第十話 本居宣長の青春

 

                      法輪寺秘仏観たさに並んだが、見るものを呑む化け物ならずや

 

上村陽一は行列の中にいた。一体何の行列なのだろう。寺の周りを十重二十重に取囲んでいる。凄い行列である。都中の人々が総出で拝観に来ているのかもしれない。陽一は周囲の人々に恥はかきすてとばかり尋ねた、「このお寺は何宗ですか。」呆れ果てたと言わんばかりの視線が陽一を射す。「おまえさん良くそんなことも知らないで並んでいられるね。「虚空蔵法輪寺」と呼ばれる西山法輪寺じゃないか。行基菩薩の開かれた古義真言宗らしいよ。今日は開闢以来の本尊の秘仏虚空蔵菩薩の御開帳なのさ。」
 

「そんなに凄い仏像なのですか。」陽一が訊ねると、「左なんとかという大工さんが龍の彫り物を奉納しはるのに、虚空蔵菩薩にお願いしはったら、目の前に龍が天に昇るのが見えはったという話やおへんか。」「書の神様みたいにいわれてはる空海はんはご存知でっしゃろ。なんでもその空海はんの高弟道昌僧正とおっしゃるお方が百日間の勤行の末に虚空蔵菩薩を空中に凝視しはって、それを見事に一木造りの仏像に仕上げはったという名品でおます。それで空海はんが魂を入れなさったという噂でおます。」「ほんまはだあれも観てひんさかい、ほんでよけい観たいんでっしゃろな」それにしてもこの行列は異常である。しかもするすると人々は法輪寺に吸い込まれていく。一日二日はかかりそうに思えたが、小半時つまり三十分ぐらいで順番になった。

 入ろうとすると「宣長さん、本居宣長さん」と呼ぶ声がする。「あんただよ、本居宣長さん」「ええ、おれが本居宣長だったの、あの『古事記伝』で有名な」「『古事記伝』?そんなの知らないよ、じゃなくて、掘景山先生の儒学の塾に寄宿してさ、小児科のお医者さんの修行をしている私の同僚の本居宣長さんで、わたしが上柳敬基じゃないか。」「というと時代は江戸時代だ」「オイオイ、気が変になってるのか、虚空蔵騒ぎに巻き込まれて。今年は宝暦七年だよ。」というと京遊学の最後の年である。
 

「やはり虚空蔵菩薩の拝観はやめた方がいいよ。」「どうしてだ、なかなかの人気でとても珍しい仏像だそうじゃないか、医者が仏像を拝んだら医者としては失格だというのか。」「仏像のご利益なんぞ信仰するのは、迷信だから、物事を合理的に見なければならない医者としては問題だ、それに儒学修行していて仏像見学というのも不謹慎だ、それでおまえさんに忠告していたじゃないか」と念を押してきた。「なんだえらく堅いことを言うのだな。俺は好奇心が旺盛でね、珍しいものがみたいんだ。みんながご利益があると有難がっているというので、一体どんなお姿なのか、見てみたいというのが人情じゃないか。」
 

敬基は深刻な表情になって言った。「うんうん、そりぁもういい、分かっているよ、わざわざ駆けつけてきたのは、どうもこの秘仏を観ると、観た者も消えてなくなるという噂を聞いてね、それでもしものことがあると大変だとあんたの身を案じて知らせにきたんだよ。」

「ええ、こりゃまた物騒な噂だね。しかし仏像を観たぐらいで消える筈はないはずだ、迷信を信じない敬基さんらしくないじゃないか。」「『火のないところに煙は立たず』だよ。何事にも裏があるもので、迷信だってそれなりの根拠があっていわれているので、危ないことは、何かあると思って近づかないほうがいい。『君子危うきに近づかず』と『論語』にもいうじゃないか。」

「心配してくれてありがとう、やばいと感じたら逃げ出すよ。まあこれだけ名の知れたお寺さんが、参拝者をごっそりかどわかすような無法なことはするはずはない、なあに根も葉もない中傷だと思うよ。どうせ評判を妬んでのことだろうさ」
 

