三、ほふられた子羊・キリストの再来 

 

 オウム真理教は、ソ連邦解体後の精神的空白を癒そうと宗教への飢餓状態に陥ったロシアに進出を計りました。そしてあっという間に、三万人の信者を獲得したと言われています。その際、神秘的なチベット仏教のイメージの上に、キリストの再来のイメージを付加しようとしたのです。

  もっとも麻原のいう『滅亡の日』(オウム出版一九八九年二月刊)のキリストはイエス自身の生まれ変わりではなくて、シヴァ神に帰依する救世主ですが、人類の為に犠牲になって神に身を捧げられた者という意味で、麻原もキリストの境涯にあるということです。今にして思えば、シヴァ神信仰の導入やキリスト宣言は、麻原がハルマゲドンを人類に対して行うという宣言に他ならなかったのです。

 麻原は、ヨーガ道場を主催し、最終解脱までに階梯を設けて、弟子のランクづけを行って、競争させて上から階級的に教団を組織しました。教団内でのステージの向上に信徒の目標を定めさせていましたから、慈善や愛の実践などにはほとんど関心を示しませんでした。ですから突然キリストを持ち出しても、イエスのように隣人愛の実践を説くようなものではないのです。

  キリスト教団は、オウム真理教の麻原キリスト再来説を荒唐無稽と嘲笑するだけで、その狙いや危険性を見抜くことができませんでした。そのことはキリスト教団が自らの教義の内容が、どのように悪用される恐れがあるか分かっていないということです。実に無責任な対応だと言わざるを得ません。

 麻原は自分の宗教活動を人類救済活動と位置づけています。そういいますと、麻原はただの詐欺師で金儲けの為に宗教をネタにしているだけだと反発されそうですが、たとえそうだとしても、詐欺活動を貫徹する為にも人類救済活動としての筋を通さなければならないのです。

  教団のサティアンを建設し、信徒の修行場を確保し、大量の出家者を養成する仕事は、全人類の「救済」を意味するオウム帝国形成の第一歩の筈でした。オウム帝国は人類を麻原の奴隷化することに他ならないとしても、教団の目から見れば、それこそ真の解放であり、人類の救済に他ならないのです。

  この「人類救済」の第一歩のサティアン作りの段階で、熊本県の波野村の住民からの激しい反対運動に直面しました。また全国のオウム真理教の施設周辺住民のオウム真理教排斥運動は根強く、教団は次第に「人類救済」の為の修行活動に理解を示さない地域住民に対して激しい憎悪を抱くようになるのです。

 教団活動を強化、拡大していくためには教団が単に宗教法人であるだけでなく、もっと社会的に認知されなければなりません。そこで坂本弁護士一家を惨殺して「妨害」を除去する一方で、衆議院総選挙に立候補し、国政参加をねらいました。これには惨敗を喫し、憎悪の対象は周辺住民から国民全体へと向けられます。組織の危機に直面して、終末思想に飛びつき、終末が来るから出家しておかないと生き残れないと説得し、信徒の多くから全財産を巻き上げ、出家させることになったのです。

 仏教系の終末思想では末法万年説ですから、人類が当面滅亡の危機にあることは説きにくいのです。ところがキリスト教系ではノストラダムスの大予言が千年代末での終末を予言しているとされますから、麻原には好都合なのです。そこでノストラダムスの大予言の根拠にされている「ヨハネ黙示録」が注目されます。そこでは何と神の一人子イエス・キリストが再臨し、審判を行う姿が画像的に預言されています。「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」「汝の敵を愛せよ、汝を迫害する者の為に祈れ」と説いた同じイエスが、そこでは人類の救済者というよりも、人類の大部分のホロコーストを指揮するのです。

 イエスは「ヨハネ黙示録」では、「ほふられた子羊」や「人の子のような者」いう名で 登場します。つまりイエスは、神の一人子でありながら、人類の罪を贖うために屠殺された犠牲の子羊だったというわけです。神は人類に不信仰の罪に気付かせ、正しい信仰に戻すために神の一人子を遣わされ、神への愛と隣人への愛に生きるべきことを教えました。

