第十一話 ツァラトストラの人間論
 

       大いなる命の知恵を与えんと山降り行くツァラトストラ
 

 上村 陽一は山を降っていた。十年間も山の上にいてすっかり、自分がだれだか忘れていた。毎日太陽や鳥や風や岩や木々たちと語らっていて、少しも飽きなかった。下界にいたときは、たくさん厭な事があり、下らない事に煩わされ、醜いものを見すぎて、心が酷く傷つき汚れてしまった。それで参拾歳の時、逃げるように地上から山に登ったと思うのだが、その記憶も全くぼんやりしていて思い出せない。
 彼は洞窟に住んでいたが、蜜蜂を飼い、山羊を飼い、野の草花や鳥や兎などをとって食べていた。随分太陽や蛇や鳥たちから生きる力を受け取り、生きる術を学んだ。彼は大いなる命の知恵に溢れていた。この命の教えを下界の人々に伝えなくてはならない。大いなる命から離れ、現実から逃避して、小さな幸福に閉じ篭ったり、宗教的幻想の虜になり、この世界の別の世界が存在するとする背世界の幻想に囚われてしまっている人々を、本当の生命の道に目覚めさせなければならないと思ったのである。

 途中でいくつもの森を通り抜けた。すると「やあ、お久しぶり、君はツァラトストラじゃないか。すっかり別人になってしまったね。」と呼び止める声がした。森で一人の老人と出会ったのである。陽一は驚いた。「それじゃあ、私は、十九世紀末のドイツの実存主義の哲学者ニーチェの叙事詩『ツァラトストラはかく語りき』のツァラトストラですか?凄い役が回ってきたな。じゃあお宅は、人間たちから逃れて森にいて、神を讃え、動物たちと暮らしている聖者ですね。こんなとこにいても人間は救えませんよ。あなたも神に仕える聖者なら、人間に教えを伝えなければならないのではないですか。」
 

 「それじゃあ、君は人間に何か教えようと思っているのか、知恵を授けようと思っているのか、そりゃあ無駄だよ。こちらがいつも裏切られ消耗するだけだ。」森の聖者はもううんざりという表情をした。そして続けた。「人間たちに接するときには、まず彼らの話を聴いてやり、彼らの重荷を背負ってやらなければならない。その上で彼らが君の教えを求め、進むべき道を示して欲しいと切実に君に求めたら、その時にはじめて教えてやればいいのだ。そうでないと彼らは疑り深いから、君に何か騙し取られるのではないかと警戒するんだ。」

 ツァラトストラは頷いた。そして話題を変えた。「それにしても、こんな森にいて賛美歌ばかり歌っていても、仕方ないでしょう。よっぽど人間たちにはこりごりだというような体験をされたのですね。あなたの話を伺ってもこちらまで気が滅入りそうだから、おさらばします。」

 陽一は一人になってからつぶやいた。「それにしてもあの爺さんは、ついぞ聞いたことがなかったのかな『神が死んだ!』という言葉を」

 

           人間を克服すべく何をした大地の意義に忠実であれ

 

 陽一は町に入った。彼は『ツァラトストラはかく語りき』を読んでいた。榊周次が滅入っているときに読むとモクモクと力が湧いてくるというものだから、勉強に気が入らないときなどは、最初の「ツァラトストラの序説」の部分を繰り返し読んでいたのである。もちろん、具体的な記憶は消えているが、内容は詳細に覚えている。町に入ると、そこでは綱渡りが催されていて、市場に人が集まっている、その民衆に向かって、ツァラトストラは最初の説教をすることになっていた。
 

 「われなんじらに超人を教う。人間は克服せらるべき或物である」だったな。でもこの竹山道雄訳では、堅くてファンタジーにはならない。白けちゃいそうだ。「みなさん、みなさんはご自分の限界に挑戦していますか、壁にぶつかったらすぐにこれが自分の限界だって、自分に見切りをつけてしまって、妥協してしまってませんか。」

 三十代の一人が言った。「俺は若い頃さ、二十歳ぐらいまでだったら、餃子三十ぐらいペロリと平らげてたもんだけど、いまじゃ十五個が限度だな。」別の五十代の男が言った。「そういえばジョギングで十キロまで走ったけど、それ以上距離を伸ばすのはきつくて、あきらめちゃった。このごろ五キロがやっとだよ。」
 

