6愛の同伴者としてのキリスト

やすい・・遠藤先生のキリスト教はある意味でキリスト教を突き抜けているんですが、それでもキリスト教であることにこだわるのは、イエスの愛の視線から逃れられないからですね。全く無力で何の奇跡も行えなかったイエスが、どうして時代を超えて、我々にそれほど強くアピールするものがあるのでしょう。

遠藤・・・共に苦しみ、共に悲しんでくれる存在、こちらが裏切っても、裏切った自分を愛し続けてくれる存在が「同伴者としての神」です。それは例えば、人には言えないことを側にいてなんでも聞いてくれた鳥籠の九官鳥や犬であってもいいんです。私が大病で入院し、死線を彷徨っていた為に、ワイフが九官鳥の世話を忘れて、死なせてしまったのですが、私はその時、人類の罪や苦しみを背負って身代わりの十字架に付いたイエスを九官鳥にダブらせていました。

やすい・・『わたしが・棄てた・女』がまた映画化されましたが、わたし(吉岡努)が棄てた女(森田ミツ)が「同伴者としての神」の典型です。簡単に紹介しますと、学生だった吉岡は、女にもてないので、大衆娯楽雑誌の文通希望欄でミーハーの娘森田ミツとの交際を始めます。といっても真剣につき合う気はなく、セックスの処理だけが目的でた。
それで連れ込み旅館に誘いますが、もちろん断られます。でも小児麻痺の後遺症で女に持てない話をして同情をひくと、ついて来ます。つまり森田ミツは、相手の心の痛みや悲しみ苦しみを見たら、何かをしてあげないと気がすまないタイプなんですね。困っている人をほっとけない底抜けのお人好しです。

 吉岡は目的を遂げると、ミツをさっさと棄ててしまいますが、ミツはいつまでも吉岡への純愛を貫きます。吉岡は就職した会社で社長の姪と恋愛関係になりますが、肉体関係目当てではないことを示すために、性の捌け口としてミツを捜し出します。でもミツは癩病に似た症状が出て、吉岡の元を去り、癩病院に入院してしまいます。そこでミツは癩病患者の絶望的な苦しみを痛切に体験します。ところがミツは誤診だったと判明し,退院できることになるのですが、患者たちの苦しみを知ってしまった以上、そこから離れられなくなって、結局病院に残ります。

 森田ミツは『深い河』のガンジス川で死んでいく人たちの同伴者になる大津にダブリます。またそれは大学予科の寮生の頃、遠藤先生が癩病院を慰問された時、ソフトボールをした際に癩病患者にタッチされるのを恐れたら、「触りませんよ」と言われて、その言葉が一生耳に残っているというお話がありますね。それと繋がっていると感じました。


遠藤・・・ええ、その通りです。吉岡は身勝手な人間ですが、誰しもいろんな打算で生きていて、他人を欲望の捌け口にしたり、踏み台に利用したりしています。そのことで相手の心がどれだけ疵つくかなんて、構っていられないんです。でもその私が棄てた女が、私の裏切りに対しても私を憎むことなく、愛し続け、苦しんでいる人々の為に愛に人生を捧げ尽くしたと知ったとき、吉岡の心にも消しがたい痕跡を残すわけです。とはいえ吉岡はそのことで身勝手な生活を改めることはないでしょうが。

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