五、愛と憎しみのアンビバレンツ 

 ヨハネが本当にキリストの御使から啓示を受けたのかどうか、事実関係を確かめる方法はありません。でもヨハネが書いた文章であることは一応認められるでしょう。そうでないとこういう幻想的な内容が教団の信憑性を得て『新約聖書』に収録されることはできなかったでしょうから。そこでヨハネの意識から「ヨハネ黙示録」の意味が解読されます。

  それは神の愛に対して人間が応えることができなければ、神の愛は憎しみに転化するだろ うということです。その際、神の愛が深ければ、深い程、それが転化した憎しみのエネルギーも巨大化することになります。

 ヨハネはキリストが死者を蘇らせた奇跡を記しています。そしてイエスが永遠の生命を説いて、「我は蘇りなり、生命なり、我を信じる者はたとえ死んでも生きる。また生きていて我を信じる者は、いつまでも死なない。」と語ったことを福音書で紹介しています。

  ヨハネはイエスが神の子であり、奇跡を行い、死んでも蘇ったこと、だからイエスに帰依することで永遠の生命を獲得できることを主に説いているのです。その点、イエスの愛の思想を深く追求したマタイやマルコの福音書とは性格が異なります。ですから神の愛を受け入れなければ、神の愛は激しい憎しみと怒りに転化して、恐ろしい罰を下すだろうと警告するのもよく分かります。

 神の深い愛に人間が応えなければ、人間は神の怒りに触れて滅びるという論理は、教団の側からみれば至極当然です。しかしこの神の愛は、無償の愛、自己犠牲的な愛、分け隔てない愛、寛容な愛といったアガペーの概念とは掛け離れています。それはこれだけ愛しているのに振り向いてくれないと逆上する、身勝手な片想いの論理です。昔は、素行の良くない男子中学生が、憧れの女子中学生に交際を申し込んで、断られると頬を張り倒して溜飲を下げることがありました。あまりそれと変わりません。

 またおびただしい殺戮シーンの連続に、ヨハネの潜在的な殺人願望が反映している気がします。小中学生の頃、私は東映のチャンバラ時代劇の大ファンでしたが、あの華麗な剣の舞で数十人、数百人の悪者達が次々と切り殺されていくシーンに陶酔感を感じていました。サタンが禁欲的な愛の実践に飽き飽きしたヨハネの殺人願望に働き掛けて、黙示録という形の殺戮のユートピアを体験させたのかもしれません。

 ともかくキリスト教が受容される文化的環境がどれだけあるかよく考え、それに対応した布教の仕方を考えるべきです。受容されないからといってそれを相手のせいにし、滅ぼしてしまおうなんて論理は神にしては大人気ないし、犯罪的です。弾圧下でのキリスト教の布教に苦労し、教会内の異端との闘争に手を焼いたヨハネのあせりと怒りが反映している気がします。

 それに「ヨハネ黙示録」には、ヨハネの創作だと仮定すると、神への裏切りと不信仰を人間の本質と見なす人間観が前提になっていると解釈できます。深層心理においてはヨハネ自身が不信仰に苦しんでいるのです。だからこそ、神の審判を人類に対するハルマゲドンとして凄惨な地獄絵に表現して、神を恐れることで信仰を守ろうとしたのです。ヨハネが本当に愛の神を信じているのなら、キリストの再臨を契機に愛の実践が実を結んで、教団が強固な共同体として社会に根づき、様々な愛の奇跡で頑迷な反キリスト者が改心するようになると考える筈です。

 

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