 「餃子百個食べれるようになるのが人間の限界へのチャレンジかどうか大いに疑問ですが、ともかく人間は進化の頂点に到達してしまっています。つまり環境が変化して、今までの姿では新しい環境に適応できなくなれば、動物たちは自分の身体を変化させて、新しい自然環境に適合するわけです。ところが人間はその際、身体はそれほど変化させないで、道具や機械を改良することで新しい環境に適合してきたのです。だから個人的な身体のレベルではほとんど進化していないのですよ。」
 

 「それじゃあ、道具や機械の進歩によって人間の将来は安泰じゃないか?」と群衆の一人が言った。まてよ、ここでツァラトストラは、進化の途上にある動物は人間に比べて下等だが、進化のベクトルは上を向いている。それに対して人間は進化の頂点にあるから、進化のベクトルは下を向いている。だから人間の方がベクトルにおいては劣っている。「猿よりもまだ猿、蛆虫よりまだ蛆虫」といくところだったな。原作通りにいかないのが、バーチャル劇の面白いところだが、弱点でもある。
 

 「ところが道具や機械は、人間の他者として意識されています。」民衆の一人が笑っていった。「ハ、ハ、ハ、ハ、そりゃあそうだ。机も人間だとしたら、机だって祭りには踊りださなきゃならねえな。」「道具や機械が発達していくと、それを利用するためにさらに道具や機械を作り出す必要が生じるでしょう。」

 「そうだ!」民衆が声を合わせた。「そうやって文明が発達してきたんだ。だからいいじゃないか。」陽一は、声を大にして反論した。「その結果無機物である道具や機械やさまざまな建造物があふれてしまいます。それで有機的な生命の領域が狭められ、人間や動植物が生きていく環境が破壊されてしまったのです。」もちろん無機物だから駄目で、有機物ならいいというような単純な問題ではないのだが。
 

 「それじゃあ道具や機械やさまざまな人間が生み出したものを、人間環境にとっていいものに改良していけばいいのだな。」もちろんそうだが、そうしたくてもなかなかできるものではない。それにツァラトストラの「超人」論に結びつかない。
 

「人間は文明によってかえって自分たちの生命の環境を喪い、機械や道具の環境世界を生み出してしまったのです。そして自分が生み出した世界によって飼いならされ、管理されてしまって、それを生命に取り戻すことができなくなってしまっています。それに人間は文明によって生み出された便利さによって、自らより強くより賢く、より美しく、より創造的になろうとはせず、無気力で無知で、汚辱にまみれ、自ら与えられるままで自分からは創造しようとしなくなっているのです。このように人間は進化するどころか退落していっています。これじゃあ人間より下等な猿や、もっと下等な蛆虫より、さらに下等だといわざるを得ません。だって猿や蛆虫は進化の途上にあるからベクトルは上を向いていますが、人間はベクトルが下を向いているのですから。」

 「そりゃあ兄さん、あんた名前は何てえの、え、ツァラトストラだって、けったいな名前だな。動物を高等とか下等とか差別的に見るからいけないんだ。それぞれどんな動物だって、今まで何十億年進化した末の命だろう。それなりに特長をもっているんだよ。人間が一番偉いとかいう了見だから、自然を破壊してしまうことになったんだよ。」なるほどそういう理解も一理ある。陽一は妙に納得してしまうと、ツァラトストラとしての勢いがなくなってしまう。ここは踏ん張らなくては。陽一君頑張れ。

 「産業革命は人間と自然の断絶を決定的にしました。人間は大地である大いなる生命の力を体現して生きており、大いなる生命を発現するところに本来の存在意義があるのです。自然に働きかけて文明を作り出すというのは、そのためのものでなければなりません。しかし現実にはどうでしょう。人間はますます自然から生命から離れているではありませんか。実はそれは生命を侮蔑し、大地の意義を否定して天上の希望を説く背世界者のせいなのです。」

 

民衆は、互いに目を見合わせた。「おもしろいことをいうじゃないか、それじゃあこの産業革命というのは、キリスト教が推進したというのかい。俺たちは神を信じられなくなって、その代わりに便利なものを次々と過剰に作り出しているのかと思っていたんだが。」

そういえばニーチェは近代文明を批判するのにキリスト教を批判している。ところがキリスト教というのは中世的な教会支配の時代の原理ではなかったのか?教会の支配が崩れ、信仰が個人の主体の問題になってから、個人がめいめいで自分の欲望のままに私的利害を追求した結果が産業革命と資本主義を産んだのではないかというのが、常識的な理解だ。

