第十二話 青年マルクスの人間観をめぐって1

 

          戦後なる時代は熟れてわだつみの像もろともに砕けし思ひ

 

一九七一年六月、京都の懐徳館大学のキャンパスである。大学紛争は収まりかけていたが、まだ時折全共闘の一団が学内に入り込み、ゲバ棒を持ってキャンパスをデモンストレーションして去っていく。学徒出陣した戦没学生の銅像が白いペンキをかけられ無残にも破壊された。「懐徳館民主主義」という似非民主主義の象徴であり、資本主義の管理体制を補完してきたと有罪宣告されたのである。
 当時榊周次は大学院の一回生だった。懐徳館大学に様々な矛盾や問題があり、変革しなければならないということは当然だとしても、その怒りを戦没学生の銅像にまでぶつけるとは、とんだとばっちりだなと思った。榊はこの銅像に愛着があり、一回生の時から、毎日一度は銅像に語りかけてきた。それがいかに紛争中とはいえ、無残に打ち砕かれてしまったのである。自分自身の青春がこの銅像と共に砕け散ったような空しさに襲われた。
 榊はマルクス哲学研究会のチューターをしていた。哲学専攻では自主ゼミナール運動がさかんで、大学院生をチューターにしていくつかの研究会に分かれていた。マル哲研と呼ばれた研究会は週一回木曜日3時からたっぷり3時間をかけて行われていた。マル哲研だけは、哲学専攻の枠に囚われずに他学部、他専攻の学生が多く参加していた。哲学専攻の学生の友人や活動家仲間がマルクスにはホットな関心を持って集まっていたのである。今日は「マルクスの人間観」に焦点を合わせてみんなで討論するという形をとっていた。この若き榊周次を演じているのが上村陽一なのである。

 

            労働と思考のいずれ根にありし鶏卵いずれ先立つ

 

まず経済学部三回生木村雄二が口火を切った。「マルクス主義の人間観は労働本質論です。『人間は考える葦である』とパスカルは言いました。考えるということに人間の特長があることは正しいのですが、それなら労働するということにも特長があります。どちらがより根源的なのでしょうか。観念論者のパスカルは思考に本質を認め、唯物論者のマルクスは労働に求めます。それは思惟が根源的か、物質が根源的という問題なのです。だから唯物論の立場に立てば、労働が本質的だということになります。」当時はまだこのような唯物論対観念論という対立図式で論じる紋切り型の議論もさかんだった。

「質問していいですか?」法学部の一回生の田口幸蔵が発言を求めた。「私は哲学的なことは全く分からないのですが、労働の方が思考より根源的という意味が分かりません。思考ができなければ労働はできませんよね。」
 陽一演じる榊周次は口を挟んだ。「今日の司会は決まっていましたか?」「はい、私です。」三輪智子が扮した哲学専攻の二回生寺田陽子である。「田口さんは思考が労働の根源にあるのではないかというご質問ですね。木村さん、思考を根底に置かない労働というのはあるのですか?」木村は「司会は一方の肩をもつような言い方はしないで下さい」と司会に注文をつけた。寺田は反撥した。「そういうつもりじゃありませんよ。労働が思考より根源的のように言われたので、思考に基づかない労働というのはどういうものかなと思ったまでです。」

木村は気を落ち着けて発言した。「労働は目的意識があって対象を獲得したり、作り上げたりする活動ですから、当然思考を伴っています。でもあらゆる生活活動も人間は意識的に行っているわけです。でもじゃあ衣食住や労働という物質的な活動と精神活動のどちらが根源的かといえば、まず『腹が減ったら戦はできぬ』でしょう。労働が基礎にあって。その上で精神活動しているというように唯物論では説明しているのです。」
 「それでは田口さんの質問に対する答えはどうなるのですか? 」と寺田は聞き返した。「思考という活動があって労働があるというのは間違いじゃないのですが、逆に思考がどうして生じたのかと考えますと、これは労働から生じたわけです。労働といいましても人間の場合は起源においては群れとして共同で行っていましたので、コミュニケーションをとって行う必要があったのです。それで音声でいろいろ伝達をしているうちに、音節を区切って言葉を伝え合うような言語になり、その中身が思考と呼ばれるようになったのです。ですから思考の根源に労働があるということですね。」
 「それじゃあ労働が先にあって、労働の中から思考が生まれたという議論ですね。ということは思考なしの労働というのがあったことになりますが、それはどういう活動ですか?」田口は食い下がってきた。
 「だから人に進化する前の猿の段階で狩猟や採取の活動ではまだ人間的な思考は行っていなかったのです」と木村は応えた。

