青年マルクスの人間観をめぐって2

    

        『フォイエルバッハ・テーゼ』

 

                 遅れたる意識変えなば新しき世は来たれるかゲルマンの地に

 

 十五分程休憩をとってまた白熱の研究会が再開である。司会の寺田が再開を宣言した。「『フォイエルバッハ・テーゼ』の検討を通して、マルクス人間観に根本的な転換があったかなかったかという問題を中心において議論していきたいと思いますが、異議はありませんか?」特に発言はなかったので、「異議なしと認めて議論を進めたいと思います。ではそもそも『フォイエルバッハ・テーゼ』とは何かについて北野大蔵さんから説明願いましょうか。」
 

 「人間学的唯物論の哲学者であるフォイエルバッハについての覚書ですね」と言って北野は少し腕組みした。「実はフォイエルバッハを含めてドイツの青年ヘーゲル派の哲学者たちを大上段から批判する『ドイチェ・イデオロギー』の執筆をエンゲルスやモーゼス・ヘスと計画していたのです。そのフォイエルバッハの部分を執筆するに当たってのメモだったと思われます。」
 

 寺田は補足するように言った。「フォイエルバッハや青年ヘーゲル派は、哲学や思想の変革すれば、つまり意識の変革をすれば、それで社会が変革できるかのように捉えていたのでしょう。それではだめだというわけですね。」北野は頷いた。「まあそういうことですね。疎外論に対して唯物史観を対置するのも意識変革には違いなのですが、意識やイデオロギーというものが生じ、変化し、消滅するのはどうしてかということが分かってないとだめだというのです。既成の哲学を超克する新しい哲学、既成のイデオロギーを乗り越える別のイデオロギーではまた新しいものに乗り越えられてしまうのです。マルクスが目指したのはそういう哲学やイデオロギー自体を批判し、超克することだったのです。」

 「ということはマルクスの哲学とかマルクス主義イデオロギーということ自体、マルクスの本意ではないことになりますね。」と寺田は確認した。「当然ですね。マルクスは既成の哲学に対して新しい哲学を対置したのではないのです。哲学そのものを乗り越えようとしたのです。ところがマルクスはヘーゲル哲学を転倒させて観念論的弁証法を唯物論的弁証法にしたとか、弁証法的唯物論の哲学を構築したとされますが、そういうのは後の人々が勝手に読み取ったにすぎません。彼は哲学者をやめてしまっているのです」北野は応答した。
 

 「北野さんそりゃあまずいよ。」榊はおもわず口を挟み、挙手した。「これから哲学専攻の大学院を受験するのに、反哲学では厳しいな。なにしろうちの大学でも哲学科の教授連はドイツ観念論中心だからね。それはさておき既成の哲学が現実を解釈し、理屈づけるだけだったことに対して、マルクスが強く反撥していたことは事実だろうね。しかし既成の哲学のあり方を根底から問い直すということがまさしく哲学に他ならないんで、そういう意味での哲学解体の試みは、ソフィストやソクラテス、ベーコン、コントなどでも見られます。でも彼らは大哲学者として位置づけられているわけです。」

 樺山が挙手した。「そのことも念頭に入れて、テーゼの内容分析に入った方が建設的ですね。まず1から訳してみましょう。」

 

                眼に入る桜もビルも客体か吾が行ひの姿ならずや
 

これまであったあらゆる唯物論、それにはフォイエルバッハのものも含まれます。その主要な欠点は、対象や現実や感性が客体あるいは直観という形式のもとでしか捉えられていなかったことです。つまり人間的な感性的活動、すなわち実践として、主体的には捉えられていないということです。それで、活動的側面は、唯物論とは対立している、観念論によって抽象的に展開されてきたにすぎません。観念論ではもちろん現実の感性的な活動そのものを知ることはできませんから。
 フォイエルバッハが欲しているのは感性的な客体です。つまり思考の客体から現実に区別された客体を欲しているのです。しかし彼は人間的活動自身を対象的な活動としては捉えていません。それゆえ、彼は『キリスト教の本質』の中では、ただ理論的な振る舞いだけが本来の人間的活動とみなされていて、実践はそのさもしいユダヤ人的な現象形態でのみ捉えられ、固定化されているのです。したがって、彼は「革命的な」「実践的−批判的な」活動の意義を把握していないのです。
 
