二、転輪聖王・シヴァ神

 

 吉本隆明は、麻原が宗教家としてスケールが大きいと指摘し、オウム真理教団に抹殺されかかった小林よしのりに糾弾されています。麻原の美化はその被害者の神経を逆撫でしますから、不用意に麻原賛美と受け取られる発言を行うべきではありません。

  麻原の凶悪さは人類犯罪史上、画期的なものです。閻魔大王も麻原をいかなる地獄に落とすべきか大いに悩むに違いありません。これまでいかに凶悪な人間であっても、人類の大部分を掃滅して、自分を絶対的に崇拝する信徒だけを生かしておこうなどという発想をした人は恐らく皆無でしょう。織田信長、ヒットラー、スターリンより恐ろしい構想です。

  そこまで世界を一新し、全く新しい世界をつくり出そうとしたのは、ノアの方舟の時の神であり、「 ヨハネ黙示録」の「ほふられた子羊」つまりイエス・キリストなど神および神の一人子に限定されるのです。同じ事をしても、神やイエスの構想が新しい天と新しい地をもたらすと賛美されるのに対して、麻原の場合は悪魔的行為として驚愕されるのです。

 バイブルでは神の審きに関しては、神は万物の創造主であるから、自分が作ったものを出来が悪かったので破壊して作り直すのは全く当然の営みとされているのです。同じことを人間である麻原が行えば、神が作られた世界を崩壊させようとしている悪魔的所業として糾弾されます。そこで麻原は、自分を神の位置にまで高めておく必要がありました。

 釈迦やイエス・キリストは、後世の人々によって神秘化され神格化されています。さまざまな超能力を発揮し、死人までも蘇らせるという奇跡さえ行っていると伝えられています。イエスが墓から三日目に蘇り、弟子たちの前に神の子の証明をしたことになっていますが、それが粉飾でないかどうかは、今更事実関係を確かめる術などありません。麻原の場合、空中浮揚などの超能力が彼の神性を証明するものですが、公開の場で超能力を証明できたとは言いがたいものです。それにあの麻原のとても解脱したとは思えない好色ぶりや大食漢ぶりなど強烈な俗物性から判断しても、およそ聖人からは掛け離れています。で も限られた資料で釈迦やイエスの超人性を本物、麻原の超人性を贋物と決めつけるのはフェアではありません。

 麻原は彼を信仰する信徒の中では、釈迦やイエスの弟子たちに近い絶対的な帰依を集めていたことは想像できます。もちろんそれは長時間の監禁の末、薬物を投与したり、地獄を体験させたりした上でのマインド・コントロールの技術的な成果ですから、人徳によるものとはとても言えないでしょうが、結果的には帰依をかちえていたことに変わり有りません。それに麻原の教義は、ハルマゲドン予言以降は、古い世界を一掃し、新しいオウム帝国に一新するというそれこそ画期的なもので、このような発想は、とても最終解脱者を除いては不可能だと浅はかな信徒達に思わせたのです。

  自分を神に等しいランクにまで引き上げる宗教的な自己絶対化、ナルシシズムの極致において、宗教家としてとてつもないスケールに達したのです。でも彼は俗物根性を引きずったままでしたので、それと共に権力欲・金欲・性欲・食欲も肥大させてしまったのです。

 仏教という統一的な教説はありませんが、仏教の一説によれば、最終解脱者には二つの タイプがあります。一つは釈迦のように悟りの内容と悟りに至る方法を一人一人に伝授していく伝道者です。しかしこれでは時間が掛かりすぎます。とても一代で世界を「救済」することはできません。もう一つのタイプは世界を力で征服して、仏国土を建設する転輪聖王です。麻原は転輪聖王に成りたかったのです。

 転輪聖王は古い世界を一掃しますから、その破壊面はヒンズーの神で言えばシヴァ神に当たります。オウム真理教では、表向きは、シヴァ神は創造と破壊を司る神だと言っていますが、維持を司るヴィシュヌ神に対して、シヴァ神は破壊を司る神なのです。麻原は地上におけるシヴァ神の化身となって、彼が汚れきったと審判する人間世界を破壊し尽くそうと構想したのです。

 もちろん麻原がただの人間なら、彼の構想は殺人狂以外の何者でもありません。しかし彼ほど組織的に人類を掃滅しようと計画し、それを実行に移しつつあった殺人狂はいませんから、彼を人間という既成の概念に包摂することはできない、シヴァ 神の化身以外の何者でも有り得ないと、彼自身や彼の側近達も思い込んでしまったのでしょう。つまり麻原は狂気の人類大虐殺につながる教説を唱えれば、唱えるほど自己を神格化できることに気付き、その快楽にのめり込んでいったのです。

 

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