 

 「もっと大きな意味で言ってるのでしょう?」と陽一が言うと、民衆はキョトンとして目を見合わせた。「『言ってるのでしょう?』てお前さんそれは誰かの意見の受け売りかい?お前さん、本当のツァラトストラなんだろう?頼りないな。」嘲笑がドッと湧いた。これは失敗だ。それにしてもバーチャル劇では本人は役に成り切っている筈で、自分が役を演じているという意識は持てない筈なのに、陽一には陽一であることは意識できないものの、ツァラトストラを演じているという意識をどうしても拭えない。それだけこのツァラトストラに成りきるのは難しいということなのか、それとも電脳空間での心理操作の技術的ミスなのだろうか。あるいはわざと演技者に役柄との思想的葛藤を求めているのか、立ち往生である。

 

しかし乗り出した以上、勝手に降りるわけに行かない。なんとかツァラトストラに合わせていこう。「もっと大きな意味で言ってるのが分からないのかという反語的な表現ですよ。つまり近代の個人主義は主観性の主体が神から個人の精神に移ったということです。両方とも主観が大地つまり大いなる生命から離れて自分自身の原理で妄想を展開すると言うことに変わりはないのです。」民衆は話が難しすぎるのか、閑散とし始めた。

 

「かつてキリスト教は、この世の生活に苦しみ倦んでいる人々に、天上の幸福を説いて、地上の幸福、肉体の命の喜びを軽蔑しました。」民衆の一人が神父のジェスチャーをして言った。「こりゃ、こりゃイワン、だからいわんこっちゃない。肉を食べるのは我慢して献金に回しなさい。夜の営みは教会のマニュアル通りに行いなさい。決してかあちゃんに上をとられてはいけません。」ドッと笑いがおこると、それだけで民衆の数が増える。パチ、パチ、パチ、陽一は場を盛り上げるために仕方なく手をたたいた。

 

「生きるとは何か。花を愛で、鳥と歌い、水を飲み、肉を喰らい、愛を交わす。そして様々な自然の力を呼び覚まし、より美しいものより力強いもの、より尊いものを作り出していく、大地の創造の働きと一つになってね。そういうことでしょう。キリスト教はそういう生命に背を向けて、天上に神の世界を作り上げ、その幻想を至高のものとしたのです。

それで霊魂は肉体が常に飢え痩せさらばえていることを望んだのです。しかしそういう霊魂こそ貧困ですね。肉体が力あふれ、技を極め、躍動するのを嫌っているのですから。それは不健康にするという意味で不潔なものにすぎませんし、肉体や知能を鍛えあげる必要を自覚していないという意味では、嘆かわしいほど安逸をむさぼっているといわざるを得ません。」
 

      平日に殺めしイエス日曜に甦りしか懺悔聴くため


 敬虔深そうなやせ細った紳士が膝を折って祈った。「主よ、主を汚す者をお許し下さい。まことに地は汚辱にまみれ、人々の心はすさんでいます。私は主が与えてくださった自然をこよなく愛し、隣人たちと神への愛に支えられて、何時の日か天上での主の御前の永遠の幸福に預かれることを信じております。どうか心迷える子羊たちをお導きください。」

 

おや、こんな紳士でてきたかな。まあいいや。「たしかに生きていくということ、その中で様々な困難と闘うのは大変なことです。だからキリスト教の示す天上の幸福に希望をつないだり、教会の示す生活規範を守って、その下で小さな家庭をつくり、欲望を最小限にきりつめた生活を営むことが、信仰深く、理性にあふれ、道徳的だとみなされてきたのです。しかし皆さん、いつまでそんな不健康な密室に閉じこもっているのですか、それこそ生命への冒涜とは思わないのですか。あなた方は密室で神に祈りを捧げるために生まれてきたのですか。」

 

「我々は神によって作られたのだから、神をほめたたえるために存在しているのではないのですか。」敬虔な紳士は問い返した。
 

「あなたはまだ知らなかったのですか。あなたが信仰しているという神はとっくに死んだのですよ。」ツァラトストラはこう断言した。敬虔な紳士は顔を引きつらせて抗言した。「神は死なないということは、世々限りなくある神の定義ですよ。」「人間が殺したのですよ」とツァラトストラはたたみかけた。

