第三話 エデンの園の人間論

 

                 土の塵神の姿に作られき命の息得てアダム生まれぬ
 

陽一の遺骸は砂漠に捨てられ砂嵐にあって埋まってしまった。それからどれだけ時が過ぎ去ったか、死んでいる筈の陽一には分かるすべもない。砂の中で体は分解して土に返った。陽一は湿り気を感じ、また元の身体に戻っていった、そして風が吹いてきて意識が甦った。陽一の父が手をとって起こした。「お父さんどうしてここにいるの」と言いたかったが、声がでない。父は言った、「素晴らしい、俺にそっくりだ。土(アダマ)の塵でつくったからアダムと名づけよう。」そして父はアダムを「エデンの園」に連れて行った。

 

                           中央の命と知恵の二つ木の実にふれまじき命惜しくば

 

エデンの園は地上における神のエリアと考えていいのかもしれない。エデンの園にはたくさんの種類の木が茂り、それぞれの木には緑の葉が生い茂り、花が咲き、実をつけているものもたくさんある。園の中央に命の木と善悪の知識の木があった。この二つ木こそが神の実体だと捉えることもできる。つまり「生命」と「ロゴス(論理)」が神の二大要素なのである。「この二つの木からは木の実をとって食べてはいけない。食べたら死んでしまうよ。他の木ならいくらとってもいいからね。」神に触れたら死ぬという発想である。アダムと呼ばれている陽一は、「はい、分かりました、ありがとう」と言おうとするのだが、言葉にならない。「あーあー」とおらんでいるだけだった。父の姿をした神は「話したがっているね、話せるようにしてあげよう」と言うと、話せるようになった。その代わり陽一の記憶は消されてしまっていた。

 

                            慰めに作られし獣アダム見て名口ずさめりな心のままに

 

エデンの園にはアダム以外の獣はいなかった。アダムは寂しそうにしていたので、神は鳥や獣を作ってアダムのところに連れてきた。いい相棒になるだろうと考えたのだ。アダムはそれらの姿や特徴から次々と名づけを行った。まあ犬を見て、ワンワン、キリンを見てのっぽさんというようなもので幼児語のようなものだ。それを父なる神は大変喜ばれた。どうも神は天使たちにアダムを自慢し、アダムの方が天使より尊いと言い出したらしい。それで天使の中でイブリースのように神に逆らうものも出たという話があるが、それはイスラムの『クルアーン』の世界である。

 

                            神に似し人は支配を任されぬ欲に駆られて命絶やすな

 

神はアダムが自分に似ていることと、名づけを行い言語能力があるということで、地上の支配権を与えるとアダムに言った。人はこうして後にエデンの園を追放されてからだが、自分が地上を好きなように支配していいのだと思い込み、森の木を気ままに伐採したり、森を耕地にするために焼き払ったりしたのである。また獣が絶滅するまで狩をしたりしても平気になったのだ。陽一はアダムになりきっていたから、この傲慢が人間と自然の断絶につながり、大いなる生命を見失うことについての問題意識はまるでなかった。

 

                             吾が骨のうちより出し女(ひと)ならば吾に帰れや吾が骨の骨

 

獣の中に人の助手になるようないい相棒は見当たらなかった。アダムは獣たちを見下していたのだ。あくまで人間に危害を加えるか、役に立つか、慰め物になるかの自己中心の捉え方しかできない。そこで父なる神は、アダムを眠らせてそのあばら骨を一本とって女を作られた。

 

自分の骨から作られた女は、自分の体の一部のようにいとおしかった。この世に自分にとって自分自身のように思えるものは何もいない。はげしい孤独感に囚われていただけに、女を授かった喜びはひとしおだった。「ついにこれこそ私の骨の骨。私の肉の肉。男から作られたので、男からつまり女と呼ぼう。」男はイシュなので、女は男からつまりイシューなのだ。もっともこれはヘブライ語の話だが。アダムは女に対して、自分から生まれてきた自分の子供のような意識を持っていた。もちろん最初の人だから妻と娘の区別ができるわけがないが。

 

元々、男女の性欲には一つの体から分かれたもの同士が、一つに戻ろうとして合体したい気持ちがあるのだ。だから近親相姦が異常なように考えるのは性の根源を考える限り的を得ていない。最初の男にとって最初の女は自分の肉体から生まれた娘でもあるのだから。つまりアダム・エバコンプレックスで父と娘の間の潜在的な性衝動が説明できるのだ。

 