陽一も少々恐ろしくなってきたが、どうせ乗りかけた船だと堂内に入ってしまった。よっぽどの秘仏とみえて、拝観ははしごを下って地下にいく。そして狭い扉から一人ずつ入るのだ。
 ぼんやりしているが、虚空蔵菩薩らしき小さな物体が遠くにあるようだ。そこから真っ白い光が大きな地下空間に出ていた。壁は真っ白で何も無い、ガランドウなのだ。たくさんの参拝者はどこに消えたのかだれもいない。吸い寄せられるように虚空蔵菩薩に近づけば近づくほど眩しくて、何も見えなくなる。「なるほど、虚空蔵菩薩に違いない。全くの虚空なのだから」

意識が朦朧となって虚空蔵菩薩に呑み込まれていった。「こうして拝観にくる生命を無に返してその気を取り込んで生きているのか。」
 

                      宣長は儒学だけでは収まらず面白ければ神も仏も
 

陽一はうなされて目が覚めた。「本居さん深酒が過ぎますよ。えらくうなされておられました。」同部屋の上柳敬基と清水吉太郎が顔を見合わせて笑った。「法輪寺の虚空蔵菩薩の拝観は是非いこうよ。あれはすごいよきっと。」宣長はふたりを促した。吉太郎は「秘仏公開の噂はどうもだれかの作り話だったようですよ。見せる場合は勅願で御門(天皇のこと)がじきじきみたいと仰った場合だけ、御門にだけお見せすることはあるようですが」と返した。
 「それは残念だな。でも実物より、わたしの夢で観た虚空蔵菩薩の方が本物かもしれないよ。」
 「本居さんのことだから、さぞかし麗しい女性のような虚空蔵菩薩だったのでしょうね。」吉太郎は決め付けた。
 「密教系ですからね。密教では煩悩即菩提といいます。つまり官能の世界にこそ悟りがあるということですよ。如意輪観音像にしても随分色っぽいのが多いですからね。それがね、夢では違ってました。真っ白けでしてね、ガランドウなんですよ。」
 吉太郎は腹を抱えて笑い出した。「ワッハッハッハ、そりゃあいい、それこそ虚空蔵だ、そいつは本物ですよ、宣長さん。」
 

敬基も一緒に笑っていたが、すぐに割り切れない表情に戻った。「それにしても儒学を学ぶ塾で秘仏のご開帳の話で盛り上がるのも不謹慎ではないですか」と水を差したのである。吉太郎は水を差されたので、笑いを抑えようとしている。
「そうですよね。宣長先輩、一応我々は儒学を学んでいるのですから、お寺参りはほどほどにすべきです。」

 宣長はお手上げの動作をしていった。「吉太郎さんまでそんなことを言うのですか。儒教をお勧めの江戸幕府が、仏教のお寺の檀家になれというご時世ですよ。一つの考えに凝り固まらないで、色々学んでおいたほうがいいんですよ。唐の学問だって儒学に限らなくて、昔から諸子百家があって、随分物事の捉え方にも色とりどりの違いがあります。

堀景山先生は朱子学者でいらっしゃるけれど、ちっとも枠に拘らなくて、陽明学や古学にも詳しいし、儒学の枠を超えて、老荘思想や歌学にも関心がおありだ。私は子供の頃から歌を詠むのが好きでね。もっとも下手の横好きだけれど、それでも学問としての歌の道を究めたいと思っています。そこは景山先生と気が合うようで、先生は歌論についてはなかなかのもので、儒学の勉強だけでなく、歌学でも随分教えていただき、所蔵の御本を利用させていただきました。」

 敬基は少し興奮気味に言った。「景山先生のようにもう幼少の頃よりお父上の薫陶で学問されて、今年七十歳ですからね。そういう方と我々のように学問の道に入ったばかりの人間とは立場が違うでしょう。まだまだ我々は儒学のなんたるかが分かっていないのに、学問は儒学だけじゃないなんて態度でいるとどれも自分の身につかないのではないですか。」
 吉太郎はうなずいた。「『論語』『孟子』『大学』『中庸』をまずしっかり学んでからでないと、『詩経』『書経』『春秋』『礼記』『易経』などを正しく解釈できません。それができてはじめてそれ以外の書物を読む場合に、正しい立場から読めるようになるのでしょう。」

