第二十章  現代ヒューマニズム

  1近代ヒューマニズムと現代ヒューマニズムの違い

   近世のルネサンス・ヒューマニズムは,人間の欲望を否定していたキリスト教会の神中心の中世に対して,人間の欲望を肯定する人間中心の文化を,ギリシア・ローマの古典文芸の復興を通して目指しました。人間の欲望を無限に膨らまして,その実現の為に自然の隠された秘密を暴き,思い通りに自然を支配しようとする傾向は,近代になりますます目立ってきました。

 ベーコンは四つのイドラ(種族・洞窟・市場・劇場の各イドラ)に留意し,三つの表(存在・欠如・程度の各表)を作成して法則を見いだす「新しい帰納法」を駆使すれば,人間は自然を自分たちの楽園にする事ができると考えたのです。しかしその場合の対象である自然は,デカルトの図式では,精神的実体である主観に対して,延長的実体として捉えられたセンスレス・バリューレス・パーパスレス(無意味・無価値・無目的)な物体,つまり機械的自然でしかありません。

 人間が勝手にでっち上げた,センス・バリュー・パーパスによって改造された自然は,人間の予想を越えた反応を人間に返し,人間の生存の為の環境を根底から危機に陥れることになります。人間の自然改造が機械制大工業によって大規模化した産業革命以降の時代になって,その危険は現実のものとして進行しつつあります。まさに現代は人間が自分の生み出した,産業組織や機械体系等によって,決定的に脅かされる「人間疎外」の時代を迎えたのです。

 人間による自然支配としてのヒューマニズムから,人間が生み出した自然である近代機械文明の人間疎外からの,機械の支配からの人間の解放が現代ヒューマニズムのテーマになったのです。

 2現代ヒューマニズムの「物化」「商品化」批判

 すでにカントは人間性を単なる手段し合う市民社会を「手段の王国」として批判し,同時に目的として尊重し合う「目的の王国」の住人として生きなければならないと説きました。そこでは人格的存在が物として手段化して取り扱われていることに対する抗議があります。

 マルクスは人格的存在である労働力までもが商品化されてしまう資本主義社会を,人間の物化,物の「人間」化の完成と見,人間関係が物の関係に置き換えられて,物が社会関係を取り結んで人間を支配しているかに現れる,倒錯的な物神崇拝の社会と診断しました。つまり本来,物でない人間が物化され,人間でない物が人間となり,物が人間から自立して勝手に社会関係を取り結んで人間を支配しているように見える,机が踊り出した,狂気の社会だと告発したのです。

 ヤスパースは,機械と大衆の時代では,流行に合わせて自らを大量生産される商品と同様に捉えて,物に頽落しようとする傾向を告発しました。ハイデガーも単なる用在に安住して物のようになる傾向に反発したのです。サルトルは,人間というものは,本来は,本質を規定されてしまった事物存在では有り得ないとし,状況から存在被拘束的に本質規定され事物化されそうになる自己に「嘔吐」し,否定の叫びをあげました。このように実存主義はまさしく人間は物ではないという抗議であり,叫びだったのです。

 フロムも事物を本質づけられ名前を与えられた完成として捉え,これと対極に人間を常に未完な生成・過程と捉えます。前者はもはや死んだ事物であり,後者は生きた体験だというわけです。

 これらの現代ヒューマニズムはあくまで人間を本来自由で創造的な主体であると主張します。しかし現代社会の中では,高度の管理社会や機械システムの中で,その部品や端末として物品化,商品化されており,欲望の内容や社会に対する対応の仕方や意識の様式までステロ・タイプ化されて情報商品に堕し,いわば物化しているのです。

            3構造主義とポスト構造主義

   人間の主体性と自由を取り戻そうとしても,人間が既に高度の管理体制に組み込まれ,その再生産機構によって常に身体と精神を作り出している以上,この機構を簡単に解体して,新たに自由なシステムを再構築できるわけがありません。1960年代末に欧米や日本で爆発したステューデント・パワー, とりわけフランス5月革命の挫折は,その事を如実に示しました。そこで結局人間存在や意識を産出している社会や文化の構造を明確にしなければならないという構造主義が盛んになったのでした。