  しかし拙稿「バイブルの人間観」(『月刊状況と主体』一九九二年二月号)で解明しまし たように、人の子としての姿で現れなければならなかった為に、彼が神の言葉を伝え、神のごとき奇跡を行うことが人々には神を騙る者として、偶像崇拝のごとく思えたのです。

  いかに生きるべきかはトーラーの形で既に預言者を通して神の預言として与えられていま す。イエスが本物のキリスト(メシア=救世主)に見えれば見えるほど、偶像崇拝として十字架に付けざるを得ない構造になっていたのです。

 イエスは神の真実の愛を悟ることができない人類の罪を一身に背負って、「ほふられた子羊」になったのです。この神の子の死を通して、人々は今や肉体を離れて純粋に思想となったイエス・キリストの福音を思い起こし、その思想的真実に直面せざるを得ない筈です。そして神の子を殺した神への裏切りを懺悔し、真の信仰に目覚めるべきなのです。そうしてこそ始めてイエスは人類を霊的に救済することができるのです。

 「ヨハネ黙示録」は、神が自らの最愛の一人子を敢えて十字架に付けてまでも深く人類を愛されたことに思い致すとき、その愛を素直に受け入れて改心することができない者達は、神を元々受け入れることができない者達であり、救済にあたいしない者達だと言いたいのです。

  イエスは再臨によって地上に神の支配をもたらすわけですが、その際に、新し い天と新しい地を引継ぎ、神の王国の住民と成れるのは、神の愛を受け入れた者だけであり、神にあくまでも背いた者達はすべて、人類の為に敢えて自らの身を捧げた「ほふられた子羊」イエス・キリストによって審かれて滅ぼされるべきだということになるのです。

 ただし麻原の解釈では、「人の子のような者」はその光り輝く様子からして、麻原がアストラル界で会うシヴァ神と同一だとし、「ほふられた子羊」はシヴァ神のしもべだとしていますから、イエス自身が破壊を指揮するのではないことになります。これはキリスト教徒ではなく、オウム真理教徒こそが破壊に携わるのだという解釈なのかもしれません。

 麻原は地域住民との闘争を通して、また総選挙での挫折を通して、「人類救済計画」の為にあくまで教団に敵対する現存の大部分の人類を清算すべきだという確信を「ヨハネ黙示録」から「啓示」されたのです。あの隣人愛を説いたイエスですら、地上に神の国をもたらす為には、人類の大部分を粛清せざるを得ないと考えていたのだから、自分たちが同じことを考え、実行しても何ら疚しいところはない筈だと考えたのです。

 そして人類救済の為に幾多の犠牲を払ってきたと自負している麻原は、自分こそ「ほふ られた子羊」=キリストだと主張します。何故ならキリストは人類救済の為にハルマゲドンを実行するのですが、それを本当にやろうとしているのは空前絶後、自分だけだと思われたからです。麻原の弟子達は、自分達はキリストである麻原の御使いとして、聖なるホロコーストを実行できるのですから、これ程神聖で光栄な仕事はないと考えたのです。

 麻原は『ノストラダムス秘密の大予言』(オウム出版一九九一年十二月刊)で、「神々 が人類に姿を現す。彼は大きな戦争の首謀者となる。神の前に静まりかえって見える軍事と攻撃、左手に向かってもっと大きな攻撃を起こす。」というノストラダムスの予言詩を「神または神の意を受けた超人類が人類を滅亡させる大きな戦いを仕掛けていく」(一一九頁)と解釈しているのです。もちろん麻原はそこで生き残るのは超人類だと思っています。予言者酒井勝軍の予言から次の言葉を『滅亡の日』に引用しています。

 「人類は今世紀末のハルマゲドン(人類最終戦争)で滅亡する。生き残るのは神仙民族だけだ。その王は日本から出るが現在の天皇とは違う。」(『滅亡の日』一八〇頁) 

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