第四話 オイディプスの闇  

 

                           三叉路に気づきし時は投げ出され、己も知らず立ち尽くすかな

 

上村陽一がさそりに咬まれて倒れて意識を失ってからどれぐらい時間がたったか分からない。ほんの数秒なのか数百年、数千年たったのかも定かではない。意識が回復して立ち上がったとき三叉路に立っていた。はて自分はどの道を来たのか、そしてどの道を選ぼうとしていたのか、さっぱり分からない。その上肝心の自分自身が誰だか分からない。そういえばここに来る前に「汝自身を知れ」という標語が門に掲げてある神殿にいたような気がする。それにどこかでペロポネソス半島の真ん中の臍にあたる場所に運命を予言する陽光の神アポロン神殿があると教わったことがある。その話を聴いたときは、その神殿があったのは二千年以上前だったような気もするが、〈そりゃあそうだ実は上村 陽一は二十一世紀の初頭の日本の高校生なのだから。〉
 

                                       アポロンの神の御殿のその門に掲げし言葉「汝自身を知れ」
 

「汝自身を知れ」という標語は、伝説では紀元前七世紀に、最初の哲学者といわれたタレスが考えた標語らしい。一般には「分を知れ」という意味で受け止められている。ギリシアではポリスの団結と秩序を守ることが最も大切とされていたので、個人が傲慢から勝手気ままなことをして、ポリスの秩序を乱すことを最も悪いことだとしていたのである。

 

後にこの標語を見たソクラテスは、自然への問から自己自身への問へ転換する転機をつかんだといわれる 。しかしこの標語の作者であるタレスはコスモスを形成している根源物質つまりアルケーを探求していたのである。タレスは自然〈フィシス〉を探求していたのに、「汝自身を知れ」とはおかしいではないか、陽一は倫理の授業で榊周次に質問したことがある。榊は「それは素晴らしい質問だ」と応えた。「〈汝自身を知れ〉の答が〈アルケーは水である〉ということなのだ、それ以上は自分で考えてみなさい、どうしても分からなかったらまた質問にきなさい」というのが榊の返答だ。「はい、分かりました。考えてみます」と元気よくこたえたものの、そんな難しい哲学の問題を高校生が自分で考え付くだろうかと思った。
 

                          三叉路に迷いし我を襲いたる杖持つ人よ果つるも運命(さだめ)

 

一体俺はどうすればいいのだ。どの道を行くべきか、三叉路の真ん中で立ち往生したまま、胸が張り裂けそうになり、「ウォー、ウォー、ウォー」と孤独な獣のように咆哮した。そのあと寂寥が訪れ、不安の中で人恋しさに打ち震えていた。そこに突然、怒鳴り声がした。「無礼者!三叉路を塞ぐとは、けしからぬ奴だ。とっと道を開けろ」そう叫ぶや否や、白髪まじりの初老のいかめしい男が、一人乗りの馬車の上から、馬にあてる鞭を陽一に振り下ろしてきた。孤独の哀しみに囚われていただけに、この鞭に対する怒りは激しく燃え上がり、陽一は自分を制することはできなくなってしまった。気づいたときにはその鞭を取り上げ、思い切り、その男を鞭で打ち据えていた。すると四人も伴をしている者がいて、彼らが刀を振りかざして立ち向かってくるではないか。陽一にどうしてそんな戦闘能力があるのか不思議だったが、彼らから奪った刀で、頭と思しき男を含めて四人を切り殺していた。そして一人だけ命からがら逃げ去ったのである。この事件が運命のいたずらであったとは、陽一には気づくはずもなかった。

 

東の方角へ路を取った。エーゲ海を見たいと思ったからである。海を見ると何かいいことがあるかもしれない。エーゲ海とデルフォイの中間あたりに湖があって、その近くにテーバイというポリスがあった。テーバイに近づくと町から逃れ出てくる群集に出会った。なんでも町には怪物の呪いがかけられているという。いつその怪物の人身御供にとられるかもしれないというのである。