 ミシェル・フーコーは「人間の死,言語の支配」と表現しましたが,自由で創造的な主体という「人間」に対する幻想は消滅し,文化を構成している言語体系の構造からいかに意識が産出されているかを捉えようとしたのです。このように構造主義は社会や文化の構造認識を強調しますが,そこでは人間は捉えられず,むしろ構造に還元されてしまうのです。ここでは主体主義的なヒューマニズムは批判されています。

 そこでポスト構造主義は,このような構造の中で人間が本当に自由で創造的な主体であるには,狂気と死によってでしかありえないと考えます。そしてこのような高度な管理社会の構造から脱走して,砂漠へと逃走することを賛美するのです。ここでのヒューマニズムの復活はむしろ敗れかぶれです。 

           4現代ヒューマニズムの超克                 

 現代ヒューマニズムを超克して,人間の主体的創造的自由を確立するにはどうしたらよいでしょうか。それには人間と社会的事物・商品,個人的主体と社会的構造を対極的に捉え,抽象的に対立させて捉える見方を脱却すべきです。むしろ社会的諸事物や諸商品を包摂した人間を捉える必要があります。機械や道具,社会的な会社や商店など社会的システムがなければ身体的個人は何もできないのですから,それらを含めた人間を捉える人間観に転換が必要なのです。

 逆に社会的事物も人間に包摂されていて,人間的存在であるから社会的に存在しているのですから,人間を構成する不可欠な要素なのです。その上システムや構造をも包み込み,自然関係を自己の定在として捉え返した人間論の展開が期待されます。ユクスキュルの環境世界論にように蚤的宇宙の蚤的事物の総体が蚤であり,蚤の身体だけで蚤を捉えるのは無理なのです。人間の環境世界もやはり人間の総体として捉え返して始めて,環境問題にも主体的に取り組めるのです。

 最近環境問題を契機に,地球を人間中心に身勝手に作り変えてきた結果,人間や生物の生活できる条件をも破壊してきたことに対する反省が強まっています。地球環境は人間だけのものではないと人間中心主義に反発しているのです。でも人間は他の生物がたとえどんなに大量に死滅しても,それだけでは環境問題を反省することはできませんでした。あくまで人間環境が危機になったので,こうした人間中心主義への反省もできたのです。その意味で人間環境としての宇宙船地球号全体を人間総体として受け止めないかぎり,我々の意識が生命全体あるいは地球全体の意識に高まることもできないのです。

 このうち社会構造全体を人間全体と捉える視点は,ホッブズの『リヴァイアサン』の国家=巨大な人工機械人間だという説に近い所があります。そして自由で主体的な個人は,自己の身体や心が社会構造や文化システムから生み出されたのだと知っており,それ故,これら社会的事物や対象的自然,社会的システムを自己実現の契機に一つ一つ変えていき,自己の内容として獲得しようとする創造的で発展的な存在なのです。それは段階的に自由を拡大していく存在であり,抽象的に構造全体が気に入らないからといって狂気や死に訴えません。これにはヘーゲルの精神の展開が参考になります。

 そして個々の社会的事物や諸個人は全体的人間の現れた姿であり,社会の細胞なのです。こうして事物もまた人間の定在だという把握では,パースの人間=記号論と共通します。このように人間を身体に限定しないで,社会的諸存在のカテゴリーとして捉え返すべきだと考えられます。 

             5普遍妥当的価値の復権 

 フランス革命が挫折した折りに,実証主義者や功利主義者たちは,頭の中で作り上げた形而上学的な理念が現実を支配しようとしたことが,恐怖政治や戦争等悲惨な現実をもたらしたとして,正しい理念を提唱し,実現しようとすること自体を批判しました。最近の「社会主義」世界体制の崩壊後も,これと同様の議論が盛んです。