 寺田は唸った。「ウーム、これは手ごわいぞ。対象や現実や感性を客体や直観の形式でなく、人間の感性的な活動である実践として主体的に捉え返しなさいということでしょう。『対象が実践だ』ということがまずチンプンカンプンですね。樺山さんの訳し方に問題は無いのですか。」
山下が発言した。「私は日本史でドイツ語は分かりませんが、ポイントは何事もただ客観的に存在する事物や現実として観照の対象にするのではなくて、主体的な実践の契機として捉え返すことが大切だということなのでしょう。」

                物質の底に実践置きたらば唯物論は崩れ落つるや


 北野が手を上げた。「実はこの部分の訳しかた次第で弁証法的唯物論は一挙に崩壊するのです。東ドイツでは『弁証法的唯物論』という呼び方をやめて『実践的唯物論』にしようという人もいるのです。対象Gegenstandは要するに〈対して立つ〉だから感性の対象である事物のことなんです。それらを主体の実践として捉え返しているのです。ということは、事物の根源に実践をおいていることになります。要するに実践を第一義的な存在と捉えて、客体もあくまで実践の姿として主体的に捉え返しているのです。」
 

 山本義男は驚いて言った。「唯物論なのに物質を根底に置かないで実践を根底に置くのですか、そりゃあ納得いかないな。実践をするには主体や客体が必要だし、その際に主体も客体も物質的な土台の上に存在していないと、実践にならないでしょう。」
 

 北野は首を振って、腕まで大きく振ってジェスチャーで否定した上で言った。「主体も客体も、物質も観念も人間が実践するから、その契機として始めて問題になるカテゴリーです。生きる営み、生活実践、その上に生産や流通や消費などの経済的な実践があり、それらの土台の上に政治的実践があります。」

 山本は食い下がった、「そんなことは分かりきっていることです。実践を通して観念が形成されるのですから、しかし唯物論でいう物質が土台だという意味を取り違えていると思います。うまく説明できませんが。」
 

 司会の寺田が、自分の出番だとばかり発言した。「たしかにすれ違いがあるようですね。唯物論というのは世界観です。我々は目的意識的な活動である実践をするから、世界を知るわけですが、だから実践が世界の根底にあるとは考えないで、逆に世界の中で実践していると考えます。そして世界を構成している諸現象や諸事物の根底に何があるかですね、それを推理するわけです。その推論の結果として到達したのが物質ですね。タレスなら水ですよ。何らかの物質に求めるのが唯物論です。プラトンならばイデアですからプラトンは観念論なのです。神の意思を根底に置く人もいるでしょう。」
 

 北野はすこしうんざりのような表情を見せて反論した。「物質を根底に置いたらどうしてそういう物質が生じたのかということになります。そこで第一質料をアリストテレスは考えたわけですね。しかしそういうのは頭の中で考えられた形而上学的な存在に過ぎないのです。実証のきかない実在概念ですから、結局独断論でしかありません。それに対して実践は実践している以上、日々実証されています。そしてそこから主体も客体も導き出されているのですから、物質の代わりに実践を置くのはごく自然だと言うことですね。」

                    実践を事物と思い込みしなら事物も人の姿ならすや
 

 榊は興奮ぎみに発言を求めた。「マルクス解釈としては、問題があるかもしれませんが、人間論としてはおもしろいですね。実践という人間の活動がすべての存在の大本だと言うことでしょう。ところが我々は、それを人間とは別の客体として捉え、眺めているわけです。疎外論の延長線上にあるとしたら、独立して主体とは別物になってしまっています。しかしマルクスはそれを己の実践として主体的に捉え返せというわけでしょう。ということは桜の花をぼんやり眺めていたり、紅葉を愛でたりしているけれど、元々そういう観光的な自然風景も長年の実践によって作り上げてきたわけですね。放っておくと、それも破壊されてしまうわけです。実は人間の実践の姿だったということです。こうして人間は、単なる身体的存在に限定されずに、客体と思われているものも含んでいるということなのです。」 
 