                          謎かけて人身御供を求めたる曲爪乙女愛を知らずや
 

テーバイの町はずれで呼び止める声がする。「さあおいで、オイディプス。わしはそなたを呼んでおる。そなたの知恵を試そうと思っての。」なんと鳥の羽を身に纏った老婆が呼んでいるではないか、「お前が噂の怪物スフィンクスだな。俺の名前はオイディプスというのか。どうして知っているのだ。」「お前の足が腫れているだろう。腫れ足はギリシア語ではオイダ・プスだからオイディプスという。お前が通りかかることはとっくの昔から分かっていたのさ。私はなにしろ魔女だからね。ウ・ヒ・ヒ・ヒ」「超気持ちワリーーーイ。知恵を試す?正解したら何かくれるのか?」陽一が言うと、「テーバイに私がかけている呪いがとけるのじゃ。そしたらお前は、テーバイの英雄としてテーバイの人々から大歓迎を受け、なんでも望みのものがもらえるだろう。」

 

「婆さんからは何ももらえないのか?」と突っ込むとスフィンクスは怒り出して「婆さんとはなんだ、わしは歳は食ってはいるが婆さんではない。未だに乙女なのじゃ」と応えた。「それは淋しいことだな、婆さん」「婆さんではない!乙女じゃ。魔法の力を得るために処女を守り通しているのじや。ほら見ろ爪も長いだろこれを曲爪と言って、魔力を強めているのじゃ」と自慢げに語った。 

 

陽一は少し語調を強めて、「せっかく魔法の力を持っても、町の人々を呪いにかけて人身御供を取るなんてとんでもない。その力を人々を幸せにするために使えばいいのに」と反撥を示した。すると「わしはポリスの連中が家庭の幸せやポリスの繁栄にふけっているのが無性に腹が立つのじゃ。やつらが不幸に喘いでいるのをみると楽しくなってくる。もっと不幸のどん底に落としてやりたいのじゃ」と言い返してくる。「そうか婆さんには言うにいえない怨みがあるのだな。しかし人それぞれに不幸はあるもので、自分だけが不幸だと思ったら大間違いだよ」と説得した。「若造のくせしてわしに説教を垂れるのか。そんなことを言って、わしに謎かけをされるのが怖いのだな」と決め付けた。

 

もし不正解だったら、人身御供だという。バルカン地方には魔女は人肉を食べるという噂があるから、食べられてしまうのだ。『論語』に「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉がある。いまテーバイの人々が苦しめられているのを見て見ぬふりはできない。「よし謎に挑戦してやろう。」

 

この地上に、二本足にして四本足にして三本足にして、
 声はただ一つなるものあり。地上空中はたまた水中に、
 生きとし生けるもののうち、ただひとり本性を変ず。
 さりながら、四本足にて行くときは、四肢の力弱くして、
 二本足、三本足のときに比ぶれば、歩みは遅し。(柳沼重剛訳)」

 

「欲せずとも 聞け 忌まわしい翼もつ死人のムーサよ、
 お前の罪業の終わりを告げるわたしの声を。
 お前がいうのは人間、地を這うときは
 腹から生まれたばかりの四つ足の赤子。
 年をとれば三本目の足の杖で身を支え、
 重い首もたげ、老いた背を曲げる。(岡道男訳)」

 

                                  テーバイを救いし故に王冠と共に得たるはかぐわしき女

                                   甘菓子の匂ひの姫はめくるめく禁断の床知る由もなし

 

これが正解だったのか、スフィンクスは断崖から身を投げて死んでしまった。オイディプスはテーバイの町で大歓迎される。ちょうど王が死んで空位だったので、お妃イオカステと婚礼をあげてもらって王位に就いてもらいたいというテーバイの人々からたっての要望だった。陽一はお妃といっても四十歳半ばなので遠慮したいと思ったが、それが黒木瞳みたいに若々しくて美しいので、二つ返事で引き受けてしまったのである。残念ながら例によって記憶を消されているので、彼女が追い求めている三輪智子だということは自覚できなかったのだが。

 