 

「人間ごときに神は殺せないでしょう。」敬虔なる紳士は反論した。

ツァラトストラは応答した。「神というものは人間の中の普遍性です。正義とか愛とか真理とか美とかの基準がなければならない。そういう意識が普遍の体系としての神を要請し、神を信仰させたのです。ただしそれはギリシア人のでっちあげだったのです。まだ人々がそういう普遍性を守り、信じている間は神の実在を多くの人が信じることができたのですが、近代になって個人の主観性が傍若無人に既成の価値を無視し、私利私欲でしか行動しなくなったのです。」

 

「全くだ、神を信じていたら到底できないようなことをみんな平気でやっている。」質素な身なりの労働者風の男が賛成して言った。「神の前で永遠の愛を誓った夫婦が、陰では不倫を競い合っているし、正直に帳簿をつけていたのでは、会社の経営は成り立たないときている。裏切りや嘘や憎しみに満ち満ちていて、イエスの言葉を借りると、私を含めて、腕を切ったり、目玉を抉り取らなければならない連中ばかりだ。にもかかわらず、日曜日に教会にでかけて神に忠実な僕を装い、聖餐のパンとワインをいただいて、永遠の命に預かろうと開き直っている。カトリック教会では未だに罪の懺悔を神父の前で嬉々として行い、一週間分の罪を述べて、それでチャラにしてもらおうというあつかましさだ。どれもこれももし本当に神がいると信仰しているのなら、とても恐ろしくてできないような神に対する冒涜行為なのだ。それができているというのは、神を本当は殺してしまっているからだと言われても仕方がない。」

 

敬虔な紳士はなおも反論した。「確かに我々の不信仰が神を殺した。それが救い主イエスの磔だ。神はキリストの姿で世に現れ、人間として愛に生きる生き方を示されたにもかかわらず、人間たちは彼をキリストと認めず、彼の福音を信じなかった。そして彼を神を騙る者として糾弾し、十字架に磔にしたのである。だから我々が神を殺したことはほんとうだけれど、彼は神に義と認められ、三日目に死人の中から甦られた。このイエスの復活を信仰し、イエスによって我々の罪が贖われたことが信仰できれば、それだけで救われるのだ。」

 

「歴史的には二千年前に殺されたイエスを現代も殺し続けているということだね。あんたの気持は分かるけれど、それはイエスへの裏切りと殺害が近代になってさらに露骨になったということだろう。それに平日には平気でイエスを殺しておいて、日曜日に復活したイエスに懺悔を毎週繰り返しているってことだ。それでも救ってもらえるという了見は、余りに神を馬鹿にした話だとは思わないのかい。ほら、『仏の顔も三度』ということわざもあるだろう」と労働者風の男が諭した。

 

陽一は思い出したように言った。「『仏の顔も三度』とはこのヨーロッパでも言うのかね、大乗仏教のうちの浄土教などではさんざん極悪非道な行いをしていた者でも、死の直前に『南無阿弥陀仏』と十遍唱えれば、極楽往生間違いなしという教えになっているようです。」
 

     天上の神は殺めりその代わり物を積み上げそを神とせり

 

陽一は少々焦っていた。綱渡りが予定されているので、ストーリーの順序から言って、綱渡りにつなげることを言わないと、綱渡りが始まらないからである。このバーチャル劇では台詞は、その役を生きている役者自身がその都度ひねり出さなくてはならないのだ。キャラクターや教養はインプットされていても台本は渡されていないのだから。
 

「結局、人間というものは既成の宗教や道徳によって毒された分別や小賢しい知恵をもっています。その理性が作り出した幸福観に執着しているのです。近代人の中には神など自分には無縁だと、なんの信仰も持たないと広言する者もいますね。しかしそんな連中も小金を溜め込んだり、豪邸でふんぞり返ったり、数百万円の腕時計をして悦に入っていたりします。キリスト教の神を殺してしまった代わりに、物を神にしているのです。」おっと、資本主義社会は物神崇拝つまりフェティシズムという原始宗教が支配する社会だと喝破したのは、『資本論』の著者カール・マルクスだったかな。

