4オウム真理教とキリスト教の審判思想

 

やすい オウム真理教事件(一九九四〜五年)の衝撃がひっかかっています。オウム真理教がサリンを撒いたりして、神仙民族としてオウム真理教に従わない旧人類を抹殺するハルマゲドンを仕掛けようとしたということです。それは「ヨハネ黙示録」を論拠にしているんです。実際「ヨハネ黙示録」の中にはほとんどの人類に対して審判を行なう神があるわけです。愛の象徴みたいに見られているイエス・キリストは、「ほふられた仔羊」としてホロ・コーストの先頭に立ってるんです。それがあるかぎり、キリスト教に対して非キリスト教の人たちは、自分たちが神に滅ぼされるのを待ち望んでいるような連中と、仲よくできるだろうかと、根源的に疑問になりますよね。

 今の時代は世界が一つに統合していっている時代ですので、文化的な摩擦が激しくなる恐れがあるわけです。だから「ヨハネ黙示録」を聖典である『バイブル』に残しておいていいのかと、本気で問いかける必要がある気がしてきたんです。それで「ヨハネ黙示録」を読みますと、神が人類を大量殺戮するというイメージしか伝わってこないんです。じゃあ「ヨハネ黙示録」だけにそういう恐ろしい審判思想があるのか、というとそうでもないんです。ぼくは『バイブル』というのは、非常に尊い愛の教えが説かれているという固定観念で捉えていたんです。神の愛の権化みたいにフェティシュ化して『バイブル』を見ていたんです。ところが読みなおしてみますと、「ノアの方舟」は一家族を除いて人類全滅だし、ソドムとゴモラも皆殺しみたいなものです。福音書のイエスだってかなり恐ろしい審判思想を語っています。キリストの再臨は審判のためだというイメージが強いんです。

 ユダがイエスを裏切ったのですが、彼は悪(ワル)で懸賞金が欲しくて裏切ったのではありません。だって、イエスが有罪を宣告されると首を括って自殺しているんです。それでキリストに対する幻滅があって裏切ったのじゃないかという気がしたんです。幻滅すると破壊するというのは、石塚さんのいうポジティブ・フェティシズムにあたるんじゃないかと思って、「キリスト悲劇のフェティシズム」を書いたのですが、どうでしょう?  

石塚 パピルスに書かれたものが『バイブル』なんです。「パピルス」という語から『バイブル』も「ペイパー」も派生しました。「ペイパー」に『バイブル』を書くのは支配者に属する知識人でして、書かれたものである以上は支配の諸側面を反映しているのです。しかし普遍的なものだということを示すために愛の聖典となる。聖典や経典なんてみんなそんなようなもので、読みが二重になるのは当たり前だと思うんですね。じゃあ、何故あのような大殺戮デスティニーを説いたのか、ということですが、いつも一方的に神の方に理があるようになっている。たとえノアの洪水のように一家族以外はすべて滅ぼしても、絶対に神様は責められないんです。滅ぼされたほうが悪いわけだから。悪いほうが滅ぼされるのは当たり前だから。  

やすい 悪いと書いてありますからね。 

石塚 ええ。それと同時にその悪をも救い取るのがイエスです。ユダは悪いと百も承知の上で食事に招待するし、自分が捕まるとわかっていて、私を食べなさいと最後の晩餐をするわけです。どうして聖なる愛の神が大殺戮をするんだと疑問に思われる背景は、これをヨーロッパの宗教だと思うからなんです。ユダヤ教・キリスト教は元来オリエントの宗教です。「目には目を、歯には歯を」という言葉が『バイブル』に入っているくらいですから、かなりの部分ハンムラビ的というか、ゾロアスター的なんです。ゾロアスターにおいては善神と悪神、光と闇の二項対立で、最終的に善や光が勝つという信仰です。 

やすい 『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」にもあります。光が結局イエスで、闇は光に勝てなかったというのがあるんです。  