                    物質を土台に置きし人ならばそのなお底に実践認むや

「樺山さんはどうお考えですか。」寺田は北野の解釈は危険な要素があると感じたのか、樺山に何とか反論を期待した。「北野さんの解釈はなかなか鋭いのですが、この時期にマルクスはエンゲルスと協同して唯物史観を形成中なわけですね、唯物史観というのは政治的、イデオロギー的なものの土台に経済的な関係を見出し、その土台から説明しようとするものでした。ですから物事を実践として主体的に捉える必要を強調したからと言って、事物の根底に実践をおいたり、実践を物質の代わりに第一義的実在と捉えたというのは読み込みすぎではないでしょうか。実際、我々は毎日社会的実践、政治的実践、学問的実践、生活実践をしているわけですが、実践に際して常に考慮しなければならないものとして、実践の土台になっている経済的な諸条件ですね。この土台をしっかり踏まえ、土台の改革まで視野において実践しなければならないという理論が唯物史観です。」

 北野はこの問題にこだわるのは時間の無駄だと悟ったようだ。「『実践的唯物論とはなにか』については、また論点を整理してゆっくり時間をかけてやりましょう。テーゼの2から5は、人間論の検討という本日の主旨から考えて、時間の関係から割愛して、6の『アンサンブル規定』に直接入った方がいいと思いますがどうですか、寺田さん。」
 「私もそれを提案しようと思っていたところです。異議ありませんか。では北野訳でいきましょうか。」北野は意気込んで応えた。「わかりました。では訳します。」

               巨大なる類的能力疎外して神たてたるや絆なきゆえ

フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消します。しかし、人間的本質は個々の個人に内住する抽象物ではないのです。現実には、それは社会的な諸関係の総和(アンサンブル)なのです。
フォイエルバッハは、この現実的な本質の批判に携わろうとはしないのです、それゆえ無理矢理に
1.歴史的経過を捨象し、宗教的心情をそれ自身にたいして固定化し、抽象的な−孤立した−人間的個人を前提とし
2.本質を、単に「類」としてのみ、内的な、無言の、多くの個人をただ自然に結びつける普遍性としてのみとらえることができるのです。

寺田はプリントを指差しながら尋ねた、「フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消します。」ということはどういう意味なのですか。
 北野が応えた。「フォイエルバッハは神を人間の類的能力を疎外したものと捉えたのです。つまり人間は一人ひとりでは一つのことしかできないわけですが、皆合わせた類としては巨大な文明を築き上げています。ところが個々人はそれを自分のものとはできないし、人類全体を自己と感じることもできません。それでこの類的性格を他者として神として疎外したのです。ですから神という宗教的本質は実は人間の類的本質の疎外態だというわけです。そこで人間の類的本質こそ信仰の対象にすべきだという人間教に行き着きました。」

                 
個々人の内にはあらめ本質は、人と結べる関わりにこそあれ

寺田はちょっと首を傾げて、「本質はdem einzelnen Individuum innewohnendes Abstraktum個々人に内住する抽象物)というのはどういう意味ですか、人間の本質は例えば労働能力としては身体に備わっているということですか、マルクスはそれを否定しています。ということは現実には機械を使ったり、雇用されて工場で働いたりしなければ発揮できないので、人間の本質は社会関係だということですか。」