 「全く、俺たち労働者が食うや食わずの生活をしているのに、俺たちの一生分の所得をはるかに上回るような宝石類で妻子を着飾らしていやがる。そんな余分な金があるのなら、労働者や失業者に回しやがれてんだ。そうだろう、それで何十人、何百人の命が助かるのだから。」十九世紀末のドイツでは労働者階級の生活向上、地位向上の運動は盛り上がり、経済的地位は向上しつつあった。またプロイセン国家は社会主義者鎮圧法で弾圧する一方で、社会政策として社会保険制度の整備を開始した。鉄血宰相ビスマルクによる「飴と鞭」政策である。しかしニーチェ自身はキリスト教と社会主義のいずれもが、子羊の平等を求める妬みや怨念という感情で動いていると見て、拒絶していた。この妬みや怨念がルサンチマンなのである。


 「そういうルサンチマンからくる道徳観や正義観は最も唾棄すべきものです。確かにダイヤや豪邸を求め、贅沢三昧にあけくれる連中も愚の骨頂ですね、とはいえ社会主義者たちが求めているのも結局はダイヤのかけらやよりましな豚小屋にすぎないのではないでしょうか。大いなる生命から離れ、物質的富を求めていますが、それも幻想のようなものだと私には思われます。」

「なんだと、おい、ツァラトストラの兄さんよ、我々働くものが腹いっぱい飯を食い、我が家という快適な空間でのびのびと眠れることを要求するのがどうして幻想なんだ?」

「もちろん生命に関わる限り、命を養う食材や空間は少しも幻想じゃありません。それらを貨幣を基準に数量化して捉え返して作り上げている価値の体系が幻想的だというのです。我々はそういう子羊や豚などの家畜的平等や家畜的幸福を拒絶すべきなのです。」

 「それじゃあ、一体ツァラトストラはどのような幸福や正義を求めているのか、聞かせてもらおうじゃないか。」どうもこの労働者役の男がバーチャル劇をはみ出さないように調整しているようなので、榊周次が演じているのかもしれない。

 

     人間のてっぺん挑み没落すさこそ望めり一度のいのちぞ

 

「それは汚れきった川が注ぎ込む大きな海です。海は川の汚れを浄化して少しも自分は汚れない」と言いかけたが、このツァラトストラの台詞はそのままでは遣えない、二十世紀後半から海洋汚染が深刻化し始めるからである。二十一世紀初頭の高校生の陽一が演じているのだから、たとえ陽一であることを忘れていても、二十一世紀にも通用する内容が求められるのだ。

 「だからこそ人間の限界に挑戦して、人間を超えゆかなければならないのです。天上の幸福を説く背世界者に額ずいて、子羊の平等を求めたり、肥え太った豚共を妬んで少しでも家畜の餌にありつこうとする平等主義に囚われていては、いつまでたっても人間を超えることはできません。そんなことでは小さな物質的富に飾り立てられた家畜小屋での幸福しか手に入らないのです。」

「おお、それこそ望みだ。家族や隣人が肌を寄せ合い暖め合って暮らせる蚤の幸福こそ、我々の望みなのだ。ほら坂本九も歌っていただろう『見上げてごらん、夜の星を。ぼくらのような小さな星がささやかな幸せを祈ってる』て、だから人間を超えようなんてラッパを吹き鳴らすのはやめてくれ。そんな偉大さを追い求める幻想に騙されてついて行けば、それこそ恐ろしい苦難と戦争と没落が待ち構えているに違いない。」敬虔な紳士は大地に額づき、天上を見上げて十字を切った。

 

「人間を真の生命から遠ざけてはなりません。人間の命の血を吸い取って、衰弱させる蚤共は駆除しなければなりません。今こそ、人間の真の価値に目覚め、各々が自らの可能性の限界に挑戦できる生命力にあふれた時代を作り出さなければならないのです。そうでないと現在の家畜状態から蚤状態へと堕落します。この蚤状態の人間を私は末人と呼びます。末人の時代になれば、人間は環境の変化に対応できるだけの生命力すら喪失するでしょう。悲しいかな末人の時代が始まろうとしているのです。」

 