「ということは本能的な活動ということでしょう。それじゃあ、目的意識的な対象変革活動という労働の定義とはあいませんね」田口はさらに突っ込みを入れた。

司会の寺田が口を挟んだ。「ストップ、司会が許可していないのに発言するのはやめてください。二人だけの議論になって皆は分からなくなっては困りますからね。つまり思考と労働という相互に前提しあっている活動があって、その起源においてどちらが根源的かが問題になっているわけですね。ここで別の人にこの問題に関する発言をしてもらって、それらに対して木村さんから応答してもらうということにしましょう。どなたか、はい山下里香さん。」

「日本史専攻の三回生山下です。私はマルクス主義の唯物史観にはある程度共感しています。経済的な土台の上に政治や文化が成り立つという考え方はなかなかリアルに現実を見ていると思うのです。身分や階級から規定された意識というものにどうしても囚われて行動してしまうということですね。それでかなり科学的な歴史の捉え方ができると思います。でも思考と労働のどちらが根源的かなんて鶏と卵みたいな議論で、どちらでもいいような気がしますね。マルクスはそんなことは議論していないでしょうおそらく。」

「マルクスの盟友エンゲルスの『猿が人間になるについての労働の役割』という論文があります。そこでは労働が言語も含めて人間を形成したことを強調しています。」木村はそう応えて、おし黙ってしまった。
 「寺田さん、少し口を挟んでもいいですか。収拾する意味で。」「では、榊先輩の出番です」智子はニコッとしてチューターに振った。陽一は智子の笑顔に少し頬を赤らめたが、一呼吸おいて説明を始めた。「マルクスが労働本質論を展開しているのは彼が二十六歳でパリにいた一八四四年の『経済学・哲学手稿』です。「疎外された労働」の論理が展開されているノートです。このノートはまだ唯物史観の確立以前なのです。それはもちろん思考と労働のどちらが根源的かなんて問題意識のものではありません。エンゲルスのいう労働というのは猿の採取や狩猟活動も萌芽としては含んでいますね。目的意識的対象変革活動というのはマルクスの『資本論』の労働過程論の用語でしょう。エンゲルスは手の延長としての道具を使った獲得行為を指しているわけで、猿が道具を使うようになって人間になったという論理です。その過程で言語的コミュニケーションが活発になり、思考が発達したと捉えたわけです。」

 

       労働が諸関係へと移りたる本質論の切断ありや

 

寺田は「榊先輩のお話では、若きマルクスの疎外論には労働本質論があったということですが、北野大蔵さんの初期マルクス研究には年季が入っているようなので、そのあたりはどうですか。」北野大蔵は哲学専攻の四回生で大学院への進学を考えている。「ええ難しい問題ですね。ただ最近は一八四五年の『フォイエルバッハ・テーゼ』や『ドイチェ・イデオロギー』の段階では疎外論が払拭されたといわれています。労働本質論から『人間の本質は、現実的には社会的諸関係の総和、つまりアンサンブルである。』といういわゆるアンサンブル規定に変わっているのです。」

寺田が北野の議論を受けて言った。「マルクスは『経済学・哲学手稿』では疎外論を展開したけれど、翌年ベルギーのブリュッセルに移って、そこで『ドイチェ・イデオロギー』を執筆することになって、疎外論を払拭して唯物史観を確立したという話でしょう。その際に人間の本質に対する捉え方もころっと変化して、労働が本質ではなく社会的諸関係の総和つまりアンサンブルが本質であるということになったというのですね。この見解に対して、どなたか異論ありませんか?樺山健太さんどうぞ。」もぞもぞしながら社会学部四回生の樺山健太が発言した。「労働が人間の本質であるというような見解が、コロッと変わるというのはおかしいですね。人間の本質とは何かについての見解は簡単にはかわらないでしょう。」
 北野は言った。「簡単に変わったのじゃなくて、大転換があったということですね。切断という言葉で表現されています。アルチュセールはヒューマニズムから科学への転換と捉えていますし、日本でも廣松渉が疎外論から物象化論への転換として捉えているのです。」

