2宗教の起源

やすい フロイトの場合、宗教の起原はトーテミズムからなんですが、ド・ブロスや石塚さんの場合は、フェティシズムからですね。その決定的な決め手になったのは何ですか?  

石塚 まず神観念ですね。霊的なものに成っているかということです。  

やすい 霊というのは物体的なものはないけれど、精神的な作用をする主体ですか? 

石塚 今こうしてやすいさんと話しているぼくに、霊に話しかけているという意識はないです。つまりやすいさんの身体と霊とを別々にしていません。ほんとは別個なんだけど今は一緒だ、などとも思っていません。それは原初に発する神観念だとたと思うんです。心としての霊魂をぼくは否定しませんが、霊が霊だけでふわふわしているというのはおかしいと思います。霊肉の分離あるいは浮遊する霊というのは、第二段階の神観念なのです。

やすい じゃあ、トーテミズムでは、霊が出たり入ったりするのですね。 

石塚 はい。代々受け継がれるわけですから、同じ母から生まれたら母系制では同じトーテム霊がついています。族長霊も代々受け継がれますね。  

やすい トーテム動物とそのトーテム信仰をしている人間とは親縁関係にあるんですか?  

石塚 トーテム獣とそれを崇拝する人間とは、大本のお母さんが一緒だというのです。死ぬとその大本のお母さんであるトーテム霊のところに戻るのです。このトーテム霊は霊のプールみたいなもので、死後五年ぐらいで一つになるんです。そこからまた霊がでてくるのだけれど、それは輪廻転生のように個人の霊魂が繰り返し生まれ変わってくるようなものではありません。トーテム信仰は霊魂と肉体を分離していますので、第二段階なんですよ。シャーマニズムも霊を呼び出しますから第二段階です。 

やすい 第一段階は、だから肉体と霊を分離できると捉える以前の、肉体自体が神であると捉えるフェティシズムだということですね。  

石塚 フェティシズムの最大の特徴はそこにあるんです。物が神だから物理的にドローメノン(神態的所作)の儀礼で、神様を揺すぶってお願いするわけですよ。肉体的に神にアクションをかけるんです。紀元前四世紀前半、フェニキアのティルスでは、アレクサンドロスが侵略してくるというので、守り神のヘラクレスが怖じ気づいて逃げないよう、この神を鎖で縛っておいたのです。ギリシア各地に見られる翼をもぎ取られた女神もそうですが、もし霊が肉体からはなれるのだったら、そんなことをしても無駄でしょう。だからこういう扱いをする儀礼は、肉体を神とみなすフェティシズムなのです。  

やすい 神と人間の位置関係からみて、どちらが優位かという視点からも先後関係が言えそうですね。  

石塚 ええ、トーテミズムだとトーテム神はもはや固定されています。でも、その下にある位の低い神様は相変わらずフェティシズム的な扱いを受けて、攻撃されたりするんです。

やすい じゃあ、トーテムの入替えは具体的な例としては見つからないんですね。  

石塚 ただね、ルイス・ヘンリ・モーガンの比較民族学説では、部族の人口が増加して新しい氏族として独立した段階で、新しい神を受け入れている可能性があります。 

やすい それは実例としてあるんですか?  

石塚 オーストラリアのカミラロイ人は、一九世紀において大トカゲ、エミュー、カンガルー、袋狸、袋鼠、黒蛇というトーテム氏族に分かれていましたが、それは元々は二つだったのです。でももともと自分たちの親はトカゲだったのに、今日からエミューだぞというのはおかしい。その点でモーガン説には批判の余地があります。 

やすい それは実証的にはどう説明したらいいんですか。 

石塚 実証的にはどうかわかりませんが、ライヒがそれと違った意見を表明しています。もともと単独で存在しているホルド(horde)がまずあって、そこの男たちが狩猟の道すがら別の単独ホルドのテリトリーに入る。後者のホルドの男たちが狩りかなんかで留守だったなら、前者のホルドの男たちはそこで食欲と共に性欲も満たしてしまうことにもなるでしょう。そして侵入者が自分のホルドへ戻った後で子どもが生まれ母親たちと暮らす。そうなると、相互に異なるトーテム神を崇拝する二氏族が一緒になって一つの部族をつくってもおかしくないでしょう。これがライヒの襲撃説なんです。説得力がありますよね。

やすい フェティシズムは、一つには肉体と霊魂が未分化だという意味で、肉体と霊魂を分化させたトーテミズムより古いし、もう一つは、トーテミズムだとトーテム神は固定して引きずり下ろせなくなっているのに対して、フェティシズムの神はまだ役に立たなくなったら引きずり下ろせるという意味で、固定していないからより始原的だということですね。それからフェティシズムに起原をもつ特徴として、人が神を造るというのが重要ですね。  

石塚 それが最大の特徴です。 

やすい 自然物をそのまま神にするという場合と、アフリカの木の人形のような人工物を神にする場合があるでしょう。 

石塚 ド・ブロスが原型にしているのは人形じゃなくて、蛇なんです。また無生物であっても、それは人工物ではないです。フェティシュの語原であるポルトガル語の「フェイティソ」というのは「加工する」という意味だよ、だから自然物というのはおかしいよ、と指摘してくれる人がいますが、その人は言葉に騙されているんです。なるほど、中世のカトリック世界では「フェイティソ」というと「呪物」や「お護り」のことを指します。ところが、そのポルトガル人が西アフリカへ行ってみると、土地の人々が蛇だとか小石だとか鰐の鱗だとかをお護りにしていたので、俺たちのところの「フェイティソ」と同じだということになったのです。 

やすい さっきのトーテミズムの話とひっかかるんですが、トーテム神にも蛇が多いですよね。トーテムかフェティシュの違いですが、それはぱっと見分けられますか? 