 吉太郎の読み方は確かに儒者の正統的な読み方である。しかしそれでは予め儒学を真理だと決め付けて、その信仰を固めてから他のものを批判するという立場である。それでは宗教ではないのか、儒学は物事を実際に即して見極めていく学問の筈である。
      

                                   学問も吾が愉しみの具なるのみ花鳥風月それに同じか

 

朱子学の塾で朱子学を相対化するような発言は、物議をかもす。堀景山は、その年は体調を崩し気味だったので、全く取り合わなかったが、上柳敬基と清水吉太郎は納まらなかった。それで宣長はこう言い訳した。「私の立場は医者ですからね。先ずは漢方の医学に儒学が必要なので、それで学ばせていただいているわけです。決して学問で身を立て、藩や幕府で為政者として正しい政をしようという大それた考えは無いのです。」敬基は頷いた。「たしかに儒学は世の中を運営し、人民を救うためにはどうすればよいかという、でかい志に貫かれていますね。」

 宣長は付け足した。「ところが今の世の中はどうでしょう。我々のような医師の端くれがいくら学問したって、世を治める立場にはなれっこありません。たとえ武士の子に生まれても御大家の子でもないかぎり、藩政や幕政を仕切る立場には成れませんよね。儒学がいくら立派なことをいっていても、それを実行する立場にないのですから、私は政より歌をとります。孔子様も与したのは 曾皙だったのですよ。孔子様だって楽しむところは『先王の道』にはなくて、『ひと風呂浴びて、歌いながら帰ろうか』というところにあるんです。

 

吉太郎は苦笑した。「そりゃあ誤解ですよ、宣長さん、確かに面白い解釈だけど孔子様は政を整えるために歌や音楽を考えておられるのですから。孔子が音楽と政治を対立させて捉えているという解釈は、儒教にはなじみません。」

敬基も畳み掛けていった。「曾皙(曾參の父)は一介の士となって若い連中と仲良くなり一緒に風呂に入り、歌を歌って、友情を育み、その土地の人情を良く知った上で、どのような徳治政治ができるか考えようということです。はじめから宰相や重臣になって、実情や土地の人情も分からないのに自分の才覚や学問だけで政ができると考えるのは思い上がりだということです。だから孔子様は 曾皙に与するとおっしゃったのです。」

 

宣長は納得いかない様子だった。半ば投げやりに言い放った。「ですから私の立場は治める側ではなく、治められる側ですので、その立場から必要であったり、役に立ったり、興味がもてたり、面白ければなんでもいいんですよ。」
 吉太郎は反撥した。「何でもいいというのは言い過ぎでしょう。やはり正しい学問でないと正しい政治はできません。仁義に基づく王道政治でなければならないとしたら、権謀術数の法家の思想や、無為自然の道家の立場では困りますからね。」

 「だから『文選』を一緒に読もうと言っているのです。」陽一はどうして自分が読んだことも無いのに『文選』という題名を思いつくのか、不思議だった。どうも本居宣長が読んだ本の要旨などをバーチャル劇が始まる前にインプットしているらしい。「そこには諸葛亮孔明の『出帥の表』などいろんな名文が収録されていますが、どれも儒家の思想にだけ凝り固まるのではなく、時と場合に応じて法家の権謀術数を用い、道家の無為自然を応用しているのだそうです。つまり予め何時の時代にも通用する、またどんな社会でも正しい思想というのがあるわけではないのです。その時代や社会にあった思想を選べばいいわけです。」

 敬基は怪訝な顔になった。「時と場合によったら儒学も不要で有害になることもあるような捉え方ですね。そりゃあ孔子様も仰っておられるように、道のない時代もありましたでしょう。そんな時代には君子は隠れていなければいけません。戦国時代だからといって道に外れた卑怯なことや暴虐なことはするべきじゃないということです。」

吉太郎は苦しそうに言った。「やはり戦うことが天職の武士にすれば、命を惜しんで隠れていることはできない。戦国時代の武将たちのように、時には暴虐無道と言われることもしなければならなかった。その意味では儒学だけでは駄目ですね。だが天下泰平の江戸時代にあっては、戦の世に戻さないためにも、仁義に基づく王道政治を貫くべきでしょう。」