樺山は反論した。「元々、若きマルクスの疎外論が克服されて唯物史観が確立したというように捉えられてきたので、アルチュセールや廣松の議論はその点では古くからの議論の蒸し返しです。」北野はすぐに切り返した。「だって疎外という用語は『ドイチェ・イデオロギー』ではほとんど使われていないし、彼の発想の転換は明白ですよ。」

寺田は手を叩いて制止した。「発言は、司会の許可を得てください。元々疎外論は唯物史観の確立以前の議論と呼ばれてきたわけですが、一九六〇年代になって若きマルクスの疎外論が大々的に市民権を得て、マルクス主義を現代ヒューマニズムの源流として見直す傾向が強くなったわけです。ところが最近、一九六八年の五月革命の挫折以降ですか、実存主義の退潮や現代ヒューマニズムの退潮があり、構造主義的な発想が強くなって、それがマルクス主義からヒューマニズムを払拭しようとする動きになったわけでしょう。それでマルクスの人間本質論も『疎外された労働論』の吟味から『アンサンブル理論』へと重点を移してきたわけですね。」

樺山は呆れた。「おいおい司会がしゃべり過ぎだよ。確かに北野さんの言うとおり疎外という用語の使用が激減するけれど、それは疎外論という視角からのアプローチを止めて、唯物史観からのアプローチに変わったからなんだ。それは疎外状態の批判から進んで、歴史的転換を目指すからだ。だから盛んに経済学批判を行うようになると疎外という用語がまた使われるようになる。」

「ややこしいわね。一回生の諸君には何がなんだか分からないでしょう。まだマルクスの本を読んだこともない人までいるんだから、そこでまず樺山さんから『疎外された労働』について解説してもらいましょうか。樺山さん、易しい言葉でお願いしますね。」

 

     作られし生産物が疎ましく作りし人を苛みしかな


 「ヘーゲルやフォイエルバッハとの関連はカットします。『疎外された労働』について『四つの疎外』に限定して手短に話します。労働している人がいるとします。労働というのは何らかの目的があって生産物やサービスを生み出す労働行為なのです。そこで働く人は労働主体なのです。労働の仕上がりは主体のお頭の中にあるのですが、それを労働は自己の外部に出します。これを「外化」と言います。外化によって事物やサービスとして対象的に作り上げます。対象というのは主観に対してあるものです。この対象として作り上げることを「対象化」というのです。

疎外は対象化された労働の成果が、労働主体にとって自分のものにはならないで、他者となって労働主体から自立し、そして労働主体に対してよそよそしく敵対的に立ち向かってくることをいうのです。つまり労働主体は自分たちが作り出した生産物によって支配されているのです。これが先ず第一の疎外、『生産物からの疎外』です。」

 「ストップ、はい、ここまでは分かりますね。山本義男さん、何か?」と寺田は法学部一回生の山本義男が挙手したので当てた。「労働の生産物が作った本人の外に対象化されるというのは一般的にどんな労働でも言えますね。それが作った者のものにならないで、独立して敵対的に立ち向かうというけれど、大なり小なり生産物は生産者の手を離れるわけです。そうでしょう、作った人はたいがいそれを消費しないのだから、するとこの『生産物からの疎外』というのは別段資本主義でなくても起こるわけですね。」

「画家が自分の作品がいったん仕上がってしまうと、もう自分とは別物であり、自分から独立して客観的に評価されますね。」樺山が説明を始めた。「その意味では仰るとおりです。ただマルクスの場合は、『経済学・哲学手稿』で国民経済学批判として展開していますから、そういう一般的な意味ではなく、作った物が労働者のものにならないで、他人の所有になる場合に、労働主体に生産物が敵対的に立ち向かうという事態を問題にしているのです。たとえば労働者は巨大な資本主義の冨を日々生み出しているのだけれど、彼の手に入るのは生きていくのにやっとで、彼が作り上げた冨の集積によって押しつぶされそうになっているという事態ですね。」
 「寺田さん、いいですか?」榊が、発言を求めた。「文明自身が人間の生産物であり自己疎外であるとも言えます。ギリシア神話でプロメテウスはアテナイの女神から知恵を火の神ヘファイストスから火を盗んで人間に与え、人間は文明を築きますね。でもその罪を問われて岩に縛り付けられ、毎日鷲に内臓を抉られるという苦しみを味わうわけです。この神話も文明がそれだけの苦しみを与える自己疎外だということを表現しているわけです。」

