幾多郎・琴の愛の対話篇 

 

             難解を極めし西田哲学をインプットして取り出しうるや

 

このファンタジーでは西田幾多郎を上村 陽一が、山田琴を三輪智子が演じることになった。榊周次は自分が西田を演じようかとも思ったが、陽一と智子のコンビを崩すのを恐れて陽一に任せることにした。その際に超難解な西田哲学を陽一にインプットしなければならない。彼のホームページに掲載してある『西田哲学入門講座』をインプットしたが、はたして陽一がそれを自分のものにできるだろうか、この入門講座は高校生にも分かる西田哲学入門という触れ込みだったが、榊自身が西田の難解には苦しんでいたので、それを読んで高校生が理解できるとは思えなかった。そこで陽一を呼んで簡単な西田哲学入門のおさらいをすることになった。

榊:陽一君いよいよ西田幾多郎役をしてもらうのだけれど、インプットできたかどうか試してみよう。

陽一:ええ!僕が西田幾多郎ですか?そりゃあかなり重荷だなあ。先生がやってくださいよ。

榊:それが西田が還暦すぎに再婚する相手役が琴さんで、それを智子さんにやってもらうので、陽一・智子の名コンビを崩したくないんだよ。

陽一:そのご配慮はうれしいのですが、でも「純粋経験」「絶対無」「場所」「絶対矛盾的自己同一」とか超難解でしょう。

榊:もちろんインプットしてあるから大丈夫な筈なんだが、念のため確かめておこうと思ってね。まず「純粋経験を唯一の実在として捉える」ということはどういうことですか?

陽一:イギリス経験論は実験と観察の結果しか信用しないと言う立場ですが、すると目前に見えている事物は経験を共通の性質などで分析、総合した結果見出されたことになります。つまり経験の解釈に過ぎないわけです。このように事物として対象化される前の、主観と客観が別れる前の経験そのものが純粋経験なのです。これが生の経験ですね。世界は元々生の活き活きした純粋経験の世界として存在しているのです。つまり経験の方が事物より根源的なのです。そして事物についての観念も純粋経験を事物の述語として捉えたものですから、元々は純粋経験からきています。だから純粋経験を唯一実在だとするのです。

榊:じゃあノエシス・ノエマはどういう意味ですか?

陽一:純粋経験は生の世界を経験している意識です。この意識は意識する主体と意識される客体に分かれていないわけですから、意識自身の働きで、意識の内容をまとまりのある事物に統合します。事物として統合された意識を意識の統合された面、つまりノエマと呼びます。つまり我々は客観的な事物を見ているつもりですが、実際は意識自身を事物の姿に統合しているのにすぎないのです。実在としての事物とノエマとしての事物が一致しているかどうか確かめようがないとカントやフッサールは考えましたが、西田は純粋経験を唯一実在とすることで、ノエマを超越した事物は想定しなくてもよいということになったのです。

榊:ノエシスというのは何ですか。

陽一:ノエマに意識は自己を統合していますが、そのような意識の働きを意識の作用面つまりノエシスと呼びます。ノエシスは働きですから、有形な姿で思い浮かべることができませんが、あえてあるものとして実体的に捉えると意志ということになります。

榊:どうして西田は意志が世界を統合しているはずなのに、自分の意識しか存在しないという独我論にならないのですか。

陽一:それは個人があって、それが経験するのではなく、まず経験があるからです。個人の経験は大いなる生命の経験の現われにすぎません。そのことを自覚すれば独我論にはなりません。

榊:では絶対無とはどういう意味ですか?

陽一:ノエマは、事物と事物の関係として現れます。これが「有の世界」です。これは「〜は:である」という形で捉えられます。主語には様々な述語がつきますね。こうして主語の世界が展開します。しかし実は、ノエマも意識の対象面だったわけですから、事物は意識の統合でしかなかったことが分かります。つまり述語に還元されてしまいます。これが述語の論理です。「有の世界」に対して「無の世界」なのです。この両者から区別されるのが「絶対無の世界」です。それは意識を生み出していたのが意識自身であるということを自覚することです。この自覚が自己意識だということです。ですからこれは有や無と区別されて絶対無なのです。

榊:では絶対無である自己意識は自由に世界を生み出せるのですか。

陽一:それは何者にも囚われない自由な主体としてはそうですが、絶対無になりきれないのでなかなかそうは行かないという矛盾を抱えているわけです。

榊:「はたらくものから見るものへ」ということはどういうことですか?

陽一:意志とくに何者にも囚われない絶対自由意志が実在の根源にあって意識として世界を形成していたということを強調していたのですが、しかし世界は自己の思い通りにはいかず、常に西田は不幸に見舞われ、挫折を重ねていました。それで意識が世界を形成する「はたらくもの」であるという立場から、意識が世界として現れるのを見る「見るもの」の立場に移ったのです。もちろん世界と意識は別物ではないという立場ですから、意識に意識自身が世界として現れるわけです。これが「場所」ですね。個々人は意識がつまり世界が現れる場所なのです。

榊:「場所」と絶対無の関係は?

