『資本論』とフェティシズム論

やすい 千坂恭二さんによりますと、マルクスは文明の極致である資本主義こそ未開のフェティシズムのパラダイスであるという捉え方をしています。この捉え方は、アドルノ的には『啓蒙の弁証法』ということになるのですが、とてもおもしろい。マルクスもフェティシズム論で『資本論』を展開したときは、楽しかったと思います。マルクスのフェティシズム論の発想は、もともと貨幣からきたんですかね? 

石塚 ええ。でも『資本論』初版(一八六七年)では「商品の物神性的性格」という節はありませんでした。  

やすい あれは価値形態論で膨らんでいったんですね。  

石塚 『経哲草稿』(一八四四年)の段階から書いてるわけだけですが、どこかで一回反省、つまり概念の組み替えをしていますね。そして「これをフェティシズムと呼ぶ」と定義しているんです。自分なりのフェティシズム論をつくりあげたという自信がうかがえます。けれども種本になったド・ブロスの名前は一切ださないんです。原著者を軽く見ていたとも、逆にすごく意識していたとも推測できます。 

やすい フェティシュに対する攻撃面は触れられていません。人間関係を事物の関係に置き換えてしまって、事物自身が社会関係を取り結んでいるように見なすという定義です。 

石塚 マルクスはド・ブロスのフェティシズム概念を知っていたのに、物に支配される疎外を強調したいので、攻撃面を含まない奇妙なフェティシズム概念を前面に出しています。でももう彼の時代は恐慌を体験していました。なるほで資本や貨幣は人間を支配するけれど、不用・有害になれば、商品廃棄や工場閉鎖による資本の投げ棄てが行なわれていました。だからマルクスは、攻撃面を含むド・ブロスのフェティシズム概念は重宝だな、とは感じていたと思うのです。 

やすい マルクスは恐慌を法則的に捉えて、工場閉鎖も受動的ですから、主体的な行為としては捉えていません。だから攻撃面を含む定義を用いられなかったのでしょう。 

石塚 でもド・ブロスの場合も、喜々として攻撃していませんからね。役立たずだからぶったたいて無理やりやらせようとするんです。止むを得ず神様を、あるいは資本を打ち棄てるということでは、大枠は一致しています。 

やすい ひがんだ根性からみると、神をいじめるときには快感があると思うんです。 

石塚 それはフロイト的な読みからくるんですよ。素朴な民間信仰においては、ぎりぎりのところで生活をしていて、暇にまかせて観劇的な気分でやったのじゃないですよ。  

やすい キリストを十字架につける前に、みんなでお祭り気分ていじめたようです。神殺しというのは神聖な儀式でもあるんだけど、快楽面もあるんじゃないかと思います。 

石塚 ええ、もちろん信仰レベルではあるんでしょう。それとは別にマルクスの場合、攻撃面の要素がないのでド・ブロスと違うんじゃないかなといっても、自分の土俵に引張ってきた際、要らない部分というのは削ぎ落とされているわけです。 

やすい マルクスのフェティシズム論は、事物が人間の社会関係を取り結ぶという事に対して倒錯だと言うんだから、社会的な事物を人間として捉えては倒錯だ、という擬人的倒錯論にもなっているんです。商品や貨幣は人間関係を取り結んで人間社会を支配してしまっているという意味で、擬神というより擬人にあたるわけです。でも、それに対して人間は有り難がって、跪拝するしかないので、物神崇拝としたのです。この論理は一見、自明に見えて自明じゃないんです。だって経済関係というのは人間が物をつくったり、交換したりする関係だから、物が社会関係のなかで重要な役割を果たすのは、否定できないわけなんです。だから物が社会関係を取り結ぶと見なすのはおかしいというマルクスの議論は、おかしいのではないかと思ったんです。  

石塚 非常におもしろい指摘ですよね。今まで、人間でもないものが人間扱いされるというよりは、ほんとは人間なのに人間が物扱いされるということでいろいろ問題にしてきたわけです。マルクスの場合は、本来人間でもないものが人間を支配してきて、逆に人間は物を神様にしているという、とにかく物が物以上に高まっていることについての批判ですよね。だけれどもやすいさんは、物の社会関係が現にある以上は否定できないし、する必要もないとお言う。 

