コーヒーブレイク―A
               「人間論の穴」休憩室にて

 

登場人物 榊周次 上村陽一 三輪智子

 

            どうせなら智子主役のバージョンでそれがだめなら拉致というかも
                 ファンタジー古典を材に作ったら男ばかりが前に出るかな

 

陽一:休憩室があったんですね。それにしても疲れましたよ、もう人生を何十回も経験したような気になります。

智子:これって陽一君が主役になったバージョンでしょ。智子の主役のバージョンにして欲しかったわ。

周次:人間論にするとなると、登場人物の関係で主役は男の場合が多くなってしまう。思想家や物語の主人公では圧倒的に男が多いだろう。

智子:ファンタジーなら『ソフィーの世界』とか『不思議の国のアリス』とかメルヘンチックに描けばいくらでも、女の子中心でいけるでしょう。

周次:古今東西の人間論の古典を材料にしているからね、でも何とかそういう作品も組み込まないと、三輪さんに悪いかな。歴史や文学の世界に広げていくとないことはない。それを人間論でまとめるというのが主旨だろう。だからなかなか難しい。それに女傑を演じさせるのは忍びないところもある。たとえば則天武后や西太后などは恐ろしすぎるし。

ところでご家族も急にいなくなって拉致されたのじゃないかと心配しておられるだろう。

陽一:ええ、三輪さんちでは警察の方を呼んでおられましたからね、当然榊先生は誘拐罪で逮捕されますよ。しかし、先生のやり方もかなりラジカル過ぎるのじゃないですか、一見虫も殺さないような穏健な性格にみえるけれど。

智子:じゃあいい役がいただけなかったら、拉致されたことにしちゃおうかな。

周次:こりゃあ参ったな、なんとか精一杯工夫しますよ。

 

                           電脳の中で演じるキャラなれば役とは知らず命張りたり


陽一:それにしても記憶が消されてしまっているので、完全に本人に成り切っているでしょう。まさかファンタジーと思ってないから、これがたった一度の人生と思い込んで必死ですよ。こんなのゲームだとはいえませんね。しかも結末は爆死したり、ばっさり切られたり、さそりにやられたり、プロタゴラスだけは酔っ払って眠り込んだだけですが、えげつない死に方でしょう。

智子:そこがまたかっこいいわけね。ハッピーエンドの人生ゲームじゃ演じる気にもなれないでしょう。やはりドラマティックにいこうとすれば、少々無茶しなくちゃね。

陽一:それはそうだけど演技でやってるわけじゃないところが、えげつないんだ。

周次:あんまり辛ければ、降りてもらってもいいんだよ。その代わり内緒にしていてくれないと困るけれど。

陽一:だれも降りたいとは言ってないでしょう。だって智子と夫婦になったりできているわけだから、僕的にはこれ以上のハッピーはないわけですよ。

智子:あら、それは陽一君、私にラブコールしているわけ。


陽一:高校卒業してから言おうと思っていたんだけれど…。


智子:どうして今まで言わなかったの。


陽一:せっかく仲良く話できてたのに、打ち明けでだめだったら気まずくなると思って。

智子:へえー、純情なのね。


陽一:もしだめでもさ、友達でいて欲しいんだ。なかなか何でも話せる友達ていないんだ。
三輪さんとなら倫理の話でもできるだろ。だから卒業までは返事はいらないからさ、今までどおり友達でいてくれよ。


周次:そうだね、進学が決まってからのほうがいいかもね。受験生は恋愛するとたいがい失敗するからね。


智子:あら先生、進路指導の先生みたいなこと言うのね。そしたらこんな世界に引き込んで、二人をくっつけちゃうのはどういうことなの。


陽一:倫理や哲学の体験学習としては最高だけどね。


周次:まことに申し訳ない。教育というのは常に両刃の剣で、活かすも殺すも本人の受け止め方しだいだね。

 

                リアルには指も触れない二人でもバーチャルならば飽きがくるほど


智子:陽一君のことは考えとくわね。でもエデンの園ではアダムには飽きちゃったけど。オイディプスの陽一君には胸がかきむしられたわ。現実には手も握ったことがないのに、「人間論の穴」にはまっちゃうとセックスだってしている気になるのだからおかしいわね。あれって本当にしていたのかしら、あくまでバーチャル(仮想現実)でしょう。

