第四章 先史時代

ヤスパースは、人間は一本の幹から分かれた枝葉であるのか、あるいは人間以前の生命からそれぞれ複線的に発展したものなのかを問います。彼は一元的発生説が有利と見ています。その理由としてアメリカ大陸には古い人骨が発見されていないことがあげられます。また異なった人種といえどもかなり親近性が強いことが指摘されます。人間同士が互いに相違に悩み、意志の疎通を欠いて、殺し合うほど憎み合い、ナチの強制収容所で見られたような精神の恐るべき崩壊も見られました。しかし精神医であるヤスパースはこう診断します。

 「以上いっさいは、忘却されたか、あるいは自己実現の道をもはや見失った、本来の親近性の苦悩なのである。人間を逃れて動物的集団状態に、あるいは一匹の獣の状態に逃げ込むのは、実際は自己欺瞞への逃避にほかならない」(91頁)。

愛が実現されないが故の憎しみつまり近親憎悪であって、愛の疎外された形なのです。とはいえ人間の生物学的起源はわかっていません。単一な起源は一つの理念に過ぎないとヤスパースも認めています。人間は互いに精神的に交わる事ができます。それで、他の動物たちとは違っており、人間は同じ仲間なのだという信仰を培ってきました。そこから人間が一つであることを実現しようとする意欲が生まれるというのです。

ヤスパースは、生物学的にみても人間はあらゆる他の生命とは根本的に異なったものだと主張しています。その理由として「人間のからだは魂の表現である。人体には特別な美しさがある」と言います。これは客観的に論証できないことだとヤスパース自身も認めています。べーコンに言わせれば「種族のイドラ」でしょう。自分たち人間の種族を見馴れているから特別美しく感じるのではないでしょうか。鹿、孔雀、オットセイ、きりん等、美しい動物はいくらでもいます。でも次のような説明にヤスパースは信頼を寄せています。各動物は特定の課題に適した器官を発達させるので、身体が特殊化してしまいます。ところが人間は特殊に発達した身体を持たない弱さを思考や精神の優位でカバーしていると言うのです。逆に言えば、精神の自由な活動に相応しくフレキシブルな身体をもっているというわけです。

人間の生物学的特徴としてよく取り上げられるのが「幼態胎生」です。人間は他の動物に比べて未熟な状態で生まれてきます。そこで人間は、自分の身体を親の保護の下で精神の働き掛けを伴いながら完成させます。その意味で「魂の表現」だというわけです。ヤスパースはそこまで言いませんが、幼態胎生による母子間コミュニケーションの長さ、養育期間の長さが、人間の自己意識の発生の決定的要因だという見解があります。たしかに促進要素だとは言えるでしょうが、幼態胎生にはカンガルーの例もあります。人間が身体的にも他の総べての動物と隔絶しているという議論は、進化論に対する批判を含んでいるようで不気味な印象を与えます。生物としての人間の発生については

「人間の発生とそれ以後の動きが、真にどのようなものであったかは、誰も知らぬし、おそらく決して知り得ないであろう」(87頁)

としています。この表現もなにか神性の関与を暗示しているようにも勘繰れます。私に言わせれば何も動物としてのヒトは特別な存在ではないのです。類人猿の一種に過ぎません。おそらくなんらかの事情で木から下りた類人猿の一種が、二足歩行を慣習にするようになり、手足や喉、骨盤などに独特の特徴を持つようになり、ヒトが発生したのでしょう。この推理を否定する材料はありませんし、これで充分説明がつきます。

 先史時代に人間が為し遂げたことを整理することによって、人間を人間たらしめた本質的なものが何であったかを知ることができるでしょう。ヤスパースは次の五つを挙げています。

1)火と道具の使用。
(2)
言語の形成。
(3)
人間が自己に課する(例えばタブーによる)特異な抑圧の諸様式
(4
)集団ないし社会の形成。
(5
)神話による生活。

これらを検討してもヤスパースは、人間発生の謎を解くことはできないと言います。

「この闇は、我々の関心をそそるに相応しい魅力を具えている、そしてまた、結局無知に終わるがゆえに、いつでもわれわれに幻滅を引き起こすのである」(90頁)。

その原因はヤスパース自身が人間とは何かの定義をもっていないからなのです。人間は、定義不能なあるものであり、永遠の謎だと考えているので、いろいろな定義付けには全く納得がいかないのは当然です。

「人間が真に何であるのかを、われわれが知らないということ、これがまた実に、われわれ人間存在の本質をなしている。先史並びに歴史における人間の生成の問題に直面することは、同時にまた、人間存在の本質への問いに直面することを意味する」(78頁)。