石塚 それでその闘争の場面というのは、神様には両義性があるという構えが断ち切られたときに出てくるんです。本来は善神の中に悪神があって、分断できないものなんです。それが分断されたのは、神観念が先史の第一形態から文明の第二形態に転化していることを示します。この転化はオリエントで開始しヨーロッパで完了します。第一形態では善神と悪神は分断できないから入れ替わるんです。しかし第二形態では悪神は徹底的に滅ぼされることになる。それが『バイブル』にも、愛の神がホロ・コーストをするという形で、現れているんじゃないかと思います。そういう意味ではイエスの言っていることはフェティシズムに相応しく、庶民のレベルでは両義性をもって読み取れるんじゃないかと思うんです。そして今、ハルマゲドン、麻原彰晃なんて型にはめて黙示録を読むから絶滅ふうに読めるんで、その背後には実はこもごもになった信仰形態というのがあるんじゃないかと思うんです。それがイエスとユダで、その意味では、ぼくはやすいさんの唱えた、《ユダにとってイエスがフェティシュ》だという説は、素直に受け入れられますね。ただフェティシズムには人格神は馴染みませんから、それも習合しているということになりますね。

やすい でも「王殺し」等もフェティシズム的でしょう?  

石塚 それも既に霊が移動するのでアニミズムなんです。アニミズムというのは「アニメーション」「アニマル」と語原を共通にしていて、「動く」という意味です。霊が動くのは第二形態なんです。もちろん習合していますから、「王殺し」もフェティシズム的なのです。ですからイエスを裏切るのもフェティシズム的です。《ユダがフェティスト》というのは、言い得て妙です。  

やすい 最近『バイブル』の審判思想を読んでいますと、恐ろしい神を待望するということは、自分が審判できないから、代わりに神が審判してくれるという、審判そのものが抑えがたい民衆の衝動であり、それを神が代理しているんじゃないかという気がしてきたんです。ひとつのお祭りみたいな感じで、時がくれば審判が下って、自分の仲間以外はみんな殺されてしまうという期待です。これは民衆の中にある強烈な殺人願望の現れです。審判というものに、民衆は物凄く興奮してカタルシスを感じるものではないかという気がするんです。 

石塚 それはフロイト的な読みとしては可能ですね。愛しているからいじめるとか、深く交わるためには傷つけ合うといいますね。また排外主義は愛の裏返しだといわれます。本来自分たちはいじめたいんだけどそれができないから、神様に代わりに絶滅してもらうという発想は、神観念を古いほうに逆上れば、逆上るほど、ないですね。人間を殺すという発想はないんです。共同体どうしの戦争というのはあります。でも、同じ人間と見なしてやっているとすれば残酷なんだけれど、そうじゃなければなんの残酷性もありません。相手は同じ人間なんだけど許せないことをしたので殺すというようなイメージで、はたしてハルマゲドンの原風景があったのかは、ちょっと別でしょうね。  

やすい ちょっとフロイト的な読みに過ぎるという感じですかね。でも、もちろん超越神論になってきてからの審判思想ですからね。だからフェティシズムから抜け出したところで、文明的な民衆の欲求不満というものは、そういうホロ・コーストまでいくのかなあ、と『バイブル』を読んでいてそういう気がしたんです。 

石塚 けれども基本的に、闘争しあうこと自身は、次元やレベルの問題、一線を越える越えないの問題はあるとしても、これは人間的ですよね。喧嘩しあうことが愛情を醸しだすわけですからね。必ず交互なんですから、愛と憎しみはセットです。愛情ゆたかな人は非常に憎む心ももってるはずなんですよ。そういう意味では、人をいじめるということ自体は、ある意味では自然なものです。それに対して超越神論は一方的です。俺はまるごと善で、俺を信じない連中は悪だ、と弾劾するものだから、ハルマゲドンみたいなとんでもないものになるのです。麻原的なものは神観念の第二形態からもともとあるんじゃないかと思います。そういう意味からも、フェティシズム・トーテミズム的なものを研究しなおすというのは意味がありますね。 

やすい フェティシズムに対抗して出てきた超越神論の性格として、超越神論をとっていると無限的な力になっていくので、ただいじめあうだけではなくて、全面展開してしまい、全人類規模のホロ・コーストまでいってしまったということですね。そういう意味ではフェティシズムのほうが限界を知っている感じもしますね。 

石塚 だから中世以降ドイツに現れてくる農民指導者トーマス・ミュンツァーや、ぼくが長年研究しているヴァイトリングなど、聖書でもって農民一揆や革命をやろうとする人たちの発想は、イエスに戻れというものですよ。それは三位一体のイエス・キリストに戻れというのではなくて、この地上を弟子たちと一緒に歩いていて、コムニタスやソキエタス的な世界、つまり支配や支配階層の介在していない世界をつくっていたガリラヤのイエスに戻れ、というわけですよ。それはぼくの読みでいくと、フェティシズムに戻れ、ということです。

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