第五話 プロタゴラスの人間論

                       

        駄洒落にてはぐらかすのも弁論か、酔い回りなばさえも曇りぬ

 

人の道を踏み外して、奈落に落ちた上村 陽一は、しばらく意識を失っていたが、青年が肩をたたいて、起こす声に目覚めた。「ギリシアを代表する徳の教師、ソフィストの元祖プロタゴラス先生、こんなところで居眠りされると風邪をひかれますよ。今日はまだ始まったばかりなのにすっかり酔ってしまわれたのですか。」

「え、私の名前は何と言われた?たしかソクラテスと言われたようだが。」「ご冗談を、ソクラテスは私ですよ。あなたは今やギリシア最大の知者、弁論にかけては神々も顔色なく、お話の巧みさでは、ホメロスも生きていれば脱帽すると言われているプロタゴラス先生ではないですか。」上村 陽一は目をこすりながら、思い出そうとしたが、なかなか出てこない。

 

「何もない、あっても認識できない、認識できても、伝えられない」と言った。すると、「ひどいな。それは私ゴルギアスの台詞じゃないですか。」「あれあれゴルギアスさんもいたのか、おかしいな、私の記憶ではゴルギアスさんはいなかった筈だが。」たしかにプラトンの『プロタゴラス』ではゴルギアスはいなかった。まあそれは気にすることもないか。

 「そうそう思い出したよ、万物のしゃもじは人間である。あるものについてはあるということの、あらぬものについてはあらぬということの。」「ア、ハ、ハ、ハ」ゴルギアスは笑った。「しゃもじじゃなくて、尺度でしょ。今日のプロタゴラス先生は徳の教師というよりも駄洒落の教師ですね。」「なに、駄洒落の教師だと、駄洒落をいうのはだじゃれじゃ」と親父ギャグの連発である。

 

ゴルギアスが解説した。「これは駄洒落ではぐらかす弁論術じゃよ、ソクラテス君、今日はどうも酔っ払っていて頭が冴えないから、はぐらかし戦術らしいな、プロタゴラスさんは。」ソクラテス青年は、あきれた顔をして、「駄洒落ばかりでは、とても徳は教えられませんね、プロタゴラス先生、徳の教師だとおっしゃる先生の看板が泣きますよ」と皮肉った。「ソクラテス君は、自分は何も知りませんと言う割には、徳は教えられないと知っているようなことをいうじゃないか。徳の教師を名乗っているのだったら、徳を教えるのは、特に得意なんじゃないかな、プロタゴラスさんは、ア、ハ、ハ、ハ」とプロタゴラスは笑って応えた。

 

                              数学や文字を教うるごとくして徳教得るや教え得ざるや

 

「いや、私には徳は教えられるか、教えられないかは分かりません。ただ駄洒落の連発なので、教えられないということかなと先生のご様子から推察したまでです」と例によって「無知の知」の立場を表明した。

 

「徳は教えられるよ、じゃあ教えてあげよう、徳はアレテーです。」一同ずっこける。「そんな、それはただギリシア語で言っただけじゃないですか。問題なのは徳の中身ですよ。」ワッフンとプロタゴラスはおもむろにせきをしてから言った。「ギリシアの四元徳といえば知恵・勇気・節制・正義だな。」上村 陽一は倫理が得意だったので、そういうのはすらすらと出てくるのだ。ソクラテスは肩をすぼめた。ゴルギアスは苦笑しながら「今日のプロタゴラスさんは愉快だな。ソクラテス君はそういう知恵・勇気・節制・正義などを数学や漢字の知識のように教え込むことができるかどうかをたずねているのだ。」「ゴルギアス君ここは古代ギリシアだよ。漢字なんて誰も知らないし、まだ中国では漢になってないよ。」ゴルギアスは、舌をだしていった。「そんな細かいところにこだわるなよ」

 

