石塚正英・やすいゆたか対談 

フェティシズム論の可能性

                        

  1『白雪姫』の原風景
 

やすい 石塚さんが「フェティシズム」に特に関心を持たれたのは何時ごろからですか?  

石塚 一九六〇年代末から七〇年代初めにかけて、学生時代からのぼくの問題関心は、唯物史観についてのマルクスの唯物史観について疎外論・物象化論・物神性論を踏まえてどうおさえるかだったのです。一九八二年頃になって、熊本女子大学の布村一夫さんが、マルクスの「フェティシズム」という観念はド・ブロスに由来しているので、マルクスの『ド・ブロス・ノート』を読んだ上で議論しなきゃ駄目だ、ひとつ君が翻訳してみないか、と勧めて下さったのです。

やすい そのときにポジティヴ・フェティシズムとネガティヴ・フェティシズムがあることに気づかれたのですね。  

石塚 はい、訳していましてね、そこでやはり一七六〇年のド・ブロス自身の著作である『フェティシュ諸神の崇拝』を読みたくなりまして、ドイツ語訳とフランス語の原本を入手して翻訳したんです。フェティシズムとイドラトリ(偶像崇拝)の違いをド・ブロスが一所懸命強調しているので、ポジティヴ・フェティシズムとネガティヴ・フェティシズムがあることがよくわかったのです。

やすい 石塚さんの『「白雪姫」とフェティシュ信仰』(理想社)がよく売れていますね。白雪姫物語の変遷も興味深いのですが、肝心の白雪姫とフェティシュ(物神)信仰の関わりが難しいという人もいますので、ご説明願います。  

石塚 子どもと家庭のためのメルヘンとして型にはめて『白雪姫』を捉えていますと、わからないんです。兄のヤーコプ・グリムは言語学者として、古代ヨーロッパの神話の世界を史料として、あるがままに丹念に残そうとしたのです。実際は、語り継がれたものだから変化しているんですよ。ヤーコプには、古代ゲルマンの世界は古代ギリシアに匹敵します。たとえ近世になってフランス語で伝承されていようが、元はゲルマン語だったと考えていたのです。だから復元するってことは、ドイツ語に翻訳することなんです。グリム兄弟は、『白雪姫』をユグノー派のフランス人亡命者の娘から聞き取っているのですが、それをヘッセンの生粋のドイツの話だとしました。そのわけは、原話は古代ゲルマンの神話の世界に根があると考えていたからです。  

やすい じゃあ、弟のヴィルヘルム・グリムの方はどういうモチーフだったんですか?

石塚 彼は子どもの教育のためのメルヘンに力を入れました。初版のままだと残酷すぎるといった読者からの批判的な反応もあり、一九世紀という時代に合わせて化粧していこうとしたのです。その次元で『白雪姫』を読んでいますと、フェティシズムとの関係がわからないままなのです。 

やすい では白雪姫説話とフェティシュ信仰の関係の要約をお願いします。 

石塚 リトルド(再話)されてしまい、見えない部分があるのですが、もともとは白雪姫の実母が白雪姫の内臓を食いたいと言い出すのです。原初的な世界では、みんなで聖獣の内臓を儀式として食べました。内臓に一番神的なものがあるのです。 

やすい 自分の若返りのために、若い白雪姫の内臓を食べたいと? 

石塚 美とか聖なるものの最も本質的な部分は人の顔とや容姿などではありません。物としての内臓なのです。それを自分の体内に取り入れるということ、これはカニバリズム(人肉食)です。これは残酷で一九世紀には受け入れられません。そこでお妃は猪の肝臓を食べたことにしてしまいます。 

やすい ところでお妃と白雪姫というのは、実の親子だったとしたら、同じトーテムになるので肉は食べられないんじゃないですか?  

石塚 母系制だとそうなのですが、白雪姫物語だと父系制らしい。嫁入り婚ですから母だけがよその氏族よそのトーテムに属していることになります。それに、この物語が母系制だとしても、氏族員はときに儀礼を介してタブーを解消し、自己のトーテム神獣をむさぼり食うことがある。でも、そのような先史の掟は一九世紀には忘れられている。そこで実母が継母にとって代えられたというわけです。 

やすい 継母にしたのはグリム兄弟でしょう。  

石塚 そうなんですが、おとぎ話にはいろいろな話がくっつきますから、継母にしたのを一概に捏造だとは言えません。ともかくトーテムが違えば、別のトーテムの神はいつだって食えますからね。トーテムを食うという行為には、二種類あります。神としての自己のトーテムを食うのと、たんなる食料としてよそ者のトーテムを食うのと。いずれにせよ、相手の肉を神と見なして食うというのがフェティシズムの特徴です。 

やすい そのほかに、直接フェティシズムと係わる話はありますか?  

石塚 フェティシズムの特徴はド・ブロスによるとフェティシュに対する崇拝と虐待の交互運動なんですが、母と娘がいじめあうでしょう。特に最後は白雪姫は母を焼き殺しますね。役に立たなくなったフェティシュは、食ったりせずとも、打ち棄てたり破壊したりします。この崇拝と攻撃の交互運動も白雪姫の中に読み取れるわけです。 

やすい おとぎ話とフェティシズムのつながりというのは、偶然白雪姫でつながっただけなのか、それとももっといろいろ言えるのですか?  