陽一:物の現われる「有の場所」、意識として捉え返される「無の場所」に対して、世界を自己自身の姿として捉え返すのが自覚に基づく「絶対無の場所」ですね。これこそ真の実在であるわけです。なにものにも囚われずに自由な人格として主体的に決断し、行為することができるわけです。

榊:絶対無と死はどう関連するのですか。

陽一:もちろん死を覚悟しなければ世界を自己の姿として捉えることはできないでしょう。予め死を覚悟し、世界とまともに向き合うなかで始めて自由な主体として、世界を自己自身の意識の創造物として引き受けることができるわけです。

榊:それではもう時間がないので、見切り発車でいきましょう。

             琴さんに逢ひたき想ひ切なくて夢の中にぞ愛対話篇
 

 時は当時日本を代表する独創的哲学者であった西田幾多郎の再婚一月前の一九三一(昭和六)年十一月である。その西田が夢を見ている設定だ。西田は婚約中で京都にいて、津田英学塾(現津田塾大学)の山田琴教授とはもうふたつき以上逢ってないので、「かくてのみ直に逢はずばうば玉の夜の夢にぞつぎて見えこそ」という思いが叶ったのだ。


 西田の夢の中で、琴はとても四十七歳には見えない。二十歳はそれより若く見えただろう。「歳に似合わぬ初々しさを残してい」て、そこに惹かれたと『続祖父西田幾多郎』で上田久は述べていますから、その印象が西田の夢では強調されたのかもしれない。西田自身も夢の中では還暦を越えているとはとても見えない。四十代前半には見えた。


 琴は西田の前ではおそらくおしとやかにしていたが、津田英学塾では塾長の片腕となって中心的に活躍していたから、ずいぶん利発で、明るい、物おじしないで何でも言える性格だった。そこで夢の中ではふたりはすっかり打ち解けてラブラブだったのだ。
 

           着古した丹前姿眼にうかべ学徒の胸の想い苦しも

幾多郎
>おお琴さん、あなたは事によったら琴さんじゃないですか?

>そういうあなたは凄いダサイ恰好をされてゲゲゲの鬼太郎さんじゃないですか?
(おっといけない、これじゃあ吉本新喜劇の乗りだ。)

幾多郎
>いやこの着古した丹前姿がすっかりトレードマークになっていましてね。学生達の憧れの的になっているものですから。

>欧米帰りの哲学科の先生たちはみんな立派な背広を凛々しく着こなしてなさるのに、骨董屋で黴が生えたままのような恰好はあまりに見すぼらしすぎますよ。

幾多郎
>これはこれは、若い女性の前では失礼にあたったのかもしれません。なにぶん恋愛などこの四十年間、御無沙汰でしたからね。前の女房は田舎者で、それに病気がちだったこともあり、私の身なりにはとんと無関心だったこともあります。

>先生ももう定年退官されたのですから、背広姿になる必要はないでしよう。でも和服にしてもきちんとしたものを着るようになさらないとね、私が笑われますわ。

幾多郎
>琴さん、その「先生」というのはやめてくれませんか、家庭でも先生じゃどうも落ち着きません。「幾多郎さん」と呼んで下さい。

>はい、先生、じゃなかった「幾多郎さん」。

幾多郎
>琴さん・・・・。

     難しすぎる西田哲学

      湧き出ずる思想のあまりに難ければそを噛み砕くさらに難しや

>先生、じゃなかった「幾多郎さん」の『善の研究』やっと読みましたわ。若い頃読みかけて、あんまり難しいものだから、ほっぽっていたんですけれど、この度の御縁で、お側に上がることになったものですから、ほんの少しでも幾多郎さんのお考えが知れたらと思って読み返してみましたの。

幾多郎
>それはうれしいですね。どうです、ご理解いただけましたかな。

>前よりはずっとね。第二篇・第三篇を読んでから、第一篇を読むとわりと分かり易いですね。でもやっぱり難しいですわ。あるがままの経験を素直に活き活きと受け止めて、いつも生命を充実させて生きることが大切だということでしょう、御主旨は。

幾多郎
>ええ、そうなんです。結局のところですね、言いたかったのはそれだけです。

>それにしても、その後の幾多郎さんの書かれたものは全く理解不能ですわ。読む相手が理解できなくても、哲学の場合は差し支えないのですか。

幾多郎
>これは手厳しいお言葉ですね。私の場合は、自分の中に湧き出てくる思想をそのまま書きつけているだけで精一杯なんです。それを分かりやすくかみ砕いて説明するのは、私にも大変難しいですね。

>でもそれじゃあ折角、湧き出てきたお考えが正しく伝わらないで、いろいろ歪んで受け取られてしまいませんか、幾多郎さんのお考えと正反対のお考えが、これが西田先生の「純粋経験論」だとか「場所の論理」だとか言われて広められたりしたら、それを取り消して、ご自分の本当のお考えを打ち出される必要が出てくるでしょう。

幾多郎
>実際、それで苦労しているんです。

>ところが幾多郎さんの御説明というのが、また皆さんには訳が分からないとなると、目も当てられませんわね。

幾多郎
>実は、これまで何度も哲学者なんかもう止めたいと思いました。でもそういういろんな解釈の論争を通して、その時代が求めている哲学が、次第に分かりやすい形で姿を現してくることになるでしょう。それが西田幾多郎の言いたかったことかどうか、後世の哲学者たちがまた議論してくれたらいいんです。

>あら随分投げやりだこと。でもせめて私には、あなたの学説の中で何か私にとって大切なことをひとつでも納得させて下さらないかしら。そうすれば私は、あなたが学問に打ち込めるように、私の全てを捧げてあなたに尽くすことができる気がするんです。

