5事物を通して現れる《神》

遠藤・・・超越神か内在神か、創造神か機能神か、愛の神か裁きの神かなどと予め神の枠を考えて、そこに神を合わせて理解するというのが、そもそもおかしいのじゃないでしょうか。もちろん神はそのいずれもなのです。それは信仰する側の受け止め方によっても当然違ってきます。それを普遍的な規定で神を限定するのが間違いなのです

やすい・・というよりカトリック自体が、大地母神をサンタ・マリア信仰に昇華するなどの汎神論的なところがありますね。「堀辰雄論」や「神と神々」では、日本人としての汎神論的資質との対決しなければならないと言いながら、むしろその後の信仰の深まりのなかで、汎神論的資質から唯一神信仰を受容するという方向をとっていかれたような気がします。踏み絵のイエス、九官鳥、棄てた女、ねずみといわれた男、ガンジス川と破門司祭大津などにイエスをダブらせておられるわけで、こういう発想は内在的であると同時に汎神論的に受け取れます。

遠藤・・・それらが結局イエスという同じ神の現れだという意味で、唯一神信仰のつもりなんですが。

やすい・・しかしヘブライズムの伝統から言いますと、その唯一神は超越神でなければならないわけです。ですから個々の存在する動物や人間に、つまり自然的事物の内に神性を求めすぎるのはフェティシズムや偶像崇拝にあたるのです。

遠藤・・・もちろん物それ自体を神としたり、神のまがいものを造って崇拝したりするのは論外です。しかし神性は自然の中に栄光として現れなければなりません。人間としての神であるイエスへの信仰は、ユダヤ教的な超越神的信仰の限界を示しています。私は哲学的には表現できませんが、「超越」の意味も「内在」の反対ではなくて、個々の存在への内在を通して、個々の存在を超えて自らを示されるという意味でも捉えるべきじゃないでしょうか。

やすい・・神は神の現れであると同時に、現象を超えた真実在でもあるという面を持つとしますと、現れに即した自然神信仰と、真実在に即した超越神信仰が両立するかもしれませんね。宗教的対話が進んでいけば、そういう根源的な和解が実現するかもしれません。

  
病魔との壮絶な闘いの中で書かれた最後の純文学長編作品『深い河』では、大津という純朴なカトリックの修道士に先生の宗教観を語らせておられます。カトリックの普遍主義は、カトリックの神が唯一絶対の神であるということを前提にした上で、他の宗教の神々はその不十分な現れであるという立場ですね。そうやって、すべての人々は同じ神を崇拝しているというのが、寛容さにおいて大胆なカトリックの立場でした。でも大津は、それでもまだ足りないというわけです。

  カトリックの神が正しい神ということを前提にするのではなくて、それぞれの宗教が持っている神という形で神が現れていると考えて、その上で互いに対等に学び合うことを求めています。これは神について有限な人間が完全な知を持ってる筈はないんだから、ソクラテスみたいに「無知の知」にかえって、建設的な対話をしようということでしょう。それこそ真のカトリック(普遍性)の立場ですね。

遠藤・・・大津の神は「働く愛の塊」です。共に苦しみ、共に悲しみ、たとえ裏切られても自分を裏切った者をも愛することを止めない「同伴者」ですね、この核は対話の中で失われることはありません。イエスがキリストなのはまさしくそういう存在だからです。しかし神についての観念はそれに閉じ込める必要もありませんし、他の宗教の中にもいろんな形での神があって、そこから学べますね。

 例えばガンジス川は人間たちを育み、そこに人間たちは帰っていく存在です。人間の無常を抱きしめて滔々と流れる「ディープ・リバー」なんです。それは永遠の生命のイメージなんですね。仏教では法と一体化した仏を意味するのかもしれません。カトリック教会では既に深いところで仏教との対話が始まっています。「永遠の生命」をテーマにすれば、かなり接近するでしょうね。

やすい・・「永遠の生命」を神とする文脈も『バイブル』にはあって、それとの合一を説いていますね。これは超越神対被造物の断絶的な<神ー人間>関係把握とは対極的なんです。そして日本の仏教は「山川草木悉皆成仏」というアニミズム的な傾向が強いんです。もともと仏性は無常性ということだったのだけれども、いつのまにか、永遠の生命の体現ということで不滅の実体のようになり、神性と区別できなくなっていたのです。

 アニマ=魂=生命とし、個々の生命を大なる唯一生命の現れと解釈しますと、仏教とキリスト教には本質的な断絶はないことになります。でもそういう傾向だけにすると、キリスト教のアイデンティティが保てないから、すごく反発があるでしょうね。


遠藤・・・宗派的なエゴなんかは、対話によって互いの宗教的立場を深めることによる統一という、大事業に比べれば下らないことなんですがね。しかしこれは百年かかっても千年かかってもやり遂げなければならないことなんです。

         ●先に進む    ●前に戻る     ●目次に戻る