やすい 「机が踊りだす」というような表現があります。社会関係を取り結んで、人間はそれに支配されてしまうと、これは物なんだから人間じゃないんだから社会関係は取り結ばないんだよと、ところが取り結んでいるように扱われている、これは倒錯なんだという捉え方です。ぼくはそれは納得いかないんです。現実に人間は物なしに経済関係は結べません。経済関係というのは、確かに人間関係なんだろうけれども、それぞれどれだけの時間がかかって、これとあれとはこれだけで交換されるという物と物との関係として了解されて、それに従わなければならないのですから、物と物が社会関係を結んでいると捉えても、倒錯でも何でもないんじゃないかなと思うんです。

石塚 だからそれはフェティシズムのポジティヴのほうですよ。問題はそこで物が一方的に人間を支配してくるというところでしょう。疎外の問題です。それがネガティヴのほうです。崇拝一辺倒のほうのフェティシズムを彼が使ったのは、そこにあるわけです。物どうしが人格のようにコミュニケートしてくれて、それでわれわれが幸福になってれば、大いに結構なことです。実際そういうことがあります。それがポジティヴ・フェティシズムです。神や人間でもないものを神や人間にしておいて利益が得られるのなら、それならもう崇拝しちゃうんですよ。でもそれが自分たちに不利益を及ぼすようになるので、原初的な信仰におけるフェティシズムではそいつをぶったたくわけです。しかし『資本論』の段階におけるマルクスが意図したフェティシズムは、人間関係が物象化して、それが一方的に人間を支配してくるという、転倒した場面に用いられます。彼はその現象を「疎外」と言うんです。 

やすい だからそういう場合において、ぼくがマルクスに対する批判としては、事物と人間とは違うんだという概念定義をしたうえでなら、事物が社会関係を取り結ぶのは、たしかに倒錯なんだけど、それははじめからそういう概念定義があるから倒錯であるにすぎないんです。人間の社会関係について考えれば、事物の関係なんていうのは特に経済においては前提なんです。だから事物が社会関係を結んでも、ひとつもおかしくないでしょう。 

石塚 ポジティヴ・フェティシズムでは、おかしくないです。 

やすい だから現代ヒューマニズムからは反発されますが、社会的な事物も人間だというように定義をしなおすべきです。社会的な事物も含めた人間というものを捉えれば、事物を人間と考える物神崇拝(フェティシズム)と見なさなくてもいいのです。  

石塚 だから、やすいさんは物神崇拝というとネガのことだけを考えるからそうなるんです。物神崇拝にはネガとポジがあるんです。まずですね、人は物でもないものを物とみるんです。廣松渉るさんの論法で言うと、あらゆるものは物象化した世界です。例えば「ぼくは立正大学で講義しています」と言う。そこで「立正大学はね」と言って、あたかも主語として語ったところで、立正大学というのは本当は関係でしかないわけですよ、一つのね。建物のことではないんですよ。「ゴー・トゥー・スクール」のスクールというのは物ではなくて、関係ですよね。関係を指しているのだけれど、一応はわれわれは物扱いして見るじゃないですか、そういう物があるように。さらには、その物扱いしたものを、それはそれで今度は一つの人格のように見ていく。そうしたことは何も悪いことじゃない、あたりまえじゃないか。このように捉えるのは、ポジティヴ・フェティシズムの見方ですよ。ところが立正大学がおまえなんか要らないと言って排除・抑圧してくと、ポジはネガに変わり始めます。極度の学歴信仰者でないかぎり、大学は神様じゃないので、あまりいいたとえではありませんね。 