 
                    真の愛、アガペー

            津田塾のスター教授を捨ててまで幾多郎がため尽くしまほしや

幾多郎>では今ちょうどとりかかっている「自愛と他愛及び弁証法」という論文を、琴さんに分かるように説明しましょう。この論文は元々琴さんに捧げるつもりで取り組んでいるんですから。

>私たちの愛がテーマですのね、胸がドキドキしますわ。でもこの歳では気恥ずかしいですね。

幾多郎>いや全くチャラチャラしたところはありませんから、ご心配なく。ところで人は人を愛すると共に、物を愛するとも言いますね。

>ええ、宝石だとか呉服だとか、物にたいそう愛着をお持ちの方が多いようですね。でも私は物や財産には全く執着はありません。家族を愛し、学生たちを愛し、そしてこれからの人生はあなたとあなたの娘さんたちを愛して生きようと思っています。人を愛しているかぎり、人生に飽きが来るということはありませんもの。

幾多郎>なんとお優しい御言葉、胸に滲み通ります。そうです、物は欲求の対象とはなっても、愛の対象となることはできません。物を愛する人は物から自己の欲求を満足させてもらって、それを喜んでいるだけです。純なる愛とはね、琴さん、自己が自己を否定するところに喜びを得るものなのです。真の愛とは愛する者の為に自己を捧げて、そのことに自己の意義を見いだすことなのです。

>自己を見いだせるのなら、自己を否定していることにはならないのではないですか。

幾多郎>自己と他者は全く別々の主体だったわけです。私は私であり、あなたはあなたなのです。全く今まで係わりなく生きてきました。こうして真実の愛で結ばれますと、琴さんなしの幾多郎の人生は考えられません。琴さんも私と病んだ娘たちの為に、これからの人生を捧げて下さるとおっしゃる。それは今までの自己じゃなくなることですから、否定なのです。

>否定と言いますと、価値的に駄目なこととして退けるように受け止めていたものですから、そうしますと、変わる為にこれまでの自己じゃなくなるのも、価値的にプラス方向でも否定と言えるのですね。

幾多郎>いや、そういう意味じゃありません。否定であるということにはマイナスがあるわけです。琴さんは幾多郎との人生を選択されることによって、津田塾での多くの価値あるものを捨て去る決意をされたわけで、そこで犠牲やマイナスが生じています。そして私との人生を選択されなかったら、その時間を別の事に費やせたわけですから、そういうもう一人の自分の可能性も否定しているわけです。そしてそういう否定を介して得られるものに喜びを感じることができるのが真の愛なのです。

>さあ果たして喜びと素直に言えるでしょうか、私を待っているのはとても厳しい試練かもしれませんわ。だって幾多郎さんに家庭の心配をできるだけかけないで、哲学に没頭していただくのはとても大変なことだということは、よく承知しております。西田家にはそれなりの不幸や確執もあるでしょうしね。でも日本の学問を代表されている先生が、見すぼらしくて、すごく不幸な家庭生活を送ってらっしゃるということ、お聞きして、また実際この目で確かめて、とてもいたたまれない気持ちにかられたんです。不思議ですね、あれほど誇りにしていた津田塾教授のキャリアだって、ちっとも惜しくなくなったのですから。きっと先生の一途で純情なご性格にほだされたのですわ。

幾多郎>ギリシア人は理想や美に憧れ、それらを実現し、享受しようとします。イデアを求めて向上しようとする愛をエロスと呼んだのです。それに対して、キリスト教では分け隔てない、自己犠牲的な神の人間への愛をアガペーと呼びました。そのアガペーによって人の心にも神への愛と隣人への愛が生じます。これもアガペーの一部なんです。というより、アガペーすなわち神の愛は、人間の人間に対する愛として現れる働きとしての神です。

>クリスチャンと申しましても、ただ神を信じて、神の愛に感謝して生きているだけですわ。神学的な難しいことは全く分かりませんし、分かろうとも思いませんでしたの。「神は愛なり」と申しますね。西田哲学では、神がいて、人間を愛するのではなくて、愛する働きが神だということですか。

幾多郎>ええ、神は物のように対象として捉えられるわけではありませんから、意識の対象面であるノエマではないんです。むしろ産みだす働きとしての意識の作用面ノエシスにあたるわけです。『バイブル』の神は、超越神だと言われます。神は天地を創造された万物の創造主だから、このコスモス(宇宙)の外に超越していて、コスモスを支配されておられるという捉え方です。つまりノエマ的に理解しているんです。しかしそうしますと、自然には自然の法則的な働きがありますね。人間界には人間たちの働きがあります。超越している神だと、外からそれらにおせっかいをやくことになってしまいます。

>いろんな奇跡を起こされて救って下さるのですか?どうせ救ってくださるなら、平等にお願いしたいですね、何か恨みでもあるように、特定の家庭にこれでもか、これでもかというように不幸を与えられるのはどうかと思いますわ。

幾多郎>あなたに出会う日まで、それは私の実感でした。そこで神がコスモスに干渉するのは、神の創造が不完全だったことになりますね。もし神が完全なら、干渉の必要はないわけです。ということは神の愛を示されるのは、神の完全という概念に反することになります。

>ということは神は愛ではないのですか。

幾多郎>神を超越神だけに一面化して捉えたら、そういう矛盾が起こります。でもこうして高齢の私たちの間にも奇跡みたいに愛の花が咲き、鳥たちが天使のように囀っています。瞬間、瞬間に新たなコスモスが創造されているのです。それを生み出しているのは私たちの愛であり、私たちが愛し合うことで、神の愛は実現しているとは思われませんか。