上村陽一はプロタゴラスとソクラテスの徳は教えられるかについての対話については、どこかで聞いたような記憶がある。いや何かで読んだ記憶である。実は、榊周次のホームページに「プロタゴラスの人間論」の紹介があって、大変印象的だったのである。しかし「人間論の穴」に入っているとどこでいつどういう記憶を仕入れたかは思い出せないことになっている。ただ陽一はこの話は自分の中にインプットされている気がして、なんとかなりそうだと思った。「ソクラテス君、じゃあ徳が教えられることについて、ひとつお話をしてみよう。」いよいよプロタゴラスの得意の物語形式の説明が始まるというので、富豪カリアス邸に集まった一同はプロタゴラスに視線を集めた。

 

                                     万物の真理をはかる尺度とは人それぞれの感じとるまま

 

「神話の形をとって話をすすめてみよう。まず人間とは何かを考えるとしよう、そうすれば、人間に徳が教えられるかどうかも分かるから。」ピッポクラテスがたずねた。「先生の人間論は、人間とは万物の尺度であるという人間論ではないのですか?」プロタゴラスは首を振った。「いやいや、それは全くの誤解だよ。あれは真理はひとそれぞれという言う意味なのだ。この部屋が暑いか寒いかはひとそれぞれだろう。たっぷり着込んだり、熱いものを食べている人にはこの部屋は暑すぎるが、薄着や冷たいものしか食べていない人には少々涼しすぎるかもしれない。それを気温だけ取り上げて、今何度だから暑いというのは間違いだ。サウナ風呂だと摂氏八十度台でも寒くて体が震えだす者もいるらしい。つまり真理は人それぞれで、自分が感じたのが、自分にとって真理なのだ。だからだれか権威のある者にこれが真理だといわれても、簡単に信じていけないということだ。あくまで真理は人それぞれ相対的なものだということなのだ。」

 

                                      神々は土に水まぜこねまわし火にかけ作りぬ生き物たちを

 

ピッポクラテスという名の青年は納得した。「なるほど、では早速プロタゴラスさんの人間論をお聞かせ願いましょう。」彼はなかなかの美少年である。三輪智子が演じているのだ。上村 陽一はどこかで見覚えがあると思ったが、だれかはわからなかった。プロタゴラスは無言でうなづいて語り始めた。「昔不死なる神々は、自分たちは不死なものだから命がけで何かをすることがない、それでどうにも退屈な日々にあきあきして死すべき定めの動物たちを作ろうということになった。それで土を水で混ぜて捏ねあげ、思い思いの形にして、それを火にかけてつくったのだ。」

 

カリアスはそこで口をだした。「そしたら動物たちは陶器だったのですか、プロタゴラス先生。」「カリアスさん、それはわれわれ人間が煮炊きや焼き物に使っている火のことでしょう。神々が使う火は命の火なのです。それで焼くと獣たちの体ができるらしいです。」プロタゴラスは、オリンポスの山に神々が住んでいるなどまったく信じてなかった。でも神話を好んで創作したが、それは自分の説明に都合のよいように話を作れるからだ。

 

「その後で、それぞれの動物たちが滅びないように、特性を与える仕事を神々に命じられたのが、われわれ人間の思考を司る二柱の神々だ。ピッポクラテス君、その神々の名前は?」

ピッポクラテスは急に振られたので少し驚いたが、「想像力や構想力をつかさどる先立つ思考つまりプロメテウス、彼は兄です。そして反省や後悔を意味する後立つ思考つまりエピメテウス、彼は弟です。」「どちらが担当したと思う、ピッポクラテス君。」「相談して二人で与えたのでしょう。どちらかだとやはり兄プロメテウスが適任でしょう。だってエピメテウスは将来のことは考えないで、思いつきでいろいろやりますが、後からうじうじ後悔するタイプですから。兄はしっかり未来を見通して行動できるので、信頼感がもてます。」

 

                             後悔は先に立たずや人にまだサバイバルする特性与えで

 

「これはお話だからね、問題が起こるからお話になるんだ。エピメテウスはいつもお兄ちゃんばかり、いい格好をして自分にも活躍させてほしいと、つまりこの仕事を自分ひとりでやらせてほしいとたってのお願いをした。兄としてはそこまで弟に言われれば譲ってやるしかない。そこで大張り切りでエピメテウスは獅子には鋭い爪や牙を与え、鳥には翼を、猛獣の餌食になりやすい小動物には繁殖力を与え、それぞれの種族が滅びないように工夫したのだ。なかなかうまくいったと思ったのだが、最後に残った人の種族に何か特性を与えようとしたが、品切れで人はサバイバルできる特性を持たないままだったのだ。」