人間が何であるか、完全にはわからないということと、人間の本質についての認識は区別すべきなのです。人間は言語を介して事物を客観的に認識することができる理性的存在者です。この本質的な認識に誤りはないでしょう。もちろん人間は感情に生きていますし、理性的存在に還元できない一面をもっています。ですから理性的存在者だと本質規定して、それで人間存在がすべて了解できたと考えるのは大間違いです。われわれは様々な人間の生き様から、いろんな面で人間の諸本質を理解すべきです。諸本質から人間を総合的に理解すべきなのです。これだけが人間の本質だと限定することはできません。本質は一つだと考えることによって、かえって人間とは何かがわからなくなるのです。

人間の本質を知ることと、人間の発生の謎を解くことは深い繋がりがありますが、全くの同一問題ではありません。こうした混同が人間起源論を混乱させてきたのです。これは生物学的な「ヒトの発生」と、他の動物全体と隔絶した「人間の発生」の区別の問題でもあります。ヒトの発生は進化論的考察でよいのですが、人間の発生を論じるのなら、動物の存在構造と人間の存在構造を截然と分かつ論理を明確にしなければならないのです。その場合は未開社会の人間と類人猿の比較によるのではなく、文明社会の人間と高等動物の比較によるべきなのです。

 ヤスパースの挙げた先史時代の五つの達成についても、進化論的な考察と人間論的な考察の両面から見直す必要があります。ヒトから人間への転換の謎こそが問題の焦点なのです。この転換によって先史の未開社会が解体して文明が発生したでしょうから。この問題についての私の見解は次の通りです。

(1)火と道具の使用 それ自体は人間の発生を意味しません。エンゲルスの『猿が人間になるについての労働の役割]では、道具の使用を最大の画期点と考えたようですが、彼はヒトと人間の区別ができなかったのです。道具はエンゲルスによると手の延長です。自然物を身体の延長として利用する活動は動物に広く見られます。手は多様な活動をしますので、二つの手に多くの種類の道具が対応し、それが獲得対象や生産物に対応して、人間の身体を自然から独立した特別の存在として意識させ、自己意識が発生するのではないか、と論理的には考えられます。しかし原始社会では道具は身体と分離して意識されません。道具がどんどん改良される事もありません。幾世代か経るうちにやっと少しの改良がなされる程度です。道具の潜在的な論理には無限の可能性があっても、それが表面化しないのが未開の融即の論理なのです。

 火と道具の使用に注目するのは技術の飛躍的な発展によって思考力が発展し、人間になっただろうという単純な推測です。頭脳の発達は、人間になる不可欠の要素ですが、必要充分条件ではないのです。頭脳の働きの根本的な在り方、世界了解の仕方が転換しない限りあくまで賢いヒトに過ぎないのです。

(2)言語の形成 この問題は前編で触れましたが、再確認しておきましよう。言語起源論は、1866年以来、百年以上パリの言語学会では受け付けられませんでした。現存する未開言語と原始言語の関連は明らかではありませんし、なにしろ資料がなくて臆測で論じる他ないので科学的ではないと見なされたのでしよう言語起源を論じる前に言語の定義が明確でなければなりません。言語の起源を求めて未開言語を調べていきますと、未開言語は主語―述語構造が明確ではなく、叫びや身振りが重要なコミュニケーションの役割を果たしています。そこで動物たちの信号によるコミュニケーションも言語ではないかという動物言語論も登場しました。そうしますと言語の起源を通して人間の起源を論じることはナンセンスになります。主述構造が心棒にあって、初めて客観的な事物の規定が成り立ち、事物認識が可能になります。文明の発生はそれなしにはあり得ませんから、言語で人間の特性を解明したいのなら、主述構造をそなえて初めて本物の言語だと定義すべきです。では主述構造はどうして可能になったのでしよう。

 言語の主述構造は、事物認識の主観―客観構造に対応しています。「ABである」という場合、様々に規定を与えられるAは、認識主観から独立したなんらかの事物として他者として捉えられているのです。ですから言語起源論は、実は事物認識の起源論に置き換えられます。認識とは感覚的な知覚から区別されて、「何々はしかじかである」と規定することですから、つまりは事物認識の起源とは、認識の起源に他ならないのです。そう捉えて初めて人間的認識と動物的知覚が截然と区別されます。もともと共同体では諸個人も諸事物も有機的全体を構成する主・客未分の融即状態で、身内でした。事物ではなく生理的表象でした。取引により個人間が一体性を喪失して、他者になりますと、個人と事物の融即も破れます。それで認識主体にとって客観的に他者である事物が捉えられたのです。

