3和服のキリスト教

遠藤・・奇跡は殉教しかかっている者を神が救われるという形で現れなくても、殉教それ自体が奇跡なんです。殉教者の中で神が働いて人間の尊厳を守られたのですから。そしてロドリゴのように信徒を守るために踏み絵を踏むのも、宣教師にすれば到底できないことですから、そこにも奇跡はあるわけです。しかし人々はむしろそこに神の不在を見ます。目に見える形で危機一髪で大地が割れたり、殉教に際して天使の歌が響いたりすることを求めるのです。

やすいーそういう神への不満というのも、超越的な神からすると人間の思い上がりでしょうね。人間は神の被造物なのだから、与えられた運命や仕事を喜んで受け入れればよい。それがたとえ人間の目からはどんなに悲惨であってもです。すべては神の目的にとって大切な役割を担っている筈ですから。たとえ百歳になってから授かった嫡男であっても、神がほふって生贄に差し出せと命令されれば、迷わずそれがこの子の聖なる役割なんだろうと信じて進んで差し出すべきだというわけでしょう。このアブラハムの信仰が、唯一の正しい信仰だということになります。

 
 実際イエスの場合は神のひとり子なんだけれど、神は人類の贖罪のために生贄とされ、ほふられた仔羊になられたとされています。そしてそのことによって「ヨハネ黙示録」では、イエスは裁きの力を与えられて再臨されることになっています。そしてもし再臨されたら、身の毛もよだち、血も凍ることですが、人類に対してその大部分をホロコーストされることになります。

遠藤・・・あなたは「ヨハネ黙示録」なんかを信仰されているんですか。イエスを裁きの神と捉えてはいけません。イエスは、何も奇跡は起こせなかったし、死後の復活も『バイブル』の通りではなかった。けれど、ひたすら苦しんでいる人と共に苦しみ、悲しんでいる人と共に悲しまれた。決して弱く悲しい人々に、自分が一人ではないことを示された「
愛の同伴者」なのです。そんなイエスが人類の大部分をホロコーストされる裁きの神でもあるなんてことはあり得ません。「ヨハネ黙示録」も「ヨハネによる福音書」も著者は使徒ヨハネではありませんし、その成立も一世紀末だと言われています。あくまでもその当時の教団の事情から書かれたものとして読むべきです。

やすいーそうですよね。しかし「ヨハネ黙示録」は、キリスト教に決定的な質を与えています。生まれる前から誰が救われるかは予定されているという予定説も、「ヨハネ黙示録」から来ていますし、「再臨⇒死人たちの甦り⇒ホロコーストとしての審判」のイメージを最も衝撃的に与えてしまいました。これで、いわゆる父性原理の「裁きの神」というヨ
ーロッパ的キリスト教のイメージが出来上がったのです。これを悪用してオウム真理教がハルマゲドンを起こそうとしたのです。

遠藤・・・そんな恐ろしい神だったら、我々日本人には刺激が強すぎます。そういう父性的なキリスト教は日本人に合わないんです。我々は神にひたすら愛や救いを求めているんです。神は何度でも我々の過ちを許してくださる「許しの神」であり、「愛の神」なのです。そういう母なる神の面をイエスは持っておられます。それが本当に愛から出たものなら、「踏み絵」のイエスは踏みつけにされることさえ、「私はお前に踏まれるために存在しているんだよ」と許されているのです。

やすい・・「許しの神」は、浄土教で言いますと阿弥陀仏です。煩悩に支配されて自力で往生できない悪人こそ阿弥陀仏が救いたいと思っておられる一番の相手なんです。しかしイエスを阿弥陀仏と同様に、許しの神としか捉えませんと、罪の意識が希薄になってしまいませんか。戦時中の捕虜に対する生体解剖を取り上げた『海と毒薬』の厳しい告発の一つに、神が不在の日本人には罪の意識が欠けているという指摘があります。

遠藤・・・阿弥陀仏信仰にしたって、大部分の日本人は本気で信仰しているわけではありません。だからこそ日本人には罪の意識がないと言われるんです。阿弥陀仏信仰は人間の罪業をラジカルに捉え返した上で、自力は無理だから慈悲の権化である阿弥陀仏に縋りなさいという原理ですから。イエスの場合も、イエスをキリストと認める前提に、イエスを裏切り、十字架につけたという罪の意識があります。にもかかわらず、イエスは自分を裏切った人々を許され、その人々の為に神に祈ってくださるのです。我々はイエスに許されることによって、自らの罪の深さを思い知るわけです。もちろんユダヤ教的な神観念の中で、裁きの神があり、神の裁きを恐れて、罪を自覚するという原理があります。キリスト教でも、この要素も否定できませんが、イエスは主に愛の神として捉えられて信仰されて
いるのです。