>『善の研究』では、私たちの人間の純粋経験が神だとおっしゃっていましたね。幾多郎さんの中では、神と御自身が区別されておられない。自分自身を神だとされておられます。これほど神を冒涜されることはないんじゃないですか、とても恐ろしいことですわ。

幾多郎>哲学は真の実在としての神を埒外に置くことはできません。中世では教会の力が強くて、哲学は神学に遠慮して、神学の婢に甘んじていたこともありましたが。真の実在には、私たちも係わっている筈ですね。それは絶対確実な直接経験であるというのが、純粋経験論なのです。『バイブル』の「出エジプト記」にモーセが神の山ホレブ(シナイ山)で神の名を尋ねる場面がありますね。その時、神は何と名乗られましたか。

>「有りて有る者、有りて有る者というお方が、あなた方をエジプトの苦しみから連れだす為にわたしをお遣わしになった、と人々に告げなさい」とあったと記憶しています。

幾多郎>この「有りて有る者」というのは「エヘイエー」の訳なんです。古代ヘブライ語では、「ある」という動詞の半過去形を「エヘイエー」と言うそうです。そこでキリスト教神学では、神を「存在」として解釈するようになったのです。ですから私たち人間も「存在」としては神と合一しているのです。たとえ現実には主観と客観が分裂し、「大いなる命」としての神がずたずたにされて、世界が死んだ物体の関係として捉えられたり、身勝手な欲望の対象に貶められたりしても、その世界の底の底には真実在として神と人間は合一している筈なのです。神との合一を説くキリスト教の立場は、神秘主義と呼ばれ、長い伝統を持っています。確かに超越神論を強調する人達からは異端視されてきましたが。あなたは敬虔なクリスチャンでいらっしゃるから、よく御存知ですね。

       人格的自由と真の個物

     何もかも捨て去りて吾無一物ただ自由意志命ずるままに

>私たちの愛が神の愛であり、神は愛だから、私たちの愛が世界を創造することになると言われましたね。そのお考えはとても志が高いお考えですが、ナルシシズムの極致のようにも受け取られかねませんね。ちょっとついて行けないという感じです。

幾多郎
>おや、特別のことじゃないですよ。こうして二人の愛は、一つの愛の世界を作り上げているじゃないですか。実際、あなたが西田の家に入られたら、あなたの愛がわが家に明るい光をそそがれ、息子の外彦夫婦もわたしに気兼ねすることもなくなるでしょう。娘の静子も話相手ができて、気が休まるでしょう。それだけでも随分明るい世界になるじゃないですか。

>オホホホ、幾多郎さんが「世界」なんておっしゃるから、二人の愛が宇宙を創造するのかと思いましたわ。

幾多郎
>何億光年の宇宙というのも天文学が考えだした世界です。人それぞれに違った生活空間があり、宇宙や世界と言っても実際には、人の数だけ違った姿をしているのです。ですから宗教的には神の愛として捉えられる一般者としての愛も、具体的に自己を限定して現れる時には、一人一人の愛が自己を限定する形をとって現れるのです。

>幾多郎さんが琴を慈しんで下さり、琴に愛の家庭を作る喜びを与えて下さるのも、やはり神が私を愛して下さっているということの現れなんですね。神に感謝しますわ。

幾多郎
>琴さんは私をヨブの苦しみから救い出してくれました。これも神の愛の現れであるのです。あなたこそ私のお上さんです。(笑い)くどいようですが、私のような還暦を過ぎた老人の許に嫁がれるというのは、さぞかし清水の舞台から飛び降りるような決意をなさったのでしょうね。

>ええ、でも私はクリスチャンですから、神様が求められるところだったら、たとえ地の果てだって厭いませんわ。学校の寮に岩波さんに連れられてあなたがいらしたとき、見すぼらしい恰好で、少しはにかんでらっしゃる幾多郎さんのお姿が目に入ったとたん、私が何とかしてあげなければって、そういう思いが電気のように体内をはしったのです。それですぐに神様が求められているところが幾多郎さんのところだと直観的に分かったのです。西田哲学ではそういうの「直覚」と言うんでしょう。

幾多郎
>これまでの大切な生活を全て捨てて、全く新しい世界へ飛び込んでいける、これは自由意志の力です。人格があるから自由意志が宿るのです。これは単なる事物や生物や獣にも真似のできないことです。自由意志があってはじめて自分を自分で限定できるのですから。自分が自分を限定できることによって、他者や他の事物から自己をきちんと区別して捉えることができるのです。その意味で人格的な自己こそ真の個物だと言うことができるのです。

>個物と言えば、個物を実体だと捉えたのはアリストテレスでしたね。彼の場合、個物の典型はたしかエイドス(形相)とヒュレー(質料)から成り立つ個々の事物でしたね。普通なら人間は人格を持っているからただの個物ではないと捉えるのじゃないかしら。

幾多郎
>単独者という意味での個物は、他から限定されないのです。普通の事物は個物としては様々に他から限定されるでしょう。また単独者は他に依存していませんから、他の個物を限定することもないのです。そういう意味で真の個物とは言えるのは人格だけです。

>人格だって人間関係や環境に随分左右されますわ。「孟母三遷の教え」という言葉があって、子供を立派に育てるために孟子の母は、住居を三度も変えたというじゃありませんか。それに「井の中の蛙大海を知らず」とも言いますわ。子供が問題を起こしますとすぐ、「親の顔が見たい」なんて言うでしょう。遺伝や親の躾けで子供の人格は、大いに左右されるものです。