 

「それは困ったことになりましたね、プロタゴラス先生、それじゃあ人間は自然の中で適応する能力のない欠陥動物じゃないですか。」カリアスは心配そうな表情をした。この欠陥動物論は二十世紀の大戦間時代にゲーレンたちが復活させた。人間は元々自然適応能力に欠けていて、知的能力で補っているけれど、結局は適応できなくなって早晩滅亡する運命にあると不吉な予言に使ったのである。 

 

                           知恵と火を盗みて人にもたらしぬプロメテウスは人を救えり

 

「ええ、カリアスさん、まことにその通りです」と頷いた。「プロメテウスが首尾はどうかと点検にきたら、なんと人の種族は何の特性もなくて、これじゃあ獣たちに滅ぼされてしまうじゃないかと、エピメテウスに言うと、エピメテウスは後悔先に立たずで、うろたえるばかりなのだ。そこでプロメテウスは知恵の神アテナイ女神から知恵を、火の神ヘファイストスから火を盗んできて、それを人間たちに与えて何とか、適応できるようにしてくれたのだ。」

 

ワインがだいぶ回っているせいかカリアスは無邪気に喜んでパチパチ手をたたいた。「いいぞ、いいぞ阪神、じゃなかったプロメテウス。おかげで我々人間は生き残れたんだ。」そこでヒッポクラテスが解説しようとした。「つまりプロメテウスというのは人間の想像力、構想力を神としたものですから、人間自身が自分の想像力、構想力を使って、いろんな知恵を思いつき、火の使用方法を考え出すことに成功して自然に適応できるようになったということですね。」

 

                          窃盗の罪を背負いて大岩に縛(いましめ)られて内臓抉らる
                        
文明の内臓抉らる苦しみはヘラクレスならで解き放てまじ

 

ゴルギアスが続けた。「プロメテウスが哀れな我々人間のために神々から知恵と火を盗んだということで、窃盗の罪を着せられ、岩に縛り付けられて、鷲に毎日内臓を啄ばまれていたというじゃないか、この話はどう分析するのだ、ヒッポクラテス君。」ヒッポクラテスは大声で言った。「人間は知恵や火を使って文明を作り出したためにかえって、内臓を鷲に毎日抉られるような苦しみを背負ってしまったということです。結局自分で自分の首を絞めているようなものです。知恵や火はさまざまな富を生み出しました。それを得るために人間は毎日悪戦苦闘しています。そして思うようにいかないと人のものを盗んだり、奪ったりします。それが国同士の戦争まで引き起こすのです。」

 

ゴルギアスは頷き、「なるほど、では怪力の超人ヘラクレスがプロメテウスを救うという神話はどう解釈するのかね、ヒッポクラテス君。」「もちろんそれは人間がこの文明の苦しみから救われるためには、ヘラクレスのような超人的な努力が必要だということです。だからといってそれは無理だということではなくて、文明の苦しみを克服するために超人的な努力をしなさい、そうすれば人間は自ら生み出したこの文明を克服できますよと励ましてくれている神話なのです。」富豪カリアスはパチパチと手をたたき上機嫌だ。「ヒッポクラテス君、なかなか冴えているね。若きソフィストとしてなかなか有望株だ。」

 

ソクラテスは機嫌を悪くした。「我々はギリシア最大の知性と誉れ高いプロタゴラス先生のお話を伺っているところですから、ヒッポクラテスさんにお話を攫われるのは困ります。」ヒッポクラテスは苦笑して言った。「これは失礼しました。つい便乗しすぎましたかな。」

 

                              神々にあこがれ抱く人なれば祭りて願ふ幸と平安

 