「マルクスは資本主義の疎外を問題にしたのでしょう。」樺山が反論した。榊はこう応答した。「直接素材にしたのは資本主義だけれど、生産物の疎外と言う意味では、広い意味でも抑えておいたほうが応用が利きます。ソ連の御用哲学者のオイゼルマンが『歴史的概念としての疎外』を発表して資本主義批判としてしか疎外論を使えなくしてしまった。せっかくソ連でもスターリン主義や官僚主義批判が盛り上がってきたわけだから、おおいに疎外概念を現存社会主義批判にも使うべきなのです。」

樺山は頷いた。「それは言えますね。日本でも資本主義批判だけでなく官僚主義批判や管理社会批判、さらには共産党批判にも使えますね。」一瞬、研究会の中の共産党員たちが気まずそうな表情になったので、寺田がそれを察知して発言した。「研究会ですから政治的な政党批判の場になってかき回されては困りますので、樺山さん第二の疎外の説明に入ってください。」

           強いられし労働ならば作り出す物は吾が身に帰らぬものを

 

樺山は苦笑した。「あまり神経質にならないでください。それこそ疎外ですよ。自由に批判したり反論したらいいので、そういう討論があったからといって、研究会が政争の場になったという程のことはないと思います。では次に行きます。どうして生産物からの疎外が起こるかといいますと、『労働からの疎外』が原因なのです。つまり生産物からの疎外が起こるのは、生産物を作り出す労働という活動が、それを行っている労働者自身の自己の能力の実現、自己実現として感じられないからです。つまり身をすり減らし、ただ苦役としか感じられない強制された労働だからです。これが第二の疎外つまり『労働からの疎外』です。」

山本が口を開いた。「勉強でも同じですね。受験体制の下で、強制された勉強だと苦役で少しも楽しくないけれど、自分が興味や関心があって自発的に調べたり、トレーニングをしたりするのは自己実現で楽しいですからね。」

「それじゃあ第三と第四の疎外は北野大蔵さんに説明お願いします。」と寺田は手持ち無沙汰にしていた北野にふった。「樺山さんがせっかくご機嫌で説明されていたのにいいのですか?」樺山は平気な顔をして「いや助かります。どうぞ、どうぞ」と返した。北野は「それじゃあ、やります」と深呼吸した。

 

       身体の器官としてはつながらぬされど吾が身よ拠りて立つ故


 「第三が人間の本質とは何かに関わるのです。いわゆる『類的存在からの疎外です』類的存在というのはGattungswesenの翻訳ですから、類的本質や種族的本質と訳してもいいのです。つまりなぜ労働が強制されたものに感じられるかということですね。それは人間が本質を喪失しているからなのです。ですからマルクスは明らかに労働を人間の特長として本質として捉えていたわけです。類的存在ということで共同性の意味で受け止められるかもしれませんが、労働疎外論の文脈ですから、そういうものも労働が共同で行われることに伴うものと受け止めたほうがいいでしょう。」

司会の寺田が確認した。「労働疎外論の文脈では人間の本質として労働が捉えられているということですね。その場合の労働はどのように定義されているのですか?」
 
「マルクスは人間と言う種族が生産的な生活するためには、彼がそのために必要とする非有機的自然、これは非有機的身体とも捉え返されますが、それが他の動物よりも普遍的になっていることを強調しています。」

寺田は得意げにオーバーアクションで「オッと、ストップ、ストップ。おかしな言葉が出てきたぞ、何それ?『非有機的自然』『非有機的身体』?そういうのを聞き流すと何のことか全く分からなくなってしまいます。北野さんは哲学プロパーだから簡単かも知らないけれど、みんな分からないですよね、そういう用語は相手が中学生程度だと思って説明してください。」

北野は頷いた。「なかなか難しい注文ですね。有機・無機というのは化学の用語ですが、ここでは自然は人間の物質性ですね。そこで『非有機的自然』を『生物的でない自然』とか、『非有機的身体』を『生物的でない身体』の意味にとったらいけません。有機的というのは器官的という意味なのです。つまり器官的には人間の身体とつながっていないし、人間の身体に含まれないけれど、それでも人間の自然に含まれると見なしてよい、人間の身体とみなしてよいという意味なのです。たとえば蓑虫の蓑は蓑虫ではないけれど蓑虫の物質性、蓑虫の身体とみなしてよいということです。貝などは貝殻で区別されますが、実は貝殻は器官的には貝ではないのです。でも貝殻を含めて貝ですよね。貝の身体だけだと貝とは分かりません。これが例えばビーバーなんかだとビーバーダムや水中家屋もビーバーの自然、ビーバーの身体だということになります。同様に捉えますと、人間の非有機的自然や非有機的身体は人間環境としての地球全体ということにもなります。」