幾多郎
>確かにそうです。そういうことに異論はありません。私が言いたいのは、自由意志による決定です。どんなに困難な事情があれ、いや事情が困難であればあるだけ、自由意志はそれに逆らってでも自己を決定します。何ものにも囚われない精神で自己を貫くところに人格があるのです。

        跡取り息子外彦の進路
 

      好きだけで仕事にすまじ哲学は狂気にも似た才なきならば
 

>でもそういう人格の自由というのを貫ける人は幸せですね。親が娘の相手を勝手に決めて強引に結婚させたり、息子が嫌がるのも聞かず、親の仕事を継がせたり、反対に親の仕事を継ぎたいと言っているのに、こんな仕事は大変だからやめとけとかいって、無理やり進路を変えさせたりする親もいるようですね。

幾多郎>それはひょっとしてわが家のことを言っているのですか?

>いいえ、何も伺っていませんわ。でも幾多郎さんも人の親ですから、哲学では「人格の自由」など謳いあげておられても、息子さんの進路のことでは髄分干渉なさったのではないですか。

幾多郎>長男の謙は大正九年、二十三歳で急病で夭折しました。あいつは少々ひっぱたたいても父親の言うことなど聞きませんでした。大正十一年の夏、次男の外彦が急に哲学者になりたいと言ったので、私が必死で手紙で説得して諦めさせたことがあります。彼は大学で既に理学部で物理学を専攻していたんです。それが哲学や文学に興味を持ったので、哲学科に変わりたがったのです。母親は不治の病で寝込んでいて、三人の娘は病弱で学校を遅れている有り様で、外彦には将来西田の家を継ぐ者としての自覚を持って欲しかったのです。それが自分が主体的に選んだ筈の物理学に身が入らず、哲学や文学の方が面白そうだから、そっちに変わろうかなんて怠け者の科白です。学問はそれを真面目に長年積み重ねてこそ、興味も深まってくるものです。

>そうでしたか、私は何も聞いていませんよ。それにしても外彦さんはお父様を尊敬していらしたから、お父様の跡を継ぐのが親孝行とお考えになられたのではないですか。それに幾多郎さんの血を引いてらっしゃれば、哲学者として大成されるかもしれないじゃないですか。

幾多郎>それは甘い考えです。自然科学ならその学問をこつこつ積み上げていけば、それなりの水準に達して、一応業績も挙げられるでしょう。でも文芸や哲学というのは非凡の天賦と非常の努力が必要です。確かに万人が文芸や哲学に親しみ、読んで味わうべきですが、軽々しく専門とすべきじゃありません。百人に一人、千人に一人も真に成功することはないでしょう。
(この西田の判断はある意味では正しいのですが、もし外彦が哲学科に変わっていれば、親の七光で大した業績はなくても、どこかの大学の哲学教授には成れた可能性は大きいでしょう。物理学を専攻したからといって学問的に大成するのはやはり大変難しいことなのです。とはいえ、外彦も哲学者になっていれば、親を乗り越えられない苦しみを味あわなければならなかったでしょう。この苦しみからノイローゼになったり、自殺を図ったりするのもまれではないのです。)

>外彦さんはお父様の必死の説得を聞き入れられたわけですね。その上でご自分の意志で物理学専攻を続けられたのなら、お父様に人格的自由を踏みにじられたとは言えませんわね。

幾多郎>やはり私も人の親ですから、子供の事となると心配が先に立って、とても平静ではいられないところがあることは事実です。それが子供たちには精神的な重圧になっていることもあるでしょうね。

         マルクスボーイと人格的自由

       経済が全ての意志を規定せば人格自由は認め難しや

>耳学問ですが、キルケゴールが単独者の実存の立場を強調したとうかがったことがあります。罪を背負ったまま、神の御前にただ一人立つ単独者の実存ですね。

幾多郎>そうなんです。悪に染まり、罪を犯すのも覚悟の上なんです。自由意志を貫くためには、神の掟にも逆らい、親に逢えば親を殺し、師に逢えば師を殺さなければならないかもしれません。無門慧開の『無門関』(岩波文庫)という禅書にそういう思想が書かれているんです。本当に殺せというのではなくて、全ての既成の考えや、決まりや体制に囚われないで、生きないかぎり仏法は悟れないということです。本当に人格的な自由というものがあり、自由意志によって生きるということなら、正義を貫くために監獄や軍隊を恐れていては何もできません。

>あら幾多郎さんまで主義者のような事をおっしゃって、そういえば先生のお弟子さんにはマルクスボーイがおられるとか聞きましたわ。

幾多郎>マルクスボーイもいれば、近衛文麿のような将来の首相候補もいます。マルクス主義者たちはむしろ、経済的な生産力や生産関係に人間の観念形態は限定されてしまっていると説く決定論の立場に立っています。自由意志とか人格の自立の立場を見失っています。だから彼等が起こす革命で出来る権力は、人間の人格的自由を容認するとは思えませんね。

        非連続の連続

      その刹那絶対の無に触れし折時は消えたり罪に死せりや

>絶対自由意志を持った時、その時、全ての既成のものはいったん否定され、再吟味され、新たに意志に叶ったものだけが再生するわけですね。まるで審判の時が来て、いったん時が止まるみたいだわ。