このイシューがエバと呼ばれるのは、彼女が子供を生むからである。エバというのは「命」という意味なのだ。実はこのエバに扮しているのが、このファンタジーでは智子なのだ。陽一はついに自分が追い求めていた智子を得たのである。しかし自分が陽一であることも、相手がクラスメートの智子であることも思い出せない。でも抑えきれない心の底からの熱い熱い思いがエバになっている智子へと注がれたのである。

 

                             アンニュイのエデンの園の昼下がり行き場失いとぐろ巻く蛇

 

エデンの園は時間が止まっているようなものだ。常に食料は豊富で、天敵もいない、野菜や草花の栽培はしていたらしいが、主食は果物である。いくらでも食べ放題だ。何の苦労もなく、勤労の意識もなく、のんびり暮らしていたのである。アダムとエバは夫婦として充実した性生活を送っていたけれど、やがて倦怠が訪れる。エデンの園ではすべてが同じことの繰り返しだ。果物も食べ飽きてしまった。

 

なまけものという猿は、アマゾンの豊な自然と天敵のいない陽気暮らしでのんびりしていて、極めてスローモーションな動きをしている。お陰でエネルギーを消費しないので、欲望を最小限にして幸福に暮らしているらしい。ところがアダムとエバは言語を持ち、想像力を働かせることができるので、欲望を肥大化させる。でもエデンの園は全く変化がない。だから二人の欲望は行き場がなくなって、欲望が二人の体から外に出て対象化され蛇の形をとったのである。

 

一応神によって造られた野の生き物には入っているが、蛇がどうして生まれたのか『創世記』では分からない。おそらくエデンの園に迷い込んだ蛇は、二人のフラストレーションの空気に当てられて、欲望の権化になったのかもしれない。蛇は獣なのに二人に話しかけているが、それは蛇だけずば抜けて賢いということだ。それで思い当たるのが、禁断の善悪を知る知恵の木である。その木の実を蛇はお先にいただいているのだ。神は蛇が迷い込んだのを気づかなかったので、蛇に禁断の木の実の説明はしていないから、禁止されているとは知らずに食べてしまったのである。それで急に賢くなってしまったらしい。ところが女に聞くとどうも園の中央の木は食べたら死ぬぞといわれていたらしいのである。ところが蛇は食べて確かに賢くはなったけれど、ぴんぴんしている。

 

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」と蛇は女に教えたのである。これは嘘をついたのでも誘惑したのでもない、自分の体験を教えただけである。この蛇と女の対話を捉えて、女は蛇に性的に誘惑されたと見るものもいるが、蛇の方から一方的に誘惑したとする根拠は全くない。女の方から初な蛇を誘ったとも考えられるのだ。だとすると蛇とサタンを同一視するなどもってのほかである。

 

蛇は元々アダムとエバの欲望がアンニュイの中で生き物の姿をとったもので、アダムとエバ自身の欲望の化身なのだ。それはうがった見方にしても、蛇の方が二人より先に生まれたとする根拠はない。楽園に迷い込んだ蛇を退屈していた二人が遊び仲間にしたとも解釈できる。当時はまだ夫婦観念やそれに伴う貞操観念などは全くなかったのだから、仲良くなればくっついたり離れたりすることになる。もちろん嫉妬感情もなかっただろう。ただ蛇はいったんまぐわうと何日も離れないというから、アダムが怒り出したかもしれない。

 それにアダムといっても「人間論の穴」の上村 陽一だし、相手のエバは彼が追ってきた三輪智子である。そしてなんと蛇に扮しているのはあの榊周次なのだ。だから無意識のうちに蛇をライバル視し、疎ましく思う気持ちが昂じてきて時々機嫌を悪くし蛇を冷たくあしらうようになる。するとエバである智子は、アダムのそういう態度が気に入らないので、余計に蛇に優しくしようとする。それで陽一は蛇とあまり口を聴かなくなったのだ。

 

すべては楽園の午後である。蛇が善悪の知恵の木の実を食べて、賢くなり、仲間入りをして、食べても死なないと教えた。それで神から禁じられていた木の実を食べてみたいという衝動が抑え切れなくなったのだ。まだ食べたことのない知恵の木の実、どんなにおいしいだろう、それに自分で物事の善悪を判断できる力ができるというのだ。これまでは、ただ与えられたものを食べ、神の言われるままに行動すればそれでよかったのだけれど、善悪を知ると、自分が何をなすべきか判断でき、自分から、自分の意思で行動できるのだという。まったく新しい存在に生まれ変わるのだ。だからそのためにたとえ死ぬようなことがあっても、木の実を食べてみたいという思いが膨らんでくる 。それは胸が苦しくなるほどである。それに死ぬぞという神の脅迫は、それほど効き目がなかったのかもしれない。何しろまだだれも死んだものがいないので、死という観念すら理解できなかったのだ。