なにしろ陽一にとっては女性の柔肌にふれるのは初めての体験である。アダムであったときは数え切れないほどエバとのセックスに明け暮れていたのだが、なにしろ記憶は消されてしまっている。それにあの時はバーチャル・リアリティである。これは紛れもない現実だと思っている。これもまたバーチャル・リアリティだと分かるのはジ・エンドになってからなのだ。ともかく初めてという気持ちが強くて、体がガクガク震えるのである。三輪智子演じるイオカステは優しく微笑み、わずかに恥じらいながら、甘いチョコレートのような匂いを漂わせて身を任せてきた。その刹那、黒木瞳には似てもにつかぬオカンの顔がかすかにのぞいた気がしたのは気のせいだっただろうか。

 

その日からオイディプスとイオカステの間に二男二女を授かったというから十数年の歳月が流れた。オイディプス王はテーバイの栄えと人々の幸福のために全身全霊をつくして善政を行い、妻子を慈しんで幸せな家庭を築いていたはずである。ところが陽一にはその幸福な時期の記憶が飛んでいる。甘いチョコレートのような匂いをかいで、めくるめく快感に痺れたような気がするが、目覚めると、十数年後の朝なのである。それもその筈これは榊周次の「人間論の穴」の中なのだから。
 

                                  先王の仇を捕らえて取り除けテーバイを救ふ道ほかになし
 

テーバイの民衆がかざしのついた嘆願の小枝をもってオイディプス王の宮殿に押し寄せた。町に疫病がはやり、作物も実りを結ぶ前に枯れ、家畜まで疫病で死滅しつつあった。嘆願は神の助けか、あるいは人の教えに従ってこの危機を救ってくれるようにというものだ。オイディプスは王妃イオカステの弟クレオンにアポロン神殿に伺いを立てにいかせていた。その報せに従って正しく対処するからとなだめたのである。

 

クレオンの報せによると、イオカステの夫であったライオス王を殺害した犯人を突き止め、その犯人を追放するか、殺害しなければならないというのである。アポロンの神託によれば、その犯人はテーバイにまだいるということである。正義の裁きが行われていないと天変地異が起こり、疫病がはやるという捉え方である。先王を殺害した男なら、オイディプス王の命も狙うかもしれないので、オイディプスは自分の身を守るためにも、真犯人を突き止めてみせると決意したのだ。

 

                                   感覚で人を欺き隠れたる盲ゐてこそ見ゆまことの姿は

 

それでオイディプス王が、盲目の占師テイレシアスを召喚した。彼はアポロン神にも劣らないぐらいの占いの力で予言をし、真実を見抜くので、ライオス殺害の犯人がオイディプスだと知っているのだが、オイディプス王を罪に堕すのが忍びなくて頑として証言を拒否しようとするが、オイディプス王はその態度に業を煮やして、真実を言えぬということは、お前がライオス王殺害に絡んでいるからだろうと決め付けた。そこまで言われれば、テイレシアスも己の潔白を明かすためにも真実を告げなければならなくなり、真犯人はオイディプスだと激白してしまう。

 

盲目の占師なので、真実がみえる筈がないとオイディプス王は決め付けるが、盲目でも心の目で真実を見抜く者もいれば、目が開いていても、真実は何も見えない者もいるのである。ともかくオイディプス王は自分で呼び出しておきながら、物証を伴わない占師の言葉は受け付けない。そしてテイレシアスがライオス王殺しに一枚咬んでいるとしたら、テイレシアスを呼ぶのに功のあったクレオンが黒幕ではなかったかと疑うことになる。

 

オイディプスは一度疑うと怒りに任せてそれは確信となり、クレオンを召喚して、ライオス殺しの黒幕と決め付け、クレオンが王座を狙っていると糾弾した。クレオンは王妃の兄弟として、厚遇されて好き放題をしているのにどうしてこの上、重い責任を背負い込むことになる王座に就こうなどと望むのか、私は全くそんな気はないと突っぱねた。

 

怒りに任せて理性を失っているオイディプスをなだめて、クレオンを帰らせた王妃イオカステは、オイディプスに怒りのわけを尋ねた。オイディプスは事情を説明すると、予言など迷信にすぎないと、自分の体験を告白してオイディプス王を安心させようとしたのだ。

 