 宣長は肩をすくめた。「儒学で治まるのなら、治めていただいて結構なのです。ただ治められる側の言い分としては、なんでも儒学で仕切って窮屈にされては困るということです。仏教のことは全て迷信だといって軽蔑されては困りますし、神の道も古くからの日本の信仰を儒学の理屈に合わないと統制されても困ります。また歌の道も儒学に合わせて忠義や孝行の歌ばかり作れといわれては大変です。それぞれの領域には受け継がれてきた伝統や信仰があるわけですから、そこは大目に見ていただかないとね」と釘をさした。
 

 敬基は、宣長が治められる立場に逃げているというのが不満だった。「そりゃあ私だって下級武士の家に生まれたから、学問をやったって、それで藩政を仕切れるわけじゃありません。でも儒学というのは、そういう治める治められるということを超えていて、どうすれば心を真っ直ぐに生きられるかということだと思うのです。
 

私は父からまず『孝経』そして『論語』そして『大学』これを徹底的に暗記させられました。毎日その一つ一つの玉のような言葉と向き合って生きているつもりです。そういう生き様抜きには語って欲しくないのです。」

 陽一は敬基の言葉に迫力を感じた。なるほど学問というのはただ学んで覚えるだけでは意味がないので、学んだことに生きなければならない。学んだことに生きているという実感をもって今まで生きてきたことがあるだろうか、試験で点数を取るための学問では駄目なのだ。「敬基さん、それは素晴らしいことです。しかし書物には四書五経しかないわけではないのです。儒教には二千年以上の歴史があって、それなりの重みがあることは認めますが、日本にも素晴らしい歌や物語の世界があって、そこにはそれぞれの歌や物語に生きるということもあるのです。」
 

 吉太郎は怪しんだ。「そうかなあ、歌や物語は楽しみの世界であって、学問として捉えると堅苦しくなってかえってそれに生きることはできません。やはり学問としては儒学だと思いますよ。」宣長は少々議論に疲れを覚えた。「受け止め方は人それぞれでいいと思うのです。ただ私は、読んでいて、胸に響く言葉というのがあり、愉しいと思うことがあります。それは儒学の中にもありますが、諸子百家全てにもあります。もちろんこの国の歌や物語にも味わい深い言葉や思想が学べるのです。どれも私にとって、良く分かるかどうか、使えるかどうか、面白いかどうかが大切なのです。どれも皆、私が愛でて愉しむための道具に過ぎません。」
 

 敬基は険しい表情になってきた。「宣長さん、それは放蕩息子の学問論ですよ。あなたは松坂の豪商の息子だから、お母上からの仕送りで食べている。もう大して資産は残ってないそうじゃないですか、それをあなたは有難いとも思わないのですか、湯水のように遣っておられる。物見遊山に行っては呑んだくれる。この前は祇園で遊んでおられたそうですね。そりゃあたまに遊ぶのもいい、物見遊山もいい、女遊びも勝手です。でもね人生は遊びじゃない、学問は遊びじゃない、医術は遊びじゃないですよ、何もかも己の愉しみでやられたのじゃたまりません、宣長さん、世間はあなたの為にあるのですか、あなたが世間の為にあるのじゃないのでしょうか、人がこの世に生まれてきたのは、ただ己の愉しみのために生きる為ではなくて、世の為、人の為に何かお役に立つ為じゃないですか。私はね、世間が自分の為に回っているみたいに思っていたら、きっとひどい目に遭うといつも父上からしかられてきたのですよ。」

 「これはえらい剣幕ですね。たしかに私の感覚は豪商の感覚に近いかもしれません。大した豪商じゃないのにね。でもね儒学や剣術を習って、人民の暮らしを守り、平和を守るために献身しているつもりになっているのが武士です。己の身を犠牲にして世の為、人民の為に尽くしているつもりになっている。だが実際にはどうでしょう。お百姓衆は食うや食わずでやっとこさ、暮らしていて、娘を売りに出さなきゃ生きていけない者もいるのに、武士は年貢で召し上げた米の飯をたらふく食ってるじゃないですか、飢饉の時だって、飢え死にするのは皆お百姓だ、武士の飢え死になんてついぞ聞いたことはない。