上村陽一は、文明を人間の自己疎外として分析したヒッポクラテスの見事な分析に感心して聞き入っていたが、話を続けなければならない。「人間の知恵は神々から拝借したわけですから、人間は神々と同じ理性を分かち持っている。そこで人間は神々に憧れと親近感を抱き、神々の像をつくってお祭りし、供え物をしたり、願いごとをしたりするようになったのだ。」カリアスは酔いが廻っていて一言言いたくて仕方がない。「そうなんです、プロタゴラス先生、人間だけが神々を祭る宗教的な存在です。自然の中に神々の大いなる力を感得し、謙虚に祈りをささげます。人間が何でもできると思い上がってはいけない、自然の摂理に従い、神々にすがる気持ちを持つべきです。」

 

                             音節を区切りて作りし言の葉で人は築きし文明の世を

 

乗りかかった船みたいなものだから、ここでいろんな人間論を披瀝しておこう。上村 陽一は思いつくままに語り続けた。「それから人間は(ここはプロメテウスはというべきだったかな、もういいや「人間は」でいこう)音節を区切っていろいろな音を組み合わせて、それで様々な事物や事象、物事の有様などを表現することに成功したのです。」カリアスは大喜びだ「ブラボー、ついに言語を発明しましたね。人間は言語を使う動物だ、これが最大の特長かな、人間という種族の。なんといっても、言語を発明したことで、人間は意志を疎通できるようになりました。そして知識を共有し、また蓄積し、発展させることができたわけです。言語なしに文化は考えられません。こうしてすばらしいプロタゴラス大先生のお話も伺えないわけだ。」

 

「ところで徳は教えられるかどうかという肝心の本日のテーマはどうなりました、プロタゴラス先生?」ソクラテスは痺れを切らして催促した。「ソクラテス君、あわてる何とかはもらいが少ないというじゃないか、人間が何であるか分かっていないのに、徳が教えられるかどうか論じることはできないんだ。次に人間は獣たちと違って恥じらいがあるので着物を作った。寒さや直射日光も防げるしね。」

 

                                人は何故パンツ穿くやと問立てて栗本答えぬそれを脱ぐため

 

「何のためにパンツを穿くか知ってるかね。堅物のアルキビアデス君」ニタァとカリアスは笑った。「そりぁ裸では恥ずかしいからでしょう」とアルキビアデス青年は答えた。「それは表向きの理由だ、本当はいざというときに脱ぐためさ、ハ、ハ、ハ、ハ」傲慢にカリアスは笑った、そういえばこういう下品な人間論もあった気がするぞ、上村 は思い出せなかったが、それは栗本慎一郎の『パンツをはいたサル』の人間論である。

 

                           人間が作りし物も人間を語るが故に人に含むや

 

「家を建てたり、家畜を飼ったり、農作物を栽培したり、人間は食糧を確保し、快適な生活を送るための様々な道具や品物を次々と発明したのだ。カリアスさんコメントどうぞ」陽一はどうせ口を挟まないと気が済まないのだからと、自分からカリアスにふった。「とんでもない、高名なプロタゴラス大先生のお話に、私のような一介の商人が偉そうにコメントするなど恐れ多い。それより人間が生み出した道具や品物が雄弁に人間のなんたるかを語ってくれます。パルティノンの神殿や劇場などの建物や衣装や装飾品、デリーシャスなご馳走など人間ならではの暮らしが人間の中身なのです。さあみなさんどんどん人間を召し上がれ、人間のお味はどうかな?」何?道具や建物や衣服やご馳走が人間だ?このカリアスという親父のいうことは、どこかで聞いたことがある。人間でないものを人間だというのは、人間概念を混乱させることにならないか、そういえばあのカリアス親父の顔は見覚えがあるなあ、俺が探していた人物だが、どうにも思い出せない。

 

                                     ポリスありはじめてながらふ人なればポリス語らず人は語れず

 

「一人ひとりがばらばらでは何も作り出せません。獣たちや賊に襲われて生き残れなくなってしまいます。」カリアス親父の顔を上村 陽一はじっと見ていると、カリアスは陽一にヒントを与えるつもりか、次にプロタゴラスのいうべき言葉を示唆してくるのだ。

 