幾多郎>単なる事物では時は過去から未来へ連続的に流れるだけです。自覚つまり世界が自己の意識であるという立場に立って、時というものを捉え返しますと、時はいつも現在から始まります。各瞬間に於いて絶対無に触れて、消え去るのです。そう審判です。自分で自分に判決を下すのです。今までの自分は罪に於いて死に、私は復活のキリストとして甦ります。

>今罪によって裁かれて死んだところなのに、もう次の瞬間には生き返っちゃった、現金なものですね。

幾多郎>だって生きるのは今までの自分に決着をつける為に、つまり死ぬ為に生きるのであり、死ぬのは新しく生まれ変わる為に死ぬのですから。こうして人間は瞬間から瞬間へ点から点へ非連続の連続を生きるわけです。

>えらくせわしないですね、じゃあ今こうして話している間にもあなたと私は無限の生と死を繰り返したのですか?

幾多郎>数学的に線は点の連続ですね、各点が個として独立しているならこれは無数の非連続の連続です。というのはあくまで点なり線の概念としてそう言えるということです。時も真の個物にとっては、非連続の連続だという場合でも時の単位を小さくしていけばそれこそ無数の生死の繰り返しで、罪を犯す暇も反省の暇もあったものじゃありません。私たちは今人間の生き方、人生の捉え方について語りあっているんです。ですからそうした非連続の連続という生き方が、自己自身を限定する人格的自由を踏まえたら浮かび上がってくるということです

       自愛と他愛
 

     もしかして吾が身が辞書であるならば使われまほしやボロになるまで
 

>なるほどそこまで説明してもらうと分かってきます。常に現在において一人一人が人格的な個人として、全ての行きがかりやしがらみや固定観念に囚われずに、絶対無に接することで、全くの白紙に返して、ヨルダン川で洗礼を受けるような気持ちで、自分の生き方、考え方を吟味して、自分の生を常にリフレッシュする生き方を説いておられるわけですね。つまり惰性で生きていたら、ついつい機械的になってしまって、命の通った生き方ができなくなり、物事にも柔軟に対応できなくなって、自分の力が出せなくなってしまうということでしょう。それに状況や関係に流されて、自分の責任で決定することがなくなってしまうと、自分の人生を自分で生きているという充実感も無くなってしまいますね。

幾多郎>要するに自分を大切しよう、自分を愛そうという呼びかけです。非連続の連続として各点、各瞬間の各自己を貫く同一性が人格であり、この人格を愛するから自己自身を限定するのです。しかしこの自愛は絶対無に接して死に、そして常に現在に於いて生まれる、つまり自己を否定することによって真の自己を見いだす愛なのです。

>いつも自分のことしか関心がないなら、この自愛はたとえ自己を否定することがあっても他愛にはつながらないように思えますが。

幾多郎>ここに英語の辞書がありますね、もし使わなかったらいつまでも新品同様です。でも毎日使っているものだから、こんな風に糊が取れたり、ぶよぶよになって、手垢で汚れてしまっています。もし辞書に意識があって、自愛に生きていれば、人にできるだけ使って欲しくないと思うでしょうか。琴さんが辞書だったらどうですか?

>私は淋しがりやだから、いつも側に置いてもらって、しょっちゅう使って欲しいですね。ボロボロになるまで使い切って欲しいわ。だって私は辞書として役に立ってはじめて生きることができるんですもの。もし使われなければ死んでいるのと同じだわ。辞書が自分を愛しているのだったら、人から愛されたいと切実に願うでしょうね。

幾多郎>つまり辞書は人にラブコールしているわけです。だから自愛は他愛を含んでいるのです。琴:でも自己中心主義で見栄っ張りで、平気で嘘をついたり、約束破ったり、お金をたっぷり持ってるくせに、できるだけ代金を払わずに済まそうとしたり、ちょっと気に入らないとすぐに罵倒したり、ひっぱたいたりする人もいますね。自分が幸福になるためだったら、人を不幸にするのは平気の平左って人、全く自愛だけって人いるでしょう。

幾多郎>いる、いる。でもそういう人が存在できたのは、そういうやり方で周囲の人達が恐れをなして、ある程度強引に通してこれたからです。普通なら皆に嫌われちゃって、相手にされなくなり、家庭も崩壊して、何もかも失ってしまいます。他人を疵つけ、踏みにじって生きていれば、当然相手からのしっぺ返しが来るものなのです。他愛を含まない自愛というのは、結局は自分を損なうだけで真の自愛ではありませんから、破綻せざるを得ないと思います。それにそういう人は、絶対無に接した自己否定、死して生きるということを体験していないと言わざるを得ません。本人は人の百倍もそういうこと体験したと強弁するでしょうが。

>私が津田塾で教授をしたり、日本を代表する哲学者西田幾多郎の夫人になったりするのも、私自身の可能性を試し、私なりの幸せを掴もうとするからで、やはり自愛として世間には写っているんでしょうね。私自身は、女学生の学力を伸ばし、お世話をして皆が幸せになって欲しいだけだし、幾多郎さんのお側でお世話が出来、御心を慰めることが出来たらと思っているだけなんですけれど。

幾多郎>だから自愛と他愛はもとより別のものではなくて、自愛は対象面つまりノエマ的な限定で、感情移入した英和辞典の場合は、英単語の意味を対象的に表示することです。他愛は働きの面つまりノエシス的な限定で、英和辞典の場合は使用者のボキャブラリィを豊かにしてあげるというサービスなのです。他愛の面は他人からは見えませんから、愛の自己限定は自愛の形の自己限定で捉えられるのです。それでよく他愛というのも結局は根底において自愛なんだと言われますが、その場合の自愛は、真の自愛ではなく、単なる欲求の満足を意味しているに過ぎないので、正しくありません。