 北野は榊に向かって言った。「ここの箇所の解釈は大変微妙なので、榊先輩にお願いしますよ。」榊は振られて戸惑った。「いや、北野さんや樺山さんの方がしっかり解釈されるのではないかな、ここではやはりフォイエルバッハは人間の本質について個と類の関係で論じているので、個々人に内属する類的能力の集合として類的本質・類的存在が扱われてしまうわけです。たしかにキリスト教を批判するだけならそれでもいいでしょうが、マルクスにすれば、そういう抽象的な議論に止まっていても仕方がないということでしょう。個々人が神に類的能力を疎外しなければならないのは、実は社会的分業や商品関係あるいは資本関係によって、ばらばらの孤立した個人になり、社会的諸関係に取り込まれて規定されているからなのです。それが問題なのだから、人間の本質も現実的に捉える場合は、社会的諸関係の総和として捉えるべきだということですね。」

 北野はすぐに反論してきた。「それならフォイエルバッハの捉え方を否定していることになりませんね、社会批判の視点にたった時に諸関係の総和が問題になるということですから。マルクスは本質が事物に内在するという捉え方に反対しているわけです。人間は本能的な存在ではないので、予め本質はないのです。本質を社会的な関わりによって生じる関係として捉え返すべきだとしているわけです。これは個物を実体として捉え、個物である実体に内属するものとして本質を捉えてきた既成の捉え方に転換を迫っているのです。」

 樺山が発言を求めた。「人間の本質が内在するという場合、その代表的な思惟や言語や労働のどれをとっても、そういう能力を保持しているという意味では内在しているわけですが、どれも社会関係の中で生じるものです。つまりコミュニケーションの中で発達してきたのですから、その意味では個人に内在するという言い方はふさわしくありません。ヘーゲルも本質規定を他者との関係を反省することで生じると考えています。フォイエルバッハも類的能力は分業によって発達したと考えていることは伺えます。ただマルクスにとって不満なのは、フォイエルバッハが神として疎外していたのを人間に取り戻せばすむかにいって、肝心の人間の現実の社会的諸関係を問題にしていないということです。社会的諸関係の変革こそが問題なのだということですね。関係面を問題にしていないので、本質を内在的にしか捉えていないというように感じたのでしょう。」

                 
人なるは身にあらざりて行ひや、関わりとして事ぞ連ねる

 北野はじれったい表情になった。「人間を個体的身体という実体として捉えるべきではないと言いたいのです、マルクスは。つまり実体としての身体に本質が内在しているのではないというのは、人間はそういう実体的な存在ではなく、社会的諸関係の総和、言い換えれば社会的諸関係の網の目の結節として存在していると捉えるべきだとマルクスは主張しているのではないですか。」

 寺田は頷いた。「なるほどね。でも身体なしには存在できません。身体が衣食住などの自然との物質代謝を行うことを土台としていろんな社会関係も取り結ばれるのですから。」
 

 北野はもどかしそうな表情でいった。「こうして研究会で議論をしたり、バイト先で働いたり、家庭で食事をしたり、様々な関係行為をしていますね、そうした関係の積み重ねとして人間は存在しています。そしていろんな関係の網の目の結節として我々は存在しているわけです。もちろん関係を取り結ぶものとしての身体は存在しますが、それは行為や関係を反省したときにそれをしていたのは、この身体だというように後から反省されるわけです。だから身体は第二義的存在なのです。」
 

 榊が口を開いた。「実践という関係行為を存在の根底に置いたので、身体という物よりも事や関係を第一義的に捉えようという構えですね。最近廣松渉が盛んに『思想』や『情況』などに展開しています。ただマルクスの場合は、事から世界を構成する事的世界観という哲学にたって、統一的に論じているわけではありません。とはいえ、一つの読み方として参考にはなるでしょう。それに人間論としては大変活き活きしたものになりますね。事的人間論だと常に実践の積み重ね、事件の連続として人間は展開します。そして事から世界を見ますと、意識と世界が一体ですから、世界がそのまま人間だということになりますね。」

 

                  音たてて崩れ行きしは何なるや吾が囚われし迷妄ならずや

 

