6主・客図式と「物」の認識

   言語は、その成立において「物」把握を前提している。つまり、言語は事態を物の様相、運動、連関として把え返えす。その際、物は主語であり、様相、運動、連関は物の属性として述語を成す。主語が事である場でも、事は節を形成し、その主語は物である。

   廣松氏は言語は、事態を物象化するが、事も表現することを強調される。又、「牛が大きい」という文は「これは」牛である」「これは大きい、」という言説を前提しているとして、事態の統合であることを示される。(『論理』『もの……』参照)

 言葉は記号にすぎないから、事物の内容(様相、属性)を表現しない。だから、事物は述語が内容を表現する。言語は事物を事態として記述するのであるなら、言語が事態の表現であるというのは同義反復である。言語の物象化は、主語が事物に対応し、述語が事物を説明する形式に現われている。

 事と物は相対的な区別でしかない、水素と酸素が結合している事が持続すれば水という物として把えられるし、逆に事は瞬間的な物である。例えば、建物が燃える事は火事である。火事は様々な影響を与える主体として物である。火は事であり、水は物であると断り切ることはできない。火も様々な属性を持った物であり、水も一定条件下での水素と酸素が引き起している事、事態である。

 廣松氏は『もの、こと、ことば』で「雪が白い事」は白くないとされ、事と物の位相の相異を打ち出されている。たしかに「兎が走る」事は走るではない。だから節における主語と、文全体における主語は異っている。節が主語となるのだから、事、事態が主語である。その場合の述語は事、事態が、示す諸性質、諸様相、諸影響である。「雪が白い事は美しい」「兎が走るのは速い〕この場合「雪が白い物は美しい」とは言えないから、事は物ではないとされる。しかし、「雪が白い」は「白い雪」という物を事で表現し
ているにすぎないし、「白い雪」は「雪が白い」という事を物象化しているにすぎない。だから表現や把え方に相異があっても、対象としては物と事態は同一である。問題は事態を物象化して把える事が倒錯視であるか否かである。

 「雪が白い事」「兎が走る事」はたしかに事であるが、その表現では「兎」が主語として措定されており、「白い」「走る」は述語として主語を説明している。だから、事は、事物の様相、運動、連関としてのみ把握しえる。ところが廣松氏は、これらり言表を「それは雪である。」「それは白い〕という事態の統合に還元する述語論理で説明される。「それ」は物を指すか事態=表象を指すかが問題である。「雪」が主語に置れるのは、「雪」が物象化されているからではないのか。単に表象とすれば「雪」も「白い」も、「兎」も「走る」も、どれが主語に来るかに必然性はない。人間の表象は既に物象化されており、「白い」も「走る」も常にその主体が想定されている。表象は物の表象でしかないのである。

 我々は、事態がいかなる事態か知るという事を、常に、事態を物の様相、運動、連関として把握する事に他ならないと了解している。だから、事態がいかなる物の様相であるか知りえない時、事態を知ったとは考えない。それ故、物は知の唯一の形式なのである。物が事態に還元されうる事、物はマテリーの一様相、存在形式として把握されうる事は、事態やマテリーが物である事を妨げるものではないし、物でしかない事を否定できる事も意味しない。何故なら、事態やマテリーは物としてしか知りえないからである。

 たしかに、物の認識は主・客図式によって成立している。そこで主・客図式を超克すれば知の形式が変化し、世界を事として認識できるというのが廣松氏の発想を成している。しかし果して、主・客図式の超克が、物を形而上学的実体として把える立場への批判にとどまらず、物自体の弁証法的把握をも乗り超え得るものかは疑問である。

 表象を事態として、情況としてしか把えられず、それを他者として認識することができない動物的知覚にあっては、主体・客体の対立関係、相互前提関係は自覚されない。事態は、事態でしかなく対立物の関係ではない。事態は対応すべき生理状態にすぎず、この対応は種・個の蓄積された体験に基づくものである。

 事態=表象を他者として措定する人間的認識によってはじめて、事態は主体、客体の対立関係、相互前提関係になる。かくして、事態は、客体が主体に対して現われる姿として意識される。諸表象、諸事態は、自己の対立物へと統合されなければならない。何故なら、交換による対他的関係の成立によって、自己の区別、諸物の区別が生じ、表象=事態が、自己にあらざる物の世界へと変じたからである。

 人と人、人と物、物と物の区別、対立は決して、事態の倒錯視によるのではなく、実在的な関係である。この区別が関係に前提されているにしても、関係自身が区別に前提されている。動物は知覚や対応の仕方において、主・客対立を生体内の事態のうちに止揚しているから、主・客未分化な行動様式をとるが、即自的には主体的、実践的であって、対立物との対抗、同化・異化の関係を取り結んでいる。生体が個物であり、自己保存し、生体外の諸物と自己を区別し、これと対他的な代謝関係にあることは否定しえない。