やすい 事物が社会関係を取り結んでいる場合に、それは事物といってるけれど、もともと関係じゃないかという関係に還元する議論が、廣松さんなんか特に得意なんですけれど、でも、それは物の定義の問題だとぼくは思うんです。だから物をどう定義するかによって、それは物として捉えたらほんとは間違っているけれど、物として捉えているから物象化あるいは物神化だというような議論が出てくるわけです。たとえば立正大学があって、立正大学が社会的な存在として、いろんな関係を取り結ぶ主体になっているという場合、そういうものを事物と定義すれば、立正大学も事物です。例えば、物体でないと事物じゃないとかいうような定義をしちゃうと、立正大学は事物にならないわけです。でも水なんて分子は事物だという場合に、よく見ればこれは水素と酸素の関係なんです。水素だって陽子と電子との関係だというわけです。やっぱり水という分子が存在して、対他的な関係を取り結んで、主体になってる、そういうものを事物だと定義をしてもいいと思います。すると、社会関係も社会的な事物の関係であると捉えても別にいいんです。そうしますと、社会を事物の関係と捉えたらフェティシズムであるという議論は、成り立たないんじゃないかというのが、ぼくの捉え方なんですけどね。ただ石塚さんの場合は、それが人間に対して支配してくるという事に関連してフェティシズムというのを問題にされるわけですよね。だから、別に事物であるか人間であるかどうでもいいことになります。 

石塚 例えば、ぼくは三菱商事の社員で、そちらはNECの社員だとします。「ねえ、NECさん」「三菱商事さん」って、呼びあい、三菱さんとNECさんが交渉しています。その時は、「三菱さん」「NECさん」は人格ですよ。だから本来は人間と人間の関係が物のように投影して、三菱という関係ができているんだけれど、それがもう一回触れあう時に人格に戻っているんですよ。それは二重になってるでしょう。社会的な関係でしかない三菱・NECなのに、あたかも人間のようにして現れてくるのはおかしいんじゃないかと言いますが、その前に人間と人間の生産活動なり、社会的な人間関係があって、それが三菱さんをつくりあげたりしている点を見落としてはいけません。それがまず第一の意味の物神ですよ。本来、人間の関係であるにもかかわらず、人間の活動から離れてそれが三菱として、物在として自己運動しているように見えるってわけでしょう。それが人間にとって疎遠になり、人間を支配してくる、そういう力になる、これを哲学者にわかりやすく言えば「疎外」だという議論になります。でも日頃、われわれはそれを自然なものとして受け入れてやっているわけですよ。「三菱さん」とか呼びかけて、人格のように見立てて。いったん人間(関係)を事物化し、次にそれを人格化ないし神格化する。ここに至って人間と事物の差異性は意識にすらのぼらない。そのうえで崇拝もすれば攻撃もする。これぞ原初的信仰としてのフェティシズムだと、ぼくは思うんです。 

やすい これまでの既成の議論は、事物と人間は違うものであるということを前提にして考えてきたわけです。その場合の人間というのは身体的な存在でしょう。そうすると身体的な人間と社会的な事物があって、それらから全体的な社会が出来てるとしますと、その場合に、主体的に社会的な関係を取り結んでいるのは身体的な存在だけで、社会的な事物ではないと言われてきたわけです。ところが価値関係にもとづく経済関係というのは事物の中に投下された労働の関係なんですよね。そうすると事物がそういう労働を代表しているわけで、事物関係になっているんだと言えます。それはマルクスに言わせれば、実は労働関係なんだから人間関係なのに、事物関係になってるから倒錯だというわけです。ぼくに言わせれば、労働というのは事物になっているから価値があるので、そういう意味では人間と事物の違いというのは価値によって止揚されているんです。価値関係はそういう意味においての人間の関係なんです。だから身体も社会的な事物もみんな人間として扱われているわけです、実際は。それは全然倒錯的な意味での人間じゃなくて、全体的に社会的な事物も身体も、どれも人間としての社会的な関係を結ぶ意味においては主体的な関係になっているんです。それをマルクスはフェティシュと言うんだけれど、それは別にフェティシュと言わなくてもいいんじゃないかと思います。むしろ商品・貨幣・資本の原理に支配されて、それに熱中しすぎると、より大切なものを見失ってしまいます。そのことをフェティシズム論で展開すればよかったんです。 

石塚 フェティシズムについてぼくとやすいさんの認識にはまだズレがありますので、もう一度説明します。物を人間とみなして、「NECさん」とか呼びかけること自体は、物事の発端に見られる一種の演出です。まずはそういう形で触れあってできあがる関係性は、物の人格化としてフェティシズムの一つの形で、これはかえって望んでやるものです。《生み出した生産物も人間関係を結ぶ一つの身体と考える》というやすいさんの発想は、演出されたものとして捉えれば充分納得できます。ハイテク機器を背負った人間が、「私はこの計算を三日で全部やってしまいます」と言っているそのときには、明らかに自分の生物的な身体以外の生産物を自分自身と捉えているわけです。その時は、演出しているわけですよ、そういう風に。《人間とは、演技する者である》と言えます。これはポジティヴなものとして、フェティシズムを代表しているんじゃないかと思うんです。けれどもやすいさんは、そこらへんはフェティシズムと捉えないわけですね。  