 

女の方が新しいもの珍しいものへの好奇心は強く、変身したいという願望が強いのかもしれない。「この木の実が言ってるわ。『私を食べて、とても甘くておいしわよ。あら何を恐れてるの、賢くなりたくないのかしら』て、もう我慢できない。」女が取ってアダムにも与えた。そしてさっさと食べ、アダムにも勧めた。「ウーン、とっても甘くておいしいわ。大丈夫よ、どうして食べないの。」そういわれると食べないのは臆病者みたいである。アダムにしても新しい味への好奇心は爆発しそうなくらい膨らんだ風船球みたいなものだったので、食べずにはおれなくなって食べてしまった。

 

                             善悪の知恵の木の実を口にして覆い隠せリ裸の恥じらい

 

さて二人は賢くなって、物事の判断がつくようになった。これを「目が開いた」と「創世記」では書いているが、もちろんそれ以前は盲目だったわけではない。道徳的に物事をみる目が開いたということなのである。その最初のことが裸の恥じらいだ。他の動物の場合は、雌の発情が醸し出すフェロモンに刺激されて雄も発情する。だからごく限られた時間である。ところが人間の場合は、女の発情と無関係に男は発情するので、女がその気になってないときも男のものがしょっちゅう勃起していかにも目障りになる。それでイチジクの葉をつけて隠してくれと女が要求したのだろう。

 

「あら、またおっ起てて、いちいち相手になってられないわ、目障りだからしまっといてよ。しまうところがないのなら、イチジクの葉っぱでもつけて隠しておいて。」売り言葉に買い言葉である。「おまえのが露出してるから、つい誘われているような気になって、勝手に膨らんでしまうんだよ。お前の方こそ、イチジクの葉っぱをつけて隠しておきなさい。」
 

ともかく神から与えられたものでない最初のタブーが性的なものであったということは、人間の本質にとって性的なことが非常に大きなウエイトを占めているということを意味している。神に禁断の木の実を食べたことが露見してしまったのも、裸が恥ずかしかったからである。神がエデンの園を歩いているのを察知して二人は隠れた。「どこにいるのだ」とたずねられて、アダムは「神の足音がするので、恐ろしくなって隠れています。だって、私は裸ですから。」神は怪訝な表情になって「お前が裸だと誰かに言われたのか。それとも取って食べてはいけないといっておいた木の実を食べてしまったのか」と詰問した。これで万事休すである。

 

神に従うか従わないか、神との約束を守るか守らないか、それが最大の基準である。だから最も重大なことは木の実を食べたかどうかではないのだ。神の命令に背いたことが罪なのである。そしてそれは最も重い罪を犯したことになる。その際神の側の管理責任とか注意義務を果たしていなかったとか、二人を倦怠から罪に堕ちやすい状況においていたとか、そういうことは一切考慮されない。あくまでも神は裁く側にあり、裁かれる側ではないのである。

 

                              食べないと遊んでやらぬと言われしか女がなどとふるはあさまし

 

こういう場合つい言い訳をしたくなる。責任転嫁をしてできるだけ自分の罪を軽くしてもらいたいなるものだ。しかしそれはかえって見苦しい。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」こんな言い訳してもいいわけ。これは典型的な責任転嫁で政治家が収賄の疑いをかけられたときに、「妻が」とか「秘書が」とかわそうとするのと同じである。何も食べなければもう遊んでやらないと言われたわけでもない。自分が食べたかったから食べたのである。己が罪を犯していながら、それを女のせいにするのは全くもって恥知らずである。

 

しかし〈取ったのは女で、私ではない〉という理屈は通るだろうか、細切れに事実の流れをみるとそう解釈できないこともない。しかしこれも却下である。牛肉を好んで食べている人が、〈牛を殺した屠殺業者であって自分ではない〉と牛殺しを否認するのと同じである。あるいは紙や木材を大量に使っている日本人が東南アジアの熱帯雨林の破壊の進行に対して、〈自分は木を伐採したことがない〉というのと同じである。人間の行為というものは、つながっていて肉を食べることは牛を殺すことにも関わっているのである。だから木の実を食べたら木の実を取ったことにも共犯なのである。