周次:もちろんバーチャルですよ。だってもし現実なら君たちはとっくに死んでいるはずでしょう。だからある意味、演劇や映画よりも幻想性が強いわけです。演劇の場合は演じるにせよ、実際に裸になったり抱きついたりしているわけだけれど、この電脳空間では裸になったり抱きついたり、セックスしたりしているつもりになっているだけです。だから夢を連想されたら、あれに一番近いですね。(笑い)
 

                    夢ならば天翔りたりリアルには自然のおきて抗ふまじきや
                   
同じ夢繰り返し見て何時の日かかなふと思ふも若き日の夢


智子:夢と現実の違いってなにかしら、夢だって場合によったらすごくリアルでしょう。現実だって夢のようにはかないし。


周次:夢の場合は、自分の欲望や恐れなどの意識の組み合わせのようなものでしょう。だから空を飛んだりできるし、時の流れも急に転換したりします。つまり現実の自然法則に逆らったりする場合もあるわけだけれど、現実の場合は自然の因果律に従うわけです。


陽一:夢が叶う夢ってあるでしょう。ついに念願かなったと思ったら夢だったりして、あれってつらいですよね。

 

周次:それはありますよね、もうこの歳になるまで何百回となく夢がかなった夢を見続けていますが、いまだにかなっていない、これって地獄ですね。まだ若いうちは、その夢を見続けていたらいつかはかなうのだと思えますが、もう還暦近くなっちゃうと、それもありえないわけで、そういう夢はもう見たくないですよ。

 

                 リアルとは異なる世界つくりたる夢見る力人を作るや

 

智子:夢を見るというのは人間だけなんですか、そしたら夢を見るというのも人間論として重要ですね。

 

周次:高等動物でも睡眠中に目覚めていたときの意識を反芻したり、組み合わせたりする夢はみるかもしれませんね。人間論として展開する場合は、現実とは違う仮想現実を作り上げる能力として夢が取り上げられることになるでしょう。

 

陽一:つまりビジョンを持って、その実現の構想を思い描き、それにそって実践していくというのが労働や実践ということですから、夢見る能力が人間のもっとも重要な特長ともいえるわけでしょう。

 

智子:睡眠時の夢と覚醒時の構想ではだいぶ違いますよね。

 

周次:さまざまな意識を組み合わせるという意味では同じです。ただ睡眠時は外界から刺激が入ってこないし、思考力も弱いですから、因果律から解放されてしまうわけですが、

覚醒時の構想の場合は、因果律を前提にしなければならないので、制約されます、その分現実的なイメージになります。

 

智子:覚醒していますと、構想もはっきり姿が見える画像ではなくて、もっぱら理性的なものですね。言葉で説明するような。だから理屈としては現実的でも、夢よりイメージ的には劣りますね。

 

                            言の葉は登録したるメモリィを記号に代えて組み合わせしか

 

陽一:だから明確に文章化したり、イメージを画像化して示したりして構想を他人に伝達する必要があります。よく考えますと、言語というのも目の前の状況を音声などで記号化して伝えるだけではなくて、メモリィとして登録されているイメージやイメージの組み合わせを記号化したものを伝達する行為なのでしょう。

 

智子:どういう意味なの、理屈っぽ過ぎて分からないわ。

 

周次:動物どうしでもお互いに状況を伝達し合っているんだ。その場合、身振りや音声を使って伝える。ミツバチなんかは花の種類、方向、距離をダンスで伝えるという。動物の場合は外界からの刺激によってその動きが決まってくるわけだけれど、人間の場合は刺激の内容をパターンに類型化して整理してメモリィとして登録しているわけなんだ、言語というのはその類型を音声記号で表現して伝える行為だという解釈を陽一君はしているんだろう。


陽一:夢の中で、覚醒時の刺激を反芻し、それを類型化して登録するという作業があると思うのです。動物も夢を見るとしても類型化して登録するところまでいかないのじゃないかな。

 

智子:睡眠時は大脳の活動が低下しているので、類型化はできないでしょう。やはり覚醒時に類型化しているのじゃないかしら。

 

周次:夢と言語の形成との関連は、人間起源論の重要な課題かもしれませんね。心理学でどういう研究成果がいままで蓄積されているのか、調べてみる値打ちはありそうですね。

 

                           死んでまた別の世界に生まれしか一度きりなる人の生かな

                    バーチャルを抜け出て現に戻りたる入れ子になりてそこもバーチャル?