                           血を分けし子に殺さるる運命を避けむとライオスわが子殺めり

 

「ライオス王に神託が伝えられて、ライオスはライオスとイオカステの間に生まれる子によって殺される運命にあるというのです。でもライオスは自分の息子にではなく、三叉路でよその国の盗賊どもに殺されたのです。その息子も親殺しの不幸に逢わないようにと、ライオス王が両足のくるぶしを留金で刺貫いて、キタイロンの山中に棄てさせたのです。だから予言など当たるものではありません。」

 

三叉路と聞いて、激しくオイディプスは動揺した。三叉路でトラブルになり相手を殺してしまったことを思い出したのだ。イオカステに確かめると、その三叉路は場所も同じで時期もオイディプスがテーバイに凱旋する少し前で、見事に符合してしまうのである。そしてその馬車にのった老人の背格好、年齢もぴったりである。一行の人数が五人であったことまでオイディプスの体験と一致するのである。そして一人だけ逃げて帰ってきた男がいたが、その男が強盗の集団に襲われたと報告したのである。ところがオイディプスがライオスに代わって王となっているのを見ると、なぜか町から遠く離れた牧場にやってくれと嘆願したのだ。その男がライオス一行を殺したのが強盗の集団ではなく、たった一人の旅人だったと証言を翻せば、オイディプスのライオス殺しは確定する。その男の召喚を命じた。

 

ここでオイディプスが自分の身の上話をするところだが、なにしろ「榊周次の人間論の穴」なので、陽一には三叉路以前のオイディプスの記憶がないのだ。これは困った、しかしコリントスからの使者がやってきた、彼になんとか辻褄を合わせてもらうことにしよう。

 

                                父殺し、母子相姦の予言避け離れし人は赤の他人ぞ

 

 「コリントスの王ポリュボス様がお隠れになりました。ご遺言によりオイディプス様をコリントスの王に奉戴いたすことに決定いたしました」と使者はオイディプスを懐かしそうに眺めながら報告した。「ポリュボス様がお隠れになった、それはご愁傷様です。ご病気でなくなられたのですか、それとも何か別の原因ですか。」「ええちょっとした風邪をこじらせて、なにしろもうお歳がお歳ですから」

 

「ところでどうしてポリュボス王は私に王位を継承されたのだ?」オイディプス王の質問に使者は怪訝な表情で答えた。「オイディプス様はポリュボス王のたった一人お子様ではありませんか。」「ではどうして私は王位継承者の身でありながら、ポリスを棄てたのだ。」使者は狐につままれたような顔をしている。「オイディプス様は、自分がポリュボス様の実子でないという噂を気にされて、アポロンの神にその真偽を確かめられたら、神託は直接そのことには触れず、オイディプス様が父を殺し、母とまぐわって不義の子をもたれる忌まわしい運命にあることを告げたのです。それでコリントスにいれば父を殺し、母とまぐわうことになると恐れられ、ポリスを棄てられ、二度と親の顔は見ないと決心されたのです。」

 イオカステに耳打ちした。「私はコリントスの王ポリュボスの子供で、父殺し、母子相姦を予言されたが、その父は私に殺されたのではなく、老衰で亡くなられたということだ、予言は当たっていないぞ。」「だから私がお気になさらないでよろしいと申し上げているでしょう。」

 

「それでは早速、一日も早いコリントスへのご帰還を…」オイディプス王はためらった「まだ母上が生きておられるのだから、母子相姦の予言がある限り、とても帰還はできません。」イオカステ「予言というものがいかにいい加減か分かったのだから、ご心配は無用なのでは。」使者は苦笑して言った。「ハ、ハ、ハ、その心配はご無用です。だってオイディプス様はポリュボス王とその妃ドリス出身のメロペ様の実子ではありませんから。」オイディプス王の胸に暗い影がよぎった。「どうして分かったのか」と使者に尋ねた。「ポリュボス夫妻にはお子様がおられないので、大変かわいがられ、ひがまないように実子として育てられ、そのことに関しては事情を知る者には緘口令を敷かれていたです。」

 