石塚 それは見分けられません。トーテム信仰の時代でも、フェティシュは位の低い神として残って、相変わらず攻撃されます。つまりフェティシズムとトーテミズムは習合するので分けられないんです。でもトーテム神の場合は、霊が受け継がれますが、フェティシュですと、それが破壊されたり死んでしまうと、全く別個の蛇を捕まえてきて、儀式で神にしてしまうわけです。ですから死んだときの扱いで見分けられるということになりますね。  

やすい ド・ブロスの場合は、フェティシズムは原始的な信仰で文明時代には存在しないと切ってますね。でも石塚さんの場合は、習合という形で現在まで継続しているものとして理解されているのでしょう。 

石塚 フェティシズム的なものを根っこにもっているか、フェティシズムの片鱗を示しているものは、現在でも根強く存在していると考えています。 

やすい その代表的なものが、石塚さんが前におっしゃっていた、雨を降らしてくれなかったら、雨を降らせるまで縛り上げて池にぶん投げる「雨降り地蔵」ですね。それ以外にもフェティシズムの名残みたいなのはありますか? 

石塚 そういう雨乞いや病気治癒などに使われる石仏ですね。その他には六月三〇日か七月三〇日に行われる「茅の輪くぐり」があります。茅の輪をくぐると半年の汚れが落ちて、きれいな体で残りの半年を暮らし始める、というものです。元来は六月の末と一二月の末にくぐって汚れをおとしていくものだったんですが、今は六月末のが多く残っているようです。ところで、この輪というのが蛇の象徴なんです。家庭のしめ縄など藁でつくったものの多くは蛇なんです。蛇は神話の世界では八股の大蛇で、あるいはスサノヲ神です。 

やすい ギリシアと日本の共通性で蛇信仰がさかんですね。先程の例でアフリカでも見られるのですから、かなり普遍的なんですね。世界中で見られるのですかね。 

石塚 南米でも見られますしね。蛇というのは両義性をもっているでしょう。一面では、脱皮して新しいものに生まれ変わり常に永遠を回復する。死んでも再生するように思われます。他面では、蛇は毒蛇のイメージで恐ろしいものとされています。崇拝される根拠をもつと同時に、恐れられる根拠をもつものが神になるんです。蛇はその意味で神に相応しいんです。でも蛇でなければならないということではありません。 

やすい 蛇は地面と関係があって、農耕のイメージとつながるのでしょうか? 

石塚 蛇はモグラとか鼠の天敵ですから、蛇がいると土の中の根菜を守ってくれるんです。ですから蛇にいてほしい。焼畑の時代に蛇は神様になるんですよ。ところが米の文化の時代になると土の上に実るでしょう。その時に蛇は用なしになっていいと思うのがわれわれの発想なんですが、文化慣性の力がはたらいて、蛇という神様に宗教的な思いが残りますから、地上においても蛇に活躍してもらうことになるんですよ。それが案山子です。 

やすい ああ、案山子は蛇の変形ですか?  

石塚 だって「やまかがし」(赤楝蛇)なんて言うでしょ。そのときのカカシ、あれは蛇の意味なんです。「山田の中の一本足の案山子」の山田は焼畑で、一本足は蛇なんです。「天気もよいのに蓑笠つけて」の蓑も蛇の象徴です。「八股の大蛇」ももとは「山田の大蛇」という意味ですよ。  

やすい そういう蛇に恩恵を受けているんだけれど、スサノヲに攻撃されるということで蛇は物神ですね。なるほどド・ブロス的なフェティシズムにぴったりですね。ところでヘブライ(ユダヤ)のヤーヴェ信仰ももともとはフェティシズムだったんですね? 

石塚 そう、ヤーヴェは石だったということも『バイブル』の叙述に片鱗が残ってます。 

やすい 「神の箱」の中には石が入っていた。 

石塚 ええ。だから神様を運べるということは、ようするに実体をともなったものが神様だったということです。トーテミズムだったら運びませんよ。御祓いして霊だけ引き出してきて、御札にでも入ってもらうでしょう。超越神だったらその必要もないですね。 

やすい その蛇と石というのはなにか関係がありそうで、ちょっと不思議なんですが、石信仰というのもわりとあるんですよね。世界的にあるんでしょう。神が降りてくるトポス(聖なる場所)としての石座(いわくら)も、超越神論が習合されたもので、もともとは岩自体が崇拝の対象だったんですね。  

石塚 巨石文化やストーン・ヘンジ(環状列石)は世界中にあります。習合された段階ではいろいろ説明されますが、起原としてはやはり石自体が崇拝されていたんです。磨崖仏も仏像を彫ったから神聖になったのではなくて、もともと神聖な岩に磨崖仏を彫ったんです。

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