 

女も同様の責任転嫁をする。「蛇がだましたので食べてしまいました。」蛇の名誉のために重ねて言おう、蛇はだましていない。というより蛇がだましたという根拠は『創世記』に何も書かれていない。蛇は何も罪に当たるようなこともしていないのである。禁断の木の実であることも知らされていなかった。だから罪刑法定主義の原則から言えば、蛇の罪は問えない。後にハムラビ法典では法は文字で示されたが、それ以前は法で罪を問うには周知させる作業が必要である。

 

                       何ゆえにサタンの化身に落とされし、神なりし石のライバル蛇にあらずや

 

だから蛇にはいいわけも抗弁もさせずに蛇からいきなり実刑判決だ。よほど神は蛇には怨みがあるらしい。というのがフェティシズムつまり物神信仰では蛇は石とならんでフェティシュの代表格なのである。神は絶対的存在であり、あらゆる相対的な事物とは絶対的に自分を区別しているから、物質的存在ではありえないとする超越神論はフェティシズムを最も敵視していたのだ。だから、蛇はどうしても悪者にされてしまう。それにヘブライズムもかつてはフェティシズムだった。元々ヤハウェは火山や石だったといわれている。つまり有力なライバルだったわけだ。
 

「お前はあらゆる家畜や獣の中で一番の呪われものだ。お前は生涯這いずり廻って塵を食らえ。蛇と女は互いに敵意を抱くのだ。女はお前を毛嫌いして、お前の頭を砕こうとし、お前は女のかかとにかみつこうとするようになる 。」神はこう判決したそうだ。蛇は抗弁しようとしたけれど、神から姿を変えられ、声がでなくなってしまったという。縄のような姿になり、地を這いまわるしかできなくなったのだ。でも蛇にすればこの解釈には異議が有るだろう。だって蛇は地面を這い廻ったり、塵を食べるためにあんな姿に進化したのである。それを罪に対して与えた神の罰のように言われたのだから、名誉毀損である。

 

次に女に判決が下る「お前の孕みの苦しみを大きくしてやろう。お前は苦しんで子を産むのだ。お前は男を求め、男は女を支配する。」この『創世記』の言葉はその後の男による女支配を宗教の権威の下で正当化する大きな役割を果たしている。まさしく神の命令に率先して背いた報いで、女はお産でも苦しみ、男に支配される定めだということになってしまった。ユダヤ教やキリスト教を信仰している限り、性差別には聖典の上では反対できないことになるのだ。もちろん近代になって男女平等になれば、「創世記」もその時代の社会的制約の下で書かれたものだから、必ずしも現代人はそのまま信仰することはないということにはなっているが。ともかく『バイブル』は男が書いたものである。それを女にも信仰させているわけだ。アダムになっている陽一は、陽一であることを意識的にはすっかり忘れていたのに、ふと宗教が性差別をイデオロギー面で果たしている役割が大であることを実感した。

                               労働は罪の報いか禁断の苦役は続けり塵となるまで

 

いよいよ男アダムへの判決である。男への判決ということは女は男の添え物のような意識で書かれているので、人間への判決である。これがヘブライズムの人間観の核心といわれているところだ。「お前は女の声に従い、とって食べるなと命じた木から食べた。お前の故に土は呪われるものになった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで、お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

 「雌鳥が鳴いたら国が滅びる」というのは古代中国の格言だが、女は感情の動物であり、理性的な判断が苦手である。女の言うとおりにすると情実で物事が決められるので、君主は寵愛している女に政治に口出しをさせてはならないということことわざである。女性が理性面で活躍できないような地位に差別しておいて、女性は感情的だという言い方である。ともかく「原始女性は太陽であった」のだが、歴史時代に入って女は半人前で感情の動物で、男に支配されなければならないことになってしまったのである。

 

人が神の命令に背いたので土は呪われたという。神に背く罪によって災いが起きる。天変地異が起こるのである。土も呪われて雑草ばかり生えて、小麦や野菜などが実らないのだ。道徳的な人の行いと自然現象を結びつける。『新約聖書』になると罪がはびこると悪霊が活躍し、それが原因で疫病がはやったりする。つまり神に従っていれば豊な自然の実りがあまり労せずしてもたらされるのだけれど、神に背いて罪に堕ちれば、苦労して働かなければならない。それも一生死ぬまで働きずくめに働いても貧しい暮らしから脱却できないのである。それは貧しくて苦労しているのは本人の罪のせいだといっているようにも受け取れる。逆に豊で楽をしているのは神に従っているからなのか。

