう。あのときに死ぬのは、永遠の何かを摑んじゃってる部分があるのかもしれません。そういうのはわれわれには何も理解できません。でもそれはあるんです。町口さんの文章を読んでるとそう感じますよね。 

   

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