>愛は感情ですから気持ちが入らないと起こりません。自己限定して床屋さんになったとします。床屋で生きていくんですから、床屋になるということは、愛の自己限定ということでしょう。でもその床屋さん確かに自愛はあるでしょうけれど、お客さんよりお金の方を愛していて、どんなに散髪の技術が優れていたって、お金の為に散髪しているんで、他愛にならないことってあるでしょう。

幾多郎>金もうけの為の床屋というのは、欲望の為に生きているわけですから、愛の自己限定の場合のような、真の自己否定を踏まえていないわけです。例えば、寿司屋で失敗したから床屋という場合、一見自己否定のようですが、自己否定によって真の自己を見いだせているわけではないのです。たしかに散髪の技術さえ優れていれば、床屋として営業的には成功するでしょうが、真の個物として自らの罪に目覚め、現在の瞬間において絶対の無に接して、死んで甦ったわけではないのです。だから本来の自分ではない様々な欲望やしがらみに取りつかれています。自分を見いだし、その自分を愛する本来の自愛もなければ、自愛による社会的限定による他愛にも達していないことになります。
 

        自己中おばさんと守銭奴床屋
 

       幾多郎は饅頭好きのそのあまり客の分まで知らず食いたり
 

>先程の自己中おばさんや今度の守銭奴の床屋さんというのは、かなりひどいかもしれないけれどどこにでもいる普通の人々ですよね。そういう人々も人格を持って生きているわけで、そういう人々を排除した議論になっています。何も哲学者だけが非連続の連続で絶対無に触れてリフレッシュできているわけではないでしょう。先生と坊さんと議員さんの人格は立派かもしれないけれど、人格を持って生きているという点ではみんな変わりないわけでしょう。幾多郎さんの仰っているのは理想的人格のようなもので、高尚すぎて庶民には無縁に響くのじゃないでしょうか。

幾多郎>それは誤解です。哲学者が高尚なんてのは大嘘です。饅頭の食い過ぎや煙草の吸いすぎは体に悪いと分かっていても、つい浅ましくも手が出てしまいます。客が来て茶菓子が出ていると、つい知らない間に客の分まで食べてしまう始末です。私はそういうことで自己嫌悪に陥るいじけた人間なのです。自己中おばさんは堂々と自分のやりたいようにやりゃなけゃ気が済まない、大した器量です。徹底した儲け主義の床屋さんも、合理主義を貫徹している点では尊敬に値します。それに床屋になるとかは職業選択の問題で、生き方の問題ではありません。現在において瞬間的限定の底から自己自身を限定して絶対無に触れるということと直接関連するわけではないのです。哲学者でも議論だけで絶対無に触れたつもりになって、実際には自己中爺さんの人もいるし、守銭奴学者もいるわけです。

>自愛とか他愛とかという愛の問題は、その人の生き方以前に感情の方向としてだれにもあることです。絶対無に触れるというのは生き方の問題で、永遠の今に生きるような真の個物的限定をしないと体験できないのでしょう。ところが一方で西田哲学は存在論ですから、全ての人が根源的には絶対無に接しているし、個物的限定をして、永遠の今を生きているということになるんじゃないですか。

幾多郎>琴さん、あなたは私なんかより哲学者に向いているんじゃないですか。お上手に整理なさる。私など問題が整理できなくなると時々堂々巡りになって、同じようなことばかり書いているんだけれど、ちっとも議論が進まないということがよくあるんですよ。すると西田の文章はどこから読んでも同じだなんて野次を飛ばされてしまう。

>あら私は訳が分からなくなって、ああ言っただけですよ。

幾多郎>ですから人格的存在として人間である以上だれもが死に接しています。ハイデッガーは「死の先駆的決意性」と名付けました。予め死を覚悟しているからこそ、生きているわけです。絶対に死なないなら、何も食べたり働いたり、議論したりする必要はないわけですから。死といういわば絶対無を抱えて、当面死なないためにどうすべきか、長く生きるためにどうすべきか、どうせ死ぬんだから今をどう生きるべきかという観点でそれこそ万人がどれだけ自覚的か無意識的か差はあるとしても、現在の瞬間を個物的に自己限定しているわけです。

 それは人間社会の中で自己を社会的に限定することです。職業選択もその意味では愛の自己限定に含まれます。何かの職業に就かないと生きられないわけで、生死の問題と繋がってますからね。職業に就くというのは明らかに生きるための自愛的行為です。生きるというのも自愛的ですよね。自愛があるから生きられるので、本当に自分がとことん嫌になったら死を選択してしまいます。

>さきほど職業選択と絶対無に触れるというのは関連しないと仰ったばかりですよ。

幾多郎>ええ確かに、何か閣僚の国会答弁のように一貫性がないと思われているようですね。私が言いたかったのは、寿司屋か床屋かの選択は生き方の問題とは直接関連しないということです。何かの職業に就くというのは生きるためですから、職業選択しないでブラブラするのと比較すると生きる事に前向きです。要するに社会で何らかの生きるための場所を得て活動するということは、必ず他者との交わりであり、他者への働きかけであり、他者にとって役立つことをしてあげる奉仕であるという面を持っています。その為に自分の時間を費やすわけで、何らかの自己犠牲、自己否定を伴っています。それでいてそれが社会の中で自己を見いだす行為ですから、他愛的な面を持っているのです。ですから他愛的な感情を自然と抱く筈なのです。ところが自己中心主義で自分しか見ようとしない、自分にしか関心がない、あるいはお金に還元してしか物事を捉えられないとなると、他愛的な感情が薄れてしまいます。

