【後編】二千年代に向けて

―ヤスパースの歴史哲学―『歴史の起源と目標』について

第一章 冷戦終焉

冷戦終結宣言は一九八九年のマル夕会談で出されました。でも実質的には一九八五年にその方向は定まったといえるでしょう。フクヤマ流に言えば一九八五年に歴史は終焉したことになります。ひょっとすると一九八五年に「戦争と革命」の二十世紀は終わり、二十一世紀が始まったと後世の歴史家は語るかもしれません。ちょうど一七八九年のフランス革命によって十八世紀は終わり、十九世紀が始まったと言われているように。それはアメリカ合衆国が世界最大の債務国になった年であり、日本の経済大国としての重要性が世界に示された年です。

そしてそれ以上に画期的なのは、なんといってもソビエト連邦でゴルバチョフ政権が誕生し、「ペレストロイカ」が本格的に開始された事です。中央集権的な計画経済に基づく社会主義建設が行き詰まり、市場原理を導入し、企業の独立採算に基づく経済の建て直しが本格化することになりました。これまでの上意下達の官僚主義ではやっていけなくなったのです。下部の企業管理者や現場の労働者が積極的に生産性を向上させ、経済効率を高め、企業利潤を増大させるために主体的に取り組むことが要請されました。そのためには様々 な経済的情報が知らされなくてはなりません。また労働者の主体性を引き出すためには、文化的・政治的な情報も公開する「グラスノスチ」を大胆に推進し、大いに刺激を与える必要があります。さらには現場の自主性を基本にする限り、自由な発言権をはじめとする政治的な諸権利を認める必要があったのです。このような改革の動きは、ソ連によって経済的・政治的改革を抑えられてきた東欧諸国に急速な民主化・自由化の進展をもたらしました。一九八九年には東欧諸国では非共産党政権が相次いで誕生し、共産党も党名を変更し、みずからコミュニズムの放棄を宣言したのです。押し付けられた社会主義を脱皮して、社会民主主義を標榜しています。経済的にも企業の独立採算制が強化され、民営化が進み、個人企業が盛んになり、西側資本との合弁企業も進出しつつあります。市場原理に基づき利潤追求を主目的にするようになっていますから、これだけでも広い意味では資本主義の復活と言えます。このような思想的な転換は当然これまでの階級的な捉え方、対決主義的な観点を弱め、国際的にも協調主義的な捉え方が強くなりました。全人類的な課題意識を強調する「新しい思考」に基づき、米ソ間の軍縮交渉がギャロッピングに進展したのです。

これにはペレストロイカを成功させるためには、どうしても西側の経済協力に頼らざるを得ない苦しい事情もあったのです。それはさておき「新しい思考」に基づき東西冷戦についても「歴史の見直し」が始まり、これまでのように一方的に、欧米の帝国主義を非難するだけでは駄目だとされました。それでスターリンやブレジネフが国内での権力基盤を強めるために東西の緊張を高めようとした政策が批判されました。そしていかにこれまで人民の人権が無視され、強権政治、恐怖政治が行われてきたかが明らかにされたのです。

そして西欧諸国の政治運動でコミュニスト達が独善的なセクト主義に凝り固まり、社会民主主義者といたずらに対決し、協同し得なかったことが、歴史の進歩に大きなマイナスであったことまで指摘されました。以上のような傾向は、社会民主主義者の共産主義批判をかなりの程度受け容れていることになります。その上、社会民主主義者から自己を区別する最大の指標であったはずの共産主義的な理想社会の実現可能性に関しても、経済学者からはかなり強い疑問が出されたのです。

東欧革命後、ソ連邦の解体は急ピッチで進行多ました。停滞の原因は結局共産党の支配自体にあったと考えられるようになり、各民族も中央集権的なソ連邦によって自決権を奪われ、犠牲にされてきたと考えるようになりました。第二次世界大戦中に無理やり統合されたバルト三国をはじめ、ソ連邦から離脱しようとする動きが激しくなりました。ゴルバチョフ大統領も新連邦条約で各共和国を主権国家とし、連邦をその調整機関にすることに合意せざるを得なくなったのです。これに反対する保守派グループのクーデターが失敗すると、ソ連邦共産党は解体され、ソ連邦も一九九一年末に消滅してしまったのです。

 かくして社会民主主義的な理念からも自由になったロシアは、市場社会主義から混合経済へ、さらには完全な資本主義に向かうことになりますが、それに伴う経済混乱ははなはだしく、途上国並みの経済水準に落ち込んでいます。もちろんいつまでも混乱が続くわけではありません。質の高い労働力が極めて安価で大量にあり、開発すべき資源も無尽蔵にあるのですから、遠からず、先進国の資本が大量に流入し、本格的に経済復興することになるでしょう。

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