第十九章 現象学と精神分析学
各動物にはそれぞれ固有の環境世界があって,そこに現れる事物はあくまでその種の世界の構成要素として存在しているというのが,環境世界論です。「猫に小判」と言いますが猫には小判は存在しません。各動物は自分の行動様式に対応して,諸対象を何種類かの生理的状況に分類して反応しているだけです。それぞれ完全に閉じられた世界で,猫には猫的事物,蚤には蚤的事物が存在するだけなのです。猫的事物の集合が猫的世界であり,蚤的事物の集合が蚤的世界なのです。生態学(エコロジー)的に言えば,猫は猫的世界,蚤は蚤的世界,ビーバーはビーバー的世界の全体に他なりません。ビーバーの歯からビーバーダムや水中家屋を演繹できるのではなくて,ビーバーダムや水中家屋,ビーバーの歯等々のビーバー的諸事物の体系からビーバー的世界を説明するのが正しいのです。『存在と時間』の世界・内・存在やその中での用在の捉え方に環境世界論の影響は顕著です。
確かに自分の頭で作り上げてきた事象の説明方法で,現前している現象を説明できれば,こういうものだなと納得できて安心です。また現象している事態を既知の諸事物の関係として把握できれば,出来上がった客観的世界に実践的に立ち向かうことができます。でも所与の現象はあくまで自分自身の意識現象でしかなく,理念の実在でもなければ,客観的諸事物それ自体でもありませんね。ですから厳密に学として展開する場合は,ひとまず独我論的に自分自身の意識現象に還元すべきだというのです。このことを「現象学的還元」と呼びます。
このようにフッサールは,「本質直観」を考察する本質学を立てようとします。つまりどうしてわれわれが意識現象を客観的実在や本質的事物の現れとして信憑せざるを得ないかを,あくまで感覚や情動,生活体験の検討を通して解明しました。例えば目の前に甘そうなリンゴが現象すれば,甘いリンゴだと判断して食べます。そして実際に甘いリンゴだと知覚すれば,客観的実在として信憑したことが当たっていたと考えます。この過程をバーチャル・リアリティだと考える必要はありません。われわれの生活はそうした実践によって健康を保ち欲望を充足しているのですから,それが真だと考えることが妥当性があるわけです。
例えば朱子学は金に圧迫されていた宋の時代には亡国の危機に当たって欲望を慎み兵を強くして国難に当たるに相応しいイデオロギーでしたが,それを輸入した江戸時代の日本は天下泰平で,武士の精神修養にのみ使われる窮屈な体制イデオロギーとして反発を招いたのです。戦争と革命の時代といわれた20世紀には, 中頃まではマルクス主義と実存主義が人々の魂を奮い立たせました。しかし70年代からは衰退し始め, 冷戦終焉後はほとんど力を失っています。いわゆる政治革命による体制変革の可能性や積極性がなくなったと思われるからです。
こうしてフッサールは,人間が意識現象の内部に止まりながら,客観的な実在的世界についての真・善・美やその他の価値判断やイデオロギー体系が構成される構造を説明し尽くそうとしたのです。
フロイトはこれをエス(Es, 英語でit) と名付けました。エスは快楽原則のままに行動させ,非道徳的な行為を引き起こそうとします。これに対して幼少の頃から躾けやサンクションによって培われた社会規範や道徳意識が,エスを抑制しようとします。この検閲を行う精神機構がスーパー・エゴ(超自我)です。フロイトは,父を殺し母と交わりたいと願う衝動が幼児期にはだれでもあったが,父の威力の下で去勢恐怖を覚えることでこの衝動が意識下に抑圧されてしまい,性欲も潜在化して児童期を迎えたとします。
このような父親に対する潜在的葛藤意識を,ソポクレスの悲劇の題名をとってフロイトは「エディプス・コンプレックス」と名付けました。父親の精神的権威を受容したことで,子供はそれをスーパー・エゴとして内面化するのです。そしてエスとスーパー・エゴの緊張と葛藤の中で,社会に適応するために自己を調節する働きがエゴ(自我)なのです。
6ユングとフロム
ドイツのフランクフルト学派だったフロム(1900〜1983) は, フロイトの精神分析学とマルクスの自己疎外論の結合を試みました。しかし,ナチスが台頭したのでアメリカに亡命し, 社会的心理を精神分析する社会心理学を追求しました。
彼はナチス台頭の原因を,独占資本主義の発展に伴う大衆社会の形成に連れて,家父長家族の解体が急速に進展したので,未成熟のままで家父長的権威を失った大衆が,田園と大家族から根こぎされて,都会の自由の不安と孤独という疎外状況に耐えられなかったからだと考えました。ドイツ人たちは民族の家父長としての権威をヒトラーに見出そうとしてしたのです。ですからこれは,『自由からの逃走』だと解釈したのです。
彼は自己を越えだ超越的な権威に主体が依存してしまう権威主義的な態度に強く反発しました。そこから超越神論的な信仰や偶像崇拝を権威主義的信仰として斥け、あくまでも自己自身の宗教的体験に固執するヒューマニズム的信仰を対置しました。ユダヤ教やキリスト教の中にその要素を探ったのです。そして死んだ物を所有して自己を飾り立てようとする生き方を嫌って,あくまでも充実して生きることを求めました。つまり「持つことto have 」より「あることto be 」を求めたのです。
保井 温関連著作
☆「現代人の諸類型・小此木啓吾の精神分析・」(『月刊 状況と主体』1992年9月号・10月号掲載)
フロイト精神分析学の現代日本における代表的継承者である小此木啓吾の,モラトリアム人間,シゾイド人間,自己愛人間等現代人の特徴を精神分析した著作を紹介しつつ,現代人の在り方を考察すると共に,精神分析の人間理解から学ぶべき点と,フロイト派精神分析学の身体主義的限界の批判も行った。
☆「偶像崇拝とヒューマニズム」(『季報唯物論研究』23・24合併号)
エーリッヒ・フロムの宗教心理学を批判的に検討した。フロムは偶像崇拝を自己の外に権威を求め,その権威に精神的に依存するものとして,ヒューマニズムの見地から批判している。しかし偶像崇拝の論理は相対者の中に絶対者を見出そうとするものであり,神や人間と物との断絶に固執すると,キリスト悲劇のように破綻せざるを得なくなる。また物を死んだ物としてしか捉えることができない限界を指摘し,活きた物をとらえる汎神論やアニミズムや偶像崇拝,物神崇拝の積極的意義を賞揚した。