「そうそう、人間論は実はこれからが今日のテーマとも絡んでくるんだ。獣たちや強盗団から身を守り、文明を築き上げるために人間たちは集まって住むようになったのだ。つまりポリス(国家)が生まれた。ポリスなしに人間のサバイバルができないということは、ポリスだって人間の本質的な特徴なのだ。」ゴルギアスは不満げな表情になった。「ポリスあっての人間だということは、ポリスができるまではまだちゃんとした人間ではなかったということですか。とするとそんな未熟な人間がポリスを作るのはなかなか難しいということになるでしょう。」

 

「さすがだ、ゴルギアスさん。あなたの仰るとおりです。だから身を守るためにポリスを作ったものの人間たちはまだ未熟だったので、わがまま勝手に振る舞い、ポリスを自分のために利用しようとはするが、ポリスのために自分が犠牲になるのは真っ平だというような態度をとる。そのうえほかの市民たちを自分の考えに従わせようとはするが、他人の意見には耳を貸そうとはしない。長老やポリスの功労者にも敬意を払わないで生意気な口をきく。そういう連中がのさばってトラブルが頻発し、ポリスの機能が麻痺してしまうことになる。」カリアスはいてもたってもいられない。心配を満面に表現して、「ヒャーー、大変だ、神様じゃなかった、プロタゴラス先生何とかしてください。」

 

                                つつしみと戒めの徳与ふべし死に値ふべし弁えなくば

 

「そこでゼウスの神が登場する。」とプロタゴラスがいうと。ゴルギアスは「おやおや困ったときの神頼みですか」と揶揄した。ヒッポクラテスが助け舟のつもりか口を挟んだ。「ゼウスはコスモス全体のまとまりをあらわす神ですから、ゼウスの命令に従うということは自然のおきてにのっとるということなのです。自然のおきてに従わなければ何事もうまくいかず、人間のサバイバルもできません。」ソクラテスはどうもヒッポクラテスの口出しが気に入らないらしい。「わたしたちはプロタゴラス大先生のお話を伺っているのですから、ヒッポクラテスさんが大先生のお話を補足されるのは、いかがなものでしょう、興味が殺がれますし、先生にも失礼に当たるのではないでしょうか。」ヒッポクラテスは少しむかつきながら言った。「これはお気を悪くされたら、すみません。ゴルギアス先生のご発言に刺激されまして。」

 

プロタゴラスである上村 陽一は落ち着いて続けた。「なんのなんの、あなたの発言は決して邪魔にはなっておりません。若者が的確な発言をされるのを聞くと末頼もしいもので、大変喜んでおりますぞ。全能の神ゼウスは、使者ヘルメスを呼びつけまして、人間たちの滅亡を防ぐために〈つつしみ〉と〈いましめ〉を与えることにしたのです。」「よお、大統領!じゃなかったゼウス!待ってました」とカリアスはワインをこぼしながらグラスを上げた、ソクラテスににらみつけられたので、それ以上の発言は控えた。

 

「ヘルメスはこうゼウスにたずねた。『その二つの徳はつつしみを分配される者と、いましめを分配される者とに分けて分配するのですか? それとも全員がつつしみといましめを持つように分配するのですか?』ゼウスは答えた。『もちろん全員がつつしみといましめを持たなくてはいけない。それでないとポリスの秩序は成り立たない。もしこの二つの徳を持つ能力がない者がいれば、死刑に処すとお触れをゼウスの名において制定してもらいたい。』」

 

ヒッポクラテスは驚いて叫んだ「そりゃあちょっと厳しすぎますよ、つつしみやいましめといっても程度があります。プロタゴラスさんの言い方だとこいつは生意気だというだけで、死刑にされてしまいかねない。」たしかにそうだ、陽一はおぼろげな記憶を頼りに論じているだけに、このくだりはどうもおかしいと思った。でもここがポイントだったはずだ。

 

カリアスが救いの手を入れてきた。「いや、これはポリスの上に個人を置いてはならない、あくまでもポリスの団結と平和を優先すべきだという原理ですから、それをわきまえないと死刑だというのは自然のおきてにかなっています。なにも少々生意気だとすぐ死刑という意味じゃないのです。それは細目を定めるときにこれこれの程度までいったら死刑ということにすればいいわけです。」

 