本当は支配というのは、支配者の為に支配しているのに、儒教ではあたかも人民のためみたいに言う、とんでもないごまかしです。皆さん大好きな清貧の代表の顔回さんだって、自分は世の為。人の為に生きていますみたいな恩着せがましいことは仰らなかった。彼は清貧を自分の愉しみだと言ったのです。学問を物見遊山のように愉しむ、時代の支配原理になる思想を旨酒を目利きするように舌鼓しながら選び取る、まるでいい女を抱くように、あるいは歌や踊りを愉しむみたい学問できたら最高じゃないですか。」

 敬基は宣長が傲慢に見えた。「世の中なんでも金次第で金さえあれば自由にならないものはないとばかり、道楽を愉しむお大尽というのもいるようですが、自分さえ愉しければいいとみんなが考えたら、世の中はかえって乱れてしまいます。」
 「そりゃあ大いなる誤解です。私は勝手気ままを推奨しているわけではありません。人間には情というものがあります。自分が困っているときに人に助けられたらとても有難いもので、うれしいものです。そして人が困っているのをみますと、自分が困っていたことを思い出して、助けてあげて感謝されますとこれも大変うれしいものですね。自分のことしか考えず、他人はどうなってもいいなんていうのは情なし人間です。人間は情が深いよう作られています。この情というものを大切に仲良く助け合って生きればいいわけです。ところが儒学特に朱子学がどうも理屈にばかり拘って、情を押し殺すようなところがあります。」
 

 吉太郎が穏やかに口を挟んだ「身を謹んで理を極める、居敬窮理のことでしょう。それは情に流されて大切なことを見忘れたり、冷静に物事を見極められなくなってはいけないという至極当然のことをいったまでです。あくまでも仁義に基づく政治を実現するための心構えなのです。陽明学者や古義学派の連中が朱子学にけちをつけているだけで、そんな揚げ足取りに乗っちゃあ困ります。」

 「一つ一つの用語の問題ではなく、私が言いたいのは心の問題です。朱子学ではどうしても、理を見極めるということで、外から観察者の立場に止まっている気がします。見られているものと同じ理を、見ているものが自分の中に見出すというのが真理だと受け止めているのではないでしょうか。私は見ているものは見られているものと一つになって、見られているものの心を知ることが大切だと思うのです。そうすれば見られているものの喜び哀しみが自分の喜び哀しみになります。花を見て花の心になる、月を見て月の心になるということです。この境地を自分のものにして愉しむということで『私有自樂』となづけているのです。」 
 

                          鴨川の土手の夕日に稟と立つ京の女を永久に忘れじ


 宣長は春の午後、上賀茂神社に乗馬に出かけた。神社近くに堀景山の今は故人の親友の家があり、四十過ぎの後家お駒が一人暮らしをして馬を世話し、乗馬好きの文化人などに馬を貸していた。宣長は商家の出身なので、乗馬経験がなかったが、堀景山の勧めで何度か付いてきて乗馬を練習しているうちに趣味になってしまった。京の郊外の鴨川土手などへでかけたりすると解放感があって、うさもすっかり晴れるものである。

 堀景山の知人の後家といっても正妻であったわけではなく、農家から祇園に出ていた舞妓出身の芸者あがりを二号にしていたらしい。子供も生んだことがあるが、一人は誕生日を迎える前に風邪をこじらせて亡くし、もう一人も病弱で、お駒は大事に大事にそだてたが、疫病神の餌食になって八歳で亡くなってしまったという。
 それで自分の子供を育てる代わりに、近隣の百姓や小商いの子供たちを集めて、読み書きそろばんを教える小さな寺子屋を開いていた。お駒は芸者の頃から文化人を相手にしていたこともあり、座興で即席に歌を披露していた。それで歌の道を自分なりに学んでいた。彼女の寺子屋では歌の詠み方を教えてもらえるということで、子供たちからも、親たちからも喜ばれていたのである。

きれいどころの出ということで、言葉遣いにも品があり、てきぱきとして快活で、しかも柔らかい物腰で十歳以上若く美しく見えていた。景山はよくでかけているので、お駒に気があるのではないかと塾生たちは噂をしていた。しかし景山も六十台後半になっていたので、さすがに男女の関係とは見られていなかった。

