3超越神論の誕生 

やすい 恩恵を受けているフェティシュに対して攻撃するというのが、フェティシズムの特徴ですね、これは最初は別におおらかな信仰でよかったと思うんですが、そのうちに、知識人である祭司階級などができてくれば、とても恐ろしい事をしているんじゃないかと反省するような人がいてもいいんじゃないかと思うんです。神の立場に思い入れして考えますと、人間たちは、いつも世話をしてやっているのに、ちょっと役にたたないとなったら、すぐ攻撃してくる、とんでもない連中だ。そういう恩知らずの人間は罰しなければいけない、と神は怒っておられると推察されるでしょう。そうすると神の罰がくるという恐怖心をもって、それで今までの信仰形態を変えて、神の審判を基調にして、人間が勝手に神をつくったらいけないんで、逆に神が人間をつくったという教義にしたんじゃないかと推察されます。それで、石塚さんのフェティシズム論の応用のような形で、「キリスト悲劇のフェティシズム」(『月刊・状況と主体』第二五二号、谷沢書房、一九九六年)を書き、その中で、超越神論の発生の論理を展開してみたのです。石塚さんはフェティシズムから超越神論までの展開を「なる・うむ・つくる」で捉えておられましたね。  

石塚 ええ。「なる」はフェニキア神話のモチーフでして、最初に自然界があるんです。そこに人間や神様や森羅万象が自然にできあがってくるという見方です。「うむ」は日本神話のモチーフです。まず「天地開けし時」で開闢があるわけです。そこにイザナギ・イザナミの夫婦神が現れて、いろんな神々を生んでいきます。  

やすい ありますね、国生みといいますからね。生む神話です。 

石塚 それに対して、ヘブライ人の『バイブル』(聖書)の「つくる神話」というのは、開闢がないんです。最初から神が超然たるものとして、あらゆるものをつくりだします。  

やすい だから人間も神によってつくられることになりますね。 

石塚 ええ。でもフェニキア神話では神はみずから存在しないで、自然界の中から生まれてきます。あるいは人間が神様を選定したり彫りだしたりする。そういう意味で神に成るのです。 

やすい 「なる」という段階がフェティシズムで、人間が神をつくり、最後の「つくる」段階では、神が人間をつくったのでしょう。だから「つくる」段階では人間が勝手に神を選べません。逆に神が人間を選ぶので、救われる人と救われない人が分かれてしまって、神を本当に信仰していると神が認めた人だけ、神が選んだ選民だけが救われるというパターンになってきます。そう考えますと、先にフェティシズムがあって、フェティシズムに対する反省から超越神論や、審判思想が出てきたんじゃないかと考えたんですが?  

石塚 今のやすいさんの話を、神話の世界だけで自己完結的に語るのはおかしいですね。フェティシストは、神を攻撃しておいて、それでいて神様に大それたことをしているんじゃないか、なんて反省することは絶対ないですよ。フェティシズムの神はフェティシズムの社会が要求しているものなのです。それから、のちの時代になってからの超然たる神には、専制君主のような超然たる首長が対応しています。だから神様をぶったたいているようなフェティシズムの社会では、社会組織の中にもぶったたかれるような首長しかいないんですよ。「存在が意識を決定する」ということです。このことではぼくはマルクスに賛成です。説話だけの自己展開は無理ですよね。 

やすい それはそうですね。背景に社会の変動がなければ駄目ですよね。ただヘブライの部族社会に超越神論が生まれたのは、非常に特殊な社会状況があったのです。半流浪民として部族の強固な結束が必要だったために、族長神に対する「単一神信仰」や、やはり半流浪民として河や大地等の自然に頼れないので、部族の結束を神化した「みえざる神信仰」などが超越神信仰発生の背景にあったと思われます。でも超越神信仰を決定的にしたのは、アブラハム以来の宿願、カナン(後のイスラエル)の領有です。アブラハムの時代はまだ数百人規模で、取れなかった。それがエジプト時代に増えて、出エジプトのエクソダス(大脱出)は百万人規模になっていました。数的には侵略が可能になったんです。民族の生存競争だから異民族を滅ぼすのは平気だったと言えばそれまでだけれど、やはりカナン人とは昔は共生していたのですから、異民族の土地に侵略するためには、相手の民族がとんでもない神への冒涜的な信仰をしていると主張して、ホロ・コースト(大量殺戮)をともなう侵略を合理化することが必要だったと思います。それで『バイブル』では異民族の信仰をフェティシズムや偶像崇拝として激しく排斥し、神の審判で滅ぼされて当然だとするためには超越神論という形をとらざるを得なかったと思うのです。  

石塚 それはもうフェティシズムでもトーテミズムでもなく、超越神論のほうだから、政治的なものが動機であるというのは、当然です。都市国家から領土国家へと転換するときには必ず神観念が変わって、超越神論が出るんです。 

やすい 一般的にそういうことが言えるんですか?  

石塚 都市国家の段階はまずトーテム的ですね。それが領土国家になっていくときに、各氏族のトーテムを超えた神様が必要になって、超越神になっていくわけなんです。  

やすい ギリシアの主神ゼウスの場合は、天空の神ですよね。それも比喩的に言えば超越神だということですか?  

石塚 もともとゼウスはリビアかエジプトあたりから来るんです。その段階ではトーテム風だったでしょう。統一以前のエジプトにたくさんあったノモス(氏族共同体)には一個ずつトーテム(守護神)があるわけです。そのうちのテーべの守護神アメンでエジプトを統一していくときに、テーベの地域神アメンは元来は羊だったんだけど、全ノモスを統合するときには、もう肉体を備えていない霊のみのアメン神になっています。アメンというのは「隠れたるもの」「見えざるもの」という意味なんです。そうすると他の自然物の神々から超然としているから、統合する神になれるんです。統合神ができてもこれまでのトーテム神を棄てきれない者には、それはそれで信じさせておいたのです。 

やすい それじゃあ日本で言えば、天照大神もそういう超越神にあたるわけですか?  

石塚 そうです。天照大神は天の岩戸に隠れますが、入るときには肉体をもっているけれども、出てくるときは霊なんです。肉体の代わりに鏡が出てくるんです。イザナギとイザナミは肉体を持って子どもを生むでしょう。妻のイザナミは子どもが生まれでる場所ホトを火傷して死にます。そして黄泉の世界で肉体が腐って蛆虫がわきます。妻を捜して黄泉にきた夫のイザナギは、それを見て逃げて帰ってきます。フェティシズムに近いですよね。神様が腐るのですから。霊的な信仰ならむしろ肉体はないほうがいいわけです。天照大神はセックスなしにイザナギから直接生まれますから、ちょっと超越的になっているんです。

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