 寺田は腕を組んだ。「ウーム、パニックになってきたぞ、既成の弁証的唯物論が音を立てて崩れてゆく、崩壊感覚ですね。」樺山はあきれていった。「寺田さんしっかりしてください。世界の見方というのは一つが正しいというのではありません。事物の集まりと見る見方もあれば、事や事態の連続や函数関係として見る見方もあります。マルクスを事的世界観で解釈できる箇所があっても、対立物の統一や闘争という弁証法的唯物論が大活躍している箇所もあるわけです。それにマルクスの生涯は一つの世界観で単色だったということでもなくてもいいのです。それより問題は、マルクスの叙述から何を学び、自分の世界観や人間論をいかに形成するかです。」
 

 榊は頷いた。「もし寺田さんが弁証法的唯物論が正しいと思っていたのなら、マルクスが弁証法的唯物論とまるで違う哲学を説いていたと分かったら、それに乗り換えるというのはおかしいですね。マルクスが正しいから弁証法的唯物論が正しいのではなくて、弁証法的唯物論が正しいと思われるから、それを唱えていたマルクスが偉大だった筈ですね。」
 

北野はにやりとして言った。「僕は元々スターリン、ミーチン的な弁証法的唯物論はどうもマルクスとは違うなという狙いをつけて読んでいましたから、マルクスが弁証法的唯物論とは違うほうがマルクスには共感をもてるのです。」
 

日本史の山下が発言した。「私たちは毛沢東の『矛盾論』が最も歴史の分析にぴったりしていたものですから、マルクスがそれから程遠いというのなら、マルクスが批判の対象です。もっとも毛沢東だって文革期以降は左翼小児病の典型ですが。」

 樺山が榊に訊ねた。「ところで榊さん、マルクスや廣松は世界がそのまま人間だというような人間論を展開しているのですか。」

 榊は首をふった。「マルクスの『人間的自然』という発想はそれに近いですね。廣松さんにはそういう人間論的な展開はないですね。ただ主観・客観認識図式を超克して、第一次的存在である事や事態から世界や諸事物や諸個人などをその構成要素として第二次的存在として検討するものですから、世界と人間は第一次的には区別されないことになります。もっともその段階ではまだ人間という概念はでてこないから、世界が人間だというのもぴったりこないかもしれません。」
 

 樺山はさらに続けた。「むしろマルクスたちは、人間を理念的に捉えるのではなく、現実的諸個人として捉えなければならないと考えていました。それをフォイエルバッハは類的存在としたり、ブルーノ・バウワーは自己意識としたりしたので、それらに反撥して社会的諸個人のアンサンブルだと捉え返したのがマルクスだったわけです。だからむしろ社会的諸関係を取り結んでうごめいている身体的諸個人こそ、マルクスの人間像だったわけですから、多分に実体的なのです。関係や事に還元する廣松の解釈ははやとちりですね。」
 

 寺田は感心して言った。「樺山さん、今日は冴えわたっていますね。北野さんの廣松説にさらわれそうになりましたが、今のお話ですっきりしたようです。身体的諸個人に基礎をおいたというのは説得力を感じます。さかんに『ドイチェ・イデオロギー』では衣食住生殖を土台に展開していますものね。この問題は今日一日で決着つきそうにありませんから、次に行きましょう。」

 

             様々に論じるだけでは暇つぶし、いざ起ちて言えウナロード(人民の中へ)と

 

   「哲学者たちは世界を様々に解釈してきたにすぎません。肝心なことは世界を変革することなのです。」

 寺田は自分で訳して、パチパチと手を叩いた。「この言葉が一番素敵ね。実に単純明快だしね。でもこの言葉が、『経済学・哲学手稿』の疎外論という哲学的立場からの切断宣言だという解釈が出てきているわけですね。」

 

 山下が手を挙げた。「たしかに既成の哲学には現実をあれこれ解釈して合理化する観念論的な哲学が多かったわけですから、哲学者たちを批判しても、哲学の放棄だと解釈する必要は全くないでしょう。」「同感です。」樺山が加勢した。「この場合の哲学者たちというのは

『ドイチェ・イデオロギー』の青年ヘーゲル派の人々を一番念頭に置いているのですから、揶揄しているのです。つまり本来の哲学者だったら解釈ばかりしていてはだめで、根底的に捉え返し、批判し、変革するものでなければならないのです。マルクスはギリシア哲学に親しんでいましたから、知るということと行うことは一つであるというソクラテスの立場を最も哲学的だと思っていたでしょうから。」