 宣長は景山だけでなく、お駒からも乗馬の手ほどきを受けた。そしてすっかりお駒を齢の開いた姉のように慕っていた。彼女の歌の才能は宣長より上だった。宣長はその意味でもお駒に敬愛の念を抱いていたのだ。とはいえ男女関係を求めるには齢が開きすぎている、ただ馬を借りる時と返す時に茶飲み話のような形で話をしたり、年に何度か一緒に遠乗りに案内してもらうことで十分幸せを感じていた。陽一はお駒のことをずっと慕っていたような気がしていた。お察しのとおり三輪智子が演じていたからである。

 

「宣長はんは今年で京遊学を終えられるのどっしゃろ。寂しゅうなるやおへんか。」そういわれると寂しさが宣長の胸にもこみ上げるものがあり、泣きそうになったが、「まだまだ都にいたいのですが、さんざおふくろ様にはすねかじりをさせていただき、これ以上はとても無理なものですからね。まあ小児科医としてはなんとかやっていける医術は身につきました。歌の修行はまだまだで、お駒さんからもっと教わりたかったのですが。」

 「あら、わての歌なんかはほんの座興でっさかい、そんなおおげさにほめんといとおくれやす。それより、景山先生のお話では、清水はんや上柳はんとえらい大声で議論してはったそうやおへんか。」
 「ええ、連中があまりに融通がきかないで儒学に凝り固まっているものですから、仏教や歌の道にも学ぶべきところがあるといいたかったのですが。」
 「ホ、ホ、ホ。そりゃああのお二人はお武家さんで、宣長はんとは学問に向かうお立場がまるで違いまっさかい。先生もいうてはりました。宣長はまだ若いな、お釈迦はんでも、孔子はんでも相手が納得できる話しかしはりませんでしたって。なんぼ正しいことをいわはっても、相手が正しいと理解でけはれへんどしたら、間違ったことを主張しているのとおなじことやのにやて」

 「そうですか。さすが景山先生ですね。景山先生はこのごろ急に弱りなさって、寝こみ勝ちですね。先生にご心配かけたらいけませんね。いやご心配かけておいたほうが、お元気なのかもしれませんが。それにしても京の鴨川の土手の夕日は格別ですね。離れたくないのです。京とも、お駒さんとも。お駒さんは夕日にむかって立っていると風情がありますね。」
 「あら、夕日に向かって立つ女なんて、婆さん染みていややわ。」宣長はつい失言してしまったと頭を掻いた。でも気を取り直して「だってお駒さんは夕日と老人をつなげていくようなありきたりの言葉の使い方はされなかったでしょう。夕日の赤に負けないぐらい凛とした光彩を放っておられるので、風情を感じたのです。今のお駒さんの美しい姿をしっかり胸の中の画仙紙に焼き付けておきます。」
 

「それはそうどすな。わては野の草花とかちっちゃな虫けらとか、そういう目に留まりにくいもののけなげなたくましさや、可憐な美しさに胸がときめくくちどすな。宣長はんは桜とか菊とか割と目立つのがお好きどっしゃろ。」宣長は苦笑した。「いや、私など、鈍感ですから一般的に美しいとされている目に立つものにしか目が行かないのです。私が言いたいのは、そんなことでじゃありません。」

 「あんまり年取った女には美しいとかの言葉は避けはったほうがよろしおすえ。もうとっくにそういうことには喜んだり、悲しんだりしとうありまへんさかいな。」
 「それは無神経でした、お許し下さい。ただ私は今、この幸せを胸いっぱいに抱きしめたいのです。そういうことは物事を理屈でばかり捉える儒学では捉えきれない。その点、歌や物語の世界では、感じるまま、心のままに素直に表現され、共感し合うことができます。どの学問が正しいとかではないのです。歌、物語が持っている感じる心の意味を吉太郎も敬基も理解できていないのです。」

