遠藤周作ー日本人のためのイエスを求めて
                 ー狐狸庵先生に聞くー
          1遠藤周作略歴                                 

 遠藤周作、一九二三(大正十二)年、東京生まれ。父は銀行員。三歳より父の転勤で満州で暮らす。十歳で父母離婚により、母に連れられ神戸に移転。カトリック教会で無自覚に洗礼を受ける。学業振るわず、三浪の末慶応の文学部予科に入学。敗戦後仏文科に進学した。

 信仰と文学の葛藤を研究、学生時代から文学評論を雑誌に掲載する。二十七歳でフランスに三年間留学、健康を害して帰国後、カトリック作家になる。一九五五年に「白い人」で芥川賞受賞。人間性と信仰、日本人とカトリック信仰、東洋と西洋の葛藤を通して「永遠の同伴者」としてのイエス像を造り上げ、国際的に高い評価を受けている。
 
 代表作として、『海と毒薬』『沈黙』『私が・棄てた・女』『死海のほとり』『イエス・キリスト』『スキャンダル』『深い河』など。なおユーモア作家としても活躍。狐狸庵の号でエッセイストとしても活躍『狐狸庵閑話』シリーズを出している。一九九六年九月没、死後一年以上経過したが周作ブームが続いている。

                       2遠藤周作の復活

遠藤・・・誰だ!俺を起こす奴は。折角、天国で神様の御胸の中で安らかに眠っていたのに、魔方陣みたいなものを造って、俺を呼び出す奴がいる。魔方陣で呼び出せるのは魔物類だけじゃないのか。それじゃ俺は、魔物の一種だと思われているのかな。俺としては日本人に共感できるイエス像を提供し、結果としてキリスト教の信者を沢山造りだし、随分布教に貢献した筈だが。でもそれがイエス像を著しく歪めたとして、教会の頑迷な保守派
からは評判が悪いらしい。奴らの策謀で天使に成り損ねたのかな。

やすい・・遠藤周作先生、ようこそ私の「霊界」通信においでくださいました。ご心配御無用です。これは魔方陣ではございません。先生の御著作を立体的に並べて私が造りました「遠藤周作の世界」という、三次元や四次元の現実の時空間を超越した一種のワンダーランドです。

遠藤・・・これは、失礼。それじゃあ、あくまでもやすいゆたかさんの意識の中での、遠藤周作の復活ということですね。なあんだ、奇跡が起こって私が肉体を取り戻して復活したわけじゃないわけだ。

やすい・・あれ、遠藤先生は『死海のほとり』や『イエスの生涯』では、イエスの奇跡物語を、すべて原始キリスト教団の事情から、イエスを神格化するための潤色だとされておられたじゃないですか。そしてイエスの復活だって、ほんとに三日目に死者の中から蘇ったとは見なしておられませんね。むしろイエスを裏切った弟子たちの中に、消すことができないものとしてイエスの愛が蘇ったことを、イエスの復活だと見なされていましたね。

遠藤・・・ええまあ、近いですね。オカルト的な意味での「奇跡」なんてなかったんです。私は死海のほとりで、盲目の敬虔な巡礼を見ました。その人の前で無神経にも、イエスが盲人の目を癒す奇跡の話をする司祭がいたんです。私は、今、この人の目を癒せないイエスが、どうしてその当時の盲人の目を癒せたのかと思いました。様々な奇跡があったというのは、むしろ奇跡を期待していた民衆の思いが、復活信仰と共にイエス伝説に結晶したんです。それに原始キリスト教団がイエスを神格化するために造りだしたのです。

やすい・・奇跡信仰なしにイエスを信仰するというのはとても純粋な気がしますが、一方で本当に信仰しているのなら、奇跡だって信仰できる筈だという気がするのですが。

遠藤・・・ごもっともです。しかし奇跡を信じてしまいますと、どうしても奇跡を期待してしまいます。厳しい弾圧や災害に見舞われたとき、きっと神様は我々をこの災難から救い出してくださる筈だと期待してしまいますよね。もし何の罪もない幼子を病気や飢餓で苦しめて、そのあげく悲惨な死しか与えないとしたら、神様は人間を愛していると言えるでしょうか。まさしく「神も仏もあるものか」という気持ちになります。

 しかし実際はどうでしょう、神は人々の災難を見過ごされたように見えます。そればかりか、これは代表作『沈黙』のテーマですが、神への信仰ゆえに、弾圧され、精神的にも肉体的にも極限の苦しみを耐えた殉教者に、その死にあたって何ら栄光の光や天使の讃えの歌すら与えずに、曇天の沈黙を守られたわけです。宣教師ロドリゴでなくても、神に奇跡を期待して信仰していたら、このような神の沈黙に耐えられなくなります。ですから奇跡を見ないでも神を信仰するのが本物の信仰なんです。

やすい・・神の沈黙に耐えられなくて、ロドリゴは踏み絵を踏んでしまったのですか。

遠藤・・・それも一つのファクターですが、そう単純に受け止められると誤解になりますね。表面的には棄教して、踏み絵のイエスを踏み、信者を救うという生き方しか、ロドリゴには同伴者イエスの愛の実践としてできなかったのです。だとすればそれこそが神の示された愛の道です。つまり神はその意味では沈黙されていなかったのです。

やすい・・なる程、「沈黙によって語る神」ですね。そこが遠藤文学が我々に深い感動と共感を与える要素になっています。神がどこかにおられて、その神が我々の不幸を無関心に見過ごされているとしたら、たまりませんね。かといって神が奇跡を与えて、ある人を救ったとしたら、そんな奇跡物語を聞かされても、我々はどうせ作り話に決まっていると思ってしまいます。たとえ真実だとしてもそれは神の偏愛を意味しますから、嫉妬から神を拒絶することになります。神は決して我々の不幸には無関心ではないのだけれど、不幸や試練を表面的に取り除いてくださるのじゃなくて、不幸や試練を引き受ける者と共に苦しみ、涙してくださるわけですね。

          ●先に進む      ●目次に戻る