 

陽一:つくづく考えたんだけど、死んでもまた次の人生にいけるというのは、こういうフィクションの世界だからでしょう。現実の人生は、一回きりで、死ねばもうまた別の人生が待っているわけではない。これが人生の一回性ということです。

智子:人間が有限な存在である限り、死んでまた次の人生があるとか輪廻転生なんてことはありえないわね。

陽一:それはそうなんだけれど、演技しているとは知らずに他人の人生を生きてみて、それを生きている最中にはまさか、これがバーチャルだとは思わないから、死んだらおしまいと思って精一杯生きているわけですよ。だから、われわれがまた「人間論の穴」というバーチャルな世界から抜け出した時に、現実に戻って、現実の人生は一回きりと思うけれど、でもバーチャルを経験しているから、現実だと思っているのがまたバーチャルだったというどんでん返しみたいなのが起こるのじゃないかなって気がするのです。

智子:『ソフィーの世界』でもそういう入れ子構造になっていたわね。そういう現実が虚構じゃないか、虚構が現実じゃないかという疑問があるから、宗教的な幻想にもつい惹かれてしまうのでしょうね。

周次:しかし人生は、やはり現実には有限で、食べたり、運動したり、眠ったりしなければならないし、年とって死んでいかなくてはならない。肉体が滅んでいくのを見れば、個体としての生命の有限性もまた否定できないところですね。だから来世なんかないんだという意識を持たざるをえません。でもこれが生の現実であると思い込んでいたものが、バーチャルかもしれないという可能性に気づくというのも人間ならではのことです。

陽一:「『バーチャルとしての人間』論の可能性」ですね。でも現実(リアル)があるから、それに対してバーチャルなので、たとえこれがバーチャルであっても、バーチャルから醒めたらリアルがあるわけで、すべてバーチャルというわけにはいかないでしょう。

 

智子:信長は「人生わずか五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたびこの世に生を受け、滅せぬ者の有るべきか」と歌って、桶狭間に突っ込み、秀吉も「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」と詠んでいます。現実こそバーチャルではないかという思いも強いようですね、昔から。
 

                     ただ一度生きるが故に夢に生き夢に死なむといざ桶狭間
                 
試みに飲まず食わずにおりしなば、意識朦朧幻想もなし


周次:ただし戦国武将の人生を一睡の夢とみる見方は、必ずしも、輪廻転生への信仰や、バーチャルだからこのファンタジーのように次の展開がまたあるという気持ちはないわけで、たった一度の人生だからとことん夢に生き抜いてやろうという覚悟があるわけです。

 

陽一:じゃあ、リアルということを確かめる、そこから現実にしたがって、一度だけの人生を充実させて生き抜くという覚悟を作るには、どうすればいいのですか。

 

周次:それには日々の生活が物質的な基礎の上に成り立っているということを、日々反省することですね。毎日、お日様が昇りそのおかげでエネルギーをもらって生きている。きれいな空気や水があって生きのこれているし、食物連鎖の生命のつながりがあって命をつないでいるわけです。それに衣食住その他の文化的な生活を送るのに、様々な物資やサービスが生産、流通消費されているわけです。その生産機構を支える政治的社会的ないろんなシステムがあります。そこに組み込まれていないと、生活が成り立ちません。そういうことをきちんと認識して、それに適応できるように、勉強したり、いろんな訓練や努力をしているわけで、道をあるくのでも交通規則を守り、赤信号で止まっているわけですね。もしこれらが現実ではないとしたら、現実原則に従わなくてもいいはずです。ですからそういうのに従っているということから反省すれば、飯を食べなければ腹をすかして飢え死にしてしまうので、例えば死んじゃって、体が滅んでも意識があるといっても、脳に栄養も補給しないで、どうして意識が成り立つのかということですね。

 

智子:でもデカルトでいくと「我思う故に我あり」だから意識の前提に身体は必要ないということですね。

 

陽一:とは言っても、腹をすかすと意識が朦朧とするわけだから、それを反省すれば意識の成り立つ前提に、様々な自然的社会的な仕組みや関係があることは否定できませんね。

 

智子:そういった物質的なものも意識されてはじめてあるわけで、意識によって構成されているという面をみれば、意識から独立して存在する物質なんてないことになります。

周次:それはその通りですが、そういう発想は意識と物質を二元的に捉える発想です。意識というのももともとは刺激をメモリィ化したもので、生理的な生体の反応です。それが記号化されて観念として捉えられるようになったのです。意識を個体の自我が自分で作り出すように捉えていると、世界は意識が自由に組み合わされて、バーチャルな現実を構成しているように思えるのですが、実際は人々が意識し、考えることは、自然や社会の関係や連関から規定されているわけです。だから意識生産の主体も、単純に私の自我だけではなく、事物や関係だとも言えるのです。