やすい 社会的事物も人間に含めていますからね。だからぼくは、宗教批判でフェティシズムを問題にしているので倒錯であるかどうかが基準になるんです。石塚さんの場合はフェティシズムをポジティブにおおらかに、肯定的に捉えられます。フェティシズムでいいじゃないかとなります。でも信仰になってしまってるとか、物なのに人間や神と捉えられているので、倒錯で間違いというのがマルクスのベースになっているから、そこはぼくは倒錯じゃないとして、フェティシズム論は商品・貨幣・資本原理への跪拝の場面で展開すべきだとしているのです。それ以前に事物が人間関係を取り結ぶということを問題にしたって、それはもう仕方がない、そういう関係に生きているからそれはもういいんだと、それが危害を及ぼしてきたときにそれを切れるかどうかが大事なんだということですね。そこはぼくと石塚さんは一致しています。 

石塚 その「倒錯」もね、価値的に捉えるべきじゃありません。本来人間でないものを人間と捉えているのは快楽=感性なのであって、倒錯=害悪なんじゃないんです。 

やすい だからぼくは、その場合の本来人間でもないものを人間という場合の人間概念が間違ってるんじゃないかと言いたいんです。 

石塚 もともとそれも人間だと言いたいんでしょう。だからそれはぼくに言わせれば、演出なんです。 

やすい その場合、演出というのはそうじゃないのを、そのように思っていることになるでしょう。 

石塚 演出というのは、もともとこうだと思うのがあって、別個のものを演技しているのじゃありません。もともとのものなんてないんです。あえて表現すれば、演技しているものはすべて本物なんです。だからそういう意味でいうと、人と関係している事物は人間なんですよ。けれどその場合、必ず時間・場所委などに反応しながら演出しているんです、場合によっては演技が中断し、人と事物の関係が切れたり、別様に転じたりする。

やすい じゃあこういう風に考えればよろしいですか? 人間がこれも人間、あれも人間というように演出して、事物を自己同一化するのでしょう。その場合に人間世界が広がっていきます。でもまたそれを縮めたりもしないといけません。広げたり縮めたりするときに、人間と見なす対象が変わっていきますね。だから対象が人間に取り込まれた段階でそれらをフェティシュだと、ポジティヴな意味でね。それがネガになったら切り捨てられると、というように考えてフェティシズムという用語を使っていったらいいじゃないかというのが石塚さんの見解ですね。  

石塚 そうです。ただね、ネガになったら切り捨てることができるゆとりがあれば、そのフェティシズムは全体としてポジなんです。ネガに転じたときにポジに反転できず、さりとてスッパリ切り捨てられなくなったのが、ネガティヴ・フェティシズムなんです。それが超越神だったり『資本論』のフェティシズムだったりするわけですよ。 

やすい わかってきました、いわんとされている意味が。 

石塚 ひれ伏しもするけれどやっつけもするという交互性を保っているのが、本来のフェティシズムなんです。だからポジティヴ・フェティシズムのほうにマイナーなものがないわけじゃないんですよ。ポジには必ずネガが対極にあって、両極を往復するのがド・ブロスに発するフェティシズムなんです。

やすい じゃあ社会的事物も含めて人間と捉えるのは、別に倒錯とはいわないんですか? 