イオカステが口を挟んだ。「それをどうしてあなたはご存知なのですか?」「実は私がキタイロンの山で棄てられていた赤子を救った牧場番が、もてあましていたので、その人から貰い受け、ポリュボス様にさしあげたのです。お可哀想にその子はくるぶしを留め金で刺し貫かれて結ばれていたのです。私が抜いてさしあげました。オイディプスの名前はそこから由来するのです。」

 

この証言はイオカステの子棄ての話と符号する。しかもその牧場番はライオス家に仕えていたというではないか。早速牧場番が召喚された。イオカステはこのときはっきりと自分たちが棄てた子が、自分の夫を殺し、自分の夫となっていたことを知り、そのことをオイディプスに知られまいと、詮議を止めようとした。しかしオイディプスは自分が無慈悲に棄てられた卑しい身分の子であることが分かるのを妻が嫌がっていると思った。まさか貴い身分の子ならそんなひどい仕打ちをうけないはずである。 きっと奴隷の子だったと考えたのである。

 

牧場番は使者から当時の事情を質され、オイディプスから真相を白状するように迫られて、ついにライオス王の子を預かり、殺して山に棄てるように命令されたことを告白した。神託によってその子が父を殺し母子相姦をする忌まわしい運命にあるために、その不幸から逃れさせるには殺すしかないからということだ。だが牧場番はとても赤子を殺すことはできない、ためらっているところを羊飼い仲間が他国に連れていくというので、それなら父を殺す心配はないと思い、憐れみから渡したという。「なんと運命を逃れさせるためにしたことが、運命を叶えさせることになろうとは。ああ、私はあのとき、三叉路でライオス様が、そうとは知らず、自らが棄てたお子様の手にかかって討たれたとき、わたしも一緒に死んでおけばよかったのだ、そうすればこんな悲劇の結末に立ち会わずに済んだものを」と牧場番は叫んだ。

 

                  順逆の床に横たふイオカステ吾が妻にして母なる女よ
 

陽一はうろたえた。ウワー、俺はすごい悲劇のヒロインだ、じゃなくてヒーローだ。父を殺し、母とまぐわって不義の子をつくってしまった。その裁きを我と我が身に下さなければならない。ここでヤバイといって逃げ出したら最悪だ。かといって腹をかっさばくのもグロテスクだ。ともかく館に引っ込もう。なんと館の中ではイオカステが首を括って死んでいた。その骸を抱き寄せ、「おお、痛ましい姿、吾が母にして妻なるイオカステよ。お前は吾が子の母にして妻にして祖母なのか、そして吾は吾が子に対して父にして兄にして祖父である。ああ、なんとわれわれは時の流れに逆らって、命の順序をあべこべにするとてつもない罪を犯してしまったことか。それは死すべき運命の人間が犯してはならない罪なのだ。」
 

                      真実を見れぬ眼(まなこ)はくりぬきてひたすらに観よ「オイディプスの闇」
 

オイディプスはイオカステが正視できなくなり、イオカステを順逆のベッドに横たえて、決意したように言った。「おお、真実を何一つ見ることができなかった眼よ、これ以上痛ましい光景を見なくて済むように抉り出しておこう」と叫ぶや、妻の衣服から留金を抜き取り、それで自分の両の眼を何度も突き刺した。

 

オイディプスは、クレオンに国政をゆだね、罪に穢れた吾が身をテーバイから追放するよう、クレオンに願った。クレオンはたっての願いを聴きいれるしかなかった。「スフィンクスの謎を解いたあなたが、どうしてこんなむごい運命に生きなければならないのか、まことに理不尽だ」と同情した。オイディプスはうなずいてこたえた。「今となって考えてみると、あの解答は果たして正解だったのか、疑問だ。」「二本足にして四本足にして三本足にして、というのに成人、赤子、老人を当てはめて見事人間と答えたのでしょう。実に見事な解答だ。」「実はあの時俺は<人間>と答えたつもりで自分を指差した。するとスフィンクスはうろたえて、崖から飛び降りたのだ。」「すると正解は人間ではなくてオイディプス王だということですか。よく分かりません。」

 