 もちろん、対他関係が相関的、相対的であって、自然関数の項でしかないとしても、やはり、生体の原理は同化・異化の代謝関係、自己保存にある以上、生体の実在性は、個物の実体性にあると言わざるを得ない。人間の認識はこの個物の実体性を自覚し、諸事態を諸個物の関係として把え返えすのである。

 事態は、表象としては人間の知覚によって把えられた表象にすぎないから、一方的に知覚内容を物に帰属させるのは誤まりであると廣松氏は考えられる。もちろん形象や諸属性は、対象と知覚、そして両者を取り巻く環境によって形成されているのである。だから、一つの事態は極端には全宇宙連関の一様相にすぎないということができるであろう。

 しかし、表象は非常に限局された表象=事態でしかない。森羅万象を把握しようと思えば、表象から表象へ、事態から事態へと展開しなければならず、一表象、一事態の底に隠されている無数の表象=事態が姿を現わさなければならない。所詮、一表象は一表象にすぎない。

 我々は、事態を事態として措定しても、事態は把握されないから、事態として境われている物が何であるかを知る事が大切である。物は一定の環境における主体との対象関係の中で、表象としての事態を惹き起す当体として措定される。かくして、事態は物の性質、属性と見なされる。もちろん、一定の環境という限定がついており、これが変れば性質が変化するような当体として措定される。

 例えば日中は白く見えていた球が、夕焼と共に赤く見え、日暮れと共に次第に灰色を濃くするとすれば、この球の色は日中は白、赤色光の許では赤、暗くなれば灰色である。我々は通常、自然光に慣れているから、この球を「白い球」と規定するが、それを絶対的規定と考えれば形而上学に陥いる。白色、赤色、灰色は、特定の環境下でのこの球の属性である。

 そもそも色彩は光の目に対する刺激であって、球の属性ではありえないと考えるのは穏当とは言えない。白でも赤でも灰でもない球、一般に色彩を持たない球は見えないから、目に対する対象性は持たない。従って、少なくとも人間に対する実在性は軽減される。同様に軟硬も、皮膚に対する刺激にすぎないから、柔かい皮膚には硬いし、硬い皮膚には柔かいから球の属性ではないとすれば、球は全く実在性を人間に示すことはできない。だから、世界は感覚の束によって構成されているという議論が成立する。

 人間の生体に感覚の束として知覚される当体を措定することが認識なのである、だから、一定の環境において一定の諸性質を示す物として感覚表象を惹き起した当体は規定されうる。諸性質には既に認織主体や諸環境が前提され、物はそれらに前提されて諸性質を持つ物として措定されている。換言すれば、それらによって物は実体性を付与されている。

 ある物を実体として措定することによって、主体及び諸物は、ある物にある規定を与える物としてある物から措定し返えされる。だから、ある物が措定されていることが同時に、ある物を措定する物が措定きれることを意味する。こうして諸物は対立物の統一として相互前提関係にある。

 だから、事態をある事物の性質とみなすことは、同時にその事物をかかる性質として受容している主観の性質、及びその事物をその性質として主観に映じさせている諸環境の性質を規定することになる。

 普遍妥当的な意識は、ある物が通常規定きれている主観的、客観的諸条件を捨象して「白い玉」という規定を与え、この規定に真理性を与える。この規定の真理性が諸条件によって制約されている事を忘れる時、物が形而上学的に固定して把えられることになる。それ故、我々は物をそれを成立させている諸物の連関の結節、諸事態の統合として把える。

 しかし、連関が結節し、事態が統合されなければ、連関は連関でなく、事態は混沌でしかない。しかも結節し、統合する諸物や諸事態は逆に結節、統合によって前提され、措定されている。従って、結節、統合自体が、諸物を結節し統合する主体=実体である。これを我々は物と名付ける。

 そこで物の性質、属性は、主体=実体として対立物を措定する仕方、対立物によって措定される仕方、即ち、対立物への関わり方である。従って、関係規定であるが故に、実体の属性ではあり得ないという廣松氏の議論(『哲学』)は首肯できない。

                             まとめにかえて

 物を事態函数の結節として把え返えし、形而上学的な物把握を批判しようとされる廣松氏の問題意識には、我々と共通したものがみられる。しかし、物を事態とされるならば、事態は再び物として措定されるべきではなかったか。形而上学的実体としての物の止揚は、弁証法的な物把握の出発点である筈である。
 
  廣松氏は、事態を事態から構成することによって、世界の弁証法的な体系構成が可能とされる。しかし、関係する主体=実体として把えられない事態そのものにとどまる限り、それはいかなる事態でもありえない。何故なら、事態は、物の様相、連関としてのみ存立しえるし、知りえるからである。それに、我々人間が主体=実体として存在している限り、身体に対して超越した主体=実体を措定せざるを得ないからである。しかもそれらは互いに無関心であり得ず、相互に対立し合い、前提し合っている。このような関係として世界は対立物の統一として連関を成している。

 主.客図式の超克も、決して頭から端的に超克してしまうのではなく、対立物の措定を媒介にして、対立物の中に自已を措定するという弁証法的な超克でなければならない。
(1981年9月18日)

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