 

智子:私個人が意識を生み出したのではなく、自然や社会から生み出されたものであっても、その生み出された意識がバーチャルじゃない、現実だという保証はないでしょう。だって社会は社会の再生産に都合のよい意識を生産しようとするわけで、そこにはたくさんの虚偽意識があるのではないですか。
 
         
         それぞれの話につながりまるでなしいかでつけるや本のまとまり
                          
ばらばらの人生生きる人でさえ己超えたる命引き継ぐ

 

陽一:それはそうと、陽一が話しの最中にふと我に返ったりする設定は無理ですか。そうでないと、それぞれの話がつながりません。読み手が全体としての物語がないので不満になるのではないですか。


智子:そうね、全体としての話の展開はまったく今までのところは感じられないわね。たとえ一話一話が面白くても、全体としてのまとまりがないようじゃ「哲学」の講義のテキストとしては使えても、ファンタジーとしては売り物にはできないでしょうね。

周次:たしかにそうですね。それはなんとか工夫しないといけませんね。ただ陽一君が様々な人格を生きることによって陽一君という生命のつながりができます。演じている陽一が生命のつながりとしてあるんだけれど、そのことは個々のキャラクターは気づかないわけでしょう。我々も現実の人生では個々のキャラクターを生きているけれど、命のつながりをなかなか自覚できないわけです。気づかないけれど、命を引き継ぎ、バトンタッチして生きている、個々のキャラクターを超えた命が主体として生きているわけです。それを簡単に気づかせてしまうとまずいような気がするのです。

陽一:陽一はじゃあアトム+ギルガメシュ+アダム+オイディプス+プロタゴラスで、彼らの人生経験を踏まえた人類の代表みたいな存在ですか。

智子:それは陽一だけじゃなく智子も陽一と一緒にいて共に生き共に苦しんでるので、多少なりとも人類の経験を体現した存在だということでしょう。つまり現代人は過去の人類の経験を引き継いで生きているわけだから。


周次:そうなんだ。でも実際に生きる場合は、人類全体を引き継いでいるということは忘れてしまっているわけで、学校や書物などを通して学んで少しは思い出すのだけれど、まったく自分は自分、それぞれが私的な個人の枠の中でしか考えられないし、そこに閉じこもって私的利害でしか動かないことが多いわけだ。

陽一:そうでしょう。だからこそ陽一は時々我に返らなければならない。そして智子を見つけ出して連れ戻さなければならないし、榊周次から人間論の秘密を解く鍵を奪い取らなければならないのでしょう。

智子:陽一君、あまりに気持ちが入りすぎているわ、これはあくまでも「榊周次の人間論の穴」という特殊なゲーム空間なのよ。ゲームにのめりこんで、自分の人生を決めちゃたりしたら、ギャンブラーと同じよ。


周次:二人の気持ちはかなり温度差があるんだな。

智子:もちろん私だって陽一君がいやだったら、もう逃げ出したいわよ。あの先生、この「人間論の穴」からはいやになったら抜けさせてもらえるのでしょう。それとも私たち本当に拉致されているのかしら。


周次:もちろん現実の人生じゃないから、いつ降りてもいいわけだけれど、現実の人生がもういやだって思ったらすぐおさらばできるわけじゃないわけだから、それぞれのキャラクターの人生を担当して生きている間は、自分がその人に成ってしまっているので、放棄できない装置になっている。今まで演じてきたからそれは十分分かっているはずだ。五話ごとぐらいにコーヒーブレイクを設けるから、その時にもう帰るといってくれれば代わりを見つけるよ。

                        フィクションでたとへ百年生きたれどリアルに戻ればたかが百分


陽一:それにしてもこの穴でもう五人の人生を生きたから、何百年も生きた気がするんだけれど、実際には何年ぐらい経っているのですか。

周次:おいおい一話で地球時間では約九十分だよ。気を失っている時間に栄養補給したりしているから、やっと二十四時間たったぐらいかな。

智子:だから歴史や文学を読むということはたくさんの人生を生きることになるということでしょう。同じ人生七十年でも、人の何倍も生きることができるのよね。その意味では「人間論の穴」のバーチャル体験は、演じている本人が役の人物と自分自身と思い込むようにマインドコントロールされているので、画期的なのよ。
 