やすい・・日本人には罪の意識が無いという議論は、ベネディクトの『菊と刀』以来の紋切り型なんですが、それじゃ西洋人はどうかといいますと『白い人』でナチス協力者になった主人公はサディストで罪の意識がありません。もちろん西洋人には罪の意識を持っている人は多いんですが、それは神の罰を恐れているからであって、私に言わせればそれは真の罪の意識ではないんです。人倫に悖ることをすれば、相手や社会に対して済まないと思うのが本当の罪の意識の筈なのに、キリスト教徒の場合、神にいったん疎外されてしまうので、むしろ不純なんです。それに比べて儒教の人倫思想や仏教の五戒などでも罪業の意識はむしろ純粋に形成されていると思われます。

 生体解剖を取り上げる場合でも、生体解剖がどうしていけないかが、戦争という敵味方に別れた殺し合いの状況が病院の内部に持ち込まれることで混乱して、医の倫理が見失われているわけです。ですから日本人だから罪の意識がなかったのではありません。ナチスの中にも敬虔なクリスチャンはいたわけでして、ユダヤ人を虐殺しながら、それを罪だとは思っていない人もいたわけです。


遠藤・・・そういうアプローチも確かに必要でしょうね。しかし西洋人は神との真摯な個としての対峙によって、責任ある人格を確立するという面があったのです。日本は共同体の中で個の自立が出来ず、責任観念が乏しくて、その意味で罪の意識に欠けるところもあったわけです。ですからキリスト教の導入はそうした近代的自我の自立に応える意味がありました。

やすい・・内村鑑三などはそうですね。

遠藤・・・そういう立派な人だったら、踏み絵も踏まず、生体解剖も良心的にきっぱり拒否します。ところが日本は泥沼みたいなもので、共同体的なしがらみや人脈、派閥などに引きずられたり、情に流されたりして、義の立場を貫くことが難しいんです。それに情に流されずに義を貫くのが必ずしも正しいとは言い切れない土壌なんです。

やすい・・そういう国だから、キリスト教も裁きの神はしまっておいて、愛の神、許しの神をメインにすべきだということですか。

遠藤・・・私は必ずしも西洋コンプレックスで言っているんではないんですよ、そうとられる人が多いですが。日本的感性というのがあって、義に固執するだけが人間の生き方じゃない、それに人間というものは、情欲を抱えている、それは美しい愛情の形だけじゃなくて、サディズムとかマゾヒズムとかもありますし、屍体愛に代表されるような退行的なネクロフィリアな性格もだれにでもあります。ところが私が自分自身の中のそういう面を見つめた表現をしますと、反キリスト教的だと攻撃されるわけです。でもね、私は正しい人間ですと、神の前ではだれも言えないんです。そういう罪人でもイエスは愛され、一緒にその苦しみを背負って下さるわけです。

やすい・・そういう信仰なら確かに日本人に受け入れられやすいですね。でも義による裁きという信仰がないと、浄土教信仰とほとんど区別がなくなります。好きなだけ罪に溺れて、いよいよとなったらイエスに身代わりになってもらって、自らの罰を逃れようとするのは典型的な「甘えの論理」ですね。

遠藤・・・いや、だから逆に言えば、あなたの言われたように、西洋だって神を信じたふりをしているだけで、心からの信仰というより、脅迫観念になっています。サディズムだって本当に信仰があれば陥らないけれど、また逆にキリスト教に対する背徳だから、それを冒涜する快感が生じるわけです。ですから信仰から抜けきれていないわけです。近代という時代は、科学や資本主義が発達して、不信仰や背徳なしに、純粋な信仰は成り立たないのです。そうしますと、神の義の実現、裁きへの期待などは、神への信仰を少しでも持っていれば、恐ろしくて言えない筈です。私が専ら許しの神を強調し、自らの罪や不信仰を文学に形象すると、それはキリスト教じゃないという非難を受けます。

やすい・・私はそういう正直なところが遠藤先生の魅力だと思います。裁きの神なしにキリスト教がないとすると、その内容は「ヨハネの黙示録」でいいのかという問題もあります。それにイエスだって『バイブル』に即してみれば、弟子に布教に失敗した町を去る時には、印に靴の土を払っておけ、その町はソドムより酷い罰を受けるだろうと言ってますから、恐ろしい面があるわけです。そういうイエス像より、無力でも共に苦しみ涙してくれる「永遠の同伴者」としてのイエス像の方が、はるかに擁護すべきだと思いますね。

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