「人間の限界を超えようとすれば、皆が暖かい飯にありつけ、幸福な家庭を築くことができると約束してくれるのか、ツァラトストラ。」労働者風の男が食い下がってきた。
 

「安逸な道はありません。そうしなければ人類は衰退して滅びます。しかし人間の限界を超えるなんて、とても至難のことです。ほとんどすべての人がその途上で、矢がつき刃が折れ、傷ついて斃れるでしょう。でも己の可能性を限界まで追求した結果、没落したのなら納得できるじゃあないですか。せっかくこの世に生を享けたのに、持てる力を精一杯生きられなかったら、悔しいじゃないですか。ですから限界に挑戦して没落すること、それこそ人間の本来の存在意義なのです。己の限界に挑戦しもしないで、安逸を貪っていたって一体何の意味があるのですか。」

 

敬虔な紳士も反論した。「しかし皆が超人に成れないのだろう。ごく少数の一人か数人の超人が現れたとしよう。すると彼らのために大部分の民衆は奉仕させられるだけの奴隷状態に陥るのではないのか、ツァラトストラについて行けば、神や聖者の支配ではなく、恐ろしい狂人による支配が待っているのではないのか。」

 この意見こそ陽一が『ツァラトストラはかく語りき』を読んだときの危惧でもあった。ニーチェは民衆に向上を呼びかけ、超人への橋梁であるべきだと説いている。しかし皆が超人になれるなどとは思っていない。むしろ極少数の超人を生み出すためにこそ人類の存在意義があると考えているのである。陽一はツァラトストラになっている以上、この危惧を何とか解消する方向を示そうとした。

 

「それは超人を恐怖支配の権力者としてイメージするからです。たとえ一人でも、数人でも超人が生まれると言うことは素晴らしいことです。どうして自分より強い者、優秀な者、創造的な者、賢い者が存在することをそんなに恐れ、妬むのですか。」

 

「もちろん強者は弱者を強圧的に支配し、弱者を虐げ、酷使し、搾取し、収奪するからだ。これはこれまでの歴史が実証しているではないのか。」労働者も敬虔な紳士に加勢した。

 

「もちろん政治的には超人は強大な権力を打ち立てるかもしれません。しかしそれは民衆の生命のエネルギーを最大限に活かしきった時に実現するものですから、民衆は自らの力を最大限に解放されるのです。また超人が生み出す音楽は生命のエネルギーにあふれ、民衆はそれによって活力を与えられます。超人の生み出すあらゆる文化を民衆は享受して、最高の幸福を得るのです。民衆の生命力を衰弱させ、疲弊させ、精神的に萎縮させることしかできないで、どうして超人と呼ぶことができましょう。」

 

陽一はヒットラーがニーチェの熱狂的なファンだったことを思い出していた。ドイツ民族に自らの偉大さに目覚めさせ、活を入れたつもりが、恐ろしい世界大戦に導き、恐怖政治やユダヤ人へのホロコーストを実行した男は自らをどう捉えていたのだろうか。
 

「綱渡りについて聞くのはもうたくさんだ。それより綱渡りを見せてくれ!」民衆はどっと笑った。その時、綱渡り人は自分のことを言われたと思って綱渡りをはじめたのである。

 

     めくるめく奈落の上の一条の綱渡り行く没落願ひて
 

西洋の街中で行われる綱渡りは、日本のサーカスの綱渡りとは違っている。高い塔と塔との間に綱を張り渡して、その上を渡るのである。下に網を張ってあったり、落ちたときに綱にぶら下がれるような安全装置はついていないのだ。まさしく落ちたら死ぬのを覚悟で、命がけの綱渡りである。いかに熟練をつんでいても突風に遭えばそれまでである。それで重心をとりやすいように長い棒を両手で持っている。

 

ツァラトストラはこの綱渡りこそ人間の本質だと言いたいのだ。「人間は、獣と超人の間に張り渡された一本の綱なのです。下を見たら怖いですよ。綱は眩暈をするような深淵の上に張り渡されています。渡るのも、途上にあるのも、後ろを振り返るのも皆危うい。ビビッていると余計怖いし、立ち止まるのは一番落ちやすいのです。」民衆は綱渡りの方を見ている。おそらくだれも陽一の言葉に集中しているものはいないだろう。

 「おそらく誰一人超人には成れないのかもしれません。私は好きですね、それでも己の可能性の限界に挑戦したい、たとえそのために没落するとわかっていてもそうせずにはおけない人を。
 

私は好きですね、既成の価値や道徳を侮蔑して、大いなる生命の意思に従おうとする人を、そういう人こそ超人にあこがれ、一直線に人間を超えていこうとするからです。

 そうです、没落して犠牲になろうとする人を私は好きなのです。決して、天上の幸福を約束してもらおうとして犠牲になるのではなく、自分たちの挑戦の積み重ねが、やがて超人を生む、そのことを信じて自ら犠牲になる人が好きなのです。