石塚 そういう風に演出していること自体は、フェティシズムの一つの特徴にはなるんです。だから表現が難しいですね。ようするに、倒錯でなく、倒立ですね。「錯」には価値が込められてしまう。あるいは正立と対になった交互関係に  ある転倒です。これならいい。 

やすい 科学的な議論をするときに宗教的な立場に対して、倒錯的だから間違いというような頭があるんですが、石塚さんがフェティシズム論を展開されるときに、倒錯じゃないけれどフェティシュと考えてもよいということになると、フェティシュと捉えることはいいことだということになりますね。 

石塚 外国に行って、外国人に対して「私は日本人です」と言ってるのは、人との関係の中で、これはフェティシズムなんです。ほんとは民族なんて実感していないんだと言っている自分が一方にあって、しかし外国に行って自分は日本人だと言っている自分がいるのはいいんです。それは善悪とは関係ないんです。けれども、それが日本人以外の奴らはどうのっていう排外主義になってきたときに、それがネガの方に切り替わるわけでしょう。 

やすい ぼくの『人間観の転換―マルクス物神性論批判』(青弓社、一九八六年)の一つのポイントなんですが、マルクスは価値を「抽象的人間労働のガレルテ(膠質物)である」と捉えていて、それが物に付着するとし、それで物がフェティシュとして商品化されて、社会的関係を結ぶと理解しているわけです。『資本論』全体の論理展開の中で検討しますと、この表現をぼくはそのまま比喩ではない、マルクスは本気でそう考えていると受け止めて、それなら「つきもの信仰」じゃないかと思ったわけです。つきもの信仰は、霊の段階に達してますからフェティシズムを脱却していますが、非常に興味あるフェティシズム周辺の信仰ですね。そういうようにマルクスを読むのはひがんだ読み方ですかね。 

石塚 マルクスはド・ブロスのフェティシズム論を読んだにしては、最悪のところまで行ったってところですね。かなり自分の型にはまって、フェティシズムのなんたるかをかなりもう、その場面では無視しています。商品世界では商品は発端からフェティシュとしてつくられるんです。それそのものがフェティシュなんであって、付着するものじゃない。付着物を丹念に取り払えば人間生活に豊かさだけをもたらすもの、というようにはならないんです。  

やすい だから、労働というのは具体的有用労働と抽象的人間労働の二つの性格に分けられるのだけれど、それはあくまでも生産物を生み出したものとして、使用価値面に凝結したものが具体的有用労働で、事物の価値面に凝結したのが抽象的人間労働であるわけです。ですから価値はあくまで事物の性格だと捉えたほうが、まだフェティシズム論としては正しいんだということですね。それが『資本論』研究は百年以上やられているんですか、「ガレルテ」の解釈が全然なっていないですね。向坂さんは「膠質物」と訳されたのですが、それ以外は「凝結物」とか「凝固物」とかで。  

石塚 そうそう、パターンというか観念がそういうところにしかないですから。 

やすい 向坂さんの場合はつきものとして見たんですかね? 

石塚 と思いますね。ド・ブロス的なフェティシズムの議論からいくと、付着するのはフェティシュじゃないです。弘法マルクス筆の過ちというか、転倒のみのフェティシズム、つまりネガのことしか頭にないときに商品の議論をしたものだから、付着というような発想になったんじゃないかな。もともと払い取りたいほうを頭に置いて書いた本でしょ。 

やすい ぼくは「ガレルテ」で「つきもの信仰」じゃないかと思ったとき、びっくりしましたね。そのとき笑ったんですよ。マルクスは科学者ですよね。そんな迷信になんか陥るはずないと思ったんです。だから単なる比喩じゃないかと思って、『資本論』を読んでいったら、つきものとしての価値を前提にしたような表現が一貫して流れていると読み取れたんです。これは本気で書いてるなと思いました。フェティシズムや偶像崇拝を迷信として斥けるとき、つきもの信仰は有力な説明原理なんです。何か祟りがありますと、修験者は物自体は無実で、物に憑依している悪霊の祟りだといって、その悪霊の正体を暴きますね。イエスの魂の医者としての治療法は、ほとんど悪霊払いなんです。ですからキリスト教成立に果たしたつきもの信仰の役割は、意外に大きいかもしれませんね。そういうユダヤ教・キリスト教的な伝統からマルクスも自由じゃなかったのかと感じたんです。  

石塚 そうですね。あの場面ではマルクスも伝統に乗って書いてしまったんです。けれども、もともとド・ブロスは、フェティシズムを後の宗教と区別してつきものの類でないとしていた。つまりカトリック批判になっているので、自著をフランスでは出せなくて、スイスで匿名出版しているんです。それから百年たってマルクスがフェティシズムで商品を説明したときには、伝統に乗ってつきものという書き方をした。そのほうが書きやすかった。そうなるとフェティシズムからは離れるんですが。

 

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