 

 「問題はその青年ヘーゲル派の中にマルクス自身の『経済学・哲学手稿』の疎外論の立場が入っているのではないかということです。」寺田は心配そうに言った。木村雄二が発言した。「もちろん資本主義の疎外構造をを分析し、批判するというのは様々な解釈の一つにはいるでしょうね。肝心なことはそれを変革することだというわけです。そのためには唯物史観が必要だったのでしょう。」

 

 寺田は怪訝な顔をした。「ということは、マルクスは以前のマルクスを青年ヘーゲル派として批判し、疎外論を卒業したということですか。」木村は頷いた。「唯物史観だって新しい観方ですが変革の必然性とその主体が労働者階級であることを自覚させる論理になっているのです。古い生産様式生産力の発展に対応できなくなると、生産関係が変革されて新しい生産関係が生まれるとしました。資本主義も労働者を搾取し、窮乏化していくと、生産力の発展と矛盾するようになり、生産過剰から恐慌が起こり、必然的に変革されると説いています。」

 

 高橋友也が反論した。「疎外論だって疎外を告発して変革の必要性を説いているのですから、変革志向の実践の議論でしょう。」木村が応答する「もちろんそうですが、やはり疎外状況を告発することに力点があります。どのように疎外を克服するのかという歴史法則的な展望はありません。他方唯物史観の成立によって、労働者階級ははじめて最も無力で惨め自分たちが歴史変革の主体としての歴史的使命を担っていることを自覚できたのです。」

 

 田口幸蔵が訊ねた。「それじゃあ木村さんも北野さんと同じように疎外論を払拭して唯物史観を確立したという立場ですか。」しばらく木村は考え込んだが、「唯物史観がいったん確立すると、その方が反応がよかった。惨めなだけだった労働者階級が歴史変革の主体としての自覚にめざめたからです。疎外論はあまり使えないと感じたのでしょうね。でも後の本格的に経済学批判を行う段になると、疎外の現実を見据えることも必要だし、労働者に訴える力もあると考えたのでしょう、『経済学批判要綱』や『資本論』では『疎外』という用語が用いられています。」

 

 寺田はじれったい表情になった。「ではマルクスはこの時期にはいったん疎外論を批判して哲学を離れ、後期になって哲学に復帰したのですか?」と問いただした。

 

 北野は自信ありげに言った。「後期のマルクスは疎外という言葉を使っていますが、それは疎遠な関係を示すだけでして、初期のように社会構造を疎外構造として展開したものではないでしょう。それに疎外論に代わって唯物史観というのは誤解のもとです。唯物史観は生産力と生産関係の矛盾を動力に歴史が発展すると言う歴史観ですね。疎外論は歴史観ではありません。自分の労働の産物が労働主体を圧迫してくると言う労働の構造認識ですね。これに取って代わるのは、人間関係が物と物の関係に置き換えられ、物の属性となったり、社会制度になって人間から自立し、人間たちを拘束するとする物象化論です。」

 

 寺田はお手上げのジェスチャーをした。「今日はとてもその廣松渉の物象化論の検討までは入れません。『フォイエルバッハ・テーゼ』の段階ですから。北野さんはマルクスが物象化論を展開している箇所をきっちりリストアップして資料集をつくって発表してくださいね。今日の議論としては疎外論と唯物史観が矛盾するかどうかです。矛盾しないとしたらたとえ一時的に疎外論のアプローチが見られなくなっても払拭と決め付けなくてもいいでしょう。まして哲学を捨てたというほどのことはないでしょう。」

 

 山下里香が発言した。「唯物史観自体が疎外論だという人がいましたよ。というのが日々人民は生産力によって生産関係を作り上げていて、それに支配されているのだからこれは疎外論の言い換えだというのです。だから表現を変えただけで払拭と言わなくてもいいという意見ですね。」

 