陽一も一安心した。「カリアスさんの仰るとおり、ここがポイントなのだ。つまり人間は頭がよくて、いろいろ便利なものを作ったり、言葉で意思を疎通しあったりだけでは生きていけない。人間はポリスあっての存在なのだ。そしてそのポリスは、ポリスの秩序に従えないものを死刑にできる暴力装置を備えていなければ成り立たないということなのだ。つまり人間を論じるためにはポリスの暴力装置まで含めて論じなければ、人間論としては不十分だということなのだ。」

 

                    ポリスをも人と捉える人間観、個々の市民はそを構成す

 

カリアスは大感激だ、「全く全く同感です、プロタゴラスさん。ポリスも含めて、人間であり、個々の人間はその構成員だということですね。ただ個々人だけを人間とみなす人間観だけでは不十分だということでしょう。」

 

ソクラテスが発言を求めた。「人間論としてはなかなか素晴らしい。大いに勉強になりました。ところでプロタゴラスさん、徳は教えられるかどうかという肝心のテーマはどうなったのですか。」

 

「おやおや、私の話を聞いていなかったのかね、だから、つつしみといましめをいくら教え込んでも身につかないで、ポリスを破壊する連中は死刑にしろということだから、ほとんどすべての市民たちは徳を教えられているからポリスがこのように繁栄しているということなのじゃよ、ハ、ハ、ハ、ハ」プロタゴラスはソクラテスを笑い飛ばしたので、一同が大笑いになった。どうも陽一の感では、このあとソクラテスにプロタゴラスがやり込められるいやな展開が待っていそうである。そうならないために、話を終わらしたかったのだ。

 カリアスもこれ以上の議論は必要ないと考えていた。なぜならこれは彼を演じている榊周次の「人間論の穴」なのだから。このままプラトンの『プロタゴラス』に準拠していると、プロタゴラスは徳を教えられるというが、肝心の徳の中身である知恵・勇気・節制・正義などの徳の定義ができていないので、徳のなんたるかを知らないことになり、徳を知らないでは、たとえ徳が教えられるものであっても、プロタゴラスには教えられないことになると、プロタゴラスの無知を暴露されることになっているのだ。

 

カリアスが手をたたいた。「さあさあさあ、今夜はすばらしいシンポジウムだ。酒を酌み交わし、ご馳走を共にしながら、知を論じ、人間を論じる、これがシンポジウムということですからね。今夜は特別にペルシアの東の果ての向こうの国から取り寄せた酒があります。これがなかなか美味でして、皆さんに振舞わせてください。それから徳は教えられるかどうかの議論の佳境に入ることにしましょう。」

 

みんなで一斉に飲み干したが、陽一は急に眠気がさしてきて意識を失った。どうも眠り薬が仕込んであったようである。
 

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プラトン著『プロタゴラス』岩波文庫
の表紙
プロタゴラス(前490頃〜前420頃)です。軍艦一隻の建造費と同じだけの授業料をとったといいます。1万ドラクメだって言うんですが、今ならいくら位ですかね。1000万円くらいでしょうか。

ゴルギアス
何もない
あっても認識できない
認識できても伝えられない。
プロタゴラス(BC485.?〜BC415.?/BC490.?〜BC420.?)ソフィスト(知者)の元祖
「万物の尺度は人間である。」
これは人間が真理の基準という意味ではなく、真理は人それぞれという意味
だからこれは人間論ではない。
人間論はプロメテウスについての神話の形で展開した。

ソクラテス(BC470/469.不詳〜399.04.27)
「無知の知」を唱え、知ったかぶりをしている賢者やソフィストたちを「無知の知」を産む産婆術となづけた問答法で、彼らの知識が独断に基づくことを暴露して、無知を認めさせた。
賢者たちの権威を疵つけたので、市民の反感を買い、裁判にかけられて死刑になった。
ところでプラトン著『プロタゴラス』では、ソクラテスがプロタゴラスに徳は文字や数学を教えるように、教えられるものかどうか問答をしかける。徳の教師を自認しているプロタゴラスは教えられることを証明しようとして神話で説明する。
智恵の女神アテナイ―ギリシア人の民族性は主知主義
勇気の考察
「勇気とは恐るべきものと恐るべからざるものとを識別することなり」プラトン著『ラケス』より
「勇にして礼無ければ則ち乱す」(勇気も度が過ぎると乱暴なだけである)出典-『論語』
「義を見てなさざるは勇なきなり」(孔子: 『論語』・為政)
「戦場に駆け入りて討死するはいとやすき業にていかなる無下の者にてもなしえらるべし。生くべき時は生き死すべき時にのみ死するを真の勇とはいうなり」(徳川光圀)
ギリシアの四元徳―智恵・勇気・節制・正義
理性の徳である智恵で気概をコントロールすれば勇気の徳が発揮され、欲望をコントロールすれば節制の徳が発揮され、それらにより正義の徳も発揮される。(プラトン『国家』)