 もちろん独善的な理論が権力と結びつき,テロルを武器に恐怖政治を実現し,人々に多大な不幸をもたらしたことは大いに反省を要します。しかしだからといって自己の信念に基づいて行動し,社会を自分の理想に合わせて変革しようとする努力自体は,なんら非難されるべきではないでしょう。皆が精一杯自己の正義を貫こうと努力し合ってこそ,相互の批判と協力によってよりよい社会が建設されることになる筈だからです。

 リベラル・デモクラシーというシステムはそれを保障する体制なのです。リベラル・デモクラシーを共通の土俵にすることによって,ゲバルト(暴力)を利用して自己実現をはかろうとする正義論の台頭を防ぐことができるのです。

 普遍妥当的価値を否定してきた20世紀の現代思想も, ゴルバチョフの「全人類的価値の優先」という普遍妥当的価値の復権宣言で色褪せてしまいました。さまざまな宗教や価値観の違いはあっても,「平和,友好と連帯,人権,民主主義擁護,法の支配の貫徹,地球人間環境の改善」等人類が連帯して努力すべき課題は,人類の総意として普遍妥当性を強めつつあります。特に世界経済の統合が進んで,地球規模での安全保障,環境規制や所得再分配が求められる時代ですから,世界連邦への歩みを急がなければなりません。普遍妥当的価値の共有によってその土壌を形成すべきなのです。 

            6現代ヒューマニズムの良心 

               マハトマ・ガンジー

  インド独立の父ガンジー(1869年〜1948) は,マハトマ(偉大な魂)と呼ばれています。かれは国民会議派を指導し,1920年に反英不服従運動宣言を発表し,スワラジ(自由・独立)=スワデシ(国産愛用)の綱領を掲げました。彼はサチャグラハー(真理の把持)には「真理・不傷害・純潔・無所有」を実践して,これが血肉となれば到達できるとしました。

 真理探究のためには一切の感覚器官を統制する自己浄化(ブラフマチャリヤー)が必要なのです。そして一切の生き物を同胞と見なし殺生を肯定するような思想にはすべて反対し,生きとし生けるものへの愛情である徹底した非暴力(アヒンサー)を説きました。 

             アルベルト・シュバイツア 

  牧師で著名なパイプオルガン奏者だったアルベルト・シュバイツア(1875年〜1965)は,アフリカ原始林の医者になることを決意し,ランバレネに病院を建てました。

 彼は,先ず文化を個人や集団の物質的精神的進歩だと定義します。そして理性が自然の力を支配する面と,理性が人間を支配する面に分け,第二の倫理的側面がより重要で,文化の核心だと語っています。

 彼は現代人は孤独で寂しさの中にあるといいます。その中で確かなのは生きんとする意志なのです。「生きんとする生命に取り囲まれた生きんとする生命」があります。この認識から生きることへの畏敬,生きるものへの畏敬が生まれてくるのです。そしてそうした畏敬の気持ちが,生きんとする者への献身を,生きる意味を知る自己完成につなぐのです。 

              バートランド・ラッセル 

 イギリスの代表的な論理実証主義の哲学者バートランド・ラッセルは第1次世界大戦の時,徴兵反対運動で大学を追放され,6か月間投獄されました。第2次世界大戦後は原水爆禁止運動やベトナム戦争の戦争犯罪を裁く「ラッセル法廷」を開きました。

 ラッセルは欲望を充足して生きることは良いことだと考えましたが,他の欲望と両立させる必要があります。欲望の中で所有衝動は紛争を呼びます。それに対して,衝動は相互に調和しています。ですから所有衝動を最小に,創造衝動を最大に発揮させ発展させる制度が最良だとしました。