 「ウーム」お駒は動揺しそうになって、その動揺を押し殺して言った。「宣長はんは相変わらず純情やね。そうどすな、子供の笑顔が一番やけど、花を見てきれいやなと感じたり、山の水がのど越しにすごく気持ちよかったりしたら、生きてて良かったと思うものやし。それに困っているときに助けてもろたり、人に親切にしてもろてすごくうれしかったりしますな。胸が張り裂けそうになるぐらい人が好きになったりしたときもあるしね。お日さんが昇らはるのを見て涙でそうになる時かてあるけど、そういうときに、神さんや仏さんに思わず手合わせます。そういうときの気持のことゆうてはるのやな。」

 「そうなんです。そんなときには花や太陽や虫けらや子供やそういった見られているものと見ている自分というのが、離れていないと思うのです。感動して我を忘れているときに、心は物を表すだけの物の心になっています。その時に歌が生まれるのでしょう。」

 「そんな難しいことは分かりまへん。たしかに自分を忘れて歌になるときもあるし、そのさかさかまで、自分の中でいろんな喜怒哀楽が渦巻いているときに、溢れ出るように歌が噴出すこともありますね。」
 

「私はね、お駒さん、わがまま勝手で、好きなように生きてきました。大酒は飲むし、祇園でも遊んだ。大した資産があるわけでもないのに、京の都で放蕩していたように思われるかもしれない。でも私にとってはとても大切なことなのです。都にはこんなおいしい酒が集まってくる。立派なお寺や、甍を争う町並みがあり、美しい女たちが芸を競い美を競う。今極上の都の女を抱いておかないと、松坂に引きこもってからでは抱けませんからね。もちろん松坂にもいい女はいるし、いい景色や建物もあります。でも都とはまた違います。日の本の都のいい物を存分に自分の心に取り込んでおきたいのです。自分のものとして愉しんでおきたいのです。その思い出があれば、どんな田舎にいって辛いこと味気ないことがあっても、一番若くて元気で感じやすい時に、一番いいものを味わったのだから、納得できると思うのです。

 医学にしても都で一番いいものを学んでいるので、それをこれからは松坂でお返しできるわけです。だからせっかく都に来たのだから、ケチっていてはだめです。どんどん自分に貢ぐべきなのです。それも大いに満足できるように目いっぱい享楽に耽るべきなのです。そうして初めて、これからの私の人生が拓けてくると思っています。医者としても、学問でもね。」

 「わては一番華やかな舞妓や芸者を務めさしてもらいましたやろ。そりゃあ夢のような世界に見えるかも知れまへんが、ほんまはドロドロしたいやらしいこともようけおましたわ。綺麗なのはうわべだけどした。そんなわてらを大枚なお金をつこうて、極上の女や思うて抱いておくれやす男はんもいましたけど、なんや納得いきまへなんだな。わてがさわやかな気持で生きられるようになったのは、子供たちのことで哀しい思いをして、だんなさんの遺産を分けてもろうて、それを元手にお馬の世話をさせていただいたんどす、それでなんとか自分で生きていけるようになりました。そのうえで近所のお子達を集めてお世話させてもらえるようになってからどす。」

 「そうですか。それは胸が熱うなる話ですね。こりゃいかんわ。こっちが泣けてきよる。

極上の女なんて言い方はけしからんですね。人それぞれの哀しみがあるのに、まるで女子を品もののように扱こうてるようですね。やはり商売人の家の根性は抜け切れんのやろな。でもそのことも祇園の裏まで知らんことには分からなかったことで、祇園で遣こうたものは無駄になってないと思います。こうやってお駒さんと出会えたこと、このことの幸せは一生忘れません。かけがえのない宝もんです。」

 

                             山なれば山のこころがありたるや、その心知るもののあはれよ

 

お駒さん、松坂に帰ってから早三年過ぎました。京での暮らしに未練が残り、京の町医者に養子になる話しにも飛びついたりしましたが、結局松坂に落ち着きました。小児科医の家業もなんとか慣れてきたようです。人情がすたれたら医業も成り立ちませんから、歌・物語の修行もこつこつと続けております。峯松院会という歌会に属しまして、歌を続けておりますし、自宅を鈴屋と呼びまして、歌会の同人たちを中心に歌・物語の学習会を開催しております。