古代の豪邸跡
ポンペイの豪邸
シンポジウムというのは元々は美酒を飲み交わし、ご馳走を食べながら議論の華を咲かせるものだった。
下の壁画は古代ギリシャのシンポシオン
 
古代貴族サウナと 19世紀のトルコ風呂
プロメテウス火山
ここから火を盗んだのかな?
東京ディズニーシーでした。

兄プロメテウス(先立つ思考、想像力)は火の神ヘファイストスから火をアテナイの女神からは智恵を盗んだ。弟エピメテウス(後立つ思考、後悔)は獣たちに特長を与えてしまい。人にはサバイバル出来る特長を与えられなかった。一緒にいるのは最初の女パンドラである。(実はこの絵はゼウスを描いていて、エピメテウスではない。)
人間のプロメテウス=想像力が自然を真似て火の使用や智恵を学んだということ。
   
ライオンの爪           猫の牙       鳥の翼 絵ルネ・マグリット

モルモットの大繁殖

オリンポス山
2,917m
神々が棲んでいるといわれるがだれも山で神神を見かけた者はいない。プロタゴラスは神話に託して語るが、それはあくまで分かりやすくするためで、それを事実として語っているわけではない。
アーノルト・ゲーレンとその著作。人間は環境に適応できない欠陥動物であり、ホルモンバランスが壊れて近未来に絶滅するらしい。
プロメテウスがもたらしたもの
神々と同じ理性を分有―自然をコントロールする智恵
神々に似る―神を祀る宗教性―宗教的人間
音節を区切る言語―認識能力、意思の疎通、文化の元
恥じらいから衣服―寒さも防げる
家を建てる、家財道具、装飾品、家畜の飼育、穀物の栽培など
パルティノン神殿
「ベルヴェデーレのアポロン」ローマヴァチカン美術館

縄文人の衣服

竪穴式住居
人間が作り出した文明が人間を作り、人間を語る。人間が作り出した物や文明も含めて人間と捉える人間観が必要ではないか
―カリアス親父(ネオ・ヒューマニズム)
人間でないものを人間に含めるのは人間概念を混乱させるだけではないのか―上村陽一君の榊周次批判
家畜の飼育
穀物の栽培

「縛められたプロメテウス」−火と智恵を神々から盗んだのでプロメテウスは岩に縛り付けられて毎日鷲に内臓を抉られた。彼を解放したのは超人ヘラクレスである。これは内臓を抉られるほど苦しい文明による自己疎外から解放されるには超人的な努力が必要だという寓話である。絵はルーベンスが描いたもの。
アクロポリス(城山)とアゴラ(広場)を中心に人々が集まって住むシノイキスモス(集住)によってポリス(都市国家)が形成された。
「人間はポリス的動物である。全体が先、部分は後だから」アリストテレス
ポリスを作っても、わがまま勝手の人が多くてすぐにつぶれてしまう。−サバイバル(生き残り)の危機
 
主神ゼウスと使者ヘルメスの神像
「つつしみといましめの徳を身につけられない者は、ゼウスの名において死刑に処すというお触れを出せ」
ポリスに構成員を死刑にできる力があって、ポリスは成立する。
ポリスがなければ人間は滅びるので、暴力装置を持ったポリスを含めて人間を捉える必要がある。
ところで徳は教えられるのか、教えられるからポリスが成り立ち、人類は滅亡せずにいるとプロタゴラスは言いたいのである。
ソクラテスにとって証明したいのは、徳が教えられるか否かではなかったのである。