 ラッセルは社会の制度や国家よりも,あくまで個人の自由と幸福に最大の価値をおいていました。でも人間の自由と幸福を踏みにじる最大の脅威は戦争です。特に現代の核戦争は人類の絶滅をもたらします。彼はいずれの陣営にも属さないで,世界の先頭に立って核兵器禁止運動に邁進しました。

 

 保井 温の関連著作 

☆「シェーラーによる人間観の五類型」(『駿台フォーラム』第7号掲載)
 マックス・シェーラーは,
1926年「人間と歴史」で当時のヨーロッパ人の人間観を5類型に分類した。

@宗教的人間観=バイブルに基づく宿命論的な堕罪・審判の暗い人間観。シェーラーは神を人間が主体的に生成すべきものとして捉え返し,宿命論的な宗教的人間観からの解放を目指した。

Aホモ・サピエンス(叡知人)観−自然を貫き,人も従わざる得ない神の摂理としての理性,超歴史的・超民族的な普遍妥当性を持つ理性を信じる人間観である。ギリシアのイデア論,自然法思想,大陸合理論,ドイツ観念論などはこの系譜に属する。シェーラーはかかる理性は実はギリシア人の造りものだ言う。人間の理性は自然的生命的なものを越えた精神的なものだとするのだ。

Bホモ・ファーベル(工作人)観−欲求充足の為に工作する者として人間を捉える立場。イギリス経験論,実証主義,進化論,唯物史観,精神分析学などが含まれる。記号を使う動物,道具を使う動物,頭脳動物等と規定しても,結局本能的であるなしに係わらず欲求充足の為に使うのなら,動物的な智恵の機能にすぎないというわけである。価値的感情や人間的感動,聖なるものを求める高貴な感情と動物的智恵とは次元が違うので,動物的智恵が発達しても決して精神性には達しないから,ホモ・ファーベル観では決して人間の生成は説明できないとシェーラーは説く。

C「必然的デカダンス」としての人間観−人間は生命力としては環境に適応できない「欠陥動物」であり,それ故衰退する運命にあるが,それを頭脳的能力で埋め合わせていると見なす。しかしそれは一時凌ぎの倒錯的な誤魔化し過ぎないとみる見方。なぜなら言語で主観・客観的に事物関係に置き換えたとき,生命的な全体が失われているから,錯乱した認識で対応せざるをえなくなり,結局破綻してしまうからである。これを「錯乱動物(ホモ・デメンス)論」という。丸山圭三郎が継承していた。シェーラーは生物学的には説得力を認めつつも,人間は生物的存在に還元できない生命次元を超えた精神的存在でもあると,この問題提起を却下した。  

D要請論的無神論の人間観−ニーチェ,ハルトマン,ケルラー,サルトルらがこれに含まれる。人間が自由な価値の創造者であり,主体であるためには神が存在しては困るという考えである。神が実在すれば人間は被造物に過ぎず,神の定めた本質に忠実に生きなければならないからである。普遍妥当的価値を否定し,自己の決断で自由な価値創造者たらんとした彼らは神の死を要請した。

Eミクロテオス(極小な神)としての人間観ーシェーラーも普遍妥当的価値がギリシア人の捏造であることを認めながらも,それは今日世界の協調と共通の価値を必要としている人間によってまさしく形成されつつあるものだと主張する。人間こそその内に物理的,化学的,生命的,精神的な存在の一切が出会い交差するミクロコスモスであり,マクロコスモスの最上位の根拠を宿すミクロテオスであり,危機の時代にこそ人間の共同で,滅びることのない聖なるものを生み出せると主張した。彼の講演は熱烈な感動の嵐を巻き起こしたという            

☆「シンボルを操る動物ーカッシーラーの人間論ー」 ( 『月刊  状況と主体』1992年7月・8月号)  

 カッシーラーは,理性主義的な人間理解に反発して,共同主観的に形成されたシンボル体系から人間を捉え返した。彼の人間論を「ではシンボル体系はいかにして形成されたのか?」という視点から,彼の豊かな人間観察眼に学びつつ,批判的に再検討した。

 

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