「人間は二本足にして四本足にして三本足にしてというように、同時に成人、赤子、老人を生きることはない。ところが人間の道を踏み外すことによって、成人でありながら、赤子と兄弟になり、母と相姦して老人と同じ世代になった。つまりオイディプスは同時に時の掟に逆らって三世代を同時に生きる謎的存在になってしまったのだ。」

 

クレオンはたたみかけた「それではスフィンクスはあらかじめ、あなたがそうなることを知っていたのですか。でも知っているとしたら、崖から飛び降りることもなかったわけだ。」オイディプスは少し考えて言った。「アポロンの神のなさることをすべて知ることはできない。スフィンクスの呪いも運命が貫かれるための道具立てなのだ。」

 

クレオンは天を仰いだ。「ああ、無慈悲なる運命の神よ、あなたはオイディプス王をもてあそんで、人間はどんなに逆らっても運命には従うしかないことを示されたのか。ならば、かくも悲惨な運命に見舞われた方は何を支えに生きていけばいいというのか、それはあまりに不均衡だ。天秤をもっていつもバランスに心を砕いておられる正義の神デュケーにあまりに失礼ではないのか。」

 

 盲目の占師テイレシアスが現れて、クレオンに語った。「神々に不平を言っても詮無いことだ。たとえ目が開いていても真実は見えないものだ。しかし目が見えなくても真実が見えることもあるのだ。今オイディプス王に見えるのは闇でしかないかもしれない。しかしその闇は、自らの運命に雄雄しく立ち向かって、己自身を見据えておられる尊い闇だ。人間の道を踏み外してはじめて到達した闇なのだ。神々ですら決して侵すことができない神聖なものなのだ。絶対に侵すことのできない闇に到達されたことで、本当のご自分を見出されたのだ。たしかに不幸にかけてはもっとも惨めな境遇だとしても、その神聖さによって、正義の神のバランスは十分とれているのだ。オイディプス王の御名は何千年後の世まで語り継がれるに違いない。」

 

 「ありがとう、テイレシアス。あなたには愚かにも疑いをかけてしまって、本当に恥ずかしい。そのあなたにこんな優しい言葉で励ましていただけるとは。あなたの言葉を生きる支えにして、心の闇を見つめながら生きていけそうな気がする。」オイディプスは歩きはじめた。そして突然明るい表情をして、「そうだ、分かったぞ、オイディプスという名の本当の意味を。<オイダ>は<私は知る>という意味だ。そして<プス>は<足>だから足がわたしの特徴になっているので、オイディプスは<私は自分を知る>という意味なのだ。私は<汝自身を知れ>というアポロンの神の呼びかけにこたえて、何者にも侵されない主体としての自分自身を、自分自身の闇を知ることができたのだ。そしてアポロンの神は、人間に主体としての自己を確立しようとするところに、人間としての尊厳を見出せと教えているのだ。」

 

 上村 陽一は、あてもなく闇の中を歩き続けた。そして突然奈落に落ちていったのである。

 

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◇◇◇「オイディプスの闇」◇◇◇

古代ギリシア地図

デルフォイのアポロン神殿跡


グノーティセァウトン(汝自身を知れ)とギリシャ文字で刻まれたレリーフ
タレス(紀元前7世紀末から6世紀の前半)の肖像(汝自身を知れ)はタレスの言葉とも言われる。アルケーは水だとした。世界最初の哲学者
ダウリアの三叉路 
(スキステー・ホドス)引き裂かれた(スキステー)河床道(オドス:古語)


バルカンの魔女の宴

女優黒木瞳さん
パゾリーニの映画
『アポロンの地獄』より

蜷川幸雄演出
野村萬斎主演
イオカステは麻実れい

チョコレートのような匂いをかいで
目覚めると
十数年後の朝

神託を受けるアポロン神殿の巫女   
盲目の占い師テイレシアス、右下オデュッセウス

アポロン神殿の復元像

コリントス遺跡

イオカステは知らなかったとはいえ、母子相姦で不義の子を生んでいたと知り、首を括って死んだ。
オイディプスは妻の衣服の留金で自分の両の目を何度も突き刺した。
平幹二郎と鳳蘭の配役