「それじゃあ生態系を重視するエコロジーの考え方は若きマルクスにも見られたということですね。」山本は感心して言った。「そうです」と北野は応えた。「マルクスは自然が自然科学や芸術の対象として存在するだけでなく、衣食住の素材としても存在するというのです。つまり自然は精神的にも物質的にも人間の生命活動を構成している人間の非有機的身体だとします。死なないためには絶えず交流しなければならないという意味で人間の身体だということです。それは自然と自然の交流でもあるということなのです。だって人間は自然の一部なのですから。だから人間の生命活動を自然から切り離して捉えてはいけないということです。」

寺田はくどくなってきたので口をはさんだ。「そのあたりマルクスはねちねちと展開していますが、人間は自然の一部であり、自然は人間の身体だと強調したうえで、その一体的な関係が、疎外よって感じられなくなってしまったということなのですね。それと労働疎外論との関連が分かりにくいのですが。」

「だから人間の場合は、自然との生命の代謝を生産活動として労働を通して行うわけですね。それは自然の大きな営みの一環として行われているのですが、人間にすれば労働は現実の疎外の中では、個人的なあるいはせいぜい家族の生活を維持するための活動としてしか意識されていないのです。つまり大いなる生命の活動という本来の類的な生命活動である労働は、手段に貶められてしまっています。本来個人の生命や生活の維持は類的活動のためにあったのだけれど、それだけが目的になってしまったのです。」

「ハイ」田口幸蔵が挙手した。「個人の生活維持と類的な生活とどちらが目的で、どちらが手段などどうして判断するのですか?それぞれみんな自分の生活のために働いているわけでしょう。結果として人類や自然を再生産しているかもしれないけれど。」

北野は頷いた。「疎外論を展開していた時のマルクスは、人類という普遍の立場で自然との関係を考えていたわけです。しかしそれは哲学的な発想ですわね。現実社会の諸個人は田口君の言うように私的利害で動いている。現実社会に即して捉えるなら、哲学的な本来のあり方などに即して説明しても、相手にされないわけで、それで哲学的良心の清算が宣言されて、『フォイエルバッハ・テーゼ』にいくわけです。」

寺田は困った表情になった。「北野さん、四つの疎外の説明に集中願いませんか。疎外論を払拭したかどうか、いわゆる切断問題ですね、それはみんな関心あるので後でじっくりやるとして、四つの疎外をしっかり踏まえておかないと中途半端になっちゃいますので。」

 

       労働は糧得るための犠牲かは、己が力の発現ならずや

 

「ええ、仰るとおりです。」北野は少し恐縮した。「第三の疎外は『類的本質からの疎外』ですが、動物の場合生命活動から自分を区別しません。本能のまま行動して個体と種族の存続を図っているわけですね。ところが人間は意識的に自分の生命活動を対象化します。
 ところが疎外された状況では、彼は個人的な家庭生活の存続や私的利害を目的として類的な生命活動を行うわけです。ですから当然、労働によって自然を再生産していても自然のことは手段に過ぎません。社会の分業を分担していても社会のことも自分の私的利害のための手段になってしまっています。ただ欲しいのは家族生活のための生活手段ですが、それは労働者の場合は賃金によって購入するしかないので、結局食いつなぐための賃金を何とか手に入れようとする関心しかなくなってしまうのです。本来なら人間の特長的な生命活動である意識的に自然を改造し、再生産するという労働を自己の類的本質存在として、自己実現として、つまり自分の能力が発揮できて自然を我が物とし、生産物を作り上げたことへの喜びとしては感じられないのです。」

「つまり大工さんは家を建てても、それでいくら収入になるかが問題であって、その家としての素晴らしさはただお金に換算されてのみ意味があるということですね。だから別に大工でなくてもいいわけで、散髪屋でも漁師でも、タクシーの運転手でもいいわけだ。より効率的に収入になるかだけに関心があるので、労働力が流動化しやすくなるのですね。」経済学部の二回生高橋友也が口を挟んだ。「『資本論』では具体的有用労働には無関心になって抽象的人間労働がどれだけ積み上げられて価値になっているかだけにしか関心がなくなるという問題として展開されているようですね。」

