四、「ヨハネ黙示録」の地位 

 「ヨハネ黙示録」はヨハネにキリストの御使が示したとされるもので、福音書の著者でもあるヨハネの話を教団としても否定することはできなかったのです。とはいえ、「ヨハネ黙示録」の内容を教義に含めてしまいますと、キリスト教は普遍的な愛の宗教としての性格を著しく損なうことになります。つまり頑強にキリストの福音や贖罪を信じないものは、やがてイエス・キリストが軍勢を引き連れて現れ、皆殺しにしてしまうという内容だからです。

 世界には沢山の神の子や預言者を自称するものが現れ、民衆の目からは奇跡と思われる業を示し、尊い教えを遺しました。その中には迫害にあって殉教した人も沢山いたでしょう。その中からイエスを唯一のキリストと認めることができなかったとしても、それ程、神を冒涜していることになるでしょうか。

  それに世界にはイエスの名前すら聞いたこともない圧倒的多数の人民がいます。その多くは素朴な自然信仰や偶像崇拝を行っており、フェティシズムの風習も未開では多く見られます。そうした人々もヨハネから見れば無知蒙昧のせいで神を知らないで神を冒涜していることになるのでしょうが、それだけで審きの際に滅ぼされて当然なのでしょうか。それ程、イエス・キリストは無慈悲で残酷で非寛容 なのでしょうか。

 ユダヤ教やキリスト教の神には、愛の神と審きの神の両面があります。審きの神としては、唯一絶対神であるヤハウェ信仰を受け入れない者は、審判の時には厳しい裁きを受けます。ヤハウェ信仰を守った人々は楽園を約束されます。義の為に生きた人々も審判の際には、蘇って楽園に入ると夢想されています。つまり歴史の終焉の時に、神の義が証されて、最後に帳尻が合うという仕掛けになっているのです。

 ハムラビ法典では「目には目を、歯には歯を」という同等報復的な正義観念が強く、バイブルでも報復主義が強烈です。バイブルによれば、預言者サムエルはサウル王にイスラエルの出エジプトの際に、進路を妨害したアマレクを神の意志に従って女子供家畜まで皆殺しにするように命じたが、彼は王を捕虜にし、女子供と家畜を生かしておきました。サムエルは怒ってアマレク王を殺し、サウル王を一代限りにしたのです。

  ダビデは周辺部族を襲撃しては、頭皮を剥いで何千枚も持ちかえり、女たちの「サウルは千を撃ち殺し、ダビデは万を撃ち殺した」(サムエル記上)という歓声に包まれます。つまりこの侵略は偶 像崇拝を行い、神を汚している連中に対する神の名誉回復を賭けた正義の戦いなのです。

 イスラエルはヤハウェの信仰共同体でもあり、ヤハウェは契約によって、イスラエルの 最終的勝利と全地支配を保証しています。ですから最終的に審判で異教徒を絶滅させるという発想は、ユダヤ教の伝統を引き継ぎ、徹底したものでもあるわけです。神は正しい信仰を持ち続けた者のみを聖別され、それ以外は火の池で未来永刧苦しめられることにしなければ、正しい信仰は衰退し、イスラエルの分裂は避けられないと考えたのでしょう。

 キリスト教ではイエスが神の御子であり、人類の罪を贖って十字架の犠牲につかれたことを信仰するだけでキリスト者として認められることになっています。これはキリスト教徒にとっては自明の真理です。神が自分の愛しい一人子を犠牲にされた愛の深さに、感動し、この愛の神に帰依することは至極当然の事だと思われるからです。

  しかし非キリスト教徒にとっては、どうして大工の息子の殉教だけをそれ程特別視することができるのか、さまざまな奇跡物語がキリスト教徒達の作り話でないとどうして信じることができるのかと、はなはだ疑問なのです。そうした疑問を持つことが、審判で滅ぼされる充分条件だと したら、そんな無慈悲な神がどうして愛の神でありえるのかと反発してしまいます。

 

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