>社会的な自己限定がきちんとできていないわけですね。でもそういう人でも社会で活動して生きようとしているかぎり、絶対無に触れていることになるのでしょう。

幾多郎>ええ誰しも絶対無に触れているという意味ではね。でもその事を忘れているんじゃないかということです。つまり絶対無に触れて、なにものにも囚われない自由な精神に帰れば、自己中や守銭奴的な生き方はできない筈だという生き方レベルでの批判です。

>あら、幾多郎さんは、自己中や守銭奴的な生き方こそ自由な生き方だと賛美されたんじゃないですか。

幾多郎>図太くて、器量が大きいとか合理的とかという賛辞を贈りましたが、全面的に肯定したわけではありません。その前に厳しく批判しておいた筈です。自分が孤立し破綻するような生き方、他者への思いやりを無くしてしまうような生き方は、私利私欲に囚われて本当の自分を見失った生き方なのです。絶対無に触れるということはそういう私利私欲へのこだわりも含めて、全ての固定観念やしがらみから解き放たれることです。その意味で自己中や守銭奴的な生き方をする人は絶対無にきちんと向き合っていなかったということですね。でも欲望や歪んだ自尊心から本来の自己を見失って、軌道を踏み外し、悪に染まるというのは、多かれ少なかれ誰にもあることです。

       個人的限定と社会的限定

      石つぶて君投ぐるまじ罪人にやましきところ無きは無きゆえ

>売春婦に向かって石を投げる人達に、イエス様は「心にやましいところの無い人だけが石を投げなさい」と諭されました。そうすると誰も石を投げることはできなかったと福音書にあります。だれもが罪から逃れることが出来ないとしたら、救済は人類の罪を自らの血で贖われたイエス・キリストへの信仰に頼るしかないのではないでしょうか。

幾多郎>悪というのは根本的には自らの個物性を破壊しようという意志なんです。精神分析学者のフロイトは、人間の根源的な衝動に生への衝動エロスと死への破壊的衝動タナトスを挙げました。

>アガペー(神の愛)によって創造された大切な命を感謝して、喜んで生きるのではなく、生きることの様々な苦しみから逃れて、人生から逃避しようとする気持ちですね。でもこの死への衝動を否定するのだったら、生の方向に行くのですから、死して生きるということにはならないのじゃないですか。

幾多郎>いや単独者としての個物は、自分自身では動きませんし、他から動かされることもありません。個物が動く物になるためには、個物は自己自身を破壊しなければならないんです。こうして個物は死することになりますが、死することによって自己を見いだすのが愛ですから、破壊された個物はそこで絶対的な神の愛に包まれて甦り、先程の個物とのアイデンティティを見いだして、動く個物として生きるわけです。

>さっぱり分かりませんわ。神は根本悪によって自殺した個物をどうして救済されるのですか。

幾多郎>それは単独者として神から離れて突っ張っていた個物が、個物性を破壊して、神の懐に帰ってきたからでしよう。個物はアリストテレスのいうように主語になって、述語にならないものです。つまり一般者で規定しようとしても、それが完全な個物ならまだ何か規定できる筈なのです。でも個物性が破壊されたのですから、個物は一般者の現れとしてつまり具体的一般者として自己自身を限定します。

>つまり私は、完全な個物としたら無限の属性を持っていることになるけれど、実際にはこの世界で、様々な関係に縛られて生きなければならないので、イングリッシュ・プロフェッサーという一般者の具体的現れに自己を限定しているというわけですね。

幾多郎>ええ、そういう個物の自己限定という形でイングリッシュ・プロフェッサーという一般者は、自己を琴さんという人格に限定しているわけです。イングリッシュ・プロフェッサーという一般者は、琴さんに自己実現を図るのです。琴さんにわれこそはイングリッシュ・プロフェッサーのお手本だというところを見せてほしいと期待しているのです。そして琴さんの方は、個物であるということを殺して、つまり無限の可能性を無くしてまでも、自己をイングリッシュ・プロフェッサーという一般者に限定したんですから、当然イングリッシュ・プロフェッサーとはこういうものだというあるべき姿、当為を示さなければなりません。自己自身をイングリッシュ・プロフェッサーのイデアとして社会的に提示しようとするわけです。

>それでこれまで頑張ってきたんだけれど、ですから後ろ髪を引かれる思いはすごくあるんです。でも幾多郎さんに望まれたら、自分が真っ白になっちゃった気がして、これはもうイングリッシュ・プロフェッサーのスターの座を降りるしかなくなったんです。

幾多郎>個人は社会に於いて生まれますが、社会的になるということは、もはや個人が個人ではいられなくなり、個人としては死ぬということです。その逆に個人が個人として生きようとすると、社会を否定することになります。琴さんの場合は社会的限定を降りるということですね。でも今度は西田幾多郎夫人という限定を受けます。西田幾多郎は隠居の身にすぎないという意味では、社会的限定の色合いは薄いのですが、現代日本においては西田幾多郎夫人という限定は社会的限定の意味が大きいのが現状です。


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