石塚 フェティシズムという言葉ですぐに連想するのは、ド・ブロス的なフェティシズムではなくて、フロイト的な性的フェティシズムです。『シンデレラ』の「ガラスの靴」などはこの典型です。フェティシュに対する崇拝と虐待の交互運動や、フェティシュが人間の下僕のようになる、ド・ブロス的なフェティシズムには『赤頭巾』や『ヘンゼルとグレーテル』などが似合いますね。グリムとフェティシズムの関係を指摘するには、『ヘンゼルとグレーテル』のほうが、『白雪姫』よりはるかにいい材料なのです。二人は聖なる森に棄てられますね、森で老婆姿の魔女が出てくるんです。魔女はお菓子の家へ誘い込みますね。魔女というのは本来はフェティシュな神様だったんです。それがとんでもない魔女のように一九世紀にはもはやとんでもない悪の権化のように変わっているんです。 

やすい 魔女はヘンゼルとグレーテルを助けたんだけど、それはヘンゼルとグレーテルを太らせて食べるためだったという筋ですね。それでは魔女がフェティシュだったというのはどういう意味なんですか?

石塚 それはですね。プレ・キリスト教段階でフェティシュ神だったのを、キリスト教段階においては異教はみな悪魔信仰だということにしたので、女神を魔女にスイッチした瞬間から、優しく子どもたちを育てているのに、あれは豚の飼育と同じで、実は食うためだったという筋書きができてしまったのです。これは異教徒を排斥したり、異教徒の神はみんな悪魔か魔女だってことにするキリスト教の観念なのです。それが近代になってもう一つバイアスがかかります。ナポレオン戦争の頃からドイツのナショナリズムの影響が出てくるのです。占領下では直接反フランスを叫べません。「フランス人は出ていけ!」と叫ぶ代わりに、ドイツ語やドイツ文化は素晴らしいという形でナショナリズムを煽っていくのです。排外思想としてのナショナリズムを煽るわけですので、魔女はまさに比喩としてドイツの敵に当てられますよね。  

やすい じゃあ元の話は、森に棄てられた兄弟が優しい外国人に助けられたっていう話なんですね。食べられる話じゃなかったんだ。 

石塚 そうですよ、先ほどのカニバリズムと矛盾するという印象を受けるでしょうが、氏族社会では部外者と仲よくすることが最大の鉄則です。アメリカのイロコイ人は見ず知らずの部外者の人をどんどん歓待して、食欲を満たしてやるだけでなく、自分の娘も提供して性欲も満たしてやる。なんでも提供するんですよ。この歓待の儀礼から族外婚が始まった可能性があると、ぼくは予測しています。だから外国の人たち、部外者、異分子は素晴らしいはずなんです、フェティシズムやトーテミズムの世界では。族外者ないし族外神への再校の歓待がカニバリズムだったりしたのです。 

やすい そうしますと魔女は、フェティシズムの用語から考えて、どういう意味でフェティシュなんですか?  

石塚 プレ・キリスト教時代の森や樹木の神などの自然神――のちに魔女に見立てられるもの――は、聖なるものですが、恵みを与えてくれるだけでなく、恐ろしいものでもある。そこがフェティシュの特徴で、両義性をもった存在なんです。だから、ある時は憎たらしくなって虐待します。しかしそれに行き着くまでは、ひれ伏していて、フェティシュである神を罵倒したり、踏みつけたりした人間の方が火あぶりになってしまうわけですよ。しかし場合によっては、神は人間と闘争する。これは和解を前提とした闘争ですよ。闘争と和解が交互になっています。そこから人間をいじめる方だけ強調すると魔女ができあがるのです。キリスト教時代になるとその面ばかりデフォルメされて、恵みや和解の面は置き去りになりました。でもプレ・キリスト教時代にはフェティシュな神だったということです。それが『白雪姫』の原型にあるんじゃないかというのが、ぼくのこの本のモチーフなんですよ。  

やすい そういう意味では、フェティシズムがおとぎ話の原型に背景としてあるんじゃないかというのは、わりあい普遍的に言えそうですね。 

石塚 だからフロイト的な精神分析の意味ではなく、ド・ブロス的な意味を了解した上でフェティシズムを読めば、よく分かってもらえるんです。でもフロイトのフェティシズムにはド・ブロスのフェティシズムが先行している。その点を忘れてもらっては困ります。まずはド・ブロスに帰れ、ということです。

やすい 早速『ヘンゼルとグレーテル』でそういうことを分かりやすく書いてください。 

石塚 やりましょう。フロイト的な『シンデレラ物語』のフェティシュとド・ブロス的な『ヘンゼルとグレーテル』のフェティシュの両方あって、それが違うのかというと、そうじゃなくて根っこは同じなんです。どちらが根っこかというと、やはりド・ブロスなんですね。フェティシズムを理解するにはド・ブロスからやらなきゃいけないのです。 

やすい ド・ブロスの場合、フロイトみたいにセックスにつながるものはありませんね。  

石塚 ないけれど、やはりカニバリズムも広い意味では一種のセックスですよね。まさに肉体を介しての交信というか。

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