 樺山は苦笑した。「それは面白い解釈ですね。それはともかく北野さんは廣松理論を信奉しているようですが、実は廣松さんは、疎外論は払拭しても、哲学は捨ててません。彼の物象化論も事的世界観に基づく哲学なのです。一方マルクスの表現には哲学者一般に対する批判や、哲学者に分かる言葉で言えば『疎外』と言ったりしています。哲学自体を批判しているように見えます。」

 

 北野ははにかんで言った。「実はそうなんです。そこが廣松理論の限界かなと思います。アルチュセールのように『イデオロギーから科学』と言った方がすっきりするのですが。」

 

 榊は「アッハッハッハ」と笑った。「そのアルチュセールも最近『資本論』批判を始めたそうです。つまりヘーゲル哲学の影響があるのがご不満らしい。それに『疎外』というターム(用語)が意外に多くあるのも気に食わないらしいのです。それでレーニンや毛沢東に関心が移っているのです。私は哲学を批判していると言っても、実際は既成の哲学に対する批判になっていると思います。それ自体新しい哲学の展開なのです。本人がどう考えていたかは綿密に調べないと分かりませんが、客観的にはマルクスは物事を根源的に捉え返す営みである哲学から外に出られないのです。」

 

 寺田がこの発言を受けて言った。「そろそろ時間切れになりそうですが、要するに『哲学』の定義の問題でもありますね。マルクスの哲学定義を調べる必要がありますね。マルクスが主観的に哲学を捨てたと思っていても、我々の哲学定義からは哲学を捨てたことにならないということもいえるかもしれません。疎外論の払拭の議論につきましては『ドイチェ・イデオロギー』や経済学関係のマルクスの著作から『疎外』の使用例をすべてリストアップする必要がありますね。これはマルクス研究会として共同で取り組む必要があるでしょう。それから最後に、この『解釈だけでは駄目で変革しなければ』という言葉の人間論的意義はどうなるのですか?」

 

 榊が語った。「スタンダールだったかな『恋愛と革命のために人生はあるのだ』というような言葉があったと思いますが、ともかく人間として生きるということは、感じて生きるということでしょう。美しいものに感動し、世の不合理や矛盾に憤る。人民が塗炭の苦しみに喘いでいるのに自分は安閑として無意味な時を過ごしている、これでは何のために生まれてきたのかということです。今、人類が抱えている、我々の前に提起されている問題は十分に認識されているはずです。今変革に起ち上がらなくては、いつやるのですか。というように人間を道義的な存在として捉えたときに、この言葉はすごく重みがありますね。」

 

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参考資料として『フォイエルバッハ・テーゼ』のドイツ語原文がありますので付録として掲載しておきます。

 

 


1

Der Hauptmangel alles bisherigen Materialismus – den Feuerbachschen mit eingerechnet – ist, daß der Gegenstand, die Wirklichkeit, Sinnlichkeit, nur unter der Form des Objekts oder der Anschauung gefaßt wird; nicht aber als menschliche sinnliche Tätigkeit, Praxis, nicht subjektiv. Daher geschah es, daß die tätige Seite, im Gegensatz zum Materialismus, vom Idealismus entwickelt wurde – aber nur abstrakt, da der Idealismus natürlich die wirkliche, sinnliche Tätigkeit als solche nicht kennt. Feuerbach will sinnliche, von den Gedankenobjekten wirklich unterschiedene Objekte; aber er faßt die menschliche Tätigkeit selbst nicht als gegenständliche Tätigkeit. Er betrachtet daher im Wesen des Christenthums nur das theoretische Verhalten als das echt menschliche, während die Praxis nur in ihrer schmutzig-jüdischen Erscheinungsform gefaßt und fixiert wird. Er begreift daher nicht die Bedeutung der „revolutionären“, der „praktisch-kritischen“ Tätigkeit.