お駒さんとお別れして以来ずっと「もののあはれ」について考えております。私はお駒さんの哀しみや喜びに胸が打ち震えました。お駒さんの哀しみを思うときに今も涙があふれます。お駒さんの夕日に立つ凛としたお姿を思い出すとき、さわやかな喜びがこみ上げてきます。私の心がお駒さんの心に成ったのだと思います。これが「もののあはれ」を知るということなのです。松坂も伊勢も桜は見事に咲きました。満開の桜吹雪の中で華やいだ浮き浮きした気持になりますが、これこそ桜の心なのです。
 
 私もそろそろ身を固め、子供が欲しいと思って嫁をとりましたが、家風の違いからか家になじんでくれません。母にも私にも心を開いてくれず、溝が深まるばかりで結局離縁となってしまいました。互いの心を己の心とするような心の通い合いができなかったのです。しかし別れた今にして思えば、私が嫁に求めるものが高すぎたのかもしれません。心のどこかでお駒さんへの憧れが断ち切れていなかったのかもしれません。それを思うと、心を閉ざさせていたのは私の方だったのかも知れず、まことに罪なことをしました。

 お駒さんが馬や子供たちに接し、馬の心や、子供たちの心を知って、その心のままに、その心と一つになって、一緒に笑い、一緒に泣いている姿を思い出します。私も子供たちを相手に、いたいけない子供たちに襲いかかる疫病神と戦っています。子供たちの心を自分の心にして、一緒に苦しみ、一緒に戦っています。時には疫病神のご機嫌を伺って、なんとか退散願うように気を遣うこともあります。無理に疫病神を追い出そうときつい治療をすると、子供たちがかえってその治療に負けてしまうこともありますからね。これも「物の心を知る」こと「物のあはれを知る」ことなのです。

 自分の心を、物の心と切り離して、自分は自分、他人は他人、人は人、物は物と割り切ってしまいますと、かえって自分というものが狭くなります。自分の五体や家財道具や懐具合ばかり気にすることになります。日月星辰、花月風鳥など生きとし生ける者、目に入る全てのものは私の命の現われであり、私の心は、それらの心として働いているのです。そう考えれば、何もかもが活き活きとして私のものでないものはないのです。たとえ遠くに離れていても、お駒さんは私の中でいつも風に向かって凛として立っています。

 

鳥を愛でるとき、鳥は偶然に視界に飛び込んで来たものであり、見ている側とは全く無縁だと捉えてはいけないのです。私の命である視界に現れた鳥はこの鳥だけです。見る側の心がなければこの鳥はないのです。他の場所に他人の視界に現れたら。それは別の人の命を構成するまた別の鳥なのです。ええ、同じ鳥だけど、別の命、別の心に属しているのです。

 

鳥には鳥の命がある。鳥の心と人の心は別のはずだと思われますか。でもその場合の鳥は私の命に舞い降りてくる鳥ではありません。私は、私の心に現れるさまざまな物達の心なのです。それは世界を独り占めしようとしてかえって、自分の視界に入っている自分の感覚だけを世界と考える思い上がりであり、自分の狭い世界への閉じ篭りでしょうか。

 

私の生きている世界とお駒さんの生きている世界は、それぞれ違っていて、別の命ですから、そこに現れる子供たちも鳥たちも馬たちもそれぞれ違います。桜の花も同じではありません。ですから違う歌が生まれます。歌はそれぞれの命の表現なのです。でもそれは同じより大きな命の異なる現われであるということなのです。同じ地上に生きて同じ大気を吸っているのですから。全く違った命がばらばらにあるのだったら、心が通じ合うことはありません。その意味では別々の命であって、同じ大きな命の異なる現れ方でもあるといえます。違っていて同じだからこそ、言葉が必要になりますし、言葉で通じ合うことが少しはできるということなのでしょう。

 

書けば書くほどまだまだ未熟なので、自分でもわけが分からなくなってしまいます。でも私が大きな蕾を抱えて苦しんでいる姿を思い浮かべて、お駒さんなら微笑んでくださるのではないかと思って、書を認めた次第です。また近いうちに京にでかけることもあるでしょうから、その時にはもっと分かりやすくなっていると思います。

 

                               のりなが

おこまさんへ

 

  

 

             

     第11話 ツァラトストラの人間論      第9話 『ヤマトタケルの大冒険』に戻る    目次に戻る