                           読者をも穴に取り込み参加さすファンタジーを読む読者ありしや


陽一:問題点としては、こうした穴に無理やり拉致して苦しめたり、性格改造や思想改造つまり洗脳に使われたりしたら犯罪だね。

周次:あくまでもファンタジーの中での登場人物に対するマインドコントロールにすぎないから、ファンタジーの読者に対しては当然陽一君や智子さんにかかるほどの迫真性はないわけだ。

智子:ちょっと待って。私たちはファンタジー読者でしょう。ただこのファンタジー読者は、登場人物を演じることでファンタジーに参加できる、参加型のファンタジーなのでしょう。それとも私たちの他に、私たちが必死にファンタジーを演じているのを読んでいるファンタジー読者がいるというわけなの。そんなの聞いてなかったわ。

陽一:そりゃあ『人間論の穴』の出来事は、ファンタジー映像になってインターネットに流されていると、ぼくは睨んでるね。そうでしょう、榊先生。

周次:現実の生活というのはプライバシーがあるようでないというじゃないか。それぞれみんな自分個人の私生活を送っているように思っているかもしれないが、実際にはさまざまに規制され、考え方や生き方まで型にはめられている。それぞれのキャラクターがどんな人生ドラマを演じているか、ほとんど記録されているといってもいいくらいだ。その意味では「人間論の穴」という電脳空間においてバーチャル画像がどこかで編集しなおされ、放映されていないとはだれも断言できないね。


智子:やっぱりそうだったのね。じゃあ私と陽一さんのベッドシーンまで世間に流布されていることにならないかしら。

周次:それは大丈夫、十八歳未満お断りじゃないから。私が言いたかったのは、「人間論の穴」の出来事をフィクションとして観たり読んだりしている人々は、そういう陽一君や智子さんにかけられているマインドコントロールはないから、現実社会では犯罪性は問われないということだよ。

 

                                 精神の自由奪われ演技する役者にありや自我の自由は
                               
有り得ない設定の中苦悶するその人物も幻想の人


陽一:でも我々は役を演じている間はマインドコントロールされていますから、そこでは陽一に戻る精神の自由はないわけです。先生の考えでは、陽一や智子の精神の自由を奪うということは基本的人権の侵害ではないということですか。


周次:それはね演出家と役者の関係を想定してみればわかる。演出家は可能な限り、役者に役になりきることを要求するわけだ。その場合、百%その役には成りきれないけれど、ほとんど役に成り切って、役者は役者としての私生活や人格を忘れてしまうことがある。そこまでいかなくてもかなり自分を忘れてしまう。しかしそれは演出が成功しているのであって、その場合に精神の自由を奪ったから、自己が希薄になったから基本的人権を侵したことにはならないだろう。芝居という空間ではそういうことは許されているのだよ。「人間論の穴」では電脳空間が百%のマインドコントロールを可能にしたので、大いに物議をかもすことになるだろうね。


智子:そこがどうも嘘くさいと思いませんか。そういう電脳による百%のマインドコントロールやまったく自己を忘れさせるぐらいの電脳空間とか、「人間論の穴」に吸い込まれるなんて設定自身、現実には有り得ない。有り得るとしても二十一世紀の科学技術水準では有り得ないはずです。

周次:いやその疑問は却下です。だって君たちがこのように現実的に「人間論の穴」に存在しているという厳然たる事実が、それが可能であることを疑問の余地なく示しているのですから。それとも君たち自身がフィクションだと君たちは主張するのですか。

陽一:デカルトの「我思う故に我有り」だと、自らフィクションだとは主張できませんね。もし現実に生きている人が、自分の現実がフィクションだと分かったら、現実だと思っていた自分もフィクションになってしまうことになります。


智子:そういえば、『ソフィーの世界』では、フィクションが自分たちの現実だとソフィーが気づくのだったですね。それを現実の私たちに適用すると、いったい誰がどのようにして、自分の生きている現実が、現実かフィクションかを見分けるのでしょう。

陽一:現代思想ではむしろ客観的な実在を前提しないで、意識の現われとしての現象を現象するままに記述する現象学が有力なのでしょう。つまりフィクションでも現実でもみんな意識現象として現れているのですから、現象として記述されている限り、フィクションと現実の見分けはできないことになりますね。


周次:そういう根源的な存在への問いにぶつかったところで、コーヒーブレイクもそろそろタイムオーバーで、またすばらしいフィクションの現実に戻ることにしよう。

彼らはコーヒーを飲み干したとたん、休憩室は暗転して闇に消えてしまった。

 

 

第六話に進む  第五話「プロタゴラスの人間論」に戻る   目次に戻る