 

早とちりして『バイブル』を単純な勧善懲悪や神に従えば救われるというだけの単細胞的な書物と考えてはならない。いくら神に忠実でも一生報われない者もいれば、ひどい罪を犯しても死ぬまで栄華を極める手合いもいるのである。それでも神を信じ、神に従いなさいと説くのが『バイブル』なのである。

 

ともかく労働は罪の報いとして捉えられている。終身懲役刑のようなものである。近代西洋の人間論で労働本質論があるが、それが労働を人の罪に対して課す神の与えた懲役刑だという暗い労働観と結びつくと、人間は罪を犯したために、死ぬまで懲役を科せられている囚人だということになりかねない。

 

労働を苦役と捉えることによって、その犠牲によって作り出された生産物やサービスを手に入れようとするなら、それと同等の苦役を提供してそれに報いなければならないことになる。その犠牲の量が価値なのである。等量の価値が交換される物には含まれていることになる。それが商品交換の論理である。共同体を超えて交易が広がっていくのは商品交換を通してであるから、文明の基礎をなしているともいえる。

 

もちろん労働には苦役の面だけではない。予め構想していたイデア(理念)に従って物を作り出すという、理念の自己実現という意味がある。これは自己の能力の発現なのだから、苦労を伴うとしても、とても楽しいことのはずである。それに目的意識的に対象を変革する労働は、人間の特長だといわれている。他の動物の活動は、生理的に慣習化した適応行動にとどまるのだ。それだけに労働は人間の本領発揮として、人間の第一の欲求だという捉え方もできる。だから「創世記」の苦役的労働観だけでは一面的である。

 

                              労働は自然に還る勤行か吹く秋風に胸を突き出す

 

アダムはエデンの東に追放され、そこで土と格闘して働きづめに働いた。しかし作物はなかなか実らず、一日のパンを得ることの困難を全身で感じ取っていた。来る日も来る日も土に向かっていた。始めの何年かは苦役としか感じられなかったが、そうした土との格闘が彼自身の肉体に浸み込んで、そうしていることが当たり前になり、それを苦痛として厭う自己が希薄になっていった。むしろ彼の意識は大地自身の意識となり、種から芽を吹き、葉を出し、花と咲き、実を結ぶ麦それ自身と同化したのだ。枯れて大地にかえると、秋風の吹く大地自身の意識に帰っていた。

 

「塵に過ぎないお前は塵に返る」というのは実はそういう意味なのかもしれない。アダムは神にその言葉を言われたとき、人は元々土なのだから、死んだら土に返ってそれでおしまいだという意味だと思っていた。そういう意味もあるにしても、人間は土との格闘によって、土を人間のものにし、花咲かせ実を実らせる。そして花咲かせ実を実らせた土を自分自身として捉え返すこともできるのである。この土との対立を乗り越えて土と一体化するための労苦が宗教的な勤行としての労働なのである。エデンの東に追放されたのは、罪の報いとしての罰であるが、人間は罪を犯し、その罰を受けることで、自己を狭い主観性から解放して、大いなる生命に目覚めることができる存在なのである。

 

長い時間がこの勤行には必要である。榊周次は一年、十年、百年という時間の長さを人間論の穴に落ち込んだアスリートにほんの数秒で体感させるという技術を開発しなければならないのだが、それはなかなか難しい。上村 陽一は土にまみれて苦しみぬいたあげく、一面の麦を実ったのを見て歓声を挙げて三輪智子と踊りだした。蛇になり今は縄みたいにされていた蛇の榊周次も、鎌首をもたげて、踊っていた。そのとき陽一はさそりを踏んづけてしまい。さそりの反撃にあって地面に倒れたのである。

 

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「エデンの園の人間論」ノート

『バイブル』グーテンベルグ聖書
これも「最古が最高」の好例
活版金属印刷では最古のものだが文字の美しさにおいては最高だといわれて骨董価値が高い。

『クルアーン』−ムハンマドの言行録で、アラビア語で書かれたものだけが聖典とされている。

『クルアーン』には、堕天使イブリースがアダムを跪拝することを拒んだので、アダムに天使にもできない名づけ能力を披露させる話がある。イブリースは神に滅ぼされかかるが、最後の日までにゲヘナを罪びとで満杯になるぐらい人間共を誘惑するので刑の執行を神に猶予してもらうことになる。