 だから学問のための学問ではなく、人間の限界に挑戦するために学問をやっている、そういう人が好きなのです。そういう人は真に学問のために生き、学問のために死ぬ人です。

 日々労働し、よりよいものを創り出そう創意工夫を重ねている人を私は好きです。その積み重ねにこそ、人間の可能性の限界への挑戦があるのですから。そういう人々が超人のために住む家や環境を整えているのです。

 そして私は好きです、自分の特性を愛して、その特性をどこまでも伸ばし、そのために生きようとする人を。また自分の特性を伸ばそうとして、いかなる障害とも闘い、そのために傷つき死ぬようなことがあっても己を貫く人は素晴らしい。

 人間は一つの特性のために生きればいいのです。たくさんの特性をもっていますと、困難にぶつかると、どうしても安全な方に逃げてしまい、宿命にぶつかるということがありません。それでは人間の可能性の限界に挑戦することもできないわけです。

 人から感謝されたり、お返しを期待して人に与えようとする人は好みません。何も報酬を求めないで、自己の能力を発揮して与えることを喜ぶ浪費家が好きなのです。自分のためにとっておく、倹約家は好みません。

自分の才覚によってではなく、偶然によって幸福になったら、自分は不正の賭博者ではないかと恥ずかしく思う人が好きです。そういうひとこそ自分の運命を切り開くのです。私は不言実行の人より、有言実行の人の方が好きです。そういう人こそ、自分言葉に責任を取って、その言葉のために没落することを願う人だからです。

 未来の超人に意義を見出す人は、そのことによって歴史を意義付け過去を救済することができるのです。そういう人は現在に安住できません。現在を乗り越えようと没落するのです。

 私は自由な精神と自由な心情を持つ人が好きです。そういう人にとっては知性はただ心情のため働く内臓なのです。そういう心情こそ、人間の限界を超えようとして没落するのです。

 

      迫り来てヒラリ頭上を飛び越され堕ちいく先は地獄にあらずや

 

ここで仰天すべき空前の椿事が起こる。綱渡人が塔と塔の半ばにさしかかった頃、塔の扉がまた開いて、五彩の衣をまとったピエロが跳び出したのである。そして先ほど綱渡人が慎重に一歩一歩ゆっくり歩んできた綱の上を足早に進んでいったのだ。

 「進め、足萎え」とピエロは叫んだ。「この怠け者、お前の顔面は真青だ。とっとと進まないと蹴っ飛ばすぞ。こんなところで何ぐずぐずしとるんじゃ。お前なんかあの塔に監禁されておけばよかったんだ。お前より優れた者が行くのを邪魔するぐらいならな。」

 みるみるピエロは綱渡人のすぐ後ろに迫った。その時起こった驚愕の出来事に、民衆はみんな口も利けなくなり、目はすわったのだ。ひらりとピエロは綱渡人の頭上を跳び越して、前の綱の上に見事に降りたのである。綱渡人は気が動転してバランスを乱し、地上へとまっさかさまに落下したのである。

 

ニーチェは、しっかり張り渡された綱ならば地上の線上を歩くのと同じであると考えて、一直線上を踏み外さずに進めたら、落ちることはないと着想したかもしれない。地上十数メートルという高さを気にするから、動揺して落ちるのである。強靭な精神力と線上を踏み外さずに進む訓練で綱の上を走ることも、跳躍や宙返りをすることも可能だと考えたのだろう。

 

ともかくピエロは、先祖からの技術を受け継ぎ数十年間綱を渡り続けた綱渡人の綱渡技術をはるかに凌駕した。人間の可能性の限界を超えて跳んだのである。ここに超人のイメージが示されたのではないかと思われる。とすると超人の出現によって、乗り越えられた既成の人間は奈落に落ちるしかないのか、超人を生むために生きてきた人間も、自らその役目を果たすや、自らが超人に成れない限り、没落する運命なのか。

 

しかし、この話の展開では、ピエロは超人ではないのだ。むしろ超人を目指せと唱えるツァラトストラを排斥する側に立っている。だから超人の出現のイメージを否定的に示して、群集にツァラトストラに敵対させようとしたのかもしれない。

