六、「ヨハネ黙示録」の呪い 

 不信仰がもたらす愛や希望のない世界がいかに恐ろしいものか、それをキリストの審判にシンボリックに表現しただけで、実際にイエスがホロコーストを指揮するという解釈は表面的だという反論があるかもしれません。それならキリスト教団はそのように解釈を統一した上で、異教徒に対して敵対的で極度に恐怖心を与え、文化衝突の原因になる「ヨハネ黙示録」をバイブルから削除すべきです。

 最近統一協会やオウム真理教の「マインド・コントロール」が、カルト信仰を注入し、そこから脱却しようとすれば、激しい恐怖と苦痛を与えるものとして注目されています。地獄を映像的に見せたり、疑似体験させて、カルトの教義を信じないと地獄から抜けられないという固定観念を植えつけるのです。

  「ヨハネ黙示録」も、ヨハネの創作なら、神が愛ではなく、憎しみや怒りとして登場すればいかに恐ろしいかを疑似体験させて、神への信仰を強制する「マインド・コントロール」の技術です。教団が自己暗示で信仰を固めようとするのは宗教としては当然ですが、その仕方には節度が必要です。特に愛の神、慈愛と寛容の神の信用を損なうべきではありません。また他宗教との凄惨な戦争を引き起こす 原因を作るべきではありません。

 「ヨハネ黙示録」と「ノストラダムスの大予言」に便乗して、今後ともカルト教団のいくつかが、ハルマゲドンに向けての危険な準備を始める恐れは充分あります。それに「ヨハネ黙示録」がバイブルから削除されないかぎり、異教徒はキリスト教に対してどうしても警戒心を拭い去るのは難しく、キリスト教徒の中に異教徒が審判で滅ぼされる日の到来を待ち望む心情が完全には払拭できないと思われます。とするとそのような他人の不幸を願う心を持っていて、神の国に入ることはできないでしょうから、キリスト教徒自体が「ヨハネ黙示録」によって呪われていることになります。

 このことは重大ですね。ユダヤ教徒はバイブルに書いてあるトーラー(律法)をひたすら遵守することに熱中しました。でもそのトーラーに呪われていたのです。何故なら彼らはトーラーを遵守して、何を願っていたかというと、自分が神の御国に入ることです。自己一身の彼岸での幸福の為に、隣人を愛するなどのトーラーを実践していたということになります。

  そんな利己的な隣人愛は、親切の押し売りに過ぎず、偽善であって、神の御心に叶う愛ではないのです。トーラーを守れば、御国が保証されると教えられて、それを信じてトーラーを守ったのに、かえってそのことでトーラーが成就できていない、このこと を示したのが、イエスの福音でした。こうしてイエスはトーラーの呪いを解いてキリストに成ったのに、「ヨハネ黙示録」は新たな呪いをキリスト教徒にかけているのです。

 現在のキリスト教団の多くは、「ものみの塔」等の原理主義者を除けば、バイブルを字 句通り受け取ることをしません。バイブルが書かれた時代の文化や信仰の有り方が、今日とはかなり掛け離れているからです。奇跡や預言の受け止め方でも、象徴的な意味や精神的な意味に読み変えて、信仰の糧にしています。

  「ヨハネ黙示録」のような凄惨な復讐的審判の預言は、神から心が離れた時に人間はどのような地獄を精神的に体験するかを、幻想的なイメージで示したものとも解釈できます。それに福音書中心の信仰が強調され、預言書は過去の信仰の記録と考えられているようです。再臨・審判信仰は後景に退き、愛の 神キリストの贖罪で人類の救済は既になされており、後はそれを信じるかどうかの問題だと考えられているようです。

 でも贖罪信仰と共に再臨・審判信仰は信仰の根幹だと考える傾向は、根強く残っています。そして「ヨハネ黙示録」がバイブルにある限り、バイブルを字句通り解釈する原理主義的解釈は常に台頭してきます。現に様々なカルトが「ヨハネ黙示録」の実現を待望していますし、オカルトブームに乗って、ノストラダムスの大予言がもてはやされています。

    グローバルな世界統合が進展するなかで、いらざる猜疑心や恐怖心を与える内容は、お互 いに指摘し合って無くし合い、また互いに他宗教の持っている教義の中の普遍的部分を学び合う努力をすべき時代が到来しているのです。それを気付かせたという意味で麻原彰光の存在はダーティ・ヒーローだったと言えるのかもしれません。 

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