司会の寺田は少し焦っているようだ。「第三の類的存在からの疎外で人間は自然を疎外するとなってますが、自然と切断されるだけでなく、労働という類的本性から疎外されるということですね、労働が最大の目的であり喜びであったのが、金儲けのための手段であり、犠牲であるということになり、結局苦役でしかないということになるのでしょう。それで第四の疎外はどうなるのですか。」

 

        お互いを目的として結ばれしコミュニティにも疎外はありしか


 「やはりどうして三つの疎外が起こったかと言うと、人間同士が本来は類的生命としてひとつの全体の中で結合している筈なのに、実際は疎外しあって相互支配の状態にあるからなのです。これを『人間からの人間の疎外』と呼んでいます。この場合の人間は個人の意味ですね。個人同士の関係としては互いに他者として対立し合い、疎外し合っているのです。これは市民社会を見れば分かります。市民社会は全体としては社会的分業で互いに補完しあって助け合っています。一人はみんなのために働き、皆は一人のために働いています。でも私有財産制の下では、どうでしょう。商品として生産物を所有し、交換によって必要な商品を入手していますから、それぞれ自分の労働は価値を入手するための犠牲であり、それは他人のための支配された労働なのです。逆に他人の労働を貨幣によって入手することで支配しているわけです。こうして現実には相互に支配しあっているわけですから、人間関係は互いに目的ではなく手段でしかありません。これにはカントの倫理学の影響があるかもしれませんね、榊先輩。」

榊は急に振られて少し驚いたが、すぐににっこりした。「それは同感ですね。カントは近代市民社会を互いの人格を手段にし合う『手段の王国』だと見なしていました。でも人間は他の人格や自己の人格を手段にし合うだけではいけないのです。自己及び他者の人格を同時に目的としても扱えなくては人間の尊厳はないのです。商品経済では互いに手段にし合うだけで目的とし合うことはなくなっているのです。それでも互いに助けが必要になったり、いざと言うときには、欲望に流されずに義務に従うことができなくてはならない、カントに言わせれば、そこに道徳性があるというのです。そこで自律的に行動できなければ人格は成り立たないとしたわけです。カントは資本主義のなかでこそそれができなければならないとしたのですが、マルクスは互いを手段とし合っている私的所有の市民社会を変革して、互いを目的にし合う社会を形成しなければならないと考えたのです。」
 

       疎外生むその根源が私有なら私有の起源は如何に説きしや

 

寺田はほっと一息ついた。「一応四つの疎外が出揃ったところで、疎外が起こる原因ですね、それは私的所有が原因だということでしょう。しかしその私的所有はどうして起こったのか、その原因についてはどうですか?」
 
北野が挙手した。「それが循環論法ですね。つまり歴史的起源から説き起こした議論じゃなくて、資本主義の疎外の現実から、疎外の下では労働が強制的になり、生産物も他者のものになって主体を圧迫する。だから疎外されるのだということです。それで視点を変えて唯物史観から私的所有の発生を問題にせざるをえなくなります。すると疎外論自体も使えなくなるのです。」

樺山も発言を求めた。「人間論という意味でね。疎外論では人間を協同で労働する主体として捉えているのです。協同存在という意味で類的本質をもっていて、労働によって類的能力を発揮し、自然を変革し、再生産するわけです。その意味で自然全体が人間の生命の何たるかを示している人間の自然です。自然というのはNaturですから本性ということでもあるわけです。自然が人間の身体だという表現もそういう人間とは何かを知りたければ自然をごらんなさいということなのです。疎外論はその自然が私的所有の下では人間の他者として現れ、人間によそよそしい、ある場合には公害だらけで健康にも悪い、機械や自動車などとして凶器にもなっている、そういう事態を告発するものでもあるわけです。」

榊は感心して言った、「樺山さんなかなか現代的な問題意識で迫ってますね。大学院は哲学専攻に来てくださいよ。北野さんと樺山さんがくれば懐徳館の哲学科の大学院は最強ですよ。」

寺田はおもむろに言った。「大変白熱してきましたね。いよいよ疎外論から唯物史観への視点変更、アルチュセールにいわせればヒューマニズムから科学への切断の問題へ入ります。『フォイエルバッハ・テーゼ』ですね。ここで休憩を取ります。まだまだ続きますよ。 」

 

 

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