 

綱渡人は真下の群衆の中へと落下して行ったので、民衆は大混乱して逃げ惑った。陽一のすぐ近くに綱渡人は落下して打ち砕かれた。息絶え絶えに綱渡人は語った。「俺はとうに知っていた。いつか悪魔が来て、俺の片足をすくうと。今、俺を悪魔が地獄へ引っ張っていこうとしている。これを阻んでくれ。」ツァラトストラはきっぱりいう。「悪魔などいないし、地獄なんてないんだ。肉体が死んでも、霊魂は死なないなんて、全くの幻想だよ。肉体が滅びる前に霊魂が消滅するから、なにも恐ろしがることはないんだ。」

 

「もしあんたの言うことが真実なら、俺は失うものは何もない。俺は少しばかりの餌と鞭によって踊らされてきた一匹の獣に過ぎなかったのか?」陽一は首を振った。「断じてそうじゃない。あなたは危険を自分の職業にしてきたじゃないか?それだけでも大したものだ。今、あなたは自分の職業のために死のうとしている。だから私が自分の手であなたに敬意を表して埋葬したいんだ。」この死に逝く者への言葉に綱渡人も納得したのか、わずかに手を動かした。感謝の気持を表すためにツァラトストラの手をとろうとしたのである。

 

       闇の中五彩を纏て囁けり吾生きて跳び汝死して落つ

 

どんなに恐ろしい事態であっても、時が経てば忘れてしまう。夕闇に市場が没する頃になると群衆は四散してしまった。陽一はつぶやいた。「オーオ、今日は豊漁だ。人間を釣ろうとして、屍一体とは。本当に人間存在とは不気味なものだな。何時だってそれ自体では意味がないのだ。一人のピエロが彼の運命になることだってある。
 

私は人間に、人間存在の意義である超人について教えたいのだ。超人は、人間という不気味でそれ自体では無意味な存在を引き裂いて閃く稲妻なのだ。素晴らしい超人よって人間は大いなる生命において自分たちが何を目指し、何のために生きるべきかを知るだろう。だが、ピエロが超人をただ恐ろしいイメージだけで印象づけたので、全く群衆の心に語りかけることはできなかった。私は彼らにとって奈落に突き落とすピエロと、ピエロに突き落とされた人間を超えようとする綱渡人の中間物にすぎないのだ。」

 

「ツァラトストラよ、この市をから出て行け!」ピエロが近づいてきて脅かした。「この市ではみんなお前を憎んで敵視している、お前は既成の価値や道徳を侮蔑したからだ。そして敬虔な信仰者には神を冒涜する危険人物とみなされている。とはいえお前は死体を伴侶して自らを賤しくしたのが、せめてものの救いになった。今のうちにこの市から去れ、去らなければ、お前の頭上を越えて、お前を落下させるだろう。お前の命はないと思え。」

 

陽一は、ピエロとは一体何者だろう。ツァラトストラを排除して、この市に居座り、民衆を恐怖に陥れて支配しようとするのだろうか。彼はおどけた五彩の服を着て、民衆に媚を売り、笑いを取りながら、時折ライバルの頭上を飛んでは、心胆を寒からしめて、民衆を思うように動かそうとするのかもしれない。

 

ツァラトストラの目指す超人は、ピエロの目指すものとはどう違うのか。ピエロは民衆に向上の道を示さないで、自分だけが超人になろうとしている。そして民衆が超人に憧れ、進んで超人の生むために成長しようとさせないで、ただ超人に恐怖から従わせようとしている。その意味ではピエロの目指すものは、愚衆に対する支配である。それに対してツァラトストラは民衆を向上へと導く超人だ。

 

とはいえ、民衆をして超人への橋を渡らせることは至難である。それは民衆全員に綱渡りをさせようとすることである。大部分の民衆はツァラトストラを民衆の敵とみなし、神と魂を汚すものとみなして殺そうとするだろう。

 

陽一は夜の帳の中で屍を森に運び、木の洞に埋葬して獣たちから守った。そして森で深い眠りのなかでツァラトストラは悟った。「民衆に語りかけるのは危険だ。これからは自分に共鳴する同伴者に語りかけるべきだ。」ツァラトストラはこれから本格的に運命愛や永劫回帰などの教説を展開するところだが、陽一は木の洞で眠っているうちに木の根の中にあった空洞に落ちていった。

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