2

Die Frage, ob dem menschlichen Denken gegenständliche Wahrheit zukomme, ist keine Frage der Theorie, sondern eine praktische Frage. In der Praxis muß der Mensch die Wahrheit, d.h. die Wirklichkeit und Macht, die Diesseitigkeit seines Denkens beweisen. Der Streit über die Wirklichkeit oder Nichtwirklichkeit eines Denkens, das sich von der Praxis isoliert, ist eine rein scholastische Frage.

3

Die materialistische Lehre, daß die Menschen Produkte der Umstände und der Erziehung, veränderte Menschen also Produkte anderer Umstände und geänderter Erziehung sind, vergißt, daß die Umstände eben von den Menschen verändert werden und daß der Erzieher selbst erzogen werden muß. Sie kommt daher mit Notwendigkeit dahin, die Gesellschaft in zwei Teile zu sondern, von denen der eine über der Gesellschaft erhaben ist. (Z.B. bei Robert Owen.)

Das Zusammenfallen des Änderns der Umstände und der menschlichen Tätigkeit kann nur als umwälzende Praxis gefaßt und rationell verstanden werden.

4

Feuerbach geht aus von dem Faktum der religiösen Selbstentfremdung, der Verdopplung der Welt in eine religiöse, vorgestellte und eine wirkliche Welt. Seine Arbeit besteht darin, die religiöse Welt in ihre weltliche Grundlage aufzulösen. Er übersieht, daß nach Vollbringung dieser Arbeit die Hauptsache noch zu tun bleibt. Die Tatsache nämlich, daß die weltliche Grundlage sich von sich selbst abhebt und sich, ein selbständiges Reich, in den Wolken fixiert, ist eben nur aus der Selbstzerrissenheit und dem Sichselbst-Widersprechen dieser weltlichen Grundlage zu erklären. Diese selbst muß also erstens in ihrem Widerspruch verstanden und sodann durch Beseitigung des Widerspruchs praktisch revolutioniert werden. Also z.B., nachdem die irdische Familie als das Geheimnis der heiligen Familie entdeckt ist, muß nun erstere selbst theoretisch kritisiert und praktisch umgewälzt werden.

5

Feuerbach, mit dem abstrakten Denken nicht zufrieden, appelliert an die sinnliche Anschauung; aber er faßt die Sinnlichkeit nicht als praktische menschlich-sinnliche Tätigkeit.

6

Feuerbach löst das religiöse Wesen in das menschliche Wesen auf. Aber das menschliche Wesen ist kein dem einzelnen Individuum innewohnendes Abstraktum. In seiner Wirklichkeit ist es das Ensemble der gesellschaftlichen Verhältnisse.

Feuerbach, der auf die Kritik dieses wirklichen Wesens nicht eingeht, ist daher gezwungen:

1.                           von dem geschichtlichen Verlauf zu abstrahieren und das religiöse Gemüt für sich zu fixieren und ein abstrakt – isoliert – menschliches Individuum vorauszusetzen;

2.                          kann bei ihm daher das menschliche Wesen nur als „Gattung“, als innere, stumme, die vielen Individuen bloß natürlich verbindende Allgemeinheit gefaßt werden.

7

Feuerbach sieht daher nicht, daß das „religiöse Gemüt“ selbst ein gesellschaftliches Produkt ist und daß das abstrakte Individuum, das er analysiert, in Wirklichkeit einer bestimmten Gesellschaftsform angehört.

8

Das gesellschaftliche Leben ist wesentlich praktisch. Alle Mysterien, welche die Theorie zum Mystizismus verleiten, finden ihre rationelle Lösung in der menschlichen Praxis und im Begreifen dieser Praxis.

9

Das Höchste, wozu der anschauende Materialismus es bringt, d.h. der Materialismus, der die Sinnlichkeit nicht als praktische Tätigkeit begreift, ist die Anschauung der einzelnen Individuen in der „bürgerlichen Gesellschaft“.

10

Der Standpunkt des alten Materialismus ist die „bürgerliche“ Gesellschaft; der Standpunkt des neuen die menschliche Gesellschaft, oder die vergesellschaftete Menschheit.

11

Die Philosophen haben die Welt nur verschieden interpretiert; es kommt aber darauf an, sie zu verändern.