人間は神の似姿に作られた。
しかし神は唯一絶対の超越神なので、自然物のような姿かたちはない、見えざる神のはずだから似姿というのは比喩的表現である。
つまり神と同じ理性を持っているので、神に似ているとされるという解釈も成り立つ。

人間の自然支配権も神の似姿から説明される。
神に理性的な管理を任されているのであって、自然を身勝手に支配して破壊してもいいということではない。

ミケランジェロ「楽園追放」(1508-12年、システィーナ礼拝堂)

蛇に誘惑され罪に堕ちようとしている場面、この右側に楽園を追放される姿が描かれている。

イブリース

ミケランジェロ作 「アダムの創造」−主なる神は、土(アダマ)の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。

神はアダムのあばら骨からエヴァを創造された。

アダム・エヴァコンプレックス―。「ついにこれこそ私の骨の骨。私の肉の肉。男から作られたので、男からつまり女と呼ぼう。」
アダムの骨から作られたので、エヴァはアダムの妻であると共に娘でもある。

娘の潜在意識における父にたいする性欲というのをユンクはエレクトラコンプレックスと名づけているが、父の娘に対する潜在的性欲には触れていない。

このアダム・エヴァコンプレックスは相互的な潜在的性欲について説明がつくのでより有効である。というのは実際に社会問題にまでなっているのは、父親が実の娘に対してセクハラを行う事例である。

バーレーンの生命の木

善悪の智恵の木

仏教の密教では胎蔵界と金剛界の両界曼荼羅でコスモスを表現するが、胎蔵界は生命を金剛界は論理および智恵を表現している。これはあるいは『バイブル』の「生命の木」と「善悪の智恵の木」の影響かもしれない。
  
蛇のまぐわい    蛇はアダムとエヴァの欲望の自己疎外かもしれない。
  
なまけもの  アンニュイ(倦怠)な気分

「ゲントの祭壇画」より「エヴァ」  脚には彼女を誘惑した蛇が絡みついている。

 善悪を知る智恵がついたとき初めて気付いたのが、裸であることを恥ずかしいと思うことである。性的羞恥心が最初ということは、それだけ人が好色性を本質にする性的人間であるということである。
 それで性器を隠したのがイチジクの葉である。いわばこれがパンツの元祖。それで栗本慎一郎は人間を『パンツをはいた猿』(光文社、1981年)とした。

栗本によるとなんでパンツをはくのか、それは脱ぐためである。

元々余剰なものを身につけて、それを時が来たら蕩尽するのが人間の本質であるという。これは余剰蕩尽論といい、カール・ポランニーの学説らしい。

最初の審判
女「蛇がだましたので、食べてしまいました。」―蛇は姿を変えられる、女と敵になる。
女は孕みの苦しみを大きくされ、男に支配される。
男「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
責任転嫁の典型―「秘書が、妻が」という政治家の言い訳と同じ。

蛇は無実―蛇は禁じられていない。死ななかったのは事実。善悪を知るものになるというのも嘘ではないので騙していない。

何故蛇は悪役なのか?−昔、フェティシズム(物神崇拝)の時代にヤハウェは聖石信仰だった。フェティシズムは石信仰と蛇信仰が代表的だったので、ライバル関係だったかもしれない、それで蛇には対抗意識があったのかもしれない。

大和でも三輪山は蛇信仰、飛鳥の飛鳥板蓋宮は石がふんだんに使われており石信仰が窺える。

一般には蛇は欲望の象徴とされ、欲望自体が罪深いとされ、禁欲的な道徳になる。

男への判決、「土は呪われる」―アダムは土から生まれたので、アダムの罪を土が負うことになる。―環境問題に示唆に富む。人間は自然の一部、自然を破壊するのは自分の首を絞めることになる。―自己疎外の一種

「額に汗を流してパンを得る」―労働は罰、終身懲役刑―労働価値説は労働を自己犠牲として捉えるところに根拠を持つ。
労働は苦役と共に、仕事としては自己実現という肯定的な意味を持つ
マルクス『資本論』労働の二重性―具体的有用労働と抽象的人間労働
価値を生むのは後者の面。

勤行としての労働―自我の滅却、自然との一体化、麦の意識、大地の意識になる。「塵に過ぎないお前は塵に帰る」は死の意味だけではなく、自然との一体化の意味もあるかもしれない。

麦の大豊作昭和14年(1939)5月岩倉長谷。