これは未開社会において、親縁的な共同体的分配の原理から他者的な市民社会的交換の原理への転換の問題なのです。もちろん未開社会では分配の原理が支配的です。しかし無縁の共同体との経済的交わりが社会的分業の発達によって必要不可欠になったことにより、交換の発生をみたのです。こうして初めて他者間の交わりが始まり、生理的な表象から対象的事物への転化が起こったのです。ですから言語の起源は、正式には未開社会の成熟期まで待たなければなりません。いかに音節を区切った音声信号が発達していたとは言え、それは生理的表象を連ねているだけなのです。その並べ方に慣習的な法則性があれば言語に限り無く近いとは言え、蜜蜂がダンスで花の種類と距離と方向を知らせるのと同質なのです。

(3)人間が自己に課す特異な抑圧の諸形式−・… 共同体は有機的な全体ですから、そこで共同生活を送るためには心を一つにし、同調し合って生きなければなりません。そこでそれぞれの集団は自分たちの共同観念を形成し一体感を大切にしたのです。共同体と別の観念や感覚を抱くと、大変不安になりますし、皆から狂気のように扱われることになります。ところで集団的な一体感は他の集団との区別によって確かめられますから、それぞれが特殊な共同観念を持つことになります。ここに集団間の差異の体系が生まれトーテム信仰として表現されます。またそれに基づくタブーが形成されることになるのです。交換の発生による未開社会の爛熟と解体は、それに対して共同体を護ろうとする強烈な反撥を招きました。それでトーテム信仰や独特のタブーを形成しようとするようになったのかもしれません。

(4)集団ないし社会の形成 未開社会のプナルア婚は、親縁共同体の中の家族同士が族内婚を禁止して結合した関係です。その前はおそらく族内の同じ世代の者同士の世代婚の時期だっただろうと思われます。もっと遡れば、無制約な群婚が考えられます。群婚は移動時期が長い場合に群れの団結のために必要だったとされています。それはセックス・トラブルを一切排除して群れの団結を図る最適な形なのです。フロイトは、ボス猿支配を若者猿が打倒してメス猿に対する独占権をなくした「原父殺害」が、猿から人間の転換点だったとしています。これはオイディプス・コンプレックスの人類版で飛躍した論理ですが。

ところで猿からヒトへの生物学的進化で、興味深い指摘が『今日の哲学・人間論』(三一新書)に出ていました。猿では、メスが発情したときだけオスも発情し、性交の時期が限定されていたので、ボス猿支配が行われていましたが、直立歩行に伴うメスの性器の変化で、メスとオスの発情時期の一致は性交の条件ではなくなったのです。いつでもできるとなればボス猿による独占は崩れます。性器が前付きになりますと対面しての性交が好まれるようになり、乳房が肥大して視覚に訴えるなどメンタルな要素が大きくなります。

 河合雅雄『サルからヒトへの進化』(NHK人間大学)によればサルは種類によって婚姻形態が実に様々です。完全な群婚に達しているボノボのような進化したサルもいます。ボノボの雌は食物を手に入れるためならどの雄とも自由に性交します。それも一時間半に一回の間隔でくり返すというのですから、さすがの好色で有名なヒトも脱帽です。

ヤスパースは触れていませんが、ヒト社会の進化に注目して、他の動物には社会の進化は存在しないので、人間の本質を多様な社会を形成できるところに求める見解もあります。環境の変化に伴って生活様式や社会様態を進化させるのは、様々な動物にみられる現象です。ただ一般的にはこの適応行動によって器官的な変容を被り種が進化しますから、動物には社会進化が見られないと思われるだけです。ただし動物の生態研究も、一つの種には一つの社会形態しかあり得ないという先入見を持つのは禁物です。未開社会の途中までは融即の原理が支配的ですから、未開社会は動物的社会の最高度に発達した形態だったと言えるのです。

(5)神話による生活 神話は部族の自己意識の表出です。現存する未開諸部族はトーテム信仰の謂れを説明する神話をもっています。中には宇宙や人類の創成神話や洪水説話を含むものも見られます。しっかりした判断形式を持っていますので、明らかに主述構造を持った言語の確立以後の文化です。ですから未開社会の成熟、未開の交換経済の発達を前提にしています。ただし交換経済による他部族との同一化、アイデンティティ喪失に反撥して、他部族との差異を打ち出し、部族内の意識融合を図るためのものですから、むしろトーテム